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2005年6月 5日 (日)

昨日、心が疲れていたので、夜、海を見に行きました。

う〜んっ、海は広いな、大きいな♪
闇黒の海の中に吸い込まれそうになりました。
自分の小ささを知り、なんだか気分がスッキリしました(超単純)。

親鸞聖人は、阿弥陀如来をたびたび海で譬えられます。
 大宝海・一乗海・本願海・誓願海などなど
川の水(衆生)が、どんなに汚れて濁っていようとも、海に入れば、汚れも浄化され、たちまち海の一味となります。私たち衆生を、すべて救い入れてくださるという比喩ですね。

それと、親鸞聖人は衆生を海で譬えることもあります。
 群生海・煩悩海などなど
衆生のもつ煩悩には、広さも深さも大きさも際限がないという譬えです。

阿弥陀如来も衆生も、双方とも海で譬えるって、驚くべきことだと思います。
阿弥陀如来が衆生を救うはたらきを海で譬えるのなら、衆生は、海に住む魚や、海に浮かぶ木片ででも譬えられそうな気がするのですが、そうはしない。
双方を海で譬えるということは、双方が混じりあうことができるということを表現されているのではないだろうか!

海の前に立ち、海を見つめ、海との一体感を、親鸞聖人も感じられたんだろうなぁと、昨晩、感慨にふけっていました。

感慨にふけると同時に、実は哀しみもありました。

海、汚れていました。
とても飛び込んで泳ぐ気にはなりませんでした。
泳ぐ気になれなかったことが哀しいのではなくてですね、
親鸞聖人の見ていた海とあまりに違うことが哀しかったのです。

親鸞聖人が、阿弥陀如来や衆生を海で譬えるようになったのは、流罪で流された越後の、厳冬の荒波を見たことが大きな影響を与えたとも言われています。
じゃぁ、冬の越後の海を見ればいいじゃないかと、言われるかもしれませんが、そういうことでもないんです。

海を見て、何かに譬えるという気持ちがわいてこないということが哀しいのです。
そういう想像を掻き立てる力が自然にない…
ではなくて、自然のもつ壮大さを人間が奪っていると感じました。

地震や台風が来れば自然の驚異を感じますが、それでも自然に対処・対抗しようと向かっていきます。
親鸞聖人の頃って、いや、ほんの数十年前までは自然には勝ち目がないという意識がシッカリとありました。
自然に対して勝ち目がないと思うと同時に、自然に対する恩恵も感じてきました。
それが、いつからか自然に立ち向かおうとする。
そこからは、自然から、自分にはたらきかける不可思議な力を感じることはありません。

親鸞聖人は海に、自分を生かそうとはたらきかける力があることを感じられました。
目標の達成度を、山の何合目かで譬える人もいます。
星に亡き人の姿を見、いつでも自分を見つめてくれていると、励む人もいます。
子供の成長の早さを、竹の伸びる早さと重ね合わせる親もいます。
人生を川の流れとして詠った歌もありますね。

自然環境の破壊や、自然に対する挑戦というのは、
自然が消滅する哀しみでもあり、
人間の持つ感覚を奪う哀しみでもあるのです。

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