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2005年8月20日 (土)

2.唯だ念仏して

「南無阿弥陀仏」と念仏する衆生を、阿弥陀如来が救ってくださる。
このことは、人生の体験、もっと言うならば、人生の苦しみを通してしか了解されません。知識・知恵として阿弥陀如来を学んでも、分かりません。
人生の業苦を経験するにしたがって、如来の教法の真実なることが了解されます。

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と唯だ(ただ)念仏することのみを教えられました。真宗における行は唯だ念仏のみです。
…それだけでいいのだろうか、もっとすべきことがあるのではないだろうか。
…親鸞聖人ほど他の行を極め、智慧勝れた人ならば念仏だけで救われる
 であろうが、そうでない者が念仏だけで良いわけはない。
いろいろ考えてしまいます。

「南無阿弥陀仏」と念仏する行を易行(いぎょう)と言います。
「南無阿弥陀仏」と口で言うのは易しいことだから易行、易しい行というのだと勘違いされていますが、そうではありません。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」…誰でも、どんな状況でも称えることができるから、易行というのです。

念仏だけじゃ物足りないとか、単に易しい行と思ってしまうのは、自分の苦悩から目を逸らしているから。
もし、親鸞聖人と私の念仏に違いがあるとするならば、それは、苦悩の人生の自覚の有無のほかありません。

海のように広く深く際限のない苦悩の人生を生きるからこそ感じられる、
阿弥陀如来の慈悲のこころ。
私は、苦悩の人生を生きながら、気休めの融通をつけて過ごしています。

そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』第2章)
(たくさんの苦悩をもつ衆生を助けずにおれないという如来の慈悲のこころのかたじけなさよ)
という親鸞聖人の述懐は、われら苦悩多き衆生に振り向けられている阿弥陀如来の慈悲のこころを感知してのことです。

しかも驚くべきことに、親鸞聖人は念仏して地獄に堕ちても後悔はないと言います。念仏してどうなるかはわからない。わからないけれど、弥陀の慈悲のなかを、唯だ念仏して生きていくのです、と。

念仏が正しいだの真実だのを気にするのは、学者(知識として念仏や阿弥陀を理解しようとするもの)の自慢にほかありません。人生の悩みを受け止め、念仏に出会った者にとって、念仏が正しいだの真実だのを言う必要はないのです。自分の苦悩の奥底から出てきたものが念仏なのですから。

今日の話は、言いふるされたもので、知識としては古いものかもしれませんが、人生の体験を通して出てきたものならば、いつまでも瑞々しい話であり、人生が展開されていくものです。

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