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2005年12月17日 (土)

子どものように聞法したい

友人がつぶやきました。
子どものように聞法がしたいなぁ

僧侶の立場で
聞法(仏法を聞くこと)を勧めるけれど、
聞法が大事と言うけれど、
そういう自分自身が聞法が出来てないなぁ…。

人は、生きれば生きるほど、経験を積めば積むほど自分の答を持ってしまいます。「自分の答こそ正しい」「自分の答に反するものは受け容れられない」って。その枠の中にとどまってしまいます。

お寺に行って、法話を聞いて、「難しくてわからない」という感想を耳にすることがあります。
「わからない」…自分の狭い枠から出ることなしに、「わかる」とは言えないでしょう。

養老 孟司さんに『「わかる」ことは「かわる」こと』という、うまいこというなぁって本があります(読んだことはないのですが)。
「わかる」って言うことは、自分が「かわる」ことなんです。
でも、私たちが「わかる」「わからない」と言う時、自分の答に合うか合わないかを言ってるに過ぎません。つまり、「わかった」と言ったところで、私自身はなにも「かわらない」わけです。自分の考えが正しかったと言える根拠を探し当てただけの話です。

聞法するとは、仏法に出会うとは、自分の答こそ正しいという思いをぶち破られることです。

子どもは、見て、聞いて、触って感じたものをどんどんどんどん吸収していきます。
自分の思いがぶち破られるというよりも、どんどんどんどん殻を破っていきます。
蝶が羽化するように、蝉が脱皮するように、どんどんどんどん成長していきます。

子どものように聞法がしたいなぁ
そのように仏教のお話を聞いていきたいなぁという心からの叫び。
いつからか、自分の答・予定概念に合ったものにだけうなずくようになっていたなぁ。

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