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2005年8月

2005年8月31日 (水)

今、いのちがあなたを生きている

今、いのちがあなたを生きている
このことばは、2011年に勤められます親鸞聖人750回忌にむけてのテーマです。

一見すると、意味が通りづらいかもしれませんね。
“いのち”を自分のものとして所有化してしまうと、分からないと思います。

自分の“いのち”だから、どうしたっていいだろうと、自殺に踏み切る。
あんな奴の“いのち”だから価値はないといって、他を殺める。
人間は動物の中でもっとも賢いなんていって、生きとし生けるものの中で“いのち”の順位をつける。

誰のものもであろうと変わらぬ“いのち”を、軽重の比較をし、順位付けをし、価値の有無で見て、自分の“いのち”は自分の好きにしていいだろうと考える。
そういう闇の部分に目を向けずに「いのちを大切に」なんて叫んでも、伝わらないし、響かない。

この私の中に生きている“いのち”は、私のものかもしれない。
でも、私の中には、自分から遡って先祖代々の血が流れている。
血だけではない、あなたが今身につけている生きる知識や智慧は、今まで出会った人々から脈々と教え受け継がれてきたもの。

「一期一会」
人に会う。生涯を通じて会わずに終わってしまう人々の方が遥かに多いのに、その中で出会う人がいる。
その人がいなければ、今の自分はないという出会いもあったことでしょう。

「独生 独死 独去 独来」
誰も代わることのできない“いのち”を頂戴して生きている。
自分の中にある“いのち”はひとつかもしれないが、誰もが同質の、誰も代わることのできない“いのち”を生きている。

「バラバラでいっしょ」
個々それぞれバラバラの人生を歩んでいても、こころのどこかで通じ合えるものを抱えて生きている。
その想いが、“いっしょ”という連帯感を生み出す。
同じ目的を持ち、同じ方向を見、同じ未来を目指すことだけが、いっしょとか連帯とか共生ではない。
たとえ目的・方向・未来はバラバラでも、こころの中はいっしょといえる生き方がある。
今は「いっしょをめざしてバラバラ」。本当は「バラバラだからこそいっしょ」。

「今、いのちがあなたを生きている」
私の中の“いのち”は、私のものでもあり、みんなのものでもある。
自分ひとりの所有物ではない。

 生きとし生けるものすべてが持つ同質の“いのち”が、
  過去から連綿と伝わってきた“いのち”が、
   今あなたの中を生きている。

2005年8月30日 (火)

バラバラでいっしょ

バラバラでいっしょ
親鸞聖人から数えて本願寺8代目蓮如上人の500回忌法要が1988年に勤められました。「バラバラでいっしょ」は、ご遠忌に向けてのテーマです。

既に終わった法要のテーマを引き出してきたのは、「一期一会」「独生 独死 独去 独来」の記事を書いていたら、このテーマの壮大さをあらためて感じたから。

みんな仲良くいっしょがいいに違いないのだけれど、それだと“個”がぼやけてしまう。
個を大切にすると、勘違いされた自由の下、“みんな”という感覚がなくなってしまう(う〜ん、不器用)。

個性って、「独り生まれ 独り死ぬ」ということ。
誰もが持っている共通の出来事であり、一人ひとりの身に起こる出来事。
そのような独りの感覚で他者を見たとき、みんないっしょという感情が芽生えてくる。
みんないっしょという感覚があって、独りという感覚が際立つ。

「独生 独死 独去 独来」
独りのことでありながら、みんなのこと。
みんなのことでありながら、独りのこと。
「バラバラでいっしょ」
バラバラだけど、いっしょ。いっしょだけど、バラバラ。

   矛盾しているようで、矛盾していない。私たちの姿。

「バラバラ」って、離散ってことじゃなくて、それぞれが「独生 独死 独去
独来」の生を生きているってこと。
でも、孤独ではない。「独生 独死 独去 独来」の生を生きながら、そういう人と人が出会っていく。まさに「一期一会」。
だからこそ「バラバラでいっしょ」。


法要は終わったけれど、ことばは生き続けている。
ことばを噛み締めながら、私も生きる。

2005年8月28日 (日)

独生 独死 独去 独来

独生 独死 独去 独来 (どくしょう どくし どっこ どくらい)」
                (『大無量寿経』)
「人間は、生まれてくるのも独り(ひとり)、死ぬのも独り」


みんな仲良く・共生(共に生きる)・人は一人では生きてはいけない・いのちはつながっている・いのちを大切に、等々
そんなメッセージをよく耳にします。たしかにそうなんだけど、それだけじゃ何かが足りないような気がしていました。

誰とでも仲良くなんかできない。俺は自分の力で生きてきた。こんないのちなんて…。
そういう想いを抱く人もいることでしょう。

他者を軽く見て、自分勝手な“自由”を主張して 個を誇る。そんな世の中だから、先のようなメッセージが咲き乱れる。けれどもすぐに色褪せ、枯れてしまう。
ことばが色褪せ、枯れてしまうのは、こころが色褪せ、枯れているから。

みんなで生きている、ひとりで生きていないのは事実だけど、「みんなで」ということに目が向きすぎている。
「ひとり」が語られるのは、私個人を正当化する場合のみ。個の尊重をいいことに、わがまま放題。

「独生 独死 独去 独来」ということばで言い表されている「独り」って、個々のことでもあり、みんなのことでもある。
独りのことでありながら、みんなのこと。矛盾しているようで、矛盾していない。

天上天下唯我独尊」ということばもあります。
「天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し」とお釈迦さまは言いました。
傲慢に聞こえますか? 
お釈迦さまが、私のみ尊いと言ったのではありません。
「生きとし生けるものみんなが、誰とも代わることのできない、ただひとつの尊いいのちを生きている」ということです。
この ことばも、独りのことでありながら、みんなのことです。

このような「独り」の意識こそが、共に生きるということを意識させ、他を求めるこころを生じさせるのだと思います。

2005年8月27日 (土)

一期一会

一期一会(いちごいちえ)。
茶道で、おもてなしの心得とされています。
「生涯にただ一度まみえること。一生に一度限りであること」(『広辞苑』)
そのような気持ちで、人に接しなさいということですね。

「一生に一度の出会いのつもりで」
この出会いの次はない。それほどの気持ちで人に接する。
最後の出会いと思うと、人との出会いも重みを増します。

人に会って 別れるとき、ほとんどの場合、次があることが無意識の前提になってますから、「これが最後の出会い」のつもりで人に接するということはあまりないと思います。
私も、それで何人の人との出会いを軽んじてしまったことか…。
中には亡くなられた方もいるわけで、当然その人たちと再び出会うことはありません。
それに、私が死んでしまうことだってあるわけです。
ホント、一期一会だなぁって思うわけです。
でも、いつからか「最後の出会いかも」と考えずに、「会うたびに初めての出会い」と思うようになりました。
たとえ毎日顔を合わせるような人との出会いでも、会うたびに初めての出会いなんだって。会うたびに「はじめまして」の気持ちで人に接する。けっこう新鮮ですよ。

どのような意識で人に会っても、その出会いが最後になるのだとしたら、
それは避けられない事実。
どんなに想いを込めて人に接しても、会えなくなってつらい思いが軽減するわけではない。
じゃぁ、最初から出会わなければよかった? いや、出会いは偶然じゃない。必然なんです。出会うべくして出会っている。そういう事実に目を向けることが、出会いを大切にするってことじゃないかな。

付記
昨日のイチゴで「一期一会」の記事を思いついたわけでは…。

2005年8月26日 (金)

台風一過

東京は台風が過ぎました。ニュースで言ってたほど たいしたこともなかった気がしますが、皆さん大丈夫でしたか?

落ち葉が散らかってたので、朝から境内の掃除です(いつものことですが)。
毎日掃除していても、散らかるのは一瞬ですね。
信用・努力をコツコツ積み重ねても、なくすのは一瞬だよなぁ、なんて考えながら掃除してました。

鉢植えをふと見たら、イチゴが成ってました。この夏の暑い時期に、イチゴが成るんですね。うれしくなりました。

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2005年8月24日 (水)

5.無用なるもの

忙しく生きる、いや、生きることに忙しくしている現代の私たちにとって、「無用の用」を忘れています。
有用なもの、必要なもの、使えるもののみを必要とし、無用なものに見向きもしません。
無用なものといっても、必要がないという意味ではありません。忙しく生活する中で、気にも留めなくなっているものがあります。だからといって、必要がないと言い切れるかというと、そうでもありません。「無用の用」ということがあります。
そういう意味では、宗教も無用なものかもしれません。
仏教を信仰したからといって、生活が楽になるわけではないでしょう。人間の当面の生活からいえば、宗教は無用なのかもしれません。「私は無宗教ですから」と平気な顔をして言う人に対して、反論の言葉はありません。
しかし、宗教を無用なものとして捨ててしまったとき、人間生活そのものはどうなるでしょうか。無用なものが用をなせばこそ、人間生活も人間生活らしくなってきます。
生活に無用だからといって、人間に無用だとは言い切れません。考えても見れば、私たちは生活に無用なものを多く持っているのです。
「死」について悩むということ。いかなる動物にもなく、ただ人間にのみあることだそうです。
すなわち、人間は「死」について悩むという、無用なものを持っているのです。生きるだけが目的ならば、「死」についての悩みなど捨てて、生きることに専心すればよいのです。しかし、それが出来ないということは、無用と思われることの中に、なにか用をなすものがあるのです。
「死」についての悩みがあればこそ、生の意味を考えることとなります。それこそが、人間が人間として生きることとなります。
当面の生活のためには、宗教感情など邪魔になるのかもしれません。しかし、その感情自体は人から離れることはありません。無用の用をなさんとしているのです。

人間自身も、有用・無用(使える・使えない、必要・不必要)と振り分けた目で見られてしまいます(いや、「見ています」かな)。
有用であるとされれば、頑張る力となる場合もあるかもしてませんが、「私がいなければ」という、うぬぼれへと変わっていきます。
無用であるとされても、用はあるのです。期待もなにもない分、ますます力を発揮する場が与えられているともいえます。無用とされる位置に身を置いて、無用であるとする人々のために、無用の用を成すべきではないでしょうか。無用の自覚において、用をまっとうする。こうは言ってみても、自分を無用のものであるとする自覚は、淋しいものがあります。しかし、その淋しさの自覚において、既に自分を見つめ、守ってくださっていたはたらきがあることが感じられます。それを阿弥陀如来と表現します。
無用の自覚に立つ。これが真宗の教えなのかもしれません。

2005年8月23日 (火)

4.不思議の因縁

  自分は父母から生まれたのではない。
  実に父母に縁(よ)って生まれ出たのである

もし、親から子が生まれたものであるならば、子の生涯は親の生涯の連続にすぎない。生まれた子にしても、親の第二の存在としての意味よりほかないものとなってしまいます。
親から子が生まれというだけでは、親子の一体感はあっても、親子の因縁ということにまで想いが及びません。
互いに親と呼び、子と呼び、親子となった深い因縁があります。
子は、その親を親として生まれる因縁があったのです。親は、その子を子としてもつ因縁があったのです。
親子の因縁を考えると、それは、全く私たちの思いを超えたもの、不思議なものであります。

不思議の因縁ということは、偶然と必然の交わったものです。
出会う前ならば、無数の出会いの可能性がある中から出会えたわけですから、偶然です。
出会ってしまうと、なるべくしてなったわけですから、必然と思わずにはいられません。
“現在”は、偶然と必然が一致したものです。
現実を生きるとは、偶然と必然の一致という、思議を超えた因縁の感覚を持つことではないでしょうか。

親子の出会いで、不思議の因縁を語りましたが、
いついかなる事象に出会っても、それらを「不思議の因縁」であると受け容れることが、私の一生を広大なものにします。
その場その場での、偶然の出会いではないのです。
遠い昔、深い意識のところで、既に出会っていたのです。その「不思議の因縁」があったからこそ、今出会えたのです。
「不思議の因縁」を想うとき、すべてのものは私に与えられたものであることが感じられます。

日々の生活の中、「不思議の因縁」を感じる余裕なく、生きているのかもしれません。
しかし、自然に感じられる感覚だと思います。また、感じなくてはいけない感覚でもあります。
そのような感覚が、忙しく生きる、いや、生きることに忙しくしている現代の私たちの生の助けとなるのです。

2005年8月22日 (月)

3.ある航海者

「人生」と名づけられた大海を航海する者がいます。
さまざまな苦難が待ち受ける大海原ではあるけれど、そこを渡った者のみが手に入れられる宝を目指して、航海を続けます。

ある日、不安の雲が天を覆い、あたりは真っ暗になりました。
そして、今まで見たこともない恐ろしい姿をした魔物が海中より現われました。
「俺はこの海で最も恐ろしい魔物である。貴様を食ってやる。それとも、俺以上に恐ろしいものを見たことがあるか?あるなら言ってみろ」
航海者は言います。
「見たことがあるぞ。人間の心の奥底に潜む、欲に狂い、怒りに燃える化け物を。それに比べれば、お前などまだまだ優しいものだ!」
それを聞いた恐ろしい魔物は消えてしまいました。

またある日、風が強く吹き、波が大きく、船が揺れ出しました。
そして、今まで見たこともない醜い姿をした魔物が海中より現われました。
「俺はこの海で最も醜い魔物である。貴様を食ってやる。それとも、俺以上に醜いものを見たことがあるか? あるなら言ってみろ」
航海者は言います。
「見たことがあるぞ。人間の奥底に潜む、羨み・恨み・嫉み・不平・高慢の化け物を。これらの醜さに比べたたら、お前などまだまだ美しいものだ!」
それを聞いた醜い魔物は消えてしまいました。

魔物も消え去り、平穏な航海が続いたある日、美しい姿をした魔物が姿を現しました。
「私はこの海に住む最も美しい魔物です。私にはあなたに対して何の害心もありません。どうか私の住む島へおいでください。あなたの求める宝を差し上げましょう。もう航海を続ける必要はないのです」
航海者は言います。
「ありがとうございます。私はあなたの美しさに疑いを抱いています。そして、あなたの美しさは見かけだけであることに気付きました。あなたの美しさは、飾っただけの美しさであって、生活の美しさではありません。本当の美しさは、生活の中にこそあるのです。生きている中にこそあるのです。航海をやめてしまったら、真の美しさを手に入れることはできません。ですから、私はあなたの島に行くことはできません」
この応えに満足した魔物は消えてしまいました。

航海者は「人生」という名の大海を航海し続けました。穏やかな日も、波の高い日も、嵐の日も。
航海を続ける中で、航海者は真の宝を見つけ、帰路についたということです。

魔物以上に恐いもの、醜いものの姿を思い浮かべてみてください。
そして、真の宝とはなんなのでしょうか。

航海者とは、実は私自身です。今現に「人生」という大海を航海しているのです。
どんな海が見えますか?

2005年8月20日 (土)

2.唯だ念仏して

「南無阿弥陀仏」と念仏する衆生を、阿弥陀如来が救ってくださる。
このことは、人生の体験、もっと言うならば、人生の苦しみを通してしか了解されません。知識・知恵として阿弥陀如来を学んでも、分かりません。
人生の業苦を経験するにしたがって、如来の教法の真実なることが了解されます。

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と唯だ(ただ)念仏することのみを教えられました。真宗における行は唯だ念仏のみです。
…それだけでいいのだろうか、もっとすべきことがあるのではないだろうか。
…親鸞聖人ほど他の行を極め、智慧勝れた人ならば念仏だけで救われる
 であろうが、そうでない者が念仏だけで良いわけはない。
いろいろ考えてしまいます。

「南無阿弥陀仏」と念仏する行を易行(いぎょう)と言います。
「南無阿弥陀仏」と口で言うのは易しいことだから易行、易しい行というのだと勘違いされていますが、そうではありません。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」…誰でも、どんな状況でも称えることができるから、易行というのです。

念仏だけじゃ物足りないとか、単に易しい行と思ってしまうのは、自分の苦悩から目を逸らしているから。
もし、親鸞聖人と私の念仏に違いがあるとするならば、それは、苦悩の人生の自覚の有無のほかありません。

海のように広く深く際限のない苦悩の人生を生きるからこそ感じられる、
阿弥陀如来の慈悲のこころ。
私は、苦悩の人生を生きながら、気休めの融通をつけて過ごしています。

そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』第2章)
(たくさんの苦悩をもつ衆生を助けずにおれないという如来の慈悲のこころのかたじけなさよ)
という親鸞聖人の述懐は、われら苦悩多き衆生に振り向けられている阿弥陀如来の慈悲のこころを感知してのことです。

しかも驚くべきことに、親鸞聖人は念仏して地獄に堕ちても後悔はないと言います。念仏してどうなるかはわからない。わからないけれど、弥陀の慈悲のなかを、唯だ念仏して生きていくのです、と。

念仏が正しいだの真実だのを気にするのは、学者(知識として念仏や阿弥陀を理解しようとするもの)の自慢にほかありません。人生の悩みを受け止め、念仏に出会った者にとって、念仏が正しいだの真実だのを言う必要はないのです。自分の苦悩の奥底から出てきたものが念仏なのですから。

今日の話は、言いふるされたもので、知識としては古いものかもしれませんが、人生の体験を通して出てきたものならば、いつまでも瑞々しい話であり、人生が展開されていくものです。

2005年8月18日 (木)

1.人生のゆくえ

人生は諸行無常です。
だからこそ子も生まれ、孫も生まれ、花も咲き実も結ぶ。
諸行無常といっても、冬枯れの悲しさのみでなく、春の日の喜びなのです。

諸行無常
知識として知ってはいても、諸行無常の生をどう生きるかが明らかにならないと、本当に諸行無常の生を生きるということを知ったことになりません。
諸行無常の道理を知るには、生涯の体験をもって知るしかありません。
自身の生涯をかけての体験が、「諸行無常」という教えをからだに沁み込ませます。

浄土
死んでから生まれる、安心の世界ではありません。
私たちは、心の奥底で、浄土に生まれたいという願いを抱えて生きています。
浄土に生まれたいと願うこころが、日々の生活で生じる怨み・妬み・羨みなどのこころを消滅させてくれます。
消滅させてくれるはたらきを阿弥陀如来といいます。
そのようなはたらきの中を生きているからこそ、悩みは悩みのままに、柔順に悩みを受けて生きていくことが出来るのです。
浄土とは、死んで後に行くところではなく、浄土を願うこころにおいて、
今生きる世界として開かれていくのです。
言い換えれば、今、私が生きている場所こそ浄土なのです。

そんな浄土、嘘だ、あるはずないというのは、知識として、理想郷として浄土をとらえているからです。
私たちが否定している浄土は、私たちのこころの奥底で願っている浄土とは、まったく違うものなのです。

阿弥陀如来の呼び声を聞きつつ、良き出来事も悪い出来事背負って、
諸行無常の世を生き抜くことが、人生のゆくえなのではないでしょうか。

   色は匂えど散りぬるを
    我が世誰ぞ常ならむ
     有為の奥山今日越えて
      浅き夢見じ酔ひもせず

2005年8月17日 (水)

先輩からのメッセージ

こんにちは、みなさん充実したお盆休み(夏休み)を過ごされましたか?

私は、大学時代の先輩が働いている新潟のお寺に、お盆のお手伝いに行って来ました。東京は7月盆なので、8月のお盆中は融通がきくので、助っ人に行ってきました。
お盆の習慣は、宗派というより、地域によって特色があります。
手伝いにいった地域では、お盆の入りの日(13日)にほとんどの方がお墓参りに来ます。
そして、墓前でお経を読むのですが、13日は110件ほど、墓前で読経をしました。よく喉がつぶれなかったなと思います。ちなみに、14日は10件でした。お盆の入りの日にお参りをする習慣が強いのですね。

さて、先輩に頼まれて新潟に行ったわけですが、
帰る時に部屋に戻ると、カバンの上に先輩からの手紙が…
「ありがとう。
これは、君がこれから必要であろうと思われる本代に充ててください」

手紙と一緒に、本代が入ってました(金額はヒミツ)。

受け取れない旨伝えたのですが、遠慮するよりも、本を読め、本に出会えと言われました。

そういえば学生時代、
「先輩、(真宗の勉強で)お薦めの本はありますか?」
「俺が薦めてしまうよりも、先ず本を読め」
と言われました。
他の先輩が、自分の傾倒する先生の本を薦める中で、先輩だけは「とにかく本を読め」ということを言われました。
ある程度勉強していたら、なにか薦めていたと思いますが、入学したての私に、自分で何かを感じ、何かを選び取れということを伝えたかったのだと思います。
で、今回本代をいただいてしまいました。
 
 (私)「先輩、受け取れないですよ」
 (先)「お前への先行投資だよ」
 (私)「株で損するようなもんですよ」
 (先)「自分で言うな!!」

というわけで、遠慮もなくいただいて来ました。なんの本を買おうかな。
いや、出会えるかな♪

 (先)「週刊誌(漫画)とか買うなよ」
 (私)「中学生のときに卒業しましたよ」
 (先)「すまん、いまだにマガジン買ってる…」
 (私)「…」

思い返してみると、こんなに先輩と話したことはなかったなぁ。
充実した8月のお盆でした。
先輩、ありがとうございます。お元気で。

追記
帰り際に「これを持ってけ」といって、一冊の本を渡されました。
  『人生のゆくえ』(金子大榮随想集)
ただ読んでると、読み流してしまうので、少しずつ読後感を書いていきたいと思います。

2005年8月12日 (金)

出会いを積み重ねるしか、生きるヒントは見つからない

自殺サイトで見つけた自殺志願者を誘い出し、さんざん苦しめた後で殺してしまうという、事件が起こりました。
犯人は、人が苦しむ姿に興奮を覚えたという。

自殺者は年間3万人を超え、未遂者・志願者も含めると、果たして何万人になることか。

自殺をしたいという人間に対し、私はそれを止める言葉を持たない。

「死にたい」気持ちを否定はしない。しかし、自殺を責める想いも否定はしない。

集団自殺が増えている。
7月30日放送の、NHK ETV特集「ネット自殺を追う」を見て、驚いたこと。
「ふたりで死ねば、苦しみも半分になるから」
集団自殺を呼びかけていた人の言葉です。
「ふたりで死ねば、苦しみも半分になるから」
大勢で死ねば、苦しみが人数割りされるというのか…。
苦しみを減らすために集団自殺を呼びかけているというのか。
苦しみが人数割りされるどころか、集団自殺の人数が増えれば、その何倍もの人が、苦しみ悲しむ人ということに気付かないのだろうか。

自殺を止める言葉を私は持たない。
しかし、「あなたが死ぬと、悲しむ人がいるから」…これでは不充分ですか。

その人のために生きろと? 
 べつにその人のためというわけではない。
 悲しむ人がいるということを知ってほしい。

私にはそんな人はいない
 いないと思っているだけ、いないことにしてしまっているだけ。
 誰も心配してくれる人はいない? そんなことはない。
 たとえ友達はいなくても、たとえ天涯孤独だったとしても、
 あなたの死を悲しむはたらきがある。それを阿弥陀如来という。

 「私は無宗教ですから」「宗教は気持ち悪い・怖い」と言うが、
 それは、宗教が願い事をかなえてくれるものという発想があるから。
 よりよい生活に導いてくれるという誤解があるから。
 それだと、
 願いをかなえる、良い方向に導くという誘いに狂信的に信じるか、
 そんなわけはないと敬遠するか、どっちかになってしまう。
 宗教は、私の暮らしを変えるものでも、良い方向に導くものでもない。
 そういう意味では、私が信じようが信じまいが、何も変わらないだろう。
 しかし、
 私のことを悲しんでくれる存在があるという気持ちを持ちながら生きるか、 
 何も支えがないと愚痴りながら生きるか。
 同じ人生を歩んでいても、その差は大きい。
  
 一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に悲しんでくれる。
 見守りのはたらきに包まれて生きている私。
 そういうはたらきがあることを忘れずに。

まだ信じられません
 阿弥陀如来を信じろとは言ってない。
 あなたが信じなくても、あなたは守られているのだから。
 あなたの回りにいる人を、もう一度、観察してみてください。
 あなたのことを、これっぽっちも悲しまない人はいますか。
 そんな人はいないと思う。
 これっぽっちの可能性に、安心を求めてもいいんじゃないかな。
 
 ネット自殺で友人を亡くしたフリーライターの渋井哲也さんは言います。 
  出会いを積み重ねるしか、生きるヒントは見つからない。
 友人を亡くした後、ネット自殺を試みる(試みた)人々の話を聞いて、
 出てきた言葉です。                     (ETV特集より)


 自殺の理由として、「生きがいが見つからない」と言うけれど、
 出会いを積み重ねることを生きがいにしてみたらどうですか。
 出会いを繰り返せば、
 素晴らしい出会いもあれば、当然嫌な出会いもあります。
 しかし、
 人間関係によるストレスは、人間関係によってしか解消されません。
 自殺によっては何も解消・解決はしません。

 
追記
 最初に触れた事件のニュースを聞いて、
 「自殺したかったんだから、殺されたって、死ねたんだからいいじゃん」
 と言ったあなた。それは本心ですか。
 よく自分に問い詰めてください。

2005年8月10日 (水)

長崎 平和公園

       c
                 平和祈念像

       e 
                 平和の泉

         のどが乾いてたまりませんでした
        水にはあぶらのようなものが
                 一面に浮いていました
        どうしても水が欲しくて
        とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
              ―ある日のある少女の手記から

2005年8月 9日 (火)

やすらかに眠らずにいてください

  おねがいです、おとうさん、おかあさん
  どうか、やすらかに眠らずにいてください。
  いつまでも、花と、花を愛する人間のために
  鐘を鳴らしつづけてください。
  生きのこったものへの、鞭となって、
  むしろ鞭のような花となって
  生きつづけてください。

1945年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が落とされました。
戦後60年 反戦・非戦を訴える声が響き渡ります。
反面、60年という時の経過は、忘れてはならない出来事をも風化させてしまいます。

原爆で4人のお子さんを亡くされ、戦後、亡き子供たちを想い、日本人形を集め続けられたご夫婦がいました。
今日のことばは、そのご夫婦のお墓の側面に刻まれていることばです。

親しい人が亡くなると、「安らかにお眠りください」と言います。こころの底からの思いやりのことばかもしれません。しかし、亡き人から何も受け継がないならば、「安らかにお眠りください」ということばは、亡き人をおとしめることばになってしまいます。

戦争の悲惨さは、経験した者にしか分からない。
だからといって、また戦争を経験しなければ、哀しみや傷みが分からないのか。
亡き人の声に耳を傾けてこなかった結果です。
「やすらかに眠らずにいてください」
哀しみや傷みまで忘れてしまう私たちのために、いつまでも生き続けてください。

  今、哀しいことより
  この哀しみがうすれることのほうが、
  ずっとかなしい。

             (ナカムラ ミツル)

2005年8月 6日 (土)

一本の鉛筆

  一本の鉛筆
    (歌・美空ひばり 作詞・松山善三 作曲・佐藤勝)

   あなたに 聞いてもらいたい
   あなたに 読んでもらいたい
   あなたに 歌ってもらいたい
   あなたに 信じてもらいたい

   一本の鉛筆が あれば
   私はあなたへの 愛を書く
   一本の鉛筆があれば
   戦争はいやだと 私は書く

   あなたに 愛をおくりたい
   あなたに 夢を送りたい
   あなたに 春を送りたい
   あなたに 世界をおくりたい

   一枚のザラ紙が あれば
   私は子供が 欲しいと書く
   一枚のザラ紙が あれば
   あなたをかえしてと 私は書く

   一本の鉛筆が あれば
   八月六日の 朝と書く
   一本の鉛筆が あれば
   人間の命と 私は書く

「一本の鉛筆」は第1回広島平和音楽祭(1974年)で美空ひばりさんに歌われました(音楽祭で歌われるために作られたそうです)。
大きな組織・国が起こしたこと(戦争など)に対して、人ひとりの力ではなにも出来ないのかもしれない。
でも、一本の鉛筆があれば「戦争はいやだ」「人間の命」と書くことはできる。

はるか昔のこと、遠い国のこととして戦争を見るか、
今現に、身の回りでも起こりうることとして受け止めるか。

核爆弾を止めることが出来るのは、一本の鉛筆なのかもしれない。

2005年8月 4日 (木)

「〜に」の宗教

昨日の西蓮寺聞法会で、
真宗の聞法会は、「親鸞に学ぶ」「歎異抄に聞く」など、「〜に」というネーミングが多いというお話をしました。

「親鸞に学ぶ」「歎異抄に聞く」…なんとなくシックリこないのではないでしょうか。
「親鸞を学ぶ」「歎異抄を聞く」…「〜を」の方が、シックリくるのではないでしょうか。

「〜を」という場合、自分の選びが入ってしまいます。
「これを学んで(聞いて)、いいところは身につけるんだ」ってね。
自分が主体になってしまいます。
すると、法話を聞くのに、取捨選択してしまいます。自分に都合のいいところはありがたくいただいて、納得いかないところ、分からないところは、無視する。

でも、「〜に」学ぶという場合、主体は教えになります。
親鸞聖人の生き方や、歎異抄やその他のお聖教を依り所にして、自分の姿をそこに見るわけです。
教えを鏡として、自分の姿が照らし出されるわけです。

「〜を」だと、教えを自分に合わせてしまう。自分に都合のいいように。
「〜に」は、教えに自分が合わされる(会わされる)んです。都合のいいことも悪いことも。

うまく伝わってるかなぁって、しどろもどろになりながらしゃべっていたら、帰り際に門徒さんのひとりから、

真宗は「に」の宗教ですね。
  というおことばをいただきました。

「真宗のカレンダーに書いてある法語を読んでいて、真宗は「に」の宗教だなって感じていました。
だから、お話会に行くのが楽なんです」

伝わってよかった、というか、私がしゃべる前に感じている人がいたんですね。
話している私が、教えていただきました。

日常でも、
「相手の話を聞く」ではなく、
「相手の話に聞く」ということを意識してみてはいかがでしょうか。

「相手の話を聞く」姿勢からは、相手を認めようという意識が初めからありません。
そこからは会話は成り立ちません。

「相手の話に聞く」姿勢だと、自分と考え方が違う所が、スッと入ってくるのでは。
そこから会話が始まります。
その後は私しだいですが…。

2005年8月 1日 (月)

2005年8月のことば

   PICT0048
    なみだは
    にんげんのつくることのできる
    一ばん小さな
    海です

                 寺山 修司

親鸞聖人は、流罪の地越後で、厳冬の荒波を見ています。このとき見た海に親鸞聖人は、大きな力を感じたのではないでしょうか。自分を生かそうとはたらきかけている力を。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を、よく海で譬えられます。
 大宝海・一乗海・本願海・誓願海…
川の水(衆生)が、どんなに汚れて濁っていても、海に入れば、汚れも浄化され、たちまち海と一味となる。衆生を、すべて救い入れてくださるという比喩です。

親鸞聖人は、衆生を、海で譬えることもあります。
 群生海・煩悩海…
衆生のもつ煩悩は、広さも深さも大きさも際限がないという譬えです。

阿弥陀如来も、衆生も、双方とも海で譬えるって、驚くべきことだと思います。
阿弥陀如来が衆生を救うはたらきを海で譬えるのならば、衆生は、海に生きる魚や、海に浮かぶ木片にでも譬えられそうですが、衆生をも海で譬える。
双方を海で譬えるということは、双方が混じりあうことができるということの、阿弥陀如来の救いの中にあるということの表われ。
親鸞聖人が救いの事実を感得されたのは、静かな海ではなく、日本海の荒波を見てのこと。救う側の苦悩も、救われる側の苦悩も、この荒波の中に見られた。

海には、包容力がる。
 つらいことがあったとき
 未来に希望を託すとき
海は、いつも私を包んでくれる。私を包み込んでくれる優しさは、どこから来るのか。

私の中にあるさまざまな感情・想い・経験は、私にしか分からない。分からないけれど、海は、そのすべてを引き受けてくれる。まるで、すべてを知っているかのように。
海の前では、私がちっぽけに思える。すべてお見通しで、すべてを認めてくれて、すべてを引き受けてくれる。

涙には、流した人の感情が含まれている。
 つらさ 悲しさ 耐え忍ぶ気持ち 
 うれしさ 楽しさ 感謝 感動
涙は、一滴ですべてを語る。

涙を流した人だけがもつ優しさがある。涙は、体の中に溜めておけなくなった感情があふれ出たもの。涙流した分だけ、あなたの淋しさを受け容れられる。

     ダイヤモンド   寺山 修司
  木という字を一つ書きました
  一本じゃかわいそうだから
  と思ってもう一本ならべると
  林という字になりました
  淋しいという字をじっと見ていると
  二本の木が
  なぜ涙ぐんでいるのか
  よくわかる
  ほんとに愛しはじめたときにだけ
  淋しさが訪れるのです

「ほんとに愛しはじめたときにだけ 淋しさが訪れる」
愛しはじめて淋しさが消えるのではなく、愛しはじめたときにだけ 淋しさが訪れる。
人を想うこころを持ったときにだけ、涙の意味がよくわかる。
奥底に溜まった、人を思う気持ちが溢れでたものが海であり、そして涙。

海を汚して、なにを頼りとするつもりか。
涙を忘れて、誰を想うことがあるだろうか。

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