« 「になる」と「でいる」 | トップページ | ココガアカルイ »

2005年12月26日 (月)

重し

今日は庭の植木鉢をすべて移動させて掃除をしました。陰にたくさん落ち葉が入り込んでいるものです。
小さな台に植木鉢を載せてるのですが、植木鉢をどかしてみると、足がガタガタしているのです。「あぁ、もう限界かなぁ」と思いつつ、植木鉢を元に戻してみると、ガタガタだった足がピタッと固定されました。まだまだ役目を果たしてくれそうです。

重しがあって初めてドッシリと構えていられる。

屋根の鬼瓦もそうです。
あんなに大きくて重たいものを、なぜ屋根に載せるのか。無ければ屋根が長持ちしそうだけれど。でも、あの重しが必要なんです(ということを職人さんから聞いたことがあります)。
重しがあってこそ屋根や建物がシッカリして、長持ちするのだそうです。

山形で脱線事故が起きました。
瞬間的に吹いた突風が原因のようですから避けようがなかったかもしれませんが、列車の軽量化が進んだことも一因だと報道されていました。

そういえば学生時代、学園祭でテントを立てるときに、私が「テントって重いねぇ。もっと軽くならないのかなぁ」と軟弱なことをほざいたら、「軽いテントだと飛んでしまうだろう!!」と友人(九州男児)に一喝されたことがあります。

「重しって必要なんだよなぁ」ということを掃除をしながら思ったのです。
で、「人生にも重しが必要なんですよね」って書こうと思ったのですが(書いてますね)、重しに潰されてしまうこともあるなぁと考えてしまいました。
積雪の多さに、屋根が落ちる被害も多く出ています。重しが必要といっても、限界はあるもの。
人が生きていくのに必要な重しにも適量があるのだろうか。
     
掃除をしながら、いろいろと考えていました。
    
    
              
私が重しに潰されそうになっていた時に出会ったことば。

○阿弥陀さまはね、あなたなら耐えられると思って、
  その縁を与えているんですよ

○神様はその人が乗り越えることができる困難をその人に与える

○その人に出来ないことは、その人にはやってこない
    
         
これらのことばは、私の身になにも起こらなければ、気にも留めなかったはず。
なにも引っかからずに、素通りしていたことでしょう。
でも、ことばに出会い、力をもらい、胸に刻まれ、今生きている。
それは、「重し」があったから。
「重し」があったからこそ、ことばに出会い、人に出会い、情に出会う。
人生に何事もなければ、私の胸に刻まれる想いはなにもなかったことでしょう。

「重し」…人生の苦労・困難・心配を「重し」と表現してみたけれど、それだけじゃなかった。
苦労・困難・心配等々を通して刻み込まれた ことば・人・情も含めて「重し」なのですね。

« 「になる」と「でいる」 | トップページ | ココガアカルイ »

コメント

ご無沙汰です。。
阿弥陀さまは、あなたなら・・
の言葉は、いつも心にしみます。

母を亡くして、一年。
なぜ?この若さで?どうして、私達を残し?
と考えるたびに、これも考えるご縁かと、考えました。

一年たち、昨日、一周忌でした。
昨年、実家にまだ戻っていなかったため、七日ごとに
西蓮寺さんに、お参りさせてもらって頂いたことを
懐かしく思い出します。
本堂のご本尊が、いつも温かく迎えてくれてました。
七日参るたびに、気持ちがかわり、母の死を受け入れられるようになり
でも、それには、坊守さんとのお話することで、坊守さんに母の面影を見ていたのかも
しれません。
とても、感謝しています。
また、いつか、お参りに行かせていただきます。

追伸・・
一周忌の法話は、ドラゴン叔父の
「堅田衆」のお話&堅田ゲンベエさんの話し。
25人くらい集まった親戚に、信仰の強さとは何か?
昔、こんな事件があったとは?
と、大受けでして・・大拍手した。
こんなお話が聞けるのも、母のおかげ。
有り難いことです。

☆ねこ吉さん お久しぶりです
ねこ吉さん、○○さんっだたのですね^^
前回お訪ねいただいた時は気付きませんでした。
失礼しました。いかがお過ごしですか。

寺にお越しいただいてた頃のことを思い出してました。
坊守も、一緒にお話してた時のことを思い返してましたよ。
共通の知人がいて、懐かしい話ができたこと、坊守も楽しそうでした。

もう一周忌ですか。お身内の方はいろいろな想いでこの一年を過ごされたことと思います
(法話…私も聞きたかったです)。

また寺へもお参りにいらしてください。
坊守もお待ちしております。
あっ、もちろん阿弥陀さまも。

おはようございます。
学園祭のテントの話は何とも懐かしいですねぇ。確かにあれは重かった。「軽いテントだと飛んでしまうだろう」というせりふも、なかなか秀逸ですね。そんなこと言われても……って感じがします。身も蓋もない、飄々とした雰囲気が伝わってきました。
さて「重し」の話ですが、これは考えさせられました。
読ませていただいてすぐさま頭に浮かんだのは、「縛り」という言葉でした。仕事をしたり家庭生活を営んだりといった浮き世に生きておりますと、様々な「縛り」が生じます。仮に遊んで暮らしておったとしても、性別とか能力とかそういった意味の「縛り」はあるでしょう。
とにかくまあ、かつさんの表現でいうところの「重し」という問題は、誰も逃れることができないものとして、生きている限りついてまわりますね。
そこを私があえて「縛り」と言い換えるのは、ゲームとか遊びのことが思い浮かばれたのです。というのは、子どもが四歳になり幼稚園に通いだした途端、彼の遊びの内容が複雑になってきたんです。他愛もないヒーローごっこ一つでも、何らかの条件づけというか、「縛り」を設けだしたのです。たとえば今までは際限なく変身しっぱなしだったのに、急に変身している時間に制限ができたりとか(これはウルトラマンの影響でしょうが)。大人が何も言わぬうちに、そういう「縛り」を遊びの中に取り入れ盛り上がっています。
これは大人も一緒なんですよね。麻雀でもそうです。「縛り」が多い方が面白いです。困難な事実に対して人間が感じる、不条理といえば不条理な面白みというのが、こういうことなのかなと思われます。
辛い現実に向き合っている人に、「その中に面白みがあるよ」などとはとても申せませんが、自分自身を考える時、私はいつもこの「縛り」という言葉を思い出すのです。何もかんも思い通り、嫌なことからは逃げとればええわ、という生き方があるのかどうかわかりませんが、もし可能だとしても、そんな人生にどれほどの魅力がありましょうか。おそらく味けないでしょうね。

☆ケイスケさん こんばんは
中学生の頃、ファミリーコンピューター(当時)の「ゼビウス」で、敵の攻撃に遭っても死なない設定にして(そういう方法があったのです)遊んだことがあります。
どんなに攻撃を受けても、どんどん前へ進んでいくのですが、まったく面白くなかったのを思い出しました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 「になる」と「でいる」 | トップページ | ココガアカルイ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ