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2005年12月

2005年12月31日 (土)

「ぼうねん」と「しんねん」

今年あった嫌なことを忘れるために「忘年」というのでしょうが、
今年から来年にかけて、望みを持ち続けるという「望年」というのはいかがでしょうか。
忘れてしまったら、何も残らないですよ。
希望を持って新しい年を迎えましょう♪

新しい年だから「新年」なのですが、
志を持って一年に臨むという意味で「信念」というのはいかがでしょうか。
念ずれば花開く。
想いを持ち続けて、一年を過ごしましょう♪
       
      
「念ずれば花開く」(坂村 真民)
苦しいとき 母がいつも口にしていた このことば
わたしもいつのころからか 唱えるようになっていた
念ずれば 花開く
そうして そのたび わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ開いていった
念ずれば 花開く

     
     
    
ブログを通して、
 たくさんの人に出会いました。
 たくさんのことを教わりました。
 人の数だけ“想い”があることを実感しました。
ことばでは言い尽くせないけど、ありがとうございます。
来年もよろしくお願いします^^

2005年12月30日 (金)

あなたがよくないからよ

坊守(母)がタクシーに乗ると、たいていの運転手さんがお話好きで、乗車から降車まで楽しい会話が続くそうです。

食事の時に、運転手さんとの会話の内容を話して聞かせてくれます。
「運転手さんと意気投合しちゃって、話しすぎちゃって、降りる所間違えちゃった」なんてことも。
「この運転手さんは嫌だった」なんて話はほとんど聞いたことがありません。

私「お母さんは、いい運転手さんにばかり当たっていいね。
  僕はいい運転手さんに当たらないなぁ」
   (滅多にタクシーには乗らないですけどね)
母「それは、あなたがよくないからよ

辛辣です。でも、当たっているのでしょう。運転手さんがどうとかではなく、私自身の問題です。
人に対して、「いい」とか「わるい」、「好き」とか「嫌い」と言う時、それはまったく同じことを相手も感じていると思ったほうがいいですよ。
気をつけよっと。

2005年12月29日 (木)

親指に感謝

右手親指がアカギレてしまいました。
爪から指の腹にかけてパックリと割れています。
なにかに触れるたびに、脳にまで痛みが響いてきます(ズキッッ!!)。

 箸をうまく使えない(美味しく食べられないものですね)。
 雑巾を絞ることが出来ない(痛くても掃除はしなきゃ)。
 携帯のメールが打てない(左手使ってます)。
 本をうまくめくれない(経本がめくれんとです)。
 ズボンのチャックが下ろせない(トイレが!!)。

指一本怪我しただけで、なんと生活が不便なことか!!!!
そういえば、
小さな小さなトゲを刺しただけでも、とても痛いし気になりますよね。
目にまつ毛が入っただけでも、とても痛いし気になりますよね。

私「親指をちょっと怪我しただけで、とても不便だねぇ」
母「親指に感謝する気持ちがなくなってたんじゃないの」
私「そうかもしれないね」
母「そう、指に感謝しなさい」

…なんか、変なとこ強調しませんでしたか?

(注)
「坊守(ぼうもり)」…真宗寺院における、住職の奥さんのこと。
坊(寺)や坊主を守るという意味から「坊守」と呼び習わしてきました。
だから、真宗寺院においては、住職よりも坊守の存在がとても大切。
真宗寺院が成り立つも成り立たないも坊守しだいです。

2005年12月28日 (水)

ココガアカルイ

ワタシハイマココニイル
ココガワタシノイマノ場所
ココヨリホカニワタシノ場所ハナカッタ
ハズカシイケレドココガワタシノ場所ダッタ
ココ
ココ
ココ
ココニイルワタシ
ココニイルココガ
ハズカシイケレドワタシノ場所ダッタ
ココガアカルイ
ココガアカルイ
スバラシクアカルイ

      「ココトワタシ」 竹部勝之進

今年も残り少なくなったある日、「矛盾」ということばが脳裏をかすめる。
様々な出来事、情報、思考が重なって「矛盾する苦しみ」について考え始めた。
12月13日の記事は、その想いを書いたもの。
「矛盾する苦しみ」について考えていたある日、竹部さんの詩に出会う。

ワタシハイマココニイル
いきなり参りました。
自分が今、この場で、この身で、存在している。
当たり前だけど、忘れている大前提。
「矛盾する苦しみ」に限らず、自分が抱えている問題・事情・環境について考える時、この大前提が抜けている。
ワタシハイマココニイル
動かしがたい大前提。この大前提に「ナゼ」を付けてしまう。
「ナゼココニイルノカ」と。
自分が今、この場で、この身で、存在しているということを無視して「ナゼ」を付けるということは、根無し草のようなもの。フラフラ フラフラしてしまう。落ち着かない。
「ナゼ」が付いてしまうのは、今とは違う何かを求めてのこと。
でも、ワタシノ場所ココ
そのことに目を向けた時、しっかり根が張ってくる。

ココガアカルイ
ココガアカルイ
スバラシクアカルイ

ココニイルノハ ワタシヒトリノミ 
天上天下唯我独尊

2005年12月26日 (月)

重し

今日は庭の植木鉢をすべて移動させて掃除をしました。陰にたくさん落ち葉が入り込んでいるものです。
小さな台に植木鉢を載せてるのですが、植木鉢をどかしてみると、足がガタガタしているのです。「あぁ、もう限界かなぁ」と思いつつ、植木鉢を元に戻してみると、ガタガタだった足がピタッと固定されました。まだまだ役目を果たしてくれそうです。

重しがあって初めてドッシリと構えていられる。

屋根の鬼瓦もそうです。
あんなに大きくて重たいものを、なぜ屋根に載せるのか。無ければ屋根が長持ちしそうだけれど。でも、あの重しが必要なんです(ということを職人さんから聞いたことがあります)。
重しがあってこそ屋根や建物がシッカリして、長持ちするのだそうです。

山形で脱線事故が起きました。
瞬間的に吹いた突風が原因のようですから避けようがなかったかもしれませんが、列車の軽量化が進んだことも一因だと報道されていました。

そういえば学生時代、学園祭でテントを立てるときに、私が「テントって重いねぇ。もっと軽くならないのかなぁ」と軟弱なことをほざいたら、「軽いテントだと飛んでしまうだろう!!」と友人(九州男児)に一喝されたことがあります。

「重しって必要なんだよなぁ」ということを掃除をしながら思ったのです。
で、「人生にも重しが必要なんですよね」って書こうと思ったのですが(書いてますね)、重しに潰されてしまうこともあるなぁと考えてしまいました。
積雪の多さに、屋根が落ちる被害も多く出ています。重しが必要といっても、限界はあるもの。
人が生きていくのに必要な重しにも適量があるのだろうか。
     
掃除をしながら、いろいろと考えていました。
    
    
              
私が重しに潰されそうになっていた時に出会ったことば。

○阿弥陀さまはね、あなたなら耐えられると思って、
  その縁を与えているんですよ

○神様はその人が乗り越えることができる困難をその人に与える

○その人に出来ないことは、その人にはやってこない
    
         
これらのことばは、私の身になにも起こらなければ、気にも留めなかったはず。
なにも引っかからずに、素通りしていたことでしょう。
でも、ことばに出会い、力をもらい、胸に刻まれ、今生きている。
それは、「重し」があったから。
「重し」があったからこそ、ことばに出会い、人に出会い、情に出会う。
人生に何事もなければ、私の胸に刻まれる想いはなにもなかったことでしょう。

「重し」…人生の苦労・困難・心配を「重し」と表現してみたけれど、それだけじゃなかった。
苦労・困難・心配等々を通して刻み込まれた ことば・人・情も含めて「重し」なのですね。

2005年12月25日 (日)

「になる」と「でいる」

真宗大谷派「真宗会館」より発行している首都圏広報紙「サンガ」79号(最新号)の連載記事
清水真砂子さん(児童文学評論家・翻訳家)の「人輝くとき」の記事の

いい親になろうと努力するあまり、いい親でいる時間をなくしてしまうことがある
いい教師になろうと努力するあまり、いい教師でいることができなくなってしまう

ということばに目を惹かれました。

いい親、いい教師であろうとする。そういう想いを多くの親や先生方が持っていると思う。
ハウツー本はたくさんあるし、そのための研修・講座・講義・集会は探せばいくらでもある。
しかし、子どもへの虐待や、教師の不始末のニュースは絶えることがない。

「いい○○」になるために、実は肝心のところを留守にしてしまっている。
集会や研修で忙しくて、
「いい親」になろうとして、家にいない。
「いい教師」になろうとして、学校にいない。
何時間かけての研修よりも、数分でも子どもと一緒にいることがどれだけ大切だろう。

「いい○○になろう」として自分を苦しめてはいないだろうか。
そこにいるということが、どれだけ「いい○○でいる」ことなのかも見えなくなっている。

記事では「親」と「教師」について書かれていたけれど、どんな立場でも役職でも仕事でも同じこと。僧侶だって同じ。
「いい僧侶になろうとして、いい僧侶でいることを見失っている」…僧侶として、人々のためにならなくてはいけないって意気込んでいるお坊さんってけっこうたくさんいます。でも、そのための会議やら会合やらで自分のお寺にいる時間が少ないような気がします。いつお寺に行っても住職が、お寺の奥さんがいてくれるって、それだけでも安心感を与えるものだと思うけど(余計なお世話かもしれないですけどね)。


ここまで書いて気付きました。
「いい」を付けなくたっていいんですよね。
「親になろうと努力するあまり、親でいる時間をなくしてしまうことがある」
「教師になろうと努力するあまり、教師でいることができなくなってしまう」
「僧侶になろうとして、僧侶でいることを見失っている」

「いい」って表現が気にはなってたんです。「いい」の定義なんて曖昧だし、人それぞれだし、答はないし。
それに、自分で「今日はいい○○だったな」なんて言ってしまうほど恐ろしいことはないですよね。単なる自己満足だし、そう思うところからは次に何も生まれませんからね。


「になる」ことは簡単だけど、「でいる」ことって難しいですね。

2005年12月24日 (土)

愛と思いやりの人

「サンタさんって本当にいるの?」
「愛とか思いやりって、目に見えないけど、実際にあるでしょう。サンタさんもそれと同じで、いるんじゃないかなぁ」

こういうお話が朝日新聞に載っていたと教えられました(実際の文章を読んでないので、内容が全然違うかもしれません)。

個人的には好きな受け答えです。お子様に通じるか否かはべつにして。
これを聞いて、「阿弥陀さんも同じだねぇ」と応えてしまいました。染まりすぎでしょうか^^;
    
     
一度ミサに行ってみたいんですよね。厳かな空間に身を置くというのはいいものです。ですが、只今風邪ひいて安静にしています(今年は何回風邪ひいたかなぁ)。
皆様、暮れのお疲れが出ませんように(−人−)

2005年12月23日 (金)

お茶わんを割るのは洗う人だけ

以前、「高橋の手帳」で「身近な人の名言・格言」を募集してるという記事を書きましたが、その優秀作が発表されてました。

大賞は、
大丈夫! またすぐに『青』になるから。
車を運転していて信号が赤に変わってしまい、悔しがるお父さんに言った息子さんのことば。

仕事がたまっていて、全然片付かなくて、気持ちばかり焦って、イライラして。
そうだ!! いつまでも『赤』じゃないんですよね。すぐに『青』にかわるんだし。
それに、『赤』のときは止まるべき(休むべき)なんですよね。『赤』なのに、突っ走ろうとしてました。
教えられました。

大賞のことばに頭が下がりましたが、個人的には「黛 まどか賞」に選ばれたことばが好きです。
お茶わんを割るのは洗う人だけ
私、なぜか土瓶のフタをよく割ってしまうのです。土瓶本体は無事だし、捨てるのももったいないので、フタのない土瓶が物置で出番を待ってます(でも日の目を見ることはなさそうですが…)。

このことばに出会って、自分の頭の中で「人を傷つけるのは、大事にする人だけ」ということばに入れ替わりました。
人を傷つけてしまうのは、交流があるからこそ。交流が無かったら、出会ってなかったら、傷つけることもないでしょう。ある人のことを大切に慕(おも)えば慕うほど、相手を傷つけることもあるし、傷つけられることもある。

お茶碗を割ることが目的で洗う人はいない。
だけど、割ってしまうこともある。
しかし、割るのが怖いからといって洗わないでおくわけにはいかない。

人とのお付き合いでも、
人を傷つけることが目的で人と接する人はいない。
だけど、傷つけてしまうこともある。
しかし、だからといって人と接することを避けるわけにはいかない。
避けるわけにはいかないというか、人と接する機会を自らなくしてしまってはいけないと思うのです。

ある人のことを大切に慕えば慕うほど、相手を傷つけることもあるし、傷つけられることもある。
「人間関係がうまくいかない」と言うけれど、うまくいかないところで成り立っているものなのかもしれないですね。

2005年12月20日 (火)

発信するということ

昨日は真宗大谷派東京教区の事業で、靖国神社に行ってきました(「はじめて行く靖国神社」現地学習会)。
「靖国神社についてメディアで取り上げられ、議論されることは多いけれど、実際はどういう所なのだろうか」という思いから、先ずは足を運ぶことから始めて見ようということで企画されたものです。

初めて行く人、何度も訪れた人、戦争を体験した人、戦争を知らない人…50名ほどの参加がありました。

私が感じたこと…
「たとえ同じ手紙であっても、写真であっても、文章であっても、遺品であっても、発信者の主義・主張によってその内容がまったく変わってしまうんだなぁ」ということでした(靖国神社に限った感想ではありませんが)。
ひとつの手紙をとっても、それが戦争賛美のものとして展示すれば戦争賛美のものとなるし、戦争反対のものとして展示すれば戦争反対のものとなってしまう(極端な言い方ではありますが)。
そして、ひとつの主張の中にドップリ漬かっていると、自分の感覚が麻痺して、その主張を生きる身になってしまう。自分が気付かないうちに。
靖国神社の「遊就館」という資料館を見学していて、そのような怖さを感じました。

「発信者の主義・主張によってものの見方・中身が変わってしまう」…これって、自分がやっていることも同じなんだよなぁって痛感しました。このブログや、寺の掲示板、案内、そして法話。知らず知らず(いや、分かっていながら)、自分の考えを他者に押し付けている。そんな恐ろしさを感じたということは、自分がそういうことをしているから。
かといってなにもせずにいるわけにもいかない。
でもどうすればいいのか…。
そんな想いが行ったり来たりしていました。

そんな中で聞こえてきたこと…
「仏教は伝えようと思わなければ、伝わらないのです」…今は亡き先輩僧侶からの遺言です。自分のこころのなかに常に携えています。
「自分の主義・主張を伝えるのではない、仏教を伝えるのですよ」と言われているような気がしました。私の姿が浮き彫りになった学習会でした。

2005年12月18日 (日)

不景気なわけ

17日放送の「スマステ5」(テレビ朝日)は「落語」の特集でした。

落語は、実はお坊さんの法話が起源です。法話の最後に落ちをつけて話したところから落語が生まれました。
番組は上方落語の特集で、何度か衰退の危機がありながらも、若手の噺家が自分の芸を磨いて衰退の危機を乗り越えてきた歴史を放送してました。

インタビューで松福亭仁鶴師匠が、
「(芸人が)不景気なのは、自分の芸が不景気だからだ」と仰ってました。
不景気だから収入が少ないのではない。自分の芸が不景気(未熟)だから収入が少ないのだ、と。含蓄の有ることばだなぁと感動してしまいました。
芸事に限らず、自分の腕を磨く努力を惜しんではいけないと、あらためて思いました。

昨日の文章で、
「お寺に行って法話を聞いて、「難しくてわからない」という感想を耳にすることがあります」と書きました。聞き手の問題を指摘しましたが、話し手にも(話し手にこそ?)問題があります。
自分が「かわる」ということなしに、「わからせよう」としても、なにも伝わりません。

自分の腕をもっともっと磨かなければいけないと強く思ったのでした。
芸事と一緒にするなって? でも、「落語」は元々「法話」ですから。

あっ、収入を増やすためにってことじゃないですよ。
仏法に出会う場を広めるためにという意味でですよ^^;

2005年12月17日 (土)

子どものように聞法したい

友人がつぶやきました。
子どものように聞法がしたいなぁ

僧侶の立場で
聞法(仏法を聞くこと)を勧めるけれど、
聞法が大事と言うけれど、
そういう自分自身が聞法が出来てないなぁ…。

人は、生きれば生きるほど、経験を積めば積むほど自分の答を持ってしまいます。「自分の答こそ正しい」「自分の答に反するものは受け容れられない」って。その枠の中にとどまってしまいます。

お寺に行って、法話を聞いて、「難しくてわからない」という感想を耳にすることがあります。
「わからない」…自分の狭い枠から出ることなしに、「わかる」とは言えないでしょう。

養老 孟司さんに『「わかる」ことは「かわる」こと』という、うまいこというなぁって本があります(読んだことはないのですが)。
「わかる」って言うことは、自分が「かわる」ことなんです。
でも、私たちが「わかる」「わからない」と言う時、自分の答に合うか合わないかを言ってるに過ぎません。つまり、「わかった」と言ったところで、私自身はなにも「かわらない」わけです。自分の考えが正しかったと言える根拠を探し当てただけの話です。

聞法するとは、仏法に出会うとは、自分の答こそ正しいという思いをぶち破られることです。

子どもは、見て、聞いて、触って感じたものをどんどんどんどん吸収していきます。
自分の思いがぶち破られるというよりも、どんどんどんどん殻を破っていきます。
蝶が羽化するように、蝉が脱皮するように、どんどんどんどん成長していきます。

子どものように聞法がしたいなぁ
そのように仏教のお話を聞いていきたいなぁという心からの叫び。
いつからか、自分の答・予定概念に合ったものにだけうなずくようになっていたなぁ。

2005年12月15日 (木)

師走

「僕はずっと山に登りたいと思っている。…でも明日にしよう」
おそらくあなたは永遠に登らないでしょう。

(レオ・ブスカリア)

12月も前半が過ぎようとしています。
どうして年末になると、こんなにもせわしいのでしょうか。

「師走(しわす)」の語源は、「先生が、師匠が走り回るほど忙しい時期だから」というのがありますが、「坊さんが走り回るほど忙しいから」というのもあります。
はい、実際に忙しいのですが、事務的な仕事が山のようにたまっているのです。
坊さんって、お経だけ読んでいるイメージがあることかと思いますが、実はものすごい事務的な仕事が多いのです。事務室が散らかっていて、何も手につきません(それじゃダメなんだけど)。

目の前の仕事が増えれば増えるほど、先延ばしにして、〆切直前に慌てて片付けるということの繰り返しです。
さすがに、「『明日にしよう』 永遠に手につかないでしょう」なんてことはないけれど、サッサとやってしまえばけっこう簡単に終わったりするもので、もっと早くやっておけばよかったのにって思うことばかりです。

でも、ガリ版→ワープロ→パソコンって、使うものはどんどん進化しているのに、ますますやることが増えているような気がします。どうしてでしょうね(ガリ版→ワープロは突然すぎますね^^)

実際に忙しいのか、せわしく感じているだけなのかは怪しいところではありますが、
忙しい中にも、本でも読みながらコーヒーを飲む時間ぐらいは大切にしたいものです。

2005年12月13日 (火)

矛盾という苦しみ

12月6日「自分のことで精いっぱい?」の記事を書いてから、「矛盾という苦しみ」について考えてました。

「『ほたるの墓』にもあるように、狭い範囲の身内を守るために幼い子を放り出すでしょう!あれが日本人の本質ですよ!タイやフィリピンは自分より困っている人は助けます!金持ちは喜捨を喜んでします。人生観からして日本人は貧しいと思います」

という友人からのメール。私は頷きました。そうだよなぁって。
ではあるけれど、「そうかな?」とも思ってました。

臓器売買。貧しいために、子どもを売ってしまう。臓器売買のために使われると知りながらも。
臓器売買でなくても、売春させられるのを分かって売りに出されることもある。
東南アジアの貧しい国々では、当たり前のように行われていること。

今日言いたいことは、
「アジアの貧しい人々の人生観は豊かで、日本人の人生観は貧しい」という意見に反論しようというのではありません。その意見自体、私は頷いているのだから。

臓器売買が行われるということは、それを必要とする人がいるということです。
売買された臓器を使わなかったとしても、臓器移植は行われています。日本国内ではまだまだ規制が多いので、海外での移植にのぞみをつなぐ人もたくさんいます。
移植を必要とする人の姿(特に幼い子)を見ていると、移植が成功して元気になって欲しいとも思う。
反面、移植医療の進歩のために売られていく子がいる。
慎重な見極めが必要と言われながらも、脳死が人の死と認める方向に時代が流れている。
そう、この「矛盾する苦しみ」について、この1週間考えていたのです。

このような矛盾する苦しみを抱えながら、人は生きていくもののはず。それなのに、この矛盾する苦しみが抜けているように感じています。

臓器売買されることを知っていながら子どもを売る親は、他の家族を守るためという大義名分にとどまってはいないだろうか。
臓器移植をされる側は、臓器提供者やその家族の人生に思いを馳せているだろうか。
移植医療に携わる人は、人のいのちのあり方について、胸が張り裂けるほどの議論を尽くしているだろうか。

臓器移植に限りません。生きていくということは、苦の連続です。そこで、自己正当性だけを主張し、邪魔者を消す発想になってはいないだろうか。

人を許すという行為。
スッキリと「許すよ」と言えるものではない。
許すか許さないか迷う対象に対して、100%許すということは出来ない。でも、「許さない」とも言い切れない。関係が近ければ近いほど、許す許さないの間で悩むこととなる。でも、その間で悩む、矛盾の苦しみということが私に与えられているのだと思う。

法然上人のこと
鎌倉時代、浄土宗の開祖の法然上人は、幼い頃に父親を敵討ちで殺されます。
法然の父は、幼い息子に言います。「私の仇をとろうとするな。私の仇をとれば、次はお前が狙われる。うらみの連鎖はとどまらなくなってしまう」と。そこで法然は比叡山にのぼり、仏道を歩みます。
この話を聞いて、どのように思われますか?
「敵討ちをしないなんて、自分のこころが許さない」「法然上人は人間が出来ているのですね。私には無理です」というような感想を聞いたことがあります。そういう人が大半ではないでしょうか。
でも、法然上人は、「親の仇を討ちたい」「でも、父の遺言はもっともだと思う」「でも、許せない」。このような矛盾した想いを、一生背負ったのだと思います。苦しみを背負う覚悟をされたのだと思います。

お釈迦さまの教え
お釈迦さまは、人の一生は「一切皆苦」であると教えられました。
修行すれば救われるとか、悩み苦しみが晴れるとか、そんなことは言ってません。
「人の一生は、一切がみな苦である。苦しみの中を生きるのが人の一生です」と私たちに教え示してくださいました。
そんなこと言われると、暗くなってしまいますか? 希望を無くしてしまいますか?

お釈迦さまが言われた「一切皆苦」。
「苦」というと、自分の身に起こる不幸な出来事を思い描きます。人間関係の苦しみ。病気を抱えている苦しみ。経済的な苦しみ。確かに苦しい出来事です。ですが、時が経ったり、解決すれば、こういう苦しみは薄れたり、無くなったりします(病気の苦しみは死ぬまで抱え続けることもありますが)。
つまり、私たちが思い描く苦しみは、薄れたり、忘れたり、ふと思い出したり、笑い話に変わったりするものです。
「一切皆苦」で言われようとした「苦」は、今日書いてきた「矛盾する苦しみ」のことなのではないかと感じました。
法然上人のように、一生抱え続けていくような苦しみ。
この苦しみをお釈迦さまは指摘されたのであり、逆に考えれば、この「矛盾する苦しみ」を抱えてこそ、人の一生なのでは無いでしょうか。

今の時代、この「矛盾する苦しみ」が希薄なような気がします。
誰にだって悩みや苦しみはあります。その悩み苦しみを無くすことは考えるけれど、持ち続けようとは思いません。それは当たり前のことだと思います。そこで自分の胸に手を当てて、思いをめぐらせて欲しいことは、自分の悩み苦しみを無くそうとした時、苦しんだり、傷ついたりする誰かがいるということ。
自分の苦しみをなくしたい。でもそれによって傷つく人がいる。かといって、苦しみはなくしたい。でも人は傷つけたくない。でも助かりたい。
こういう葛藤、矛盾する苦しみを、背負って生きてきただろうか。生きているだろうか。生きていけるだろうか。

そういうことを考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございます(ちょっと長かったですね)。

2005年12月 8日 (木)

12月8日といえば、

12月8日といえば、
   
 ○ジョン・レノンが射殺された日
    
 ○真珠湾開戦
   
 ○お釈迦さまがさとりを開かれた日(成道会)

2005年12月 6日 (火)

自分のことで精いっぱい?

東南アジアを旅行することが趣味の友人からのメール
「『ほたるの墓』にもあるように、狭い範囲の身内を守るために幼い子を放り出すでしょう!あれが日本人の本質ですよ!タイやフィリピンは自分より困っている人は助けます!金持ちは喜捨を喜んでします。人生観からして日本人は貧しいと思います」

反論もおありかと思いますが、私は「そうだなぁ」って頷きました。
狭い範囲を守るため、他を切り捨てる
今、テレビで嫌というほどその光景が映し出されています。
その光景と友人からのメールが重なって感じられます。

「○○だから」「△△なので」
理由や言い分、そして言い訳は誰にでもあります。
その理由のあと、
「○○だから、私は悪くない」
「△△なので、責任はない」
と続きます。
今、私自身が困っているから助けられない。
助けられない(助けない)主張のために、理由や言い分を作り出す。
そして責任のなすり合い、犯人探し、他人事。

タイやフィリピンの人は、
「○○なんだ。だけど助けるよ」
「△△なんだ。だけど一緒に頑張ろうよ」
って続くのでしょうね。
今、私も困っているけど、一緒にいればなんとかなるよ。
困っているという理由と、助けられないという主張が結びつかない。
少ない食料や衣料をみんなで分け合う。

このような書き方をすると国民性を比較しているみたいだけど、「私自身はどうだろうか?」ってこと。

先日、ボランティア講座に行ってきました。
「ボランティアを日本語に訳すとどういう言葉がふさわしいでしょうか?」という質問に講師の先生は、
「私は“助っ人”と訳したい。
困っている人が『手を貸してくれますか』って言ったときに、ちょっと余裕のある人が『ええ、お手伝いします』って出来ることをする。そういうことだと思うんです」
と言われました。
この関係は、たまたま手を貸す人と借りる人とに分かれてはいますが、時と場合によってはいつ逆転してもおかしくないこと。誰もが被災者になりうるし、誰もが“助っ人”になりうる。

講師の先生は、「ボランティアとはなんだろうか?と考えなくても勝手に体が動き、手伝いができる。そんな環境になればいいなと思います。ボランティアという言葉を使わなくていい時が来て欲しい」とも仰いました。

人を助けるのに、理由も理屈も言い分も言い訳もない。
「目の前に困っている人がいるから助ける」
この簡潔・簡単なことが出来ていない私。

2005年12月 4日 (日)

みんな頑張ってる

人間ってみんな、自分のことを頑張ってると思ってるんです
井村雅代(元シンクロナイズド・スイミング日本代表ヘッドコーチ)

12月3日の読売新聞朝刊で、井村さんと、野村克也さん(プロ野球楽天監督)、鈴木秀夫さん(三井住友陸上部監督)、沢木啓祐さん(関東学生陸上競技連盟副会長)をパネリストに迎えて行われたシンポジウムの様子が掲載されていました。

「しかる」ことについて意見交換をしている時の井村さんのことばに共感しました。

人間ってみんな、自分のことを頑張ってると思ってるんです。だけど、自分のことを安く見積もることが多くて、自分はもう精いっぱいと思う。けれども私からしたら、その子の精いっぱいはもっと上にある。

「だから私はしかるんです」って。
シンポジウムの記事を読んでいて、この部分が輝いて見えました。
考え方に共感したというよりも、
コーチの考え方についてきてくれる選手がいて、一緒になってなにか物事を成し遂げようという関係が築かれていたんだなぁと思いました。
井村さんの鬼コーチぶりはニュースステーションでよく放送されていた記憶があります。見たことがあるなぁって人も多いのでは。
どんなに関係が出来ていても、選手はきついことと思いますが、コーチもしんどいんですよね。
選手をしかる時に、こころの根底にある想いであると同時に、
ここでしかることをやめたら、ここで優しくしたら、今まで頑張ってきたこと全てが無駄になってしまうって、自分自身に言っていることばなのかもしれません。

自分への厳しさがあるから、しかっても選手が付いてきてくれる。
自分への厳しさなしにしかっても、誰も付いてきてはくれません。

「頑張れ!!」って励ましもそうなのかもしれませんね。

2005年12月 3日 (土)

ありがとう さようなら

一生懸命はたらいてくれたあなた

「嫌だ」「できません」なんて一言も言わず

頼んだ仕事を力強くこなしてくれた

全く手を抜かず その仕事振りに心ひかれました

私も頼りすぎたかな 疲れたよね ご苦労さま


そんなあなたに、ある日良くない噂が

「危険な奴」「迷惑な奴」

今まで頼りにしていた人も急に冷たくなる

「いつまで使っているつもりですか」「もうやめさせたら」

そんな言葉にちっとも反論せず

今日あなたは去りました 今までありがとう さようなら

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2005年12月 2日 (金)

心を込めて花束を

心を込めて花束を (サザンオールスターズ)

 夢追う無邪気な子供の頃に
 叱られた理由が今解るの
 今日まで幸せくれた
 パパとママに花束を

 若さにまかせて家を出た時
 励ます言葉が身に沁みたよ
 どんなに背伸びをしても
 腕の中で甘えてた

    
つい自分ひとりで頑張っているなんて考えてしまう瞬間(とき)がある。
 誰も頼りに出来ない。
 自分は間違ってない!!
 信じられるものは自分だけ。
 どうして分かってくれないの?
突っ張ってしまう時代(とき)って誰にでもある。
 自分こそ正しいんだ。
 人がなんて言おうと、私はこの道を歩む。
突っ張ってしまう時代って、周りの声が聞こえないもの。
でもいつか気付く。
 あの時の忠告を聞いていれば。
 あの時素直に受け入れていれば。
気付いた時には遅すぎたなんてことがないように、こころのゆとりを持っていたい。
でも、どんなに突っ張っていようとも、私のことを心配し続けてくれる人がいる。
家族であり、友人であり、仲間であり、恋人であり…
そのことに気付かない時期(とき)がある。
温もりに気付いたとき、涙がこぼれてくる。
ごめんね。
 こんなに温かい手で包んでくれていたのに。
 こんなに優しいまなざしで見つめてくれていたのに。
ありがとう。ホントにありがとう。心の底から花束を贈ります。
ありがとう。そして、ごめんなさい。

2005年12月 1日 (木)

2005年12月のことば

PICT0022
自分のこころを
自分のこころだけで見るのは怖い

   
◎正義とは?
誰にとっても、自分こそが正義でしょう。口論・喧嘩・裁判・戦争等々、世の中争い事が絶えません。争いは、正義と悪のぶつかり合いではない。正義と正義の正面衝突。お互い、自分こそ正しいと思っているのだから。
 「私の考えに反する者を従わせたい」
 「私と意見の合わない者を邪魔に思う」
 「気に食わない者を消し去りたい」
自分こそ正しいという考えに揺るぎがない。そんな時、周りが見えなくなっている。「自分こそ正しい」という旗を振り回したとき、最初は賛同する人もいるかもしれないけれど、気付いたらひとりぼっち。
「私こそ勝者だ!」と拳を突き上げた時、あなたは孤独に耐えられますか?

◎「自分はダメな人間だ」
 「このままではいけない」
誰もあなたを責めてはないのに、どうして自分で自分を追い詰めるの?
自分のことは自分が一番分かっている? いいえ、自分こそ自分のことが見えてないものです。
自分で見えている私の良い面。人が見たら、なんとも思っていないかも。
自分で見えている私の悪い面が許せない? それが魅力ということもある。
良いとか悪いとか言うけれど、自分で勝手に判断しているだけ。他人が見たら、全く違う評価をしているもの。でも、良いも悪いもひっくるめて私自身。
良い面を自慢したり、悪い面を嫌ったり、自分で自分の品定めをする必要はないんじゃない?

◎私は人の為にこれだけのことをやっている。
善意と思っているけれど、思う心が悪意のかたまり。
 地獄への道は、
 善意で敷き詰められている

◎「自分の経験から判断すると…」
たいそうな言葉ですね。いったいどれだけの経験があるっていうの? その経験によってなにが分かるの?
経験というのは、単なる時間の積み重ねではなく、人を感じる眼であり、耳であり、皮膚感覚なわけだ
(松田優作)

自分の身に起きた出来事は「体験」に過ぎない。ただ こなしただけのこと。自分の身に起きた出来事を通して、相手のことを想うことができるようになってこそ「経験」。
経験をひけらかすのは、自分で自分の行動範囲を狭めているようなもの。
人を感じる眼や耳や皮膚感覚としての経験を身につけるということは、自分の人生の領域を何倍にも広げてくれる。私ひとりが人生で体験できる出来事なんて、たかがしれているのだから。

◎「損は許されない。得こそすべて」
 「役に立たないものは存在価値がない」
人の、仲間の、会社の、社会の役に立つ。なにか生産活動を行っている。そこにばかり価値を見出していると、立ち止まることが許されない。だから走り続ける。
だけど、立ち止まるには、突っ走る以上のエネルギーが必要。まったく正反対の負荷が必要なのだから。そんなエネルギーを使うのだから、立ち止まることにも意味はある。
人生の歩みのスピードをゆっくりにしてごらん。今までと景色が変わるから。今まで見えなかったものが見えるから。
立ち止まることによって、近道が見えることがある。たとえ遠回りになったとしても、人生に休憩は必要。立ち止まることも、立派なはたらき。恐れることはなにもない。
   
   
☆自分のこころを、自分のこころだけで見てしまうのは怖いこと。自分自身も人も社会も、結局なにも見えていないのだから。見えてないのに、見えたつもりになっている。自分の見えている範囲がすべてだと思っている。

なにも見えていない私だけれど、阿弥陀の慈悲心に照らされて、初めて見えてくるものがある。すくいの光の中を、既に生かされているありのままの私が。

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