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2005年11月

2005年11月28日 (月)

すでに光の中

朝青龍関ネタが続きます。
スポーツニュースを見ていたら、14日目の取り組みに勝って見せた涙について語っていました。
相手はご当地力士の魁皇関。館内の応援は魁皇関一色でした。自分がまるで悪役かのような雰囲気の中、横綱は自分を応援してくれる観客と目が合います。「自分のことを応援してくれている人がいる」。勇気をもらった横綱は魁皇関を倒し、そこでまた自分を応援してくれていた観客と目が合います。その瞬間、涙が溢れてきたと語っていました。

魁皇関への応援一色の中、ひとりだけ自分を応援してくれる人がいた。その応援からもらった力は、何百人力だったかもしれませんね。

その話を聞いて思ったこと…
横綱は、自分を応援してくれている人がたまたま目に入ったわけですが、横綱が気付こうが気付くまいが、ただ一人の応援は既にあったわけです。応援はずっとされ続けてきたわけです。
目が合ったから応援してくれたのではなく、元々応援されていた。

衆生を救いたいという阿弥陀如来の願いも、私が気付こうが気付くまいが、この私に既に届いているわけです。
私が阿弥陀如来を信じたから、阿弥陀如来の救いの御手の中に入れてもらえるのではない。
私が信じようが疑おうが関係なく、既に阿弥陀如来の救いの御手の中にいる。
光は既に届いている。ただその光に気付いてないだけ。あるいは疑っているだけ。

魁皇関への応援一色の状況は、横綱にとっては苦痛です。
その苦痛の中で、光(応援)を見出した。
苦痛がなければ、苦痛から逃げていたら、その光には出会えなかったかもしれない。

どんな状況であっても、光は届いている。
状況から逃げていては、光には出会えない。

そんなことを感じました。

いま光がとどいたのではない 光に遇(あ)わなかっただけだ
(浄土真宗2006年法語カレンダー表紙のことば)

2005年11月27日 (日)

数字の裏にあるもの

大相撲九州場所で優勝した朝青龍関が優勝インタビューで、

先にある大きな山を見るよりも、目先の小さな石を一つ一つ越えて来ました

と、語っていました(正確な表現じゃないです。私のあやふやな記憶のままです。すみません)。

14日目大関魁皇関に勝って、優勝と年間勝ち星更新を決め、土俵上で涙を流す姿を見て、どれほどのプレッシャーと闘っていたのだろうかとあらためて思いました。
誰も寄せ付けない力強さ。何事にも動じない精神力。格下の相手にも油断をしない慎重さ。 
楽々勝っているようにすら思えてしまう。
勝つことがが当たり前のように思われている横綱でも、いや横綱だからこそ一歩一歩大事に歩んできたのでしょうね。

自分の力のなさを知らないと、力強さは身につかない。
自分の気持ちの弱さを知らないと、精神力は身につかない。
自分の雑な心を知らないと、慎重さは身につかない。
そして、自分自身に勝たないとプレッシャーに飲み込まれてしまう。

取り組み相手・マスコミ・世間、敵はたくさんいるけれど、一番の敵は自分自身。
逃げようと思えばどこへでも逃げられる。手を抜こうと思えばいくらでも手を抜ける。
でも堂々と立ち向かっていく。しかも結果を残しながら。

最初から大記録を目標にしていたわけではなく、目の前にあるやらなければいけないことを一つ一つ、真摯に、一生懸命やってきただけなんだなぁ。だからこそインタビューでこの言葉が出てきたのですね。

外野は、結果しか見ないし、数字でしか判断しない。
勝つことが当たり前。出来て当たり前。期待に応えて当たり前。
そんな押し付けが、どれほど重圧を与えていることか。

年6場所制覇して、年間勝ち星を更新したけれど、
もし優勝を逃し、勝ち星更新を逃していたとしても、記録に、期待に、そして自分自身に逃げずに立ち向かっていった姿が尊く輝いて見えました。

インタビューの言葉は、モンゴルに諺か格言としてあるのかもしれませんが、言葉とそれを発する人間がピタッと合っているような気がして感動しました。

なんて、私が偉そうにこんなこと書くのもおこがましいんですけどね。

2005年11月26日 (土)

検索ワード

この2週間ほど、「別れの曲」で検索して当ブログにたどり着かれている方が激増しています。
なぜ?

ちなみに、今までで一番目多い検索ワードは「祝婚歌」。
結婚式でこの言葉を紹介される方も多いようで、興味を引かれる方もたくさんいるようです。

その次に目に付く検索ワードは「復讐の方法」。
そんなにたくさん復讐を企んでいる人がいるのでしょうか。
復讐は負の連鎖を生むだけですよ。

いづれにしても、期待した内容とは程遠いものだと思います。
検索されてきた方、ごめんなさいね。

2005年11月24日 (木)

小春日和

今日は暖かい日でしたね。
境内の掃除がはかどりました。

秋から冬にかけての、今日みたいに晴れて暖かな日のことを
「小春日和」と言うんですね。

春の初めのポカポカ陽気のことかと思ってました。
恥ずかしい話です。

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本堂の裏の柿の木です。
柿の葉が綺麗に色づいています。
落ち葉を拾っていって、栞にされる方がけっこういます。

2005年11月23日 (水)

枯れない涙

今日、法事を勤めました。
ご遺族は、初老の男の方ひとり。
亡くなられた奥さんの一周忌でした。

寺に来られて、笑顔で「今日はよろしくお願いします」。
深々とお辞儀をされました。

ご法事が終わって、本堂からお座敷に戻られて、坊守(母)がお茶を持っていくと、目に涙を溜めていたそうです。
そしてつぶやかれました。
女房が亡くなって、泣いて泣いて、もう泣けないってくらい泣いたのに…。涙って枯れないものですね

涙って枯れないものですね。
泣いて泣いて泣いて泣いて、もう泣かないぞって決めて立ち上がったのに…。
ふとした瞬間にまた涙が溢れてくる。

涙流す感情が薄れてきたとき、涙が溢れるように出来ているのかな。
「(私があの人のことを)忘れちゃいけない!!」という自発的なサインじゃなくて、
「(私はあなたのことを)忘れていませんよ」という涙の対象の人からの呼びかけのように想えます。

私の記憶の中に留まっているから泣けてくるんじゃなくて、
あの人が私のことを覚え続けていてくれるから涙流すことができるのかもしれない。
   
    
笑いとは、
 地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである

ニーチェ

笑顔の背景には、どんなに哀しいことがあったのでしょうか。

2005年11月22日 (火)

立ち止まることも「動き」である

今日、来年の手帳を買いました。
最近「手帳の使い方で生活が変わる!!」というようなキャッチコピーが目に付く気がします。
でも、手帳の使い方って、なかなか変えられないものですよね。

学生の頃から高橋書店の手帳を使っているのですが、手帳の中に
思わず手帳にメモしたくなった「身近な人の名言・格言」を大募集!!
ってチラシが挟まってました。
そのチラシに2004年の大賞作が書いてありました。

立ち止まることも
ひとつの「動き」である

自分の将来を考えたとき、焦ってしまう。
 なにかしなければ、
 なにか結果を出さなければ、
 進むべき方向を見つけなければ、
「まだ見ぬ未来のことなんだから、悩むよりも先ず行動だ!」って割り切ろうとは思うんだけど、でも、なにかしなければいけないって自ら追い立ててしまう。
或いは、周りが焦らせてもくれる。「どうするの?」「どうしたいの?」「今のままじゃダメでしょ!」
そんなことは、本人が一番自覚している。わざわざ焦らせることないのにね。

実際に体を動かして、なにかをしているように振る舞うことだけが「動き」じゃない。
 自分を見つめて自問自答することも、
 周りの様子を観察することも、
 ほんとに何もしないでいることも、
すべて次の一歩を踏み出すための「動き」に違いない。
いや、すでに踏み出しているんだ。

 一生懸命行動することも、 
 もがき苦しんでなにも手につかなくても、
 立ち止まることも、
私の人生において無駄なことなどなにもない。

2005年11月21日 (月)

信じつづけていれば

昨晩、NHKのアニメ「雪の女王」を見ました。母が見ていて、つられてボンヤリと眺めていました。
初めて見て、ストーリーも知らないのですが、主人公ゲルダの、つらいけれども明るく前向きな姿に見入ってしまいました。それと、ラギの声優の仲村トオルさんの朴訥(ぼくとつ)とした語りにも。

ラギの「信じていれば、いつか真実を見ることができる」という台詞が耳に残りました。
「雪の女王」のHPを見たら、
信じつづけていれば、思いはきっと届く」と書いてありました。
“信じる”ことが物語のテーマなんだと感じました。

信じていれば、いつか真実を見ることができる
信じつづけていれば思いはきっと届く
こういう言葉って、今日では恥ずかしいセリフ、枯れたセリフのように受け取られてしまうのかな。
なんて他人事のように言わずに、自分はそんなふうに感じました。照れくさいなって。

それは、いつからか物事を諦めてしまう気持ちを持ってしまったからなのかも。
 信じても無駄
 信じても裏切られるのが嫌だ
 信じたことがすべて叶うわけはない
それなら初めから信じないほうがいい。信じるなんてカッコ悪い。
そんなふうに思う気持ちがあるから、照れくさく感じたのでしょうね。

信じることに結果を求め、結果が出ないと挫折してしまう。
自分の夢や願いが思いのままに叶うなんてことはないのに。
信じるという行為までも否定してしまう。

信じることは、結果を求めてすることではない。
立ち上がり、歩き出し、生きる力として“信じる”んじゃないかな。

“信じる”という経験は、
信じた結果付いてきたものに価値を求めてしまうけれど、
その経験自体が尊いと思います。

2005年11月20日 (日)

くたばっちまえ

先日、ご門徒のおばあちゃんから声をかけられました。
「副住職、お話したいことがあるんですよ」
「はい、なんでしょう」
「○○先生(名前は伏せておきます)って、お話の先生がいるでしょ」
「ええ、いらっしゃいますねぇ」
「その先生とお話をした時にね、『私はこれから年老いて、体も弱って、頭もボケて、生きていくのがツライ』って言ったんですよ」
「ええ」
「そしたら、先生、なんて言ったと思います?」
「なんて言いました?」
「『そんなに言うなら今すぐくたばっちまえ』って言われたんですよ」
(毒蝮三太夫さんじゃありません)
「…(笑いをこらえる)」
「私も『でも私、カッコよく死にたいんです』って言い返したんです」
「ええ」
「そしたら、『たいていの人はみっともなく死ぬんだよ』なんて言うんですよ」
「…(先生らしいなぁ)」
「その時は『この先生、なんてこと言うんだ!』って頭にきたんですけどね、それからいろいろと考えていたんです」
「うんうん」
「よく考えてみるとね、先生は当たり前のことを言っただけなんだなぁって気付いたんです。年取れば、頭も体も弱くなってくるし、死に方だって選べない。そういう当たり前のことから目を背けるなって先生は伝えようとされたんだなぁって思ったんです」
「うん、そうですね」
「『年老いて、体も弱って、頭もボケて、生きていくのがツライ』なんて、自分で自分の人生を狭めてました。その時の状態でもって、その時に出来ることをすればいいんですよね(笑顔)」
「今のお話を聞いたら、先生も喜びますよ。でも、そういうふうに思えるようになったのは、聞法を続けたからだと思います。先生に怒って、聞法を止めてしまっていたら、ずっと腹を立てたままでしたよ。怒りにまかせた考え方だけでなく、違うものの見方ができるようになったのは、聞法の場に出続けて、いろんな先生の話を聞いて、さまざまな生き方をしている人に出会えたからですよね」
「そう思います」
「自分の心境の変化をお話してくださってありがとうございます」
「これからも聞法の場を提供してくださいね」
「はい^^」
      
       
素敵なお話を聞かせていただきました。○○先生も真意が伝わって、喜ばれることと思います。ですよねぇ、先生!!


2005年11月18日 (金)

人の振り見て

昨日、都内某デパートの文房具売り場にて、商品について問い合わせようと店員さんを呼び止めたところ、
「今、他のお客さんの相手をしてますから!!」
と、にらみつけられてしまいました(恐かったです)。
他のお客さんに求められた商品を必死に探している最中のようでした。

で、態度や言葉遣いに対する腹立ちよりも、「自分はどうだろう?」って思ったのです(機嫌が悪かったら怒鳴り返してたと思うけど)。

思い返したのが、新潟のお寺でのお盆のお手伝い
一日に100件以上の墓前でお盆のお経をあげてました。一件読経が終わって振り向くと、「次お願いします」って何人も待ち構えているのです。で、順番を覚えて、「しばらくお待ちください」って笑顔で応えて。
でも、順番が覚えきれなくなってきて、夏の日差しでクラクラしてきたときに声をかけられた時、果たして私は丁寧に対応できていただろうか。言葉は悪いですが、流れ作業になっているので、あまり覚えてないのです。
でも、昨日の出来事によって思い返してみると、必死の形相・恐い顔・邪険な態度だったのではないかと身震いをしたわけです。
なんで今頃お盆のことをとも自問しましたが、お盆に限らず、日常の生活もそうですね。

お墓参りに来た人、宅配のお兄さん、営業の人、寺の玄関のチャイムを鳴らします。
「ピンポーン」
すぐに出られればいいのですが、本堂や墓地にいたり電話中だったりすると、なかなか出られないのです。
寺に誰もいないということはないので待っていて欲しいのですが、
「ピンポーン ピンポーン」と連続で鳴らされたり、すぐにいなくなってしまったりするわけです。
待つ方が時間を長く感じるのは分かっているので、急いで玄関に行って「お待たせしました」って出た時、果たして私はどんな顔をしているのだろう。
そういえば先日、そのようにして玄関に出たら、「ご、ごめんなさい」って宅配のお兄さんに謝られてしまいました。血相変えて出てきたのでしょうね。こちらこそごめんなさい。余裕がないなぁ。

そんなことを振り返り、反省させてもらいました。
ナムナム(−人−)

2005年11月17日 (木)

お寒うございます

お久しぶりです。
やっと風邪が治りつつあります(変な表現ですね)。
今回の風邪はひどかったです。3日の夜に「風邪かな?」って感じてから、まだ治りきってません。
でも、しなければいけないことがあるときは体が動くものですね。本当は休んでなきゃいけないのでしょうけど。
気付けば、昨年もまったく同じ時に風邪をひいていました(日記に書いてあった)。同じ時期に、同じように生活のペースを乱し、同じように風邪をひいてました。なんの成長もないですね^^;

休んでいる間にも、いろいろな出来事があったり、いろいろと考えたりしていたのですが、ブログからは遠ざかっていました。書きたいなぁって思ったことはいくつかあったのですが。

体は休めても、心は休んでいない。
あれをしなければ、これをしなければ。
病人になって病気をする」ことの難しさを感じていました。

インフルエンザもあるし、風邪はこれからが恐いですよね。
食事と睡眠はキチンととって、うがい手洗いは励行しましょうね(と、自分に言い聞かせる)。

2005年11月 8日 (火)

報恩講…自分との出会い

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11月5日(土)西蓮寺報恩講が厳修されました。
海 法龍先生(横須賀長願寺ご住職)にご法話をいただきました。

 清く・正しく・美しく
 向上・進歩・発展

悪いこころではない。善意ですよ。でも、人間が良いと思っている心が一番危うい。
「清く・正しく・美しく。向上・進歩・発展」…この道を歩んでいると、人間は高みに立つ。高みに立った所から人を見下す。慢心のこころです。
良いことをしていると、良いことをしている自分に酔ってくるんです。良いことをしていると自慢話が出る。

慢心ってね、自分では気付かないんですよ。
自分が良い事してるなぁって思ったときは、皆さんも気をつけてください。
向上もいいけど、向下も忘れずに。
足元を見る。
自分の姿を見る。
無自覚を自覚する。
気付かなかったものに気付く。
それが人間にとって大事なことですよ。
南無阿弥陀仏のおこころの内容です。

自慢話…一番聞きたくない話ですよね。
でも、一番したい話も自慢話なんですよ。
他人事じゃない。自分のことです。

かたくなになっていた自分のこころが、「あぁ、これが自分かぁ」と知らされてこころ安らぐ。
物事がうまくいって安らげるのではない。
自分の姿が知らされて安らげる世界があるんです。
自分が自分に出会うことが大事だと親鸞聖人は教えられる。
私たち、自分を見失って生きているんです。

そういうことを知らせていただくおこころがお経の中にはあるんだなぁと思いながら、お勤めしていただけたらと思います。
      
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今年の9月に、
地獄への道は、善意で敷き詰められている
ということばを掲示したら、
「あぁ、いいことばだねぇ。最近の自分自身の問いなんだよぉ」
と海先生はおっしゃられました。
高い所に立って法話をされるのではなく、自身の問いの中から、自分をさらけ出してお話をされる。
海先生の法話を楽しみに報恩講に参詣される門徒さんがたくさんいるのも分かります。

追伸
西蓮寺報恩講が勤め終わると同時に風邪をひいてしまいました。
声がまったく出ません。ホッとしてしまったのでしょうか。
みなさんもお気をつけください。

2005年11月 4日 (金)

七転び八起き

七転び八起き…七回転んだのに、八回起きる?
そんな疑問を持ちません?
それは、最初の状態を、起きた状態と考えると出てくる疑問です。
でも、最初は転んだ状態だと考えると、七転び八起きで理屈が通ります。(正確に言うなら、「八起き七転び」かな)
と、いうことを聞いたことがあります。

何事も、起きている状態、立っている状態、キチンとしている状態を起点において考えます。
転んだ状態から始まるとは、あまり考えないのではないでしょうか。

転んだ状態、人生につまづいた状態がいけないことで、
そこから立ち直らなければいけないと考えてしまう。
でも、転んだ状態、つまづいた状態こそが私たちの普段の姿。
なにも悪くない。
立ち上がらなければと無理したり、焦ったりすると、自ら苦しめることになる。それは、起きた状態、しっかりした状態こそ普段の姿と考えるから。

「人生七転び八起き」という励ましは、
「失敗してもまた立ち上がればいいよ」という意味なのでしょうが、
「つまづいたっていいじゃないか。その姿も“私”であることに変わりはないんだよ」と教えてくれているようにも感じます。

転んだ状態から、
立ち直って、
つまづいて、立ち上がって、
暗くなって、明るくなって、
失敗して、成功して、
ブルーになって、元気になって、
やる気がなくなって、頑張って、
道に迷って、迷いが消えて、
道を見失い、光が見えて…

「光が見えて」一直線…ではなくて、
また転んで、また起きて。
人生って、その連続なんですね^^

2005年11月 3日 (木)

はじめの一歩

はじめの一歩
(作詞・新沢としひこ/作曲・中川ひろたか)

2番 信じることを 忘れちゃいけない
   必ず朝は おとずれるから
   ぼくらの夢を なくしちゃいけない
   きっといつかは かなうはずだよ
   はじめの一歩 あしたに一歩 
   今日から 何もかもが 新しい
   はじめの一歩 あしたに一歩
   生まれ変わって大きく 一歩 歩き出せ

  
  
今日出会った歌。いい歌だなぁと思いました。
信じることを忘れちゃいけない
そういえば、11月1日の記事で「私がする感謝(信じる・頼る・愛する)とは、無責任で、危ういのです」なんて書いたなぁ。
でも、信じることがいけないと言ったわけではない。信じることは尊い行為。
信じることができる対象に出会えたことが尊いのだから。
信じる・頼る・愛する対象に出会えたこと。それだけでも満足なことなのに、そこから先を期待しちゃうんだなぁ。
だから、「信じていたのに」「頼りにしていたのに」「愛していたのに」って愚痴がでる(相田みつをさん風だ)。

夢も、持ち続けるから叶う。
夢をなくす、捨てる、見なくなると、叶うわけはない。
夢も、見ることが出来ただけでも尊いこと。
夢が叶わないと、失望・挫折したというけれど、夢をもって人生を歩む経験は、それだけで尊いこと。
夢をもたずに生きることは、地図もなく旅するようなもの。

今日から 何もかもが 新しい
人生リセットということではなくて、
なにかを信じ、夢を持ちながら生きている人って、日々新しい人生を過ごしているのだと思う。
出会いのすべてを新鮮に感じながら。
一歩一歩が常に新しいあゆみになる。

生まれ変わって
やり直すってことではないと思う。
一歩一歩が常に新しい歩みならば、
一歩一歩が常に生まれ変わった私の誕生ということ。
あゆむ道は今までと変わらないけれど、踏み出す一歩一歩が力強くなる。

2005年11月 2日 (水)

楽を求めて苦しみを除くと…

つらいとき、かなしいとき、そこから逃げ出したいと思う。

「楽になりたい」「幸せになりたい」

つらいこと、かなしいことの原因を見つめることもしないで。

「なんでこんなに苦労をするんだろう」

もし、つらいこと、かなしいことが、なんとか落ち着いたとして、

「ホッ」とできるだろうか。

つらさ かなしさ から解放されるかと思ったら、

つらさ かなしさから逃げてしまったつらさ かなしさが芽生える。

今まで味わったことのない苦しみ。

この苦しみは、こころに刻み込まれる。

今まで自分勝手だった。

この苦しみを味わって、生きる力になっている。

苦しいことは苦しいままに、

楽しいことも、その背景には苦しみがあることを知る。

苦は、逃げるもの、嫌うものではなく、受容するもの。

逃げるために出した答は、そこからまた逃げ出したくなる。

受容して出した答ならば、答を受容できる。

2005年11月 1日 (火)

2005年11月のことば

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弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

                        『歎異抄』

11月28日は親鸞聖人のご命日です。京都のご本山では、11月21日〜28日に報恩講が勤められます。それに前後して全国の真宗寺院では報恩講が勤まります。
親鸞聖人は「阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏と念仏申す衆生を救おうという誓いを立てられました」という念仏の教えを私たちに示してくださいました。その恩に報いて感謝する聞法の場を「報恩講」と言います。
ありがたいお念仏の教えをお示しくださったことを感謝する。「ありがたい、ありがたい。感謝、感謝。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
しかし、「報恩講」を文字通り読むならば、親鸞聖人の恩に報いることを意味しますが、果たしてそれだけのことでしょうか。
「報恩講です。親鸞聖人の恩に報い、感謝しましょう」と言っても、「念仏の教え?」「親鸞って誰?」「真宗の利益?」「なんで感謝しなければいけないの?」というように、素直には頷けないことでしょう。
そうです、私たちの感謝は、自分が納得できないと、利益を被らないとできないのです。条件付の感謝なのです。
感謝に限らず、信じる・頼る・愛するといった行為も、条件付けでしているのではないですか。自分の要求に応えてくれたから感謝。裏切られないだろうという前提で信じる。人ではなく、背景にある地位や財力を頼る。自分の理想通りの者を愛する。で、自分に不利益になる、期待に応えられない者は排除する。
私がする感謝(信じる・頼る・愛する)とは、このようなものではありませんか? そう、こんなにも無責任で、こんなにも危ういのです。

それでは「報恩」とはなんなのでしょうか。
私が感謝するのではなく、私が感謝されていると考えてみてください。誰から? 阿弥陀如来からです。阿弥陀如来という人が実際にいたわけではありませんが、念仏申す衆生を救いたいというはたらきの中を既に生かされているのです。
既に温もりの中を生かされているからこそ、その温もりを感じることができる。

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
                            (『歎異抄』第一章)

阿弥陀如来の教えを聞き、学び、理解して、それから信じて念仏申すのではない。阿弥陀如来から既に念仏が与えられている。だからこそ私たちは念仏申すことができる。阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏という名のりとなって、念仏申すあなたの身にいるのです。
条件・状況によって変わってしまうような我々がする感謝とは違い、阿弥陀如来から感謝の光が注がれている。信じる対象と思っていたものからすでに信じられていた。「摂取不捨…おさめ取って捨てない」。決して捨てられることのない光の中を。阿弥陀如来に背き、阿弥陀如来を信じない衆生までも。
「念仏申す衆生を救う」…阿弥陀如来も条件付けをしているようですが、そうではありません。阿弥陀如来を信じようが背こうが、生きとし生けるもの全衆生を救おうと願われているのですから。その願いがあるからこそ、我々が念仏申す衆生となれる。念仏申すことは条件ではなく、我々の姿なのだと思います。
既に阿弥陀如来の慈悲の光の中を生かされてきたという不思議さ。「不思議」とは、私の思いをはるかに越えているということ。驚くような超常現象や自然現象のことではない。このような不思議な事実を顕(あきら)かにしてくださったのが親鸞聖人。しかも、上に立って教えようとされたのではなく、自身が念仏する姿でもって顕かにしてくださったのです。
親鸞聖人に感謝しても喜ばれないことでしょう。この私が手を合わせて「南無阿弥陀仏」と念仏申すことこそ、報恩感謝なのです。

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