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2005年11月 1日 (火)

2005年11月のことば

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弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

                        『歎異抄』

11月28日は親鸞聖人のご命日です。京都のご本山では、11月21日〜28日に報恩講が勤められます。それに前後して全国の真宗寺院では報恩講が勤まります。
親鸞聖人は「阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏と念仏申す衆生を救おうという誓いを立てられました」という念仏の教えを私たちに示してくださいました。その恩に報いて感謝する聞法の場を「報恩講」と言います。
ありがたいお念仏の教えをお示しくださったことを感謝する。「ありがたい、ありがたい。感謝、感謝。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
しかし、「報恩講」を文字通り読むならば、親鸞聖人の恩に報いることを意味しますが、果たしてそれだけのことでしょうか。
「報恩講です。親鸞聖人の恩に報い、感謝しましょう」と言っても、「念仏の教え?」「親鸞って誰?」「真宗の利益?」「なんで感謝しなければいけないの?」というように、素直には頷けないことでしょう。
そうです、私たちの感謝は、自分が納得できないと、利益を被らないとできないのです。条件付の感謝なのです。
感謝に限らず、信じる・頼る・愛するといった行為も、条件付けでしているのではないですか。自分の要求に応えてくれたから感謝。裏切られないだろうという前提で信じる。人ではなく、背景にある地位や財力を頼る。自分の理想通りの者を愛する。で、自分に不利益になる、期待に応えられない者は排除する。
私がする感謝(信じる・頼る・愛する)とは、このようなものではありませんか? そう、こんなにも無責任で、こんなにも危ういのです。

それでは「報恩」とはなんなのでしょうか。
私が感謝するのではなく、私が感謝されていると考えてみてください。誰から? 阿弥陀如来からです。阿弥陀如来という人が実際にいたわけではありませんが、念仏申す衆生を救いたいというはたらきの中を既に生かされているのです。
既に温もりの中を生かされているからこそ、その温もりを感じることができる。

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
                            (『歎異抄』第一章)

阿弥陀如来の教えを聞き、学び、理解して、それから信じて念仏申すのではない。阿弥陀如来から既に念仏が与えられている。だからこそ私たちは念仏申すことができる。阿弥陀如来は、南無阿弥陀仏という名のりとなって、念仏申すあなたの身にいるのです。
条件・状況によって変わってしまうような我々がする感謝とは違い、阿弥陀如来から感謝の光が注がれている。信じる対象と思っていたものからすでに信じられていた。「摂取不捨…おさめ取って捨てない」。決して捨てられることのない光の中を。阿弥陀如来に背き、阿弥陀如来を信じない衆生までも。
「念仏申す衆生を救う」…阿弥陀如来も条件付けをしているようですが、そうではありません。阿弥陀如来を信じようが背こうが、生きとし生けるもの全衆生を救おうと願われているのですから。その願いがあるからこそ、我々が念仏申す衆生となれる。念仏申すことは条件ではなく、我々の姿なのだと思います。
既に阿弥陀如来の慈悲の光の中を生かされてきたという不思議さ。「不思議」とは、私の思いをはるかに越えているということ。驚くような超常現象や自然現象のことではない。このような不思議な事実を顕(あきら)かにしてくださったのが親鸞聖人。しかも、上に立って教えようとされたのではなく、自身が念仏する姿でもって顕かにしてくださったのです。
親鸞聖人に感謝しても喜ばれないことでしょう。この私が手を合わせて「南無阿弥陀仏」と念仏申すことこそ、報恩感謝なのです。

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