« 子どものように聞法したい | トップページ | 発信するということ »

2005年12月18日 (日)

不景気なわけ

17日放送の「スマステ5」(テレビ朝日)は「落語」の特集でした。

落語は、実はお坊さんの法話が起源です。法話の最後に落ちをつけて話したところから落語が生まれました。
番組は上方落語の特集で、何度か衰退の危機がありながらも、若手の噺家が自分の芸を磨いて衰退の危機を乗り越えてきた歴史を放送してました。

インタビューで松福亭仁鶴師匠が、
「(芸人が)不景気なのは、自分の芸が不景気だからだ」と仰ってました。
不景気だから収入が少ないのではない。自分の芸が不景気(未熟)だから収入が少ないのだ、と。含蓄の有ることばだなぁと感動してしまいました。
芸事に限らず、自分の腕を磨く努力を惜しんではいけないと、あらためて思いました。

昨日の文章で、
「お寺に行って法話を聞いて、「難しくてわからない」という感想を耳にすることがあります」と書きました。聞き手の問題を指摘しましたが、話し手にも(話し手にこそ?)問題があります。
自分が「かわる」ということなしに、「わからせよう」としても、なにも伝わりません。

自分の腕をもっともっと磨かなければいけないと強く思ったのでした。
芸事と一緒にするなって? でも、「落語」は元々「法話」ですから。

あっ、収入を増やすためにってことじゃないですよ。
仏法に出会う場を広めるためにという意味でですよ^^;

« 子どものように聞法したい | トップページ | 発信するということ »

コメント

こんにちは。
落語と法話。その関係は私も聞いたことがあります。面白いですよね。でも、やはり落語は落語、法話は法話だと私はわけて考えます。
確かに皆さんの前で決められた時間話をする、という点では似たようなものですが、問題は何を話すのか、何を聞いていただくのかというところにあるのではないでしょうか。
乱暴に言ってしまうと、落語の場合、要は面白いか面白くないかが最大のポイントでしょう。しかし法話っていうのは面白いだけじゃどうにもなりませんよね。もちろん面白いにもいろいろありますが。
あと、これは関係あるかどうかわかりませんが、話芸においては「フラ」というのが重要だそうです。「フラ」とは生来の魅力とでもいいましょうか。その人が出てきただけで、普通に話しているだけで、何となくおかしくなってしまうような、そんな力をいうそうです。で、これは生来のものですから、練習してどうなるものでもありません。そういう残酷ともいえる要点が、話芸にはあります。だからどれだけ努力しても売れないという悲劇が生じるのでしょうね。
一方、法話というのはどうでしょうか?面白くなくても食えなくなることはないのでは?かつさんが以前おっしゃっていたように、自分が道を求める姿をさらしていくところにしか、法話の極みはないのかなぁと、私は思うのです。だからこそ、どんなつまらん話しかせん僧侶にも、ある程度場が与えられているのではないかな。

☆ケイスケさん こんにちは
いつもコメントありがとうございます。

落語は落語、法話は法話だと私も思います。聞き手にとっては。
ただ話し手の意識として、「人に聞いてもらう」意識があるか、「自分が今何を話しているか」分かっているか、というような点において、共通性を見たのでした(そんなの私の文からは読み取れませんもんね。すみません)。

「その人が出てきただけで、普通に話しているだけで、何となくおかしくなってしまうような、そんな力」
今風に言えば、「オーラ」とか「カリスマ性」というやつですね。
それは、努力や精進で出てくるものではないですよね。
あいにく私も持ち合わせていません^^;
「自分が道を求める姿をさらしていく」ということしかないと思います。

実は記事を書いた前の晩、「坊主だからあみださん信じた振りをしてるだけだよ」と仰る僧侶と大喧嘩をしたのでした。
そういう背景があっての記事でした。
読み取れない感情を込めてしまったこと、反省しております。
でも、コメントいただけて頭が冷やせました。ありがとうございます。


こんにちは。
「坊主だからあみださん信じた振りをしてるだけだよ」と仰る僧侶と大喧嘩をしたのでした。ということですが、なかなかおもろい坊さんと友だちなんですね。その人は徹底した信仰生活をおくっているのか、あるいは振りをしている自分に内心忸怩たるものを抱えつつ暮らしておられるのか、そのへんのところはどうなんでしょうか。僧侶をお仕事にされている人のようですから、そういうことを人ごとみたいに言ったのだとすれば喧嘩になりますよ、普通。文面を読む限りでは、酔っぱらいの、議論のための議論みたいな感じがします。
しかし、阿弥陀さんを信じている振りをしてたっていいじゃないですか。形から入らざるをえないことってありますよ。とことん聞法して「ああ、やっと阿弥陀さんを信じることができた」という時点ではじめて僧侶になるなんてことをしようとしたら、一生無理だと思います。仮にそういう境地に至ったとしても、それはその人の個人的な感慨に過ぎないし、他の人にとってはどうでもいいですよ、そんな覚りの境地なんて。
そんなことより、信じられている、願われている我が身を自覚することの方が大事なのではないでしょうか。
突然ですが、幼児とつき合ってましていつも思うのは、彼らは大人からすると、それこそ信じられないくらい私を信じてくれていることです。でたらめの九九を教えたり、日本はアメリカの州の一つだよなんて教えたら、大変なことになりそうですよ。そんな中で私の中に生じてくるのは、「こいつらのことを信じねばならん」っていう勇気です。いろいろ悩まされますが、核心の部分では絶対に信じてやらなければならんと強く思います。
こんなことは、阿弥陀さんを信じる信じないという話とは離れるような感じもありますが、私においてはどこかで繋がっています。
信じる心なんか、自分の心から自然に湧いてでるもんじゃないですよ。
いかん、私まで熱く語ってしまいました。失礼しました。

かつさん こんにちは
「自分のことで精いっぱい?」の記事からずっと、読んでは考えコメントを書いては消ししておりました
色んなことを考えさせてもらっています。でもどれもコメントに書けるようにはまとまらず・・
「矛盾する苦しみ」 生きていく上で起こる全部のことにこれはついてまわるものなのでしょうね でもそれを意識して考えることは自分はとても少ないな、と思いました。
「自分さえ良けりゃ」という気持ち確かにあります、そして私はそのあと開き直るかな・・・(汗) 裏にある「矛盾した苦しみ」に目を向けると苦しいから・・ 気づかないふりをしてしまうことが多いかも
さっき見ていた子供番組で金子みすずの詩が流れていました
 上の雪 寒かろな つめたい月がさしていて
 下の雪 重かろな 何百人も乗せていて
 中の雪 寂しかろな 空も地べたも見えなくて
聞いていて矛盾する苦しみのことを思い出しました(ちょっとちがうかな・・)

あと、ケイスケさんの書かれていた言葉、
「核心の部分では絶対に信じてやらなければならん」ということ、本当にそうですね。私もそうしたいし、しなければならないと思っています。思っているというか・・信じてやれなくて後悔して、また思うの繰り返しです。..;

色んな記事にまたがってしかもまとまりなくて、ごめんなさい!

☆ケイスケさん こんばんは
「その人は徹底した信仰生活をおくっているのか、あるいは振りをしている自分に内心忸怩たるものを抱えつつ暮らしておられるのか」
両方ですね。その間で苦しんでいる。そんな人だと思います。だからこそ私も思いっきり議論を仕掛けたのでした(大喧嘩とは表現しましたが)。別れ際、うれしそうにしてました(と、思う)。

ケイスケさん、コメント書くのが楽しくなってませんか?
ご自分のブログを持ってみてはいかがでしょうか!

☆fairmoonさん お久しぶりです
私もいつもブログにお邪魔しています。
「自分のことで精いっぱい?」のあたりから、自分でもいろいろと考えています。コメントいただけて、共感してくれた人がいて、うれしく思います。

金子みすずさんの詩、自分(かつ)の気持ちを表わされたような気がします。
上の雪、下の雪、中の雪…他者がうらやましく見えることがありますが、幸せそうに見える当人は苦しみを抱えているもの。
「矛盾」と表現してきましたが、その表現が適切なのかは分かりませんが、いいことも悪いことも、幸せも不幸せも、すべてひっくるめて生きているんだなぁってことを、強く感じています。
(ここ数年、寒い時期になると感傷的になってしまうのです)

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 子どものように聞法したい | トップページ | 発信するということ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ