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2005年9月

2005年9月28日 (水)

松井 秀“喜”選手

  聞く耳を持たないのは、損だよね。
  参考になる意見、いっぱいあるんだし。
  だれも批判してくれないのは、かえって怖い。
  自分の欠点が見えなくなるよ。

     ニューヨークヤンキース 松井秀喜選手
       (9月28日読売新聞朝刊「松井が翔ぶ」より)

人からの批判を聞くことは、難しいですよね。
「なるほど、ごもっともです」と受け容れるのはもっと難しい。
でも、自分のいないところで言われ続けるよりは、面と向かって言ってもらったほうがいいのも確か。

一般人の私ですら、批判されることについては、いろいろ考えてしまう(私、すぐに突っかかってしまうんです)。
ましてや、松井選手ほどの選手だと、想像を絶するほど批判・非難を浴びていることでしょう。
人柄が素晴らしく、そんなに誹謗中傷はないと思われますが、風当たりが強く、視線を集める環境に身を置いていることは確か。
そんな環境にありながら、こういうことが言えるのって、それを実践できてるからだと思います。だからこそ、大リーグでもレギュラーとして結果を出している。

  
選手としても人間としても、「穴」は埋めようとしなきゃ「穴」のまま。
成長したいなら、欠点から目をそらしちゃダメ。
長所は磨いて、短所は克服するために努力して

“向上心”というより、“生き方”ですね。
松井選手の名前は「秀喜」。
名前通り、喜びが秀でる生き方をされているような気がします。

ちなみに、
仏教では、さとりを得たり、往生が定まったよろこびを「歓喜(かんぎ)」と言います。
松井選手の生き方には、自分が歩むべき道が定まっているかのような気がします。
まさに「秀“喜”」という名前の通りですね。
(ご両親はそういうことを考えて名付けたのではないでしょうけど^^)。

2005年9月26日 (月)

彼岸の悲願

秋の風が吹いてます。
暑かった夏も終わりが近づき、秋の足音が。
こうなると、あんなに暑かった夏も名残惜しいですね(勝手ですね^^)。

今日で秋のお彼岸も終わりました。
暑かったり、涼しかったり、台風が来たり。
春もそうですけど、お彼岸の頃って気候の変化が激しいですね。
こういう時期って、人のこころの変化も激しいです。
哀しかったり、ウキウキしたり、泣きたかったり、笑いたかったり、いやに冷静だったり…。
こころの動きが激しい、その時はしんどいけれど、ふと気が付いた時には気持ちが落ち着いていたりする。
風が突然ピタッと止むように。
暑くもなく、寒くもなく、心地よい気候があるように。
人も自然の一部なんですね。

人と自然の共存・共生? 対等・並列な発想です。

人は自然の一部。
自然の中を生かされているという感覚を見失いたくないなぁ。
その感覚を見失わないってことは、生まれた意義と生きる喜びを見つけるってことなのかも。

2005年9月23日 (金)

感謝

お彼岸にはたくさんの方がお墓参りにみえます。
今日は3連休の初日と重なったこともあって、例年のお中日以上に
道路が混んでいたようです。お寺も人がいっぱいでした。
みなさま、お疲れ様でした。

家族揃ってお参りされる方もたくさんいます。
寺の山門をくぐって、参堂を歩いて、本堂の前まで来て…
おじいちゃんやおばあちゃんが本堂正面の阿弥陀さまに向かって手を合わせます。
お父さんお母さんが手を合わせます。
そのお子さんも、一緒になって手を合わせます。
「ナムナムしなさい」と言われてもいないのに。   心和む風景です。

教えよう教えようと力むよりも、先ず自分がやってみせる。
叩き込まれた知識・作法より、こころに沁み込んだ想いは、いつまでも相続されていきます。

自分が嫌なこと、苦手なことをさせようとしても、後は続かない。
自分がこころを込めてやっていることは、たとえ誰かに伝えようという想いがなくても、自然と伝わっていくものです。
(それだけに、お行儀悪い態度も子供はすぐにマネします。気をつけましょうね^^)


  無理に強いられた学習というものは、
     何ひとつ魂のなかに残りはしない。

                      プラトン


お彼岸のお中日、どんなに道路が、電車が、バスが混んでいると分かっていようとも、お参りせずにはおれない。
その気持ちというのは、自分が起こしているのではありません。
私に先立って生きられた方々の姿や想いが、私に相続された表われなのです。

手を合わせるのは、先祖への感謝ではありません。
連綿と受け継がれてきたいのちが、今、私の中を生きているから手が合わさるのです。

私が、感謝するのではない。
感謝の連続のいのちを、今、私が生きているのです。

2005年9月21日 (水)

涙があるからこそ

 束縛があるからこそ
 私は飛べるのだ
 悲しみがあるからこそ
 高く舞い上がれるのだ
 逆境があるからこそ
 私は走れるのだ
 涙があるからこそ
 私は前に進めるのだ

     マハトマ・ガンジー 「遺言詩」
   
  
昨日から「」について考えています。
そこで心に留まったのがガンジーの「遺言詩」

 束縛の対が飛べること
 悲しみの対が舞い上がること
 逆境の対が走ること
 涙の対が進むこと
   って読んでしまいそうだけど、そうではなくて、
   
 束縛って飛べること
 悲しみって舞い上がること
 逆境って走ること
 涙って進むこと
   対となる言葉のようだけど、実は同義なんじゃないかな。

   
死があるからこそ
私は生きられるのだ
  死と生は相反するものではなく、実は同義。
  切り離して考えてはいけないこと。
  切り離して考えてしまうから、
  「死」は暗いもので「生」は明るいものと分類してしまう。
  「束縛」はマイナスで、「飛べること」はプラスと勘違いしてしまう。

  生死あるからこそ人生
  束縛と飛べること(自由を意味してるのかな)あってこそ人生。
  
  どちらか片方だけの人生なんて、成り立たない。

2005年9月20日 (火)

どう答えますか?

今日は彼岸の入りです。
先の3連休にけっこうお墓参りにみえているので、今日はお彼岸の
お中日のような感覚です。
でもお彼岸は今日から1週間。すでに体が疲れてしまってます(年ですかね)。
  
   
お参りにみえた門徒さんから相談を受けました。
5歳になるお孫さん(女の子)がいるのですが、その子が生まれて6ヶ月の時にお父さんは亡くなられました。
今までは「お父さんは遠い国にいるんだよ」と話してきたそうですが、
最近なにか変だなぁということに気付いたらしいのです。お父さんに関する質問攻めだそうです。
で、本当のことを話すべきなのか否か、おじいちゃんとおばあちゃん、おかあさんは迷っているのです。

私は、「話す時期が来たということだと思います」と言いました。
その子にはお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんはすべて理解しているらしいので、なおさらキチンと話してあげた方がいいなと思いました。
葉っぱのフレディ』という絵本を薦めたのですが、すでに持ってらしたので、お孫さんと一緒に読んで、折を見て、本当のことを話してあげたらいかがですかと言いました。


子供は、大人が考えるよりも、ずっとずっと賢いです。理解力があります。隠そうとしても、ごまかそうとしても、そのことに気付きます。
こちら側から事細かに説明を切り出す必要はないけれど、聞かれた質問には、大人に対するのと同じように答えてあげるべきだと思います。

あなたなら どのように答えますか?

2005年9月19日 (月)

僕が僕らしくあるために

「昔はよかった」
なにがそんなによかったの?
今はダメなの?嫌いなの? 気に入らないの?
人生いろいろ。それぞれの人生を歩んできた。
今がダメなことも、嫌いなことも、気に入らないこともあることでしょう。
でも、それを他のせいにしてはいませんか?

「昔はよかった」と、つい嘆いてしまいたくなる“今”。
その“今”をつくったのは、誰でもない、ズバリこの私自身。
そこに目を向けずに、嘆きの対象を外に向けて、そこから何が見えるのかな?
「昔はよかった」と胸を張っていえることもあることでしょう。
でも、今を嘆いて「昔はよかった」なんて言ってたら、よかったはずの昔まで色褪せてしまいますよ。

「過去・現在・未来」というけれど、私にあるのは常に“今”。
今・今・今の連続が私の歩んでいる道。
過去の私、今現在の私、未来の私って、それぞれの私がいるわけではない。連綿と続く人生。
「昔はよかった」なんて、私の否定でしかありませんよ。
      
  "昔はよかったね" と いつも口にしながら
  生きて行くのは 本当に嫌だから
  消えたいくらい 辛い気持ち
  抱えていても
  鏡の前笑ってみる まだ平気みたいだよ

    
消えたいくらい辛い気持ちが、今突然ポッと出てきたわけではない。
私の人生の歩みの中で、築きあげられたものです。
消えたいくらい辛い気持ちが、いつまでもこのまま続くわけでもない。
私の人生の歩みの中で、この辛い気持ちがあったからこそ笑える日も来る。人に優しくなれる日も来る。

消えたいくらい辛い気持ちを抱えていても、
 そこから逃げずに歩んでいけば、
  なにか救いという答があるのではなく、
   その歩みそのものが答えになるから。

鏡の前、笑ってみよう。  うん、いい顔してる。

  どんなときもどんなときも
  迷い探し続ける日々が
  答えになること僕は知ってるから

           (「どんなときも。」 槇原敬之)

2005年9月18日 (日)

中秋の名月

中秋の名月。満月が綺麗ですね。
月を眺めながら ふと思ったこと。

「満月というけれど、月自身は常に満月だよなぁ」
 月が実際に欠けたり満ちたりしているわけではありません。
 月自身は常に満月なわけです。

太陽の光の当たり方や、地球の傾きや、自分が立っている場所などなど、いろんな要素が集まって、月の見え方が変わっているわけです。
それに、人によっても見え方は様々。
満月が綺麗だなぁって感じる人もいれば、
何も感じない人もいるだろうし、
不快に感じる人だっているかも。
満月より三日月が好きって人もいるだろうし、
曇り空の中、時折顔を出す月がいいってこだわりがある人もいるでしょう。

月の実体はひとつだけれど、
見え方・感じ方は、見る人の数だけある。
   
「満月というけれど、月自身は常に満月だよなぁ」
って ふと思った瞬間は、「物事の本質が見えてないですよね」ってことを書こうと思いました。
でも、
物事の見方・捉え方は、人の数だけある。
そのどれもが正しくて、間違いなんてない。

本質が見えてないんじゃない。
見ようとしていないだけ。
感じるこころ、想像するちからが希薄になっているだけ。

何を見ても、何も感じないっていうのはつまらない。
感じるこころ、忘れずに。
想像するちから、大切に。

2005年9月17日 (土)

暑さ寒さも

そういえば今年は夏休みがなかったなぁってことに気付き、
お休みをいただいて、9月12・13日と京都に行ってきました。
「マイフォト」に写真をUPしましたので、ご覧ください。

昼間はまだ暑いですが、
日が暮れてからはだいぶ涼しくなってきましたね。
夜、涼しいといういうよりも、寒いですよね。
「暑さ寒さも彼岸まで」を実感しています。

みなさんも、体調崩されませんように。

2005年9月14日 (水)

空を見上げて、

空を見上げて、「つながり」を感じる。

9月11日、「つながり」という記事を書きました。
協調性のない自分が「つながり」だなんて、とおかしな気持ちでした。
そんな私がなぜ「つながり」を意識したのか。

9月7日、「台風一過」という記事で、不思議な色彩の空の写真を載せました。見たことのない色彩の空だなぁと思いながら撮った写真でした。

すると、「私も同じ空を見てました」というコメントやメールをいただきました。
それと、同じ空の写真を載せているブログをいくつか見つけました。

台風14号が大型だったためか、日本列島のかなりの範囲で同じような色彩の空が見られたようです。
ほぼ同じ時間帯に、いろいろな地域の人たちが、空を見上げて、その色彩に心奪われている。
この出来事が、私に「つながり」を意識させました。
空を見上げている人たちのこころに、今 誰かとつながっているという意識はないことでしょう。
でも、そこにこそ「つながり」という事実があるように感じました。
私利私欲の交わらない「つながり」が。
  
  
大地から、見たこともない土地の景色を思い浮かべる。

境内の掃き掃除していて、境内にはない植物の芽が出ているのを見つけました。どこからか飛来してきたのでしょうね。どこから飛んできたのか分かりませんが、そこには、その植物が大きく、たくさん育っているであろう景色が想像されます。
  
  
親鸞聖人は、を見て、阿弥陀如来と一味となる感覚を得る。
   
  
空・大地・海
自然は、私たちに必要な食物や空気を与えてくれています。
自然は、私たちにとって害となるものを浄化してくれています。

自然は、私たちに想像する力を与えてくれています。
自然は、私たちの心の傷を癒してくれます。

自然の破壊は、私たちの精神の破壊でもあります。
想像する力を、他を想うこころを、無きものにしてしまいます。

2005年9月11日 (日)

つながり

人と人とが仲良くなるには、
 共通の目的を持つことがきっかけとなることがある。
目的を果たすため、不都合はあっても協力する。
 目的を果たせとき、仲良く居続けられるのか。
新たな目標を立てたとして、またその人と共に歩めるだろうか。
    
人と人とが一緒になるには、
 共通の夢を見ていることがきっかけとなることがある。
夢を叶えるため、相手の良い部分しか見えてない。
 夢が叶ったとき、一緒に居続けられるのか。
新たな夢を見たとして、またその人と同じ夢を追えるだろうか。
  
人と人とが手を組むには、
 共通の敵がいることがきっかけとなることがある。
敵を倒すため、傷ついてもまた立ち上がる。
 敵を倒したとき、手を組み続けられるのか。
新たな敵を見つけたとして、またその人と協力できるだろうか。
    
人と人とが共に涙するのは、
 共通の苦しみを背負った経験がきっかけとなることがある。 
心の傷を癒すため、ひとりじゃないと言い聞かせる。  
 相手が苦しみを受容したとき、「よかったね」と微笑むことが出来るのか。   
新たな苦しみが押し寄せてきたとき、
   またその人と苦しみを共有できるだろうか。
      
    
目標・夢・敵・涙…言い換えれば私利私欲の産物。
私利私欲によって築かれたつながりは、私利私欲によって崩れる。
崩れることのないつながりは、どうやって、なにによって築かれるのだろう?
   
2001年9月11日 アメリカ 同時多発テロ事件
2005年9月11日 日本 衆議院選挙
 人と人とが、なにによってつながることができるのか
 人と人とが、どうすればつながり続けられるのか
   
 つながるということは、最終的にはひとつの輪になるはずなのに、
 いくつもの輪ができ、しかも、輪と輪がぶつかり合ってしまう。
   
 誰に投票するか、何党に投票するか考えた後は、
 つながりということについて考えてみては。

2005年9月 7日 (水)

不思議な空模様

PICT0001
日本各地に大きな傷跡を残しながら、台風14号が北上しています。
皆さん、ご無事でしたか?
東京は、それほど大きな被害もなかったようですが、かなり風が強かったです。

夕方、まだ時折強い風が吹いていました。
空を見上げると、不思議な空模様。
どうしてこんな色になるんでしょうね?思わず見とれてしまいました。

PICT0005

2005年9月 5日 (月)

愛は近きより

1997年9月5日 マザー・テレサが亡くなられました。
彼女が、貧しい人たちのために献身的に活動されていたことは多くの方が知っています。
マザー・テレサの活動に共鳴する方も多いことでしょう。

共鳴はするけれども、「でも、マザー・テレサのようなことはできません。なかなかあそこまでは。日々の生活もありますし…」という人も多いのではないでしょうか。

人に対して優しい活動をされている方に共鳴はしても活動が伴わない。そういう自分がはがゆくて、許せなくて…。
心の砂漠化を言われて久しいですが、このように はがゆい思いをしている人って、たくさんいると思います。
ただ、どうやって行動に移したらいいのか分からないだけ。
あるいは、いきなりマザー・テレサと同じ活動をしようとするから、なかなか初めの一歩が踏み出せないだけ。
あるいは、社会的に規模の大きな活動じゃないと、意味がないと思い込んでいる自分がいるだけ。

マザー・テレサのことばです。
一緒に住んでいたり、または血のつながった親族といった人たちに
ほほえみかけることは、あまり親しくない人々に対してほほえみかけるよりもむずかしい時があるものです。
「愛は近きより」ということを忘れないようにしましょう。

「見ず知らずの人に対する献身的な想い」
「多くの人に知れ渡るほどの活動」
そこにばかり目が行ってしまいますが、
「身近にいる人への、あまりに近すぎて埋もれてしまった想い」
「誰にも知られなくても、あなたの活動を応援してくれる人は必ずいる」
身近なところに、忘れていた大切な想いがあるのではないですか?
いきなり大きなことから始めようとしないで、身近な人を愛することからはじめて見ましょう。

映画「マザー・テレサ」を観にいくつもりで、まだ行ってません。
時間を作って行こうと思います。
観に行かれた方いらっしゃいますか?

2005年9月 3日 (土)

人生をもう一度やり直せるとして、

9月3日はドラえもんの誕生日だそうです。
誕生日おめでとう ドラえもん!!
でも、2112年生まれなので、まだ生まれてないんだね。


タイムマシーンがあったなら、
過去に遡って、嫌な出来事をなかったことにしますか?
人生をもう一度やり直せるとしても、同じ間違いをするでしょうね
                             (T.バンクヘッド)
まったく同じ間違いは犯さないにしても、「もう一度やり直したい」という気持ちになることは繰り返すことでしょう。


タイムマシーンがあったなら、
未来を見に行きたいですか?
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり  (『平家物語』)
生まれたということは、いつかは死ぬということ。タイムマシーンで見に行くまでもありません。


過去を振り返ることは大事だけど、いつまでも気を取られていては前へ進めません。
未来を想定して生きることは必要なのかもしれないけれど、自分に都合のいい希望か、自虐的な絶望しか見えないでしょう。

今、自分の足元をしっかり見つめていきたいものです。
ゆっくりでいいから、一歩一歩。


【追記】
9月3日がドラえもんの誕生日だと知ったのは、偶然たどりついたあるブログによってでした。
その方もタイムマシーンがあったらということを書いてました。

タイムマシーンがあったら、
両親が結婚する前に行き、母につらい思いをさせた父との結婚を阻止する。そのことによって私の存在が消滅してもかまわない、と。

優しい方ですね。なにがあったのかは分かりませんが、お父さんによって
お母さんがよほど苦しめられたのでしょうね。もしかしたら今もなのかな。

でも、両親の結婚を阻止できたとして、
お母さんを、父が原因のつらさからは解放させてあげられるかもしれませんが、あなたとの出会いという、この世での無上の喜びまでも奪ってしまうことになります。

なにも知らないものが、余計なことを言って申し訳ありません。
でも、お母さんは、お父さんとの結婚をどのように思っているのかは分かりませんが、あなたとの出会いは心の底から喜んでいると思いますよ。


人生、自分の身に起こる出来事を真摯に受け止めていくしかないんです。
人生をもう一度やり直せるとしても、同じ間違いをするでしょうね
皮肉っぽいことばに聞こえるかもしれませんが、その通りなのですよね。
仮に、もし過去の嫌な出来事をなかったことに出来たとして、別の道を歩めたとしても、やはり後悔をする時ってあると思います。そのたびにリセットしていては、全然前へ進めません。

ありのままの出来事を受け止めて、そこを土台にして生きていかなければいけないのだと思います。

2005年9月 1日 (木)

2005年9月のことば

   PICT0001
   地獄への道は、善意で敷き詰められている

親鸞聖人は「悪人成仏」「悪人正機」を説かれました。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。  (『歎異抄』第3章)
「善人でさえも往生できるというのなら、悪人が往生できるのは言うまでもありません」

「悪人でさえも往生できるというのなら、善人が往生できるのは言うまでもありません」の間違いじゃないかって?同じ思いは親鸞聖人の頃の人々にもありました。
親鸞聖人は私たちに教えられます。自分を善人だと思っている人は、自分の力を頼りとしてしまいます。阿弥陀如来にすがる想いはありません。しかし、「自分は悪人だ」と自覚する人は、阿弥陀如来を頼りとし「南無阿弥陀仏」と念仏を称えます。念仏称える衆生を救おうと願いを、阿弥陀如来は立てられました。

『歎異抄』第3章 全文

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。

「他力」とは、「阿弥陀如来」の救いのはたらきです。他人の力ではありません。
「悪人」とは、「煩悩具足のわれら」のことです。煩(わずら)い・迷い・悩みの中を生きている私たちのこと。悪事をはたらいた人ではありません。
人間は、煩い・迷い・悩みの中を生きる存在なのです。そこに目を向けてくださいというのが、親鸞聖人の教えです。

「善」とか「悪」というと、固定化した観念が付きまといます。固定化したものの見方・考え方・決め付けは、そこから先、なにも見えなくしてしまいます。で、自分は「悪」ではないというところから思考が始まります。ことばを他人事としてしか捉えることができないならば、メッセージからはなにも伝わりません。ことばの中に自分の身を置いて、考えてみましょう。

善人意識は、淋しいものです。
自分だけで出来る。誰も頼りとしない人は、誰からも頼りとされることもなくなるでしょう。
人のことを想い、願う。優しい気持ちの裏に、残酷な現実が。私の願いが叶うとき、その願いの犠牲になっている人がいることでしょう。
人のためにこれだけのことをやっている。 良かれと思ってしたことが、最悪な事態を引き起こすこともある。
善意は、時には人を傷つける。そのことに気付かない私。善意だけに、自分に疑いがない。善意が伝われば伝わるほど、回りの人間はなにも言えない。でも本人は満足。まさに、地獄への道は、善意で敷き詰められています。

「悪」の自覚・・・他を見る目が養われること。善人意識ですることと、やっていることは同じでも、傷つけ傷つけられるという関係が見えている。煩い・迷い・悩みの中を生きながらも、淋しさはありません。


【付記】
地獄への道は、善意で敷き詰められている
出典は、マルクスの『資本論』が有力ですが、
レーニン(ロシアの革命家)やサミュエル・ジョンソン(イギリスの詩人)のことばとも言われています。思想的背景があることばですね。
一目見て、ハッとしました。どのように受け止められましたか?

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