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2006年1月 4日 (水)

転換

昨晩、NHKの「新選組!! 土方歳三最期の一日」を見ました。
近藤勇亡き後、自分の死に場所を求めて戦い続けてきた土方歳三。
しかし、最後の戦いの地函館で、榎本武揚と議論するうちに、生きるために戦うことを決意します
(歴史に疎いので、臨場感溢れる書き方が出来ないのが残念です)。

戦の作戦を立てるために函館の街の模型を眺める土方。
今まで死ぬために戦ってきた。だが、生きるために戦うと決めてから眺めるこの函館の街は、今までとはまるで違って見える
地形を覚えてしまうほど見てきた模型。作戦も手を尽くしたことでしょう。
しかし、生きるために戦うと決意して函館の街の模型を眺めると、今まで考えつきもしなかった作戦が浮かんできた。

日々の生活の中で起こる困難な出来事に対し、「生きるため」「死ぬため」というほどの想いで向かい合うことは、あまりないと思います。
「生きるため」「死ぬため」は極端かもしれませんが、発想の転換で、今まで見えなかったものが見えてくるということはよくあることです。現状はなにも変わらないけれど、私の想いひとつで、困難な出来事の中にも光明が見えてくる。

「発想の転換が大事だから、考え方を変えてみよう」と、自分の中だけで発想の転換を試みても、大きくは変わらないでしょう。
ドラマでは、土方と榎本、大鳥圭介も加えた議論の場が丁寧に描かれていました。
まるで異なる考え方をしたものどうしが、話し合いを通じて、想いがひとつになる。
そこから、土方の中で「死ぬため」から「生きるため」へと転換が起こります。
榎本の中でも「降伏」から「もう一度戦う」へと転換が起こります。

窮地に立って、転換が起こるとき、光明が見える。
転換とは、自分で起こすものではなく、呼び起こされるものなのかもしれない。
「この道を歩みなさい」
呼び起こしの声に、耳を澄ます。

脚本 三谷幸喜さんのコメント
敗者だけが見ることのできる、絶望の淵から顔を覗かせた「希望」。それが僕の描きたかった「五稜郭」でした。

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コメント

こんにちは。
「敗者だけが見ることのできる、絶望の淵から顔を覗かせた「希望」。それが僕の描きたかった「五稜郭」でした。」という言葉に深く頷かされました。
麻雀に限らずゲームと呼ばれるものに参加する時、私たちは何を目指すか。それは言うまでもなく勝つことなわけです。「いやあ、僕は参加することに意義があると思っているんだよ。だから負けてもいいんだ」なんて気持ちでゲームをしたところで、面白くもなんともないと思います。あ、ここで私のいうゲームというのは人対人のやつのことです。今流行ってるコンピューターを相手にしこしこがんばるやつではありません。
ところがですね、いるんです、そういう人が。勝つために取り組むのではなく、負けないためにあらゆる伏線を張りながらゲームをするという情けないのが結構いるんです。この場合の負けるというのは、単なるゲームの勝敗ではなく、自尊心みたいなものを傷つけられることなのでしょう。だからこそ彼らは必死になって「負けない」ことを目指すのです。ああ、書いているだけで腹が立つ。
勝つか負けるか。こういうことは日常生活の中ではなかなかはっきりと結果がでてきません。それゆえに私たちは勝ち負けをはっきりつけられるような遊びに興じます。あるいはもしかしたら遊びの中で負けることを学んでいるのかもしれません。
勝った負けたというのも自覚の問題なんでしょうね。「敗者だけが見ることのできる、絶望の淵から顔を覗かせた「希望」。それが僕の描きたかった「五稜郭」でした。」負けた自分をはっきり受けとめた人間にしか、そんな希望は見えないはずです。

☆ケイスケさん こんにちは
絶望の淵から顔を覗かせた「希望」

近年、「現代の日本は「希望」を持てない」という類のセリフを聞くことが多い気がします。
ある程度の生活ができて、直接生死に関わる場に立つこともない…「絶望」の淵に立つことがないから「希望」が見えないのかなぁなんて想いました。

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