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2005年6月24日 (金)

けれども

6月22日、藤森教念さん(真宗大谷派 常願寺住職)のお話を聞いてきました。

印象に残ったお話…「けれども」をどこに付けるのか

仏法を聞いたとしますよね。
すると、「うんうんなるほどなぁ、良いこと言うなぁ」って頷けることはあると思うんですよ。
でもね、私たちその後があるんですよ。「でも現実はなぁ…」って。
心情としては分かりますが、でも、仏法って夢物語を語っているわけではないんですよ。
お釈迦さまが、生きていくうえで起こる問題に直面している人 一人ひとりに語られた教えが仏法なんです。つまり、生活に即したものなんです。でも、今は現実に沿わないように受け止められることが多々あります。
それは、仏法が物足りないんじゃないんです。聞いている私たちの意識の問題なんです。

「うんうんなるほどなぁ、良いこと言うなぁ」けれども 「でも現実はなぁ…」
    って聞き方をしているんです。でもね、ちょっと考え方を変えて、
「現実はなぁ…」けれども仏法ではこのように教えてくださっている「良いこと言うなぁ」。
    という風に聞けますか?ってことです。

物事には原因があります。でも、
「うんうんなるほどなぁ、良いこと言うなぁ」けれども 「でも現実はなぁ…」
って聞き方をしていては問題の本質が見えないんです。
でも、
「現実はなぁ…」けれども仏法ではこのように教えてくださっている「良いこと言うなぁ」。
って思うことができたら、もしかしたら自分に原因があるのかもって気付けるわけです。

仏法で考えなくてもいいですよ。例えばAさん(友達・親子供・夫妻 等々)と言い争ったとします。
その時に、
Aはこう言う。けれども私はこうだ!
では何にも解決しません。
私はこうだ!けれどもAさんはこうなんだなぁ。
って考える余裕があったなら、なにか解決方法が見つかるかも。

「けれども」の付け方ひとつで、視界が広くなります。
だからといって問題が全て解決することは容易ではありません。もしかしたら、どちらの発想をしたところで、結果は同じこともあるかもしれません。
でも、視界が広くなると、生き方も広くなりますよ♪

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コメント

視野がくなると、周りの言葉が素直に受け入れられないものですね。
それでいて、何かヒントが欲しくて、周りに求めてしまう。
それで、「けれども私はこうなのよ」と言ってしまう。
あちゃちゃちゃー!今の私だ!と、そんなふうに感じました。

そう、どちらの発想でも、結果は同じところへ行き着きますね。
ただ、それを聞く姿勢、受け入れる姿勢があるかどうかで
人間の幅って、大きくなったり小さくなったりするものですね。

視界も生き方も、どーんと広くなりたいな。
ちょっと意識してみます^^;

☆りるさん こんばんは
「けれども私はこうなのよ」
実は私もそうなんです^^;

お話を聞いて、「けれども」の部分が印象に残ったということは、出来てないから残ったんですよね。
ホント、「あちゃちゃちゃー!」です^^

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