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2005年12月13日 (火)

矛盾という苦しみ

12月6日「自分のことで精いっぱい?」の記事を書いてから、「矛盾という苦しみ」について考えてました。

「『ほたるの墓』にもあるように、狭い範囲の身内を守るために幼い子を放り出すでしょう!あれが日本人の本質ですよ!タイやフィリピンは自分より困っている人は助けます!金持ちは喜捨を喜んでします。人生観からして日本人は貧しいと思います」

という友人からのメール。私は頷きました。そうだよなぁって。
ではあるけれど、「そうかな?」とも思ってました。

臓器売買。貧しいために、子どもを売ってしまう。臓器売買のために使われると知りながらも。
臓器売買でなくても、売春させられるのを分かって売りに出されることもある。
東南アジアの貧しい国々では、当たり前のように行われていること。

今日言いたいことは、
「アジアの貧しい人々の人生観は豊かで、日本人の人生観は貧しい」という意見に反論しようというのではありません。その意見自体、私は頷いているのだから。

臓器売買が行われるということは、それを必要とする人がいるということです。
売買された臓器を使わなかったとしても、臓器移植は行われています。日本国内ではまだまだ規制が多いので、海外での移植にのぞみをつなぐ人もたくさんいます。
移植を必要とする人の姿(特に幼い子)を見ていると、移植が成功して元気になって欲しいとも思う。
反面、移植医療の進歩のために売られていく子がいる。
慎重な見極めが必要と言われながらも、脳死が人の死と認める方向に時代が流れている。
そう、この「矛盾する苦しみ」について、この1週間考えていたのです。

このような矛盾する苦しみを抱えながら、人は生きていくもののはず。それなのに、この矛盾する苦しみが抜けているように感じています。

臓器売買されることを知っていながら子どもを売る親は、他の家族を守るためという大義名分にとどまってはいないだろうか。
臓器移植をされる側は、臓器提供者やその家族の人生に思いを馳せているだろうか。
移植医療に携わる人は、人のいのちのあり方について、胸が張り裂けるほどの議論を尽くしているだろうか。

臓器移植に限りません。生きていくということは、苦の連続です。そこで、自己正当性だけを主張し、邪魔者を消す発想になってはいないだろうか。

人を許すという行為。
スッキリと「許すよ」と言えるものではない。
許すか許さないか迷う対象に対して、100%許すということは出来ない。でも、「許さない」とも言い切れない。関係が近ければ近いほど、許す許さないの間で悩むこととなる。でも、その間で悩む、矛盾の苦しみということが私に与えられているのだと思う。

法然上人のこと
鎌倉時代、浄土宗の開祖の法然上人は、幼い頃に父親を敵討ちで殺されます。
法然の父は、幼い息子に言います。「私の仇をとろうとするな。私の仇をとれば、次はお前が狙われる。うらみの連鎖はとどまらなくなってしまう」と。そこで法然は比叡山にのぼり、仏道を歩みます。
この話を聞いて、どのように思われますか?
「敵討ちをしないなんて、自分のこころが許さない」「法然上人は人間が出来ているのですね。私には無理です」というような感想を聞いたことがあります。そういう人が大半ではないでしょうか。
でも、法然上人は、「親の仇を討ちたい」「でも、父の遺言はもっともだと思う」「でも、許せない」。このような矛盾した想いを、一生背負ったのだと思います。苦しみを背負う覚悟をされたのだと思います。

お釈迦さまの教え
お釈迦さまは、人の一生は「一切皆苦」であると教えられました。
修行すれば救われるとか、悩み苦しみが晴れるとか、そんなことは言ってません。
「人の一生は、一切がみな苦である。苦しみの中を生きるのが人の一生です」と私たちに教え示してくださいました。
そんなこと言われると、暗くなってしまいますか? 希望を無くしてしまいますか?

お釈迦さまが言われた「一切皆苦」。
「苦」というと、自分の身に起こる不幸な出来事を思い描きます。人間関係の苦しみ。病気を抱えている苦しみ。経済的な苦しみ。確かに苦しい出来事です。ですが、時が経ったり、解決すれば、こういう苦しみは薄れたり、無くなったりします(病気の苦しみは死ぬまで抱え続けることもありますが)。
つまり、私たちが思い描く苦しみは、薄れたり、忘れたり、ふと思い出したり、笑い話に変わったりするものです。
「一切皆苦」で言われようとした「苦」は、今日書いてきた「矛盾する苦しみ」のことなのではないかと感じました。
法然上人のように、一生抱え続けていくような苦しみ。
この苦しみをお釈迦さまは指摘されたのであり、逆に考えれば、この「矛盾する苦しみ」を抱えてこそ、人の一生なのでは無いでしょうか。

今の時代、この「矛盾する苦しみ」が希薄なような気がします。
誰にだって悩みや苦しみはあります。その悩み苦しみを無くすことは考えるけれど、持ち続けようとは思いません。それは当たり前のことだと思います。そこで自分の胸に手を当てて、思いをめぐらせて欲しいことは、自分の悩み苦しみを無くそうとした時、苦しんだり、傷ついたりする誰かがいるということ。
自分の苦しみをなくしたい。でもそれによって傷つく人がいる。かといって、苦しみはなくしたい。でも人は傷つけたくない。でも助かりたい。
こういう葛藤、矛盾する苦しみを、背負って生きてきただろうか。生きているだろうか。生きていけるだろうか。

そういうことを考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございます(ちょっと長かったですね)。

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コメント

こんにちは。
ずいぶん前の話になりますが、私の住まいの玄関にホームレスのおじさんが居座った時機があります。別に何かをしでかすわけでもないので、私を含めた付近の住人は、黙認するような形をとって事態を見守りました。ところが、人間の慣れというのは恐ろしいというか不思議なもので、こちらの慣れのスピードとおじさんのそれとが食い違いだしたのです。
最初は良かったんです。おじさんも何となく遠慮がちで。ちょっと軒下をお借りします、みたいな可愛げがありました。それが一週間、二週間とたつうちに、おじさんの佇まいにある種の主張がにじみだしてきたのです。「こんな狭いスペースじゃ寝られんやろ」という憤りすら感じさせるポーズで布団の上げ下げをしているじゃありませんか。脇を通る者が思わず「ちょっとすいません」と言ってしまいそうな雰囲気が生じてきたわけです。
それで結局私が「どこかへ行ってくれないか」という嫌な役をせざるをえない状況になり、嫌々ながらそのおじさんにそう告げました。すると、彼は言いました。「お前らの家の前だけこぎれいになったらそれでいいんか」と。
おっしゃるとおりです。我が家を去れば、その人はまたよその家の前に行き、そこをねぐらにする。当然の話です。でもね、私はよその家が困っても、自分んちだけが良ければいいなんてつもりでそんなこと言ったつもりはないのです。そこがおじさんの意見と最後まで食い違い、話し合いは一つも進まずに、喧嘩別れという最悪の事態になりました。
「自分さえよけりゃそれでいいってことか」おじさんの声はどこか寂しげでもあり、憎々しげでもありました。
まあ、深く考える必要もないかもしれませんが、すっきりしない話です。ふざけるんじゃねぇ、と怒鳴って終わりにすればすんだのかもしれませんが、相手がなかなかの論客だったため、以上の顛末を招いてしまいました。
矛盾する苦しみで思い出したことです。ちょっと違うか……。

☆ケイスケさん こんばんは
「自分さえよけりゃそれでいいってことか」
って台詞は、そのまんま自分に返ってくる台詞でもあるんですよね。
それに気付かず、他を責めてしまう。
誰にでも「自分さえよければ」という気持ちが基にあると思う。そこで、開き直るのか、苦しむのか。
でも、ケイスケさんのご近所の方は優しい方が多いんだなぁって感じました。「迷惑なんだけど…」「でもかわいそうだし…」
おじさんの方も「申し訳ないなぁ」って気持ちが最初はあったのではないでしょうか。でも、優しくされて、それが当たり前になって、「ここに居ていいんだ」って思ってしまう。

優しさを当たり前のこととしてしまうと、他人の苦しみが見えなくなる。
「自分さえよければいいのか」と言った時、自分の姿が見えていない。
つまり、何も見えてないんですね。私たちって。

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