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2005年11月28日 (月)

すでに光の中

朝青龍関ネタが続きます。
スポーツニュースを見ていたら、14日目の取り組みに勝って見せた涙について語っていました。
相手はご当地力士の魁皇関。館内の応援は魁皇関一色でした。自分がまるで悪役かのような雰囲気の中、横綱は自分を応援してくれる観客と目が合います。「自分のことを応援してくれている人がいる」。勇気をもらった横綱は魁皇関を倒し、そこでまた自分を応援してくれていた観客と目が合います。その瞬間、涙が溢れてきたと語っていました。

魁皇関への応援一色の中、ひとりだけ自分を応援してくれる人がいた。その応援からもらった力は、何百人力だったかもしれませんね。

その話を聞いて思ったこと…
横綱は、自分を応援してくれている人がたまたま目に入ったわけですが、横綱が気付こうが気付くまいが、ただ一人の応援は既にあったわけです。応援はずっとされ続けてきたわけです。
目が合ったから応援してくれたのではなく、元々応援されていた。

衆生を救いたいという阿弥陀如来の願いも、私が気付こうが気付くまいが、この私に既に届いているわけです。
私が阿弥陀如来を信じたから、阿弥陀如来の救いの御手の中に入れてもらえるのではない。
私が信じようが疑おうが関係なく、既に阿弥陀如来の救いの御手の中にいる。
光は既に届いている。ただその光に気付いてないだけ。あるいは疑っているだけ。

魁皇関への応援一色の状況は、横綱にとっては苦痛です。
その苦痛の中で、光(応援)を見出した。
苦痛がなければ、苦痛から逃げていたら、その光には出会えなかったかもしれない。

どんな状況であっても、光は届いている。
状況から逃げていては、光には出会えない。

そんなことを感じました。

いま光がとどいたのではない 光に遇(あ)わなかっただけだ
(浄土真宗2006年法語カレンダー表紙のことば)

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コメント

こんにちは。はじめてコメントさせていただきます。
朝青龍関は本当に強いです。が、しかし私は相撲に興味がないので、今日は阿弥陀如来の救いについての感想を述べます。
いきなりですが、救いって何なんでしょうかね。それがわからないのです。阿弥陀如来の救いというと何だかよくわからなくなるのですが、少なくとも私たち一人一人に根ざしている救いのはずです。そうでなければ、それこそ関係ない話ですからね。とすると、それはいったいどういう内容を持つのでしょうか。
はじめてのくせに込み入った感想というか質問をしてしまいましたが、大事なことと思われたので、思い切ってコメントさせていただきました。

☆ケイスケさん はじめまして
思い切ってコメントしていただき、ありがとうございます。誰もが思っている大事なことだと思います。

「救い」…ブログ(今日の記事に限らず、今までの記事でも)で書いてある通り、既に阿弥陀如来の救いの中にいるのだと思います。
 今のままの私でいい。
 苦しみは苦しみのままに。

「救い」を、
苦悩がなくなること、
安心を得ることと考えられていたら、
私が言っていることは「救い」とは言い切れませんよね。
しかし、私にとっての「救い」は、苦悩は苦悩のままに、今のままの私を生きられることだと思っています。

私が哀しみのどん底にいる(と思っている)時、ある方から声をかけられました。
「あなたが今感じている哀しみはね、あなたならこの哀しみに耐えられると思って、阿弥陀さんが与えてくれたものなんだと思います」
私はこの一言で救われました。今でも、この一言を支えとして生きています。このことばによってのみ私は生きています。
そして、このことばを私に与えてくださった方は、私の哀しみなんかよりも、もっともっと哀しいことがあったはずです。その人も、そのことばによって生かされているのだと思います。気休めでもなんでもなく、自分自身がそのことばによって救われ、哀しみの中を生きている。
聞き方によっては、ひどい言葉かもしれません。阿弥陀さんがなんでわざわざ悲しみを与えるのかって。
でも、私はこの言葉に救われたんです。この想いは、どんなに言葉を重ねても伝わらないと思います。自分自身が、自分自身の人生において感得するものなのですから。
考え方を変えると、哀しみがあるからこそ、ことばが私に響いてきたわけです。何事もなく生活していたら、こころに全く引っかからずに通り過ぎていったことばかもしれない。でも、哀しみのおかげでこのことばに出会えた。その出会いの作用こそ「救い」なんだと思っています。

答になってないですね。
でも、私にはこのようにしか言えません。ごめんなさい。

ありがとうございます。
「苦悩を苦悩のままに、今のままの私を生きられること」これが「救い」だというお答えでした。
よくわかりました、と言えればすっきりするのですが、こういうことは明確な解答などないのでしょうから、これからも課題とさせていただきます。
これからもよろしくお願いいたします。

☆ケイスケさん こんにちは
体調や精神状態によって物事の受け止めは変わってきます。スッキリしたと思っても、次の瞬間には釈然としなくなったり。
でも、答(阿弥陀如来の救い)がフラフラしているのではなく、私がフラフラしているということは忘れてはいけないと思います。
生きるということは、課題を持ち続けることなのかもしれませんね。

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