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2005年7月

2005年7月30日 (土)

規格外

友人から電話がかかってきて、
友人「実家からメロンが送られてきてさ。食べにおいでよ。
    売り物にしない規格外のだけどね」
私 「へぇ〜。規格外って?」
友人「網目がきれいに入ってなかったり、
    大きすぎたり、小さすぎたりしたやつ」
私 「ふ〜ん。そんなことぐらいで省かれるんだ」
友人「そうだねぇ・・・」

メロンに限らず、スーパーに並んでいる果物・野菜はきれいに形がそろっています。当然、形が良い物を選りすぐっているわけです。
形がそろっているほうが箱詰めしやすいという物理的事情はあるけれど、やはり消費者の要求ですよね。見た目イビツなものより、きれいなものを欲しがる。そっちの方が美味しく思えるのかな。味は違わないのにね。

いいものを求める。そろったものを求める。
果物・野菜に限った話じゃない。人間相手にもそういうことを求めている。
自分の求めるものでない場合、つまはじきにしてしまう、認めない、自分の理想に近づけようとする。

選ぶ私がいるということは、選ばれる私がいるということ。
だから、少しでもよく見せたがる。他者とズレることを恐れてしまう。必要以上に周りの人を気にして、必要の無い労力を使っている。
メロンはそんな気遣いや労力は使わないよなぁ。スーパーで売られるために、規格外にならないために、見栄えをよくしようなんて。

見栄えが悪くても、美味しいものもある。
見栄えはいいけど、味が悪いものだってあるし、中身が腐ってる場合もある。

あっ、メロンのことですよ。

2005年7月29日 (金)

ムシできない

《シーン》
今朝テレビで、輸入されてくる昆虫について放送していました(番組名は分からないです)。今年は昆虫の売れ行きがいいそうです。
で、番組から注意をひと言。
「輸入された昆虫は、日本の種と混ぜないために、逃がさず最期まで育ててください」

テレビを見た後、出かけて、近所の公園で虫捕りをしている親子(パパとボク)がいました。
蝉を捕まえて、
「かわいそうだから逃がしてあげようね」

《考えたこと》
輸入されてくる昆虫は、逃がしちゃいけないものなんだよなぁ。
本来そこにあるものじゃないんだから。不自然なことをしているんだなぁ。
輸入だけじゃなく、国内でも他の地域に移すことはやめるべきだって聞いたことがある。
例えばホタル。西と東で、光る周期が違うんだって。だから国内でも移動しないほうがいいらしい、と。

昆虫に限ったことじゃないなぁ。魚も動物もおなじだよなぁ。そう考えると、人間もかな。
手軽に海外に行ける時代(宇宙にも行けちゃう)、グローバル化・異文化交流とかいうけれど、本当の意味でのグローバル化・異文化交流って、自国の文化・慣習を知り、守ることかもしれない。

よその国の文化や慣習に精通している人って、自国の文化・慣習を熟知していると思う。
映画の翻訳家の戸田奈津子さんも、
「英語や、その国の文化を学ばなければいけないのは当然だけど、なによりも日本語と日本の文化を知らないと、上手な訳はできません」
というようなことを語られていました。

国を越えた行き来が簡単に出来る時代、相手のことが理解できない、認められないという想いが起こるのは当然のこと。アメリカやイギリスでテロが起き、アジアの国々がギクシャクするのも、当然の成り行きなのかもしれない。自国に関する無知というものが根底にあるのだから。
交流の前に、自分を知るということが先。
国際問題に限らず、日々の生活の人間関係においても同じこと。

昆虫の話から国際情勢、人間関係にまで話が膨らんでしまいました。

2005年7月28日 (木)

傲慢

どうか僕を幸福にしようとしないで下さい。それは僕に任せてください。
                                  アンドレ・レニエ

「あなたのためを思って…」
そう言われてしまうと、私は何も言えなくなってしまう。
その気持ちに偽りは無いのだろうけれど、
哀れみの目線が私を刺し、
自分が正しいと言わんばかりの主張が私にのしかかる。
あなたの言い分が正しいとか間違っているとか言いたいのではない。
気にかけてくれているのはよく分かるし、とてもうれしい。
そういう人がいてくれるだけで、充分なのです。
どうか私を幸福にしようとしないでください。それは、私の仕事ですから。


片腕では生きていけないと考えた青年にたいして、
人間は片腕だけでも生きていけると説教するのはやさしい。
しかし、それで生きていけないと主張した青年の
             心の動きを理解することはできるのか。
わからなければ、われわれは沈黙すべきである。
普遍的と見なされているような知恵をもって、
他者の行動を判断することは傲慢だ。

                           リチャード・ブローティガン

「あなたのためを思って…」
気付かないうちに、そういう気持ちを押し付けていた。
その想いに偽りはないけれど、
優しさがあなたを傷つけ、
普遍的な良識と思い込んでいた浅知恵であなたを苦しめていた。
分からぬことは、自分の経験談でごまかしていた。
励ますことによって、自分が満足しているだけだった。
自分が正しいことをしているという傲慢を生きていた。
あなたの人生の舵取りは、あなたにしかできないのに。

2005年7月25日 (月)

どっち

  それはおまえ次第だよ。
  どっちへ行きたいか分からなければ、
  どっちの道へ行ったって大した違いはないさ。

                       ルイス・キャロル

「どっち」か悩むのは、
人生の前方に道が二股に分かれている「どっち」もあるし、
踏みとどまるか進むかという「どっち」もある。

どっちへ行きたいか分からないのなら、思いっきり悩めばいい。
ただ、ひとつ言っておくね。
「これだけ悩んで決めたことだから、後悔は無い」なんて嘘だから。
「どっち」に進んでも、後悔はつきもの。

「どっち」か迷っているのは、心の底から自分自身に問うているだろうか。
心の底から自分に問うて決めたことなら、
その結果の後悔も引き受けられる力を持てるはず。

人の意見に左右され、
人のためを思ってとか、
人の反応・評価を気にして「どっち」かを迷っているなら、
その結果の後悔の責任を人に押し付けてしまうだろう。

「どっち」か悩むのは、
人の評価を気にして悩んでいるのかもしれない。
問題の本質で悩むことなしに。

2005年7月22日 (金)

  悲しくて花を見れば
  花はともに悲しみ

  うれしくて花を見れば
  花はともによろこび

  心 荒れた日
  花を見れば
  花は静かに咲く
  
         星野 富弘

あなたが悲しいと
わたしも悲しい

あなたがうれしいと
わたしもうれしい

あなたがつらいとき
わたしは何もできない
あなたを見守っていることしかできない


わたしが悲しいとき
あなたも悲しんでくれる

わたしがうれしいとき
あなたもよろこんでくれる

わたしがつらいとき
あなたにまでつらい思いはさせたくない
そんな想いに気付いたあなたは、いつも静かに待っていてくれる

2005年7月21日 (木)

求不得苦

  もっとも良いものはもっとも身近なところにある。
  息はあなたの鼻の中にあり、
  光はあなたの目の中にあり、
  花はあなたの足元にあり、
  義務はあなたの手元にあり、
  神の道はあなたの目の前にある。

                   R.L.スティーブンソン

あなたにとって「もっとも良いもの」ってなんですか? 
「もっとも良いもの」探しに旅に出て、結局、始めから手にしていたことに気付く。
青い鳥を思い出しました。
身近なところに幸せ・大切な人はいるのに、さらに「もっとも良いもの」を外や他に求めてしまう。
既に手にしているものの大切さって、気にも留めない。すぐに忘れてしまう。
手にしてないものや、人が持っているものを欲しがってしまう。
ないものねだりをして、仮にそれが手に入っても、今あるものを喜べない私が、それを喜び続けられるわけがない。しかも、そんな自分を棚に上げて、また別のものを欲してしまう。

求不得苦(ぐふとくく)…求めるものが得られない苦しみ。
「求めるものが得られないから苦しい」という文字通りの意味だけではありません。
求めて手に入れても、それを喜べず、さらに他のものを求めてしまう。そのように自分で自分を苦しめている姿を「求不得苦」という ことば は教えてくださっています。

ないものを欲しがらないで、今有るものを喜べる私でありたい。

2005年7月19日 (火)

盆踊り会場にて

《シーン》
盆踊り会場の出店の賑わいから外れた場所で氷イチゴを食べてました。
そばには仔犬が木につながれています。
そこに幼稚園くらいの男の子が近づいてきました。出店で当たったであろうピストルを持ちながら。
男の子は仔犬にピストルを向け引き金を引きました。「パンパン」と口で言いながら。
弾が入ってなくて幸いでした。

《考えたこと》
この男の子は、誰に教わるでもなく、仔犬を自分より弱い存在だと認識しているんだろうなぁ。

人間が、生きとし生けるものの長であるように思っている人がいる。火を使えるから、道具を使えるから、言葉をしゃべれるからなどということを理由に。
すべての生物は食物連鎖の中を生きている。人間は他の動植物を食べることはあっても、食べられることはない。だから長であると勘違いしてしまうのか。でもそれは、食物連鎖のトップに立っているということではなくて、連鎖から外れているってことじゃないのかな。つまり部外者。部外者って威張り散らすもの。ヒトってそういう存在なのかな。

小さい子って、虫や小動物にちょっかいを出してしまうもの。アリの巣に水をかけたり、虫の羽や足をもいだり、カエルの皮を剥いだり。残酷だけど、そういう経験を通して、いのちの大切さを学ぶという事実もある。だからこの子がとっている行動も、必然なのかもしれない。
でも、この子の身になにも変化がないならば、なにも学習しないか。
 アリの巣に水をかけると、巣からアリがワラワラ出てくる。
 虫の羽や足をもぐと、動きがおかしくなる(当然)。
 カエルにちょっかいをだすと、カエルの体から脂汗のようなものが出る。
こういうものを見たり触ったりして、してはいけないことをしてしまったという焦りや罪悪感が出てくるもの。
でも、仔犬に咬まれるとかいうことがないと、この子は何も学習しないんだろうなぁ。

暴走族の高年齢化が新聞に書いてあったなぁ。社会に馴染めなかったり、いつまでも遊んでいたいという思いから暴走族を引退しないらしい。
非行にはしることをいけないことのようにいうけれど、そういう経験だって、必要なことだと思う。そういう経験を通して、人の痛みを知ったり、していいことといけないことの区別がつくということもある。
でも、暴走族の高年齢化って、その時期に学ぶべきことを学んでないということなんじゃないかな。無駄に暴走している。

「これはいい」「これはダメ」って押し付けるのはナンセンス。自分で経験しなきゃ身に付かないことってたくさんある。でも、今はなんでも押さえつけようとしてしまう。他を傷つけるDNAって、誰にでもあると思う。自分で学習することによって、それを抑える術を身につけるのに、押さえつけてしまうから、あるとき突然爆発する。
暴走行為に走ることができた恵まれた(?)子も、そこからなにも学ばないから、いつまでも現実からの逃避という甘えの世界から抜け出せない。

仔犬が繋がれているヒモを解いたら、仔犬は男の子に襲い掛かるだろう。そうなったとき、この男の子に、なにか変化が訪れるだろうか。


《シーン》から、そんなことを考えてしまいました。あなたはこの《シーン》から何か感じますか?

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2005年7月16日 (土)

蘇生

  叶いもしない夢を見るのは
  もう止めにすることにしたんだから
  今度はこのさえない現実を
  夢みたいに塗り替えればいいさ
  そう思ってんだ
  変えていくんだ
  きっと出来るんだ

  そう何度でも 何度でも
  僕は生まれ変わって行ける
  そしていつか捨ててきた夢の続きを 
  暗闇から僕を呼ぶ
  明日の声に耳を澄ませる
  今も心に虹があるんだ
  何度でも 何度でも
  僕は生まれ変わって行ける
  そうだ まだやりかけの未来がある

            (Mr.Children「蘇生」)

さえない現実…まわりのことだと思っていた。
社会・現実世界に目を向けて、なにも動かない、なにも変わらないと、怒り・腹立ち・ねたみ・そねみが私を覆う。 
生きることに、この社会に、現実に、なんの意味があるんだ。夢も希望も
あったもんじゃない。

さえない現実…自分のことじゃないか。
罪を、責任を背負って一生生きていくと自分に誓ったはずなのに…。
何も動かない、何も変わらないのは自分じゃないか。
いつからか、誓いを忘れ、叶いもしない夢ばかり追っていた。

夢は社会に対して見るものじゃない。自分に対して見るものなんだ。
この私を夢みたいに塗り替えていこう。
想わなければ、夢は叶わない。

迷いを生きている私に呼びかける声が聞こえる。
明日につながる今を生きている。
心の虹をモノクロにしているのは私自身。
   七色の輝きを取り戻すのも私自身。

つまずいても、苦しくても、
何度でも 何度でも 生まれ変わって 生きてみせる。
人生が始まったときのように。
まだやりかけの未来が残っているのだから。

2005年7月14日 (木)

孤悲

万葉の昔 「恋」を「孤悲」と書いていました

ひとり(孤)さみしく あなたを想う 悲しい気持ちです

恋をして わたしを想ってくれる人と出会い さみしさなんてなくなるはず
なのに ますます さみしく 悲しく想う
孤悲の気持ちがわたしを覆う

いつも いつまでも 一緒に居たい
ひとり 悲しい想いが 切なくて

気持ちがあたたかくなるときもあれば
さみしくて 悲しいときもある
どちらも「孤悲」

うれしい 腹が立つ かなしい 楽しい
好き 嫌い 愛しい 憎い

感情はさまざまな想いがごちゃ混ぜになっている
孤悲をして、うれしくて 悲しくて 楽しくて 愛しくて だけど憎いことも
腹が立って、嫌いで 憎くて うざくて だけど愛しい

ひとつの感情に ひとつの性格だけならどんなに気持ちが楽だろう
ひとつの感情に さまざまな想いが同居している だからいつまでも悩んでしまう

でも、
ひとつの感情に ひとつの性格だけならば、
 人は誰とも生きてはいけない
  誰かと居てうれしくても、うれしさは続かない
  腹が立って人を遠ざけて、気付いたらひとりぼっち 
  哀しさがわたしを覆った後
  楽しくない現実に出会う

ひとつの感情に さまざまな想いが同居している 
 だから人は誰かと生きていける
  誰かと居てうれしくて、腹が立って、哀しくて、でも楽しくて、
  憎さの中に愛があり 愛の中に憎さがある
  優しさの中に憂いがあり 憂いの中に優しさがある
  濁った心に清流が流れ 清流の中に濁りは取り込まれる
 
さまざまな感情があるようだけれど 実は感情ってひとつだけ
ひとつだけの感情に さまざまな想いが詰まってる

孤悲しい…
「悲」という字は、心を両手で引き裂いている様を表わしています
うれしさも かなしさも 心引き裂かれるほどの 想いの 表われ

2005年7月12日 (火)

串田 孫一さん

詩人・哲学者の串田 孫一(くしだ まごいち)さんが、7月8日、老衰のため89歳で亡くなられました。

7月12日(火)の読売新聞朝刊「編集手帳」に串田さんのことが書かれていました。
  届いた小包の紐は、丹念に指でほどく。機会で結んだ紐は解きに
  くいが、ハサミやナイフは使わない。
  「五分十分とそのために時間を費やしても、それだけの時間を
  失った、損をしたとは思わない
」と。

小包の紐をどのようにしてほどいていますか?
簡単にほどけるならば、きれいにほどいて、とっておくかもしれませんが、絡まった時、ハサミでジョキッと切ってませんか?

今朝の「編集手帳」を読んで、自分を振り返ってみました。
紐は指でほどくけど、からまってしまったら、ハサミでジョキッって切ってるなぁ。

今日は、なにをするにも「5分10分とそのために時間を費やしても、それだけの時間を失った、損をしたとは思わない」という意識を持ちながら過ごしてみました。

急ぎながら取り組もうが、ゆったり取り組もうが、掛かる時間って変わらないんですよね。実際は。
それなら、ゆったりした気持ちで、取り組めばいいのに、なんか気が急いているんですよね。
忙しいと言いながら、心を亡くす。
ホントに忙しい人って、果たしてどれだけいることか…。
忙しいふりをしているだけ、あるいは、忙しいと思い込んでいるだけのこと。
やらなきゃいけないことは沢山あるのかもしれない。
でも、こなせるのはひとつずつ。
それなら、そのひとつずつを、時間をかけながら取り組む余裕があったらいいな。
急いでやっても、落ち着いてやっても、掛かる時間はそんなに変わらないのだから。
それどころか、急いだ方が失敗が多いし、落ち着いていると、回りも見えてくる。
なにを焦っていたんだろう。

2005年7月11日 (月)

動機が不純でというけれど…

動機が不純でというけれど、不純じゃない動機ってあるのかな?

自分がしてきたことを振り返り、「動機が不純だったなぁ」と嘆いているあなた。
動機って、そもそも不純なものなんじゃないかな。
突き詰めて考えると、出発点は自分が可愛いってことじゃないのかな。
それって、いけないこと? いやいや「不純な動機じゃいけない」っていう私がいるだけのこと。

動機って不純でいいんじゃないですか。きっかけは人さまざま。歩みだすということがどんなに大変なことか。だから、歩みだしたという事実が貴い。動機が不純でも、結果みんなのためになることもある。動機が不純だったと反省するのなら、そこから方向転換したって遅くはない。

動機が不純だと、自分がしていること全体が不純なように感じてしまうのかな。だとしたら、何も出来なくなってしまいますよ。
「人の為と書いたら、“偽”という字になりました」なんて書いたこともあるけれど、そういう意味では、ダマシダマシ生きているのかも知れないですね。それがいけないわけではない。そういう生き方しかできないし、そういう生き方をしてきたんです。

そんな考え方もあるんじゃないかな。
自分を責めないでくださいね。

2005年7月 9日 (土)

希望

東京大学では、「希望を社会科学する」そうです。

   東京大学社会科学研究所では2005年度から
   希望学プロジェクトを開始しました。

   希望とは何か?
   希望はどこから来て、そしてどこへ行くのか? 
   希望と社会のあいだの本質的なかかわりとは?

   希望学は、
   思想・制度研究、経済・歴史分析、社会調査など、
   研究所の全精力を結集し、
   希望を社会科学します。
            (東京大学社会科学研究所HPより)

新聞を読んでいて、なんでも学問になるんだなぁ、どういうことを研究するんだろう?って感心してしまいました。

研究することは大切ですが(うわっ、なんだか偉そうだ)、あまり突き詰めすぎると、大事な部分や本来の目的を見失ってしまいがちです。
それこそ、希望を社会科学して、希望を見失わないでくださいね^^


  もし、世界の終わりが明日だとしても、
                 私は今日、林檎の種を蒔くだろう。

                                ゲオルギー

他にするべきことがあるのかもしれない。でも、これをせずにはおれない。そういう“希望”があってもいいですよね。
でも、“希望”が社会科学されると、「こういうのは“希望”とは言わない」なんて言われてしまうのかなぁ。

2005年7月 8日 (金)

はすとにわとり

    はすとにわとり  金子みすゞ

  どろのなかから はすがさく。
  それをするのは はすじゃない。

  たまごのなかから とりが出る。
  それをするのは とりじゃない。

  それにわたしは 気がついた。
  それもわたしの せいじゃない。

日々の生活。なんでも自分が思い立ってやっているような気でいる。
でも、自分が自分がという気でいるけれど、なにひとつ自分では成していない。
大きなはたらきの中を、生かされている私。

  くらしのなかから はながさく。
  それをするのは わたしじゃない。


金子みすゞさんの詩をもうひとつ

  わたしが両手をひろげても
  お空はちっともとべないが、
  とべる小鳥はわたしのように、
  地べたをはやくは走れない。

  わたしがからだをゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴るすずはわたしのように
  たくさんなうたは知らないよ。

  すずと、小鳥と、それからわたし、
  みんなちがって、みんないい。 

 
「みんなちがって、みんないい」
ここに共感できるから、この詩を好きな人が多いんじゃないかな。
だから、
「もともと特別なオンリーワン♪」って歌(SMAP「世界に一つだけの花」)も流行ったんだと思う。

「みんなちがって、みんないい」
このことばにどれだけの人が「うんうん」って頷いただろう。
でも、それなのに、みんなと違うのは安心できない。みんなと同じでなければ落ちつかない。

それはね、大きなはたらきの中を生かされている感覚が無いから。

  どろのなかから はすがさく。
  それをするのは はすじゃない。

  たまごのなかから とりが出る。
  それをするのは とりじゃない。

  それにわたしは 気がついた。
  それもわたしの せいじゃない。

みんな同じはたらきの中を生かされている。
その感覚があって初めて「みんなちがって、みんないい」ってところに落ち着ける。
ちがいを認め合いながら、生きていける。

2005年7月 7日 (木)

ことばを語ることを止めて、想いを生きませんか。

ひとつのことばは、
人を励ますこともあれば、
人を傷つけることもある。

何らかの結果を求めて書いている訳ではないので、反応を気にする必要はないのだけれど、書き続けていると、いろいろ考えてしまう。知らず知らずに人を傷つけてるんじゃないかなぁって。
    
      
「日々 ことば を遺すようになって、その楽しさや贅沢を味わう反面、怖さや無意味さのようなものを漠然と感じていました。
ことばを語ることを止めて、想いを生きませんか」(水谷 修)

ホントは会って話したい。
でも、会うと言えないこともある。会って話しても伝わらないこともある。
反面、ことばだけでも伝わることもある。会ったことも、話したこともない人とでも。


ことばを語ることをやめずに、さらに、想いを生きていきます(欲張りでしょうか)。

2005年7月 3日 (日)

人生は…喜劇

  人生はクローズアップで見れば悲劇。
                ロングショットで見れば喜劇。

                          チャーリー・チャップリン

舞台は家庭
状況は最悪。喧嘩が絶えません。
親と子、夫と妻、姑と嫁、兄弟姉妹、あなたの役柄はどれですか?

毎日の生活の場の雰囲気が最悪だなんて、耐えられない。


舞台は職場
状況は最悪。意見の対立が絶えません。
上司と部下。得意先と自社。同僚どうし。あなたの役柄はどれですか?

一生懸命働いているのに、働く以外のことで労力を使わなければならない。イライラしますね。


舞台は学校
状況は最悪。他人の顔色を伺っています。
先生と生徒。父兄と先生。先生どうし、生徒どうし。あなたの役柄はどれですか?

学校って、行くのが楽しい場であるはずなのに、精神的に疲れてしまう場になっている。なにをしに行っているのでしょうね。


嫌な気分になってしまいましたか?ごめんなさい。でも、似たような状況下にいませんか?
喧嘩・対立をしているものどうしは、かなり神経をすり減らしているんですよね。そのことが人生の一大事のように。喧嘩・対立という悲劇の中で、真面目に、一生懸命自分の役割を演じているわけです。

役者がいるということは、それを見ている人(観客・観衆・傍観者)もいるわけです。観客の目から見ると、悲劇でも、喜劇に見えてしまう(今なら、若貴騒動とか)。

喧嘩をしている双方から事情・言い分を聞くと、不思議なことに、双方が正しく聞こえてしまうんですよね。自分を正当化するわけですから当然ですが。
両方が正しいということは、どっちも正しくない、どっちもどっちということ。こんなつじつまが合わないことに神経をすり減らしているなんて、正しく喜劇ですよね。


「役者がいるということは、それを見ている人(観客・観衆・傍観者)もいるわけです」と、言いました。「それを見ている人」って第三者のことじゃありませんよ。自分自身が「それを見ている人」、客観的に物事を見られる人になれるんです。
でも、悲劇の渦中にいると、そんな余裕がない。ないかもしれないけど、一歩引いて、観客になってください。
自分がどんなにくだらないこと(失礼)で言い争っているか、神経をすり減らしているか、見えるはずです。

結果的に、良い方向に向く喧嘩や対立もあります。今あなたが演じている悲劇はどうですか?
良い結果を求めてのものなら、言い争いも無駄ではありません。
でも、ただ単に神経をすり減らしているだけなら、そろそろ幕を下ろしてみてはいかがでしょうか。


追記
昨晩「スマステ4」(テレビ朝日)で、チャップリンの特集をしてました。
そこでチャップリンのことばを知り、一晩噛み締めていました。
自分が立っている舞台のことを考えながら。
悲劇だと思っていたけど…喜劇ですね^^

2005年7月 1日 (金)

2005年7月のことば

  PICT0030
 真の贅沢というものは、ただひとつしかない。
 それは人間関係という贅沢だ。

           (サン=テグジュペリ 『人間の土地』)

『星の王子さま』の作者として知られるサン=テグジュペリは、飛行士でもありました。
生涯で5回飛行機事故に遭っているのですが、それでも飛行機に乗り続けます。1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため、単機で出撃し、消息を絶っています。
空に魅せられたサン=テグジュペリは、何度も危険な目に遭いながらも、飛行機に乗る仕事に就き続けます。当時の飛行機は、今のものとは比べ物にならないほど故障や事故が多々ありました。
サン=テグジュペリは次のようなことばを遺しています。
  職業の偉大さとは、おそらく、なによりもまず、人間たちを結び
  合わせることだ。真の贅沢というものは、ただひとつしかない。
  それは人間関係という贅沢だ。

危険な仕事を続けていく中で、人間関係のありがたさを痛切に感じられたのでしょうね。

日常、当たり前のように人に出会い、人と話し、人の好き嫌いをしています。でも、何気なく繰り返される日常こそが真の贅沢であるとサン=テグジュペリは教えてくれています。
【贅沢】を辞書で引くと、「身分にふさわしくないおごりをすること」と書いてあります。
贅沢というと、なにか特別なこと(お祝いやご褒美)のように感じますが、日常の出会いや交流が、身分にふさわしくないほどの贅沢なんですね。

「人間」の「間」という字には、「関係を生きる」という意味があります。ですから、「人間」と表現される時は、他者との関係の中を生かされて存在しているという意味が含まれています。「人」と書いた場合、動物としての「人」を意味しています。
贅沢って、日常あふれているからこそ贅沢なのかもしれませんね。人間関係という贅沢がゴロゴロ転がっている。こんなに贅沢なことは無いんだけど、つい忘れてしまう。つい鬱陶しく感じてしまう。人間関係が必要ないものならば、無くしてからも何も感じないでしょう。しかし、関係が途切れたとき、残念であったり、さびしく感じることがあるということは、贅沢を味わっているってことなんでしょうね。
贅沢を味わっているのに、忘れている。なんて贅沢なんでしょうね。

さぁ、だからといって、「贅沢なことなんだなぁ」という感動を持ちながら人と向き合えるか。今まで苦手だと思っていた人とも仲良くやっていけるか・・・。難しいことですよね。そうです、難しいし、やっぱり嫌なものは嫌なんです。でもね、人の好き嫌いや、任せられる 尊敬できる 安心できる(その逆も)と言い切れるのは、人間関係の中を生きているからこそなんです。だからこそ、いろいろな感情が湧いてくる。
関係の中を生き、喜怒哀楽さまざまな感情が湧いてくる。「人」が、動物にとどまらず、「人間」として生きているということの表われですね。
喜怒哀楽さまざまな感情を表現できるということも贅沢なことですね。それって、他者との関係性を生きているからこそ出てくるものだから。

  生きていて楽しいと思うことの一つ
  それは
  人間が人間と逢って
  人間について話をする時です

                   相田 みつを

人間が人間と逢って 人間について話をする。
とても贅沢なひと時です。

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