« 不景気なわけ | トップページ | お茶わんを割るのは洗う人だけ »

2005年12月20日 (火)

発信するということ

昨日は真宗大谷派東京教区の事業で、靖国神社に行ってきました(「はじめて行く靖国神社」現地学習会)。
「靖国神社についてメディアで取り上げられ、議論されることは多いけれど、実際はどういう所なのだろうか」という思いから、先ずは足を運ぶことから始めて見ようということで企画されたものです。

初めて行く人、何度も訪れた人、戦争を体験した人、戦争を知らない人…50名ほどの参加がありました。

私が感じたこと…
「たとえ同じ手紙であっても、写真であっても、文章であっても、遺品であっても、発信者の主義・主張によってその内容がまったく変わってしまうんだなぁ」ということでした(靖国神社に限った感想ではありませんが)。
ひとつの手紙をとっても、それが戦争賛美のものとして展示すれば戦争賛美のものとなるし、戦争反対のものとして展示すれば戦争反対のものとなってしまう(極端な言い方ではありますが)。
そして、ひとつの主張の中にドップリ漬かっていると、自分の感覚が麻痺して、その主張を生きる身になってしまう。自分が気付かないうちに。
靖国神社の「遊就館」という資料館を見学していて、そのような怖さを感じました。

「発信者の主義・主張によってものの見方・中身が変わってしまう」…これって、自分がやっていることも同じなんだよなぁって痛感しました。このブログや、寺の掲示板、案内、そして法話。知らず知らず(いや、分かっていながら)、自分の考えを他者に押し付けている。そんな恐ろしさを感じたということは、自分がそういうことをしているから。
かといってなにもせずにいるわけにもいかない。
でもどうすればいいのか…。
そんな想いが行ったり来たりしていました。

そんな中で聞こえてきたこと…
「仏教は伝えようと思わなければ、伝わらないのです」…今は亡き先輩僧侶からの遺言です。自分のこころのなかに常に携えています。
「自分の主義・主張を伝えるのではない、仏教を伝えるのですよ」と言われているような気がしました。私の姿が浮き彫りになった学習会でした。

« 不景気なわけ | トップページ | お茶わんを割るのは洗う人だけ »

コメント

こんにちは。
いわゆる情報というのは時間が止まったものなんですよね。その媒体が手紙であれビデオテープであれコンパクトディスクであれ。仮にテレビの生放送のようなものであっても、発信されてしまえば、やはりそれは何らかの形で固定されます。
すると後はその情報をどのように受けとめるのか、という問題になります。情報自体の是非善悪ではなく、どこまでも発信者と受信者の関係性が大きな要点となってくるのです。なぜなら、発信する者も受信する者も、不完全であり曖昧模糊とした生身の人間だからです。その不完全さを象徴するものが、主観です。
私は見た。と言ったって、人間は寝てる間に夢だって見るんですから、見たことと在ることは違うはずなんですが、そうはいきません。「見たイコール在る」を絶対の前提として、日々いろいろなところでもめ事が起こっています。
こういう性質を中心に抱えた主観を頼りに情報を動かすわけですから、これは面倒なことになるはずです。ならないほうがおかしい。戦争という大事件にしたって、ことの本質は同じように思われます。
大事なことは何が対象であっても、情報を発信する側と受信する側が、公平に関わるということなのではないでしょうか。公平に関わるというのも、ことが具体的になると様々な厄介な問題が生じるでしょう。しかし、そうは言えども、あらゆる仕事(金を稼ぐということにとどまらず、たとえば主婦の方も含めて)の肝がここにあると私が考えます。
たとえば、最近は映画のメーキングビデオが非常に丁寧に撮影されています。そこまで見せていいのかな、とこちらが不安になるほどです。その一方で、彼ら撮影クルーの観客に対する誠実さを感じてしまいます。私の言いたい公平さとはこのようなものです。
誰か特定の人が間違ったことを言っている、というのは、事実としてはありえないような気がします。だから、何も慮ることなく、相手の肯定・否定・批判、時には誹謗中傷までも受け入れる覚語だけもって、どんどん発言していくしかないのでは?

☆ケイスケさん こんばんは
自分の記事でああいう書き方はしたけれど、発信を怖がっているのではありません。それどころか、言いたいことはズケズケ言ってたりして…。猪突猛進というか、なにも省みないというか…。

ただね、違う意見・考え方もあるということを、見失ってはいけないなと思ったのです。よく見失うものですから。

こんにちは。
違う意見や考え方を見失うということですが、羨ましい限りです。私なんぞは全く正反対、始終おしかりを受けたり反論の矢面に立たされたりの日常です。
そういう環境に身を置いているもので、意見が合うとか合わないという点というのが、あまり重要に思えません。合おうが合うまいが、きちんと関わらざるをえないということもあるのではないでしょうか。
これもまた読み違えているのかもしれませんが……。

☆ケイスケさん こんにちは
う~ん、ちょっと読み違われているかも…。
きちんと関わってないように受け取られてしまいましたかね。
そうかもしれないけど…。

こんにちは。
ううん、難しいですね。かつさんの文章を読ませていただいただけでは、かつさんがどういう人なのかということは私にはわかりません。多少うかがえる、という程度です。
ですから、私の書くコメントは、かつさんが「きちんと関わっていない」とか「関わっている」とか、そういうことを点検するような意味では書いてないのです。かつさんが発信を怖がっているから励ましてあげようとか、そういう気持ちもないのです。あくまでもかつさんの書かれたものを読んで、私自身が感じたり考えさせられたことを書いているまでです。
しかし、結果的にかつさんに「俺の文章を誤読している」という感想を持たせてしまったのなら、それは私の力不足以外の何ものでもありません。もうしわけありません。
まあ、何ていうんでしょうかね、せめてこういう場でくらい、いろいろな意見を吟味できればなという思いが私はあるわけです。かつさんのご意見を全面的に肯定しなければ誤読しているというのは、ちょっと違うんじゃないですか?

☆ケイスケさん こんにちは
そうですね。難しいですね。

「かつさんのご意見を全面的に肯定しなければ誤読しているというのは、ちょっと違うんじゃないですか?」
ご指摘された通り、そんな色分けをしていたのかもしれませんね。自分としてはそんなつもりはないけれど。

おはようございます。
少し言い過ぎました。気を悪くなされたいたらごめんなさい。
これからはもう少しストレートに記述していくよう心がけていきたいと思います。
これからもよろしくお願いします。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 不景気なわけ | トップページ | お茶わんを割るのは洗う人だけ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ