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2005年12月 1日 (木)

2005年12月のことば

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自分のこころを
自分のこころだけで見るのは怖い

   
◎正義とは?
誰にとっても、自分こそが正義でしょう。口論・喧嘩・裁判・戦争等々、世の中争い事が絶えません。争いは、正義と悪のぶつかり合いではない。正義と正義の正面衝突。お互い、自分こそ正しいと思っているのだから。
 「私の考えに反する者を従わせたい」
 「私と意見の合わない者を邪魔に思う」
 「気に食わない者を消し去りたい」
自分こそ正しいという考えに揺るぎがない。そんな時、周りが見えなくなっている。「自分こそ正しい」という旗を振り回したとき、最初は賛同する人もいるかもしれないけれど、気付いたらひとりぼっち。
「私こそ勝者だ!」と拳を突き上げた時、あなたは孤独に耐えられますか?

◎「自分はダメな人間だ」
 「このままではいけない」
誰もあなたを責めてはないのに、どうして自分で自分を追い詰めるの?
自分のことは自分が一番分かっている? いいえ、自分こそ自分のことが見えてないものです。
自分で見えている私の良い面。人が見たら、なんとも思っていないかも。
自分で見えている私の悪い面が許せない? それが魅力ということもある。
良いとか悪いとか言うけれど、自分で勝手に判断しているだけ。他人が見たら、全く違う評価をしているもの。でも、良いも悪いもひっくるめて私自身。
良い面を自慢したり、悪い面を嫌ったり、自分で自分の品定めをする必要はないんじゃない?

◎私は人の為にこれだけのことをやっている。
善意と思っているけれど、思う心が悪意のかたまり。
 地獄への道は、
 善意で敷き詰められている

◎「自分の経験から判断すると…」
たいそうな言葉ですね。いったいどれだけの経験があるっていうの? その経験によってなにが分かるの?
経験というのは、単なる時間の積み重ねではなく、人を感じる眼であり、耳であり、皮膚感覚なわけだ
(松田優作)

自分の身に起きた出来事は「体験」に過ぎない。ただ こなしただけのこと。自分の身に起きた出来事を通して、相手のことを想うことができるようになってこそ「経験」。
経験をひけらかすのは、自分で自分の行動範囲を狭めているようなもの。
人を感じる眼や耳や皮膚感覚としての経験を身につけるということは、自分の人生の領域を何倍にも広げてくれる。私ひとりが人生で体験できる出来事なんて、たかがしれているのだから。

◎「損は許されない。得こそすべて」
 「役に立たないものは存在価値がない」
人の、仲間の、会社の、社会の役に立つ。なにか生産活動を行っている。そこにばかり価値を見出していると、立ち止まることが許されない。だから走り続ける。
だけど、立ち止まるには、突っ走る以上のエネルギーが必要。まったく正反対の負荷が必要なのだから。そんなエネルギーを使うのだから、立ち止まることにも意味はある。
人生の歩みのスピードをゆっくりにしてごらん。今までと景色が変わるから。今まで見えなかったものが見えるから。
立ち止まることによって、近道が見えることがある。たとえ遠回りになったとしても、人生に休憩は必要。立ち止まることも、立派なはたらき。恐れることはなにもない。
   
   
☆自分のこころを、自分のこころだけで見てしまうのは怖いこと。自分自身も人も社会も、結局なにも見えていないのだから。見えてないのに、見えたつもりになっている。自分の見えている範囲がすべてだと思っている。

なにも見えていない私だけれど、阿弥陀の慈悲心に照らされて、初めて見えてくるものがある。すくいの光の中を、既に生かされているありのままの私が。

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コメント

こんにちは。
今回の話は肺腑をえぐるものがありました。
生きていると、いろいろあります。特に事件というほどのことがなくても、やっぱりいろいろある。
家庭や職場や学校なんかで、何となくしっくりこない、いらいらする、不安になってくる。うっかりそういう自分を表に出してしまうと、「たるんでいるからだ」なんて怒られたりします。だから、悩みや迷いは、たいてい胸にしまって平気な顔を装います。それで一生涯走り抜けるように生ききってしまえればよいのですが、そうはいかないんですよね。時に爆発する。周りの人には爆発に見えるけど、本人の中では辻褄があっている。それがまた辛い。
結局自分で考えてみても、堂々巡りで出口がありません。そこに言葉との出遇いの大事さがあるのでしょうか。かつさんの文章を読んで、そんなことを考えました。

☆ケイスケさん こんにちは
コメントたくさんありがとうございます。
「今回の話は肺腑をえぐるものがありました」
今月はそういう感想を持っていただけるように意識して書きました(意地悪でしょうか?)。
自分が本当に見えていえるか否かを問おうとしたのではなく、
都合がいいときには自分をよく見せ、
都合が悪いときには自分のことは分からないなんて誤魔化しているんじゃないかなぁと思うわけです。

お前(かつ)自身はどうなのかって?
そんな意地悪な追求はしないでくださいね^^;

あくまでもご自身の問題として取り上げておられることは、文面から察することができましたよ。

☆ケイスケさん ありがとうございます^^

かつさんこんにちは。
以前アートセラピーの講習で、「作品を誰かと一緒にみることが大事なんです。自分だけで見ていると、危険なんです」というようなことを先生がおっしゃっていたことを思い出しました。
作品は自分が見ていない・気づいていない「自分」なので、自分だけで自分を見すぎると狂うようなことがあるようです。もしかしたら、ゴッホとかがそうなのかもしれませんね。

自分にだけ見える「私」も、自分にも他の人にも見える「私」も、他の人にだけ見える「私」も、自分にも他の人にも見えてない「私」も、みんな「私」なんだよなぁ。無理に見ようとしなくても、無理に見せようとしなくても、無理に作ろうとしなくてもいいんだなぁ、って思いました。

☆mebaさん こんにちは
いつも興味深いことを教えていただき、ありがとうございます。

12月のことばの文章を書いているとき、
文章って、自分の想いを、自分の想いだけでで書いてるなぁって怖くなりました。
でも、みなさんからコメントをいただいて、自分だけでは見えなかったものを見させていただいているような気がします。
コメントを含めて文章が出来上がっていることを常に感じています。

mebaさん、コメントをくださる方々、読んでくださる方々、
ありがとうございます^^

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