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2005年6月

2005年6月30日 (木)

  雨が降ると、天気が悪いと言うけれど、
  私にとって都合が悪いだけなんです。

午前中、東京は雨でした。しかも、明け方はビックリして起きてしまうほどの大雨。
「あ〜ぁ、今日出かけるのになぁ…」
雨を悪者にしてしまう私。

空梅雨で、土も乾いていました。久しぶりの雨。
「いい雨ですね。少しは土も潤ったかな」
雨に感謝する私。

新潟は雨の被害を受け、四国は早くも深刻な水不足。
「干からびたダムに、うまく雨が降ればいいんだけど」
雨の降る地域にまで注文をつける私。

恵みの雨と言ったり、天気が悪いと言ったり…
雨が良いとか悪いとか、人はそれぞれ口にするけど、けっきょく私の都合なんですよね。

私の都合で、雨を見てませんか?

私の都合で、人を見てませんか?

2005年6月28日 (火)

なるほど

  ひとの言うことを
  「なるほど」とうなずけたら
  そこには花が咲くようである

自分がしてきたことに対して、「なぜ そんなことを言われなければいけないのだろう…」と思うことが続きました。
 自分の思いを語っただけなのに
 自分なりに頑張ってきただけなのに
 人の喜ぶ姿を見たかっただけなのに
そういう想いって伝わらないのかな。ウソなのかな。意味がないのかな。

「なぜ そんなことを言われなければいけないのだろう…」
自分の想いに反することを言われたから、つらいという感情しかありませんでした。

「なるほど?」
自分の想いに反することを言われたけれど、相手が言うことを「なるほど」と了解してみる。とにかくしてみる。

「なるほど…」
まぁ、納得はできなくても、そういうことも言えるかなって、モヤモヤながらも思えるようになってきた。

  ひとの言うことを
  「なるほど」とうなずけたら
  そこには花が咲くようである

「なるほど」ってうなずける時って、ふつうに考えたら、自分が納得した時、自分と想いが一緒の時。でも、そんな時に花が咲くような驚きや感動は起こらない。
自分は納得できなくても、自分と想いは違っても、それでも「なるほど」とうなずけたら、そこには今まで味わったこともない感動という花が咲くのかも。

「なるほど!」
なんてちっちゃなことで悩んでいたんだろう。
こんなところで立ち止まってないで、一歩一歩歩んでいこう。
みんなでいっしょに歩ける とうめいな道が開かれているのだから。

2005年6月26日 (日)

もうけつしてさびしくはない

   もうけつしてさびしくはない
   なんべんさびしくないと云つたとこで
   またさびしくなるのはきまつてゐる
   けれどもここはこれでいいのだ
   すべてさびしさと悲傷とを焚いて
   ひとはとうめいな軌道をすすむ

                 (宮沢 賢治「小岩井農場」より)

  さびしくない、さびしくない、さびしくない…
  言えば言うほどさびしい
  でも、これでいいんだ
  さびしい感情を消して、私はどこへ向かおうとしていたんだろう
  さびしい感情を無くして生きてみたところで
   私は誰と出逢おうとしていたのか
  さびしい感情を持ってこそ生きられるのではないか
   同じようにさびしさを抱えながら生きている人との出逢い
   さびしさを全て共有することはできないけれど
    さびしさに思いを寄せることならできるかも
  さびしさ消してどこへゆく
   さびしさ抱えて生きていく
  
  さびしさ抱えて生きていく
   けれども これでいいのだ
    守りのはたらきにつつまれて
     とうめいな道を行く

2005年6月25日 (土)

欲望がないという欲望

昨日、西蓮寺の役員会がありました。
そこでの役員さんどうしの会話より
「80歳を過ぎるとねぇ、あれが食べたいとか、あれが着たいとか、あれをしたいとかいう欲がなくなっちゃうんですよねぇ」
「いやいや、欲がないっていうのもひとつの欲望ですよ」
「ハッハッハッ^^」
「ハッハッハッ^^」

なるほど、欲望がないのも欲望かぁ。もしかしたら一番贅沢な欲望なのかも。

「今度の旅行会はどこに行きましょうか?」
「どこでもいいです。おまかせします」
「○○に行きましょうか」
→「そこは行ったことがあるので」
   こんな返事されると腹が立ちますよね。
   でも、「○○、いいですねぇ。行きましょう行きましょう♪」っていう
   返事も、「どこでもいい」と言っておきながら、行きたいところが
   あるという欲望の表われですね。

「何が食べたい?」
「なんでもいいよ」
「じゃぁ、○○にしようか」
→「え〜、やだ!」
   こんな返事されると腹がたちますよね。 (たとえ話ですからね)
  でも、「うん○○食べようか♪」っていう返事も、「なんでもいい」と
  言っておきながら、食べたいものがあるという欲望の表われです
  ね。

無欲でありながら、欲のある話でした。皆様、ご経験は?

2005年6月24日 (金)

けれども

6月22日、藤森教念さん(真宗大谷派 常願寺住職)のお話を聞いてきました。

印象に残ったお話…「けれども」をどこに付けるのか

仏法を聞いたとしますよね。
すると、「うんうんなるほどなぁ、良いこと言うなぁ」って頷けることはあると思うんですよ。
でもね、私たちその後があるんですよ。「でも現実はなぁ…」って。
心情としては分かりますが、でも、仏法って夢物語を語っているわけではないんですよ。
お釈迦さまが、生きていくうえで起こる問題に直面している人 一人ひとりに語られた教えが仏法なんです。つまり、生活に即したものなんです。でも、今は現実に沿わないように受け止められることが多々あります。
それは、仏法が物足りないんじゃないんです。聞いている私たちの意識の問題なんです。

「うんうんなるほどなぁ、良いこと言うなぁ」けれども 「でも現実はなぁ…」
    って聞き方をしているんです。でもね、ちょっと考え方を変えて、
「現実はなぁ…」けれども仏法ではこのように教えてくださっている「良いこと言うなぁ」。
    という風に聞けますか?ってことです。

物事には原因があります。でも、
「うんうんなるほどなぁ、良いこと言うなぁ」けれども 「でも現実はなぁ…」
って聞き方をしていては問題の本質が見えないんです。
でも、
「現実はなぁ…」けれども仏法ではこのように教えてくださっている「良いこと言うなぁ」。
って思うことができたら、もしかしたら自分に原因があるのかもって気付けるわけです。

仏法で考えなくてもいいですよ。例えばAさん(友達・親子供・夫妻 等々)と言い争ったとします。
その時に、
Aはこう言う。けれども私はこうだ!
では何にも解決しません。
私はこうだ!けれどもAさんはこうなんだなぁ。
って考える余裕があったなら、なにか解決方法が見つかるかも。

「けれども」の付け方ひとつで、視界が広くなります。
だからといって問題が全て解決することは容易ではありません。もしかしたら、どちらの発想をしたところで、結果は同じこともあるかもしれません。
でも、視界が広くなると、生き方も広くなりますよ♪

2005年6月21日 (火)

100万人のキャンドルナイト

今日は、「100万人のキャンドルナイト」です。
宇宙から地球を眺めると、東京の辺りが煌煌と光輝いています。
地上から空を眺めても、星はほとんど見えません。
街は、いつの時間も光が溢れ、人も多く、いつまでも賑やかです。

100万人のキャンドルナイト。今日の午後8時から10時まで電気を消して、大切な人との語らいの時間にしましょう。日常から離れ、光のない非日常の世界へ…。
う〜ん、どっちが日常で、どっちが非日常なんでしょう。書いてて「オヤ?」っと思いました。
非日常が日常となり、日常だったものを非日常にしてしまった。
今、そういう世の中を生きているのではないでしょうか。

こういう呼びかけって、やっただけで満足してしまう、イベント化してしまうという恐れがあります。かなりのキャンペーンになっているようですが、その宣伝には電気も必要不可欠という矛盾を抱えている。
批判してるんじゃないですよ。こういう呼びかけって個人的には好きなんですけど、午後10時過ぎたら一斉に電気が点くのかなって思ったら、首を傾げてしまいます。出来ることから少しずつということかもしれませんが。

あれ?この「100万人のキャンドルナイト」って、電気を使わないことを呼びかけてるのかな、電気を消して大切な人との語らいの時間にすることを呼びかけているのかな。それとも両方?
ここまで書いておきながら、こんなこと言い出してすみません。

「○○をしましょう」「××はいけません」などという呼びかけ(スローガンとか)って、出来てないからスローガンとして成り立つわけで、本当なら、呼びかける必要もないっていうのが理想ですよね。
電車の優先席の条件って、細かく指摘しすぎると思いませんか? 自分が小さい頃は、「お年寄りと体の不自由な人」としか書いてなかったような記憶があります。それでも、それ以外の人(妊婦さんとか赤ちゃんを抱っこしているお母さんとか)にも席を譲る気持ちがはたらいていたと思うのですが。
今は、「お年寄り・体の不自由な人・妊婦・ペースメーカーをつけている人」と細かく指摘されています。そうすると、それ以外の人に席を譲る目が養われてなくなってしまうんですよね。

譲り合う、語り合う、無駄な電気を使わない等々、人に言われなくても、自発的に出来るようになりたいものです。


追記
21日午後8時から10時まで、寝てました…酔っ払って。
電気は消して寝ましたよ…って問題かい?

2005年6月20日 (月)

情けは人の為ならず

情けは人の為ならず
ご存知の方も多いかと思いますが、「情けは人の為にならない」という意味ではありません。
元々は「情けは人の為にあらず」で、「為ならず」に変化しました。
「にあらず」→「ならず」
〔niarazu→narazu (iaと母音が重なるのでiが消えて、narazuと変化)〕

つまり、「情けをかけるのは、他人のためではない(自分のためである)」という意味です。

「自分のため」というと、自己満足・自分勝手・自分さえよければ的に
聞こえてしまいますが、そういう意味ではありません。
人に何かをしてあげる・してもらうというと、どうしても、そのお礼や感謝の気持ちのことまで考えてしまいます。つまり、損得勘定が付きまといます。ですから、「自分のため」なんていうと、傲慢に感じてしまうわけです。
損得勘定と表現しましたが、「情け」に対して、いろいろと考えてしまいます。
 人に情けをかける場合、
 自分に余裕がなければ情けはかけられません。
 どんなに誠意を持ってしても、相手に伝わるときもあれば、
 伝わらないときもあります。
 人に情けをかけられた場合、
 それが同情だったのかどうかなんて、どっちでもいいじゃないですか。
 優しい気持ち・うれしい気持ちをもらえたわけですから。

でも、どちらの場合も、相手のことを考えることにつながりますね。
人の哀しみに気付ける速さで」歩いているってことですよね。

自分のための情けが、めぐりめぐって、人のためになるんですよね。

2005年6月19日 (日)

父の日

母が、実家のお仏壇から録音テープを見つけてきた。
「これ、な〜んだ。聞いてごらん♪」
   ガチャ ガチャ ス〜〜〜〜
「ニョー ゼー ガー モン  イチ ジー ブツ・・・・・・・・・」
私が9歳頃の、お経の稽古を録音したものでした。
うん、なかなか筋がよろしい^^;
自分の声を聞くのは恥ずかしいものだけど、20年以上経つと、さすがに恥ずかしさはありませんね。稚拙さが恥ずかしくはありますが。

稽古をつけてくれているのは、もちろん住職(父)。
ヘタッピで、何度も同じところを間違えている私に、丁寧に根気強く教えてくれています。こんな時があったんだなぁ。
うまく出来た時に褒めてくれた様子や眠くて泣きながら稽古をつけてもらった様子が思い出されます。
懐かしくて、涙が出てきそうでした(泣いてはない)。

声明(しょうみょう:お経)は、学生時代、京都で先生に付いて、厳しく鍛えられました。
でも、テープを聴いていると、自分の声明の礎は、父に作ってもらったんだなぁとしみじみ思いました。

「学ぶ」の語源は「真似ぶ」。真似をするところから学びが始まる。
「住職と副住職、お経の声がよく揃ってますねぇ」と、門徒さんからよく言われますが、揃うのも当然ですね。
真似ながら学んできたんですから。

父の日、昔のことを思い起こしながら、一緒に法要を勤めました。ナムナム。
(それにしても「父の日」って、「母の日」ほど盛り上がらないですね。
 なんででしょう?)

追伸
住職、打ち合わせと違うお経を読むのはやめてください。ビックリするから。(単に間違えたの? それとも試されてるの?)

2005年6月18日 (土)

善魔

 善いこととなると、これは意外と努力なしに感情だけでやれるものだ。しかし感情に突き動かされて行った愛なり善なりは(正確にいうと自分では愛であり善いことだと思っている行為が)相手にどういう影響を与えているか考えないことが多い。
 ひょっとするとこちらの善や愛が相手には非常な重荷になっている場合だって多いのである。
 それなのに、当人はそれに気づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼くらんで自己満足をしているのだ。
 こういう人のことを善魔という。そしてかく言う私も自分がこの善魔であって他人を知らずに傷つけていた経験を過去にいくつでも持っている。
 その苦い体験を今かみしめてみると、やはり原因は二つある。
ひとつは相手の心情に細かい思いをいたさなかったこと、
もうひとつは自己満足のあまりに行き過ぎてしまったことである。

                     (遠藤 周作『生き上手 死に上手』)

人の為と書いたら、偽りという字になりました
厳しい ことば です。
「ヒトノタメ」とも読めるけど、「ヒトノナス」とも読めるよ、と教えられたことがあります。
なるほど、人がすることって、危ういことだらけなんだなぁと思います。
知らないうちに、どれだけの人を傷つけてしまっていることか。

かく言う私も善魔です。

2005年6月17日 (金)

ママ

   ママ     (田中 大輔 3歳)

 あのねママ
 ボクどうして生まれてきたのかしってる?
 ボクね ママにあいたくて
 うまれてきたんだよ
                      (川崎 洋『おひさまのかけら』)
 
出会いって、こういうことが言えることかな。
 あなたにあいたくて
 うまれてきたんだよ

毎日顔をあわせていても、会えたとは言えない関係もある。
たまにしか会えなくても、心が通じている関係もある。
死に別れた人とでも、この人と出会えてよかったという思いがあれば、常に一緒ににいるようなものだと思う。
そういう関係もある。

なにを書いても敵わないですね^^
田中 大輔君の詩をお味わいください。 


(注)『おひさまのかけら』 川崎 洋
読売新聞に「こどもの詩」というコーナーがあります。その選者・論評をされていた川崎洋さんが20年分の詩の中から、選りすぐった詩が載せてあります。

2005年6月16日 (木)

こころのあめ

  悲しみなさい あとでむかえにくるから
  行きなさい あとで抱きしめてあげるから

  まちがったとしても
  あとで すべてを聞いてあげるから

                   (銀色 夏生 『詩集 小さな手紙』)

  あとで あとで あとで
  出来ることなら、
   今 むかえにこれたら
   今 抱きしめてあげられたら
   今 聞いてあげられたら…

  私にできることは、いつも「あとで」
  つらいけど、
   悲しむのは あなた
   行くのは  あなた
   間違いを犯すのも あなた

  それを止めることも それを正すことも 私にはできない
  でも、
   あとでむかえにくるから
   あとで抱きしめてあげるから
   あとで すべてを聞いてあげるから
 
  すべて話したら 行きなさい
  振り向かないでいいから  前だけを見て

2005年6月15日 (水)

てるてる坊主♪

  てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  いつかの夢の 空のよに
  晴れたら金の 鈴あげよ

  てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  私のねがいを きいたなら
  あまいお酒を たんとのましょ
 
    (あまいお酒を たんと飲ませてあげましょう)

  てるてる坊主 てる坊主
  あした天気に しておくれ
  それでも曇って ないてたら
  そなたの首を ちょん切るぞ

なかなかシュールな歌ですね。
残酷? でもね、これって私の姿ですよ。
 願いが叶ったら、お礼をしてあげる。
 願いを聞いてくれたら、誉めてあげる。
 願いを聞いてくれなかったら、首をちょん切っちゃう。

まぁ、首はちょん切らなくても、腹を立てることはあるでしょう。
思い通りにならない世の中に腹を立てる。
思い通りにしようとしている私に見向きもしないで。

今日、東京は一日中 雨が降り続けました。
てるてる坊主から 一日中 問い続けられていました。

2005年6月14日 (火)

人間は 努力する限り迷うものである

人間は 努力する限り迷うものである
                         ゲーテ
努力する限り迷う
・・・そっか、努力しているから迷えるんだ!

以前も書きましたが、
努力って、今の状態より良いものを目指して頑張ることのように考えてしまうけど、
実は、生きているということがすでに努力しているってことじゃないでしょうか。

つまり、「人間は 生きている限り迷うものである」のです。

生きている限り迷う
・・・そっか、生きているから迷えるんだ!

そんなの嫌だって声も聞こえてくる。
少しでも迷いの少ない道を選ぼうとする人もいるでしょうね。

うん、正直な気持ちですよね。
どのような道を選んでも、それはその人の人生。
どの道が正解ということもないですしね。

でも、こういう ことば を遺された人がいます。
私は、人生の岐路に立った時
             いつも困難なほうの道を選んできた

                                    岡本太郎

う〜ん、カッコイイです (b^ー゚)

2005年6月13日 (月)

別れの曲

哀しい時 あなたはどんな曲を聴きますか?

私は今、ショパンの「別れの曲」を聴いています。

数年前の話、
どうしようもなく哀しい時、自分を励まそうと、「FINE」というCDを聴きました。
明るい曲調の曲を集めたオムニバスアルバムです。
ドラマやCMでよく耳にする、明るく爽やかな曲が流れてきます。
「ウワァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」(心の叫び)
とても聴いていられませんでした。なんていうのかな、余計に哀しみが増幅されていくような、アリ地獄にはまっていくような感覚に陥りました。
涙が出てきました。心が醜くなっていくような涙でした。

で、次に「RAIN」というCDを聴きました。
哀しい曲調の曲を集めたオムニバスアルバムです。
ドラマの哀しいシーンで流れてくるような曲が流れてきます。
「フーッ」(静かに一息)
気持ちが楽になりました。哀しみが消えるわけではないけれど、優しく包まれていくような感覚。
涙が出てくるんだけど、心が澄んでいくような涙でした。

不思議でした。こういう気持ちって、みんなもあるのかな。
それとも変わってるのかな、私が。

元気に、気にかけるという励まし方もある。
静かに、何もしないでいるという励まし方もある。

2005年6月12日 (日)

秋桜

  こんな小春日和の穏やかな日は
  あなたの優しさが浸みて来る
  明日嫁ぐ私に 苦労はしても
  笑い話に時が変えるよ
  心配いらないと 笑った

  ありがとうの言葉をかみしめながら
  生きてみます 私なりに
  こんな小春日和の穏やかな日は
  もう少しあなたの
  子供でいさせてください

                (さだ まさし「秋桜」)

さださんのCDを、いろいろと作業をしながら聞いていたら(ごめんなさい)、
苦労はしても 笑い話に時が変えるよ 心配いらないと 笑った
の部分が心の琴線にふれました。

私なんかがこのセリフを言っても、無責任に聞こえてしまいますが、
苦労してきたお母さんが言ってくれるから、ありがとうの言葉をかみしめられるんだなぁ。

  出口のない入口はない
  やまない雨はない
  朝が来ない夜はない

こういうフレーズって、よく聞きますよね。誰の ことば だと思います?
苦境を乗り越えた人の ことば だと思います。
乗り越えられたからこそ、こういう ことば が生まれたんですね。
苦しみがあっても、それでも明日は流れが変わるかもしれないって信じて。

生きてみます 私なりに
私なりにでいいんですよね。私なりに。

2005年6月11日 (土)

幸せになろうと思わないで下さい

 幸せになろうと思わないで下さい
 幸せをつかみに行って
 幸せをつかんだ人は1人もいません
 幸せは感じるものです

  (武田鉄也さんから杉田かおるさんへの結婚お祝いメッセージ)

幸せは、人に与えるものでも、人から与えられるものでもない。
今すでにここにあるもの。
感じる心があることって、幸せなことなんだ。

感じる心
喜怒哀楽を感じる。
 生きるって、必ずしもhappyなことばかりではない。
人の痛みを感じる
 人と、まったく同じ痛みを感じることは不可能なこと。
 だけど、人が傷ついていることに気付くことはできると思う。
人の喜びを感じる。
 人の喜びを、自分のことのように喜ぶのって、人の痛みを感じること
 以上に難しい。

幸せは感じるものです
 幸せと思えるものを選び、感じるということではない。
  それは、幸せをつかみに行くのとおなじこと。
 感じる心を“幸せ”って言うんじゃないかな。
  “幸せ”には、喜怒哀楽すべての感情が含まれている。
  喜怒哀楽すべての感情が…

2005年6月10日 (金)

花を見る 花も見ている

花を見る 花も見ている
子を見る 子も見ている
仏を見る 仏も見ている

私が花を見ている
私が子の面倒を見ている
私が仏を拝んでいる

つい、私を中心に考えてしまう。一方通行。
自分の調子がいいときは、スイスイ進めるかもしれないけれど、つまづいた時は、なかなか元に戻れない。

花が見ている
子が見ている
仏が見ている

見られている私がいる。双方向。
ぶつかることもあるけれど、自分の調子が落ちた時、相手が助けてくれることもある。

自分がやっているって気でいるけれど、知らず知らずに助けられている。

なんで自分が見ることが出来ると思いますか?
自分が見るのに先立って、見られている、守られているからなんです。

追伸
人生に問いを持てるのは、問いを投げかけられているから。

2005年6月 5日 (日)

昨日、心が疲れていたので、夜、海を見に行きました。

う〜んっ、海は広いな、大きいな♪
闇黒の海の中に吸い込まれそうになりました。
自分の小ささを知り、なんだか気分がスッキリしました(超単純)。

親鸞聖人は、阿弥陀如来をたびたび海で譬えられます。
 大宝海・一乗海・本願海・誓願海などなど
川の水(衆生)が、どんなに汚れて濁っていようとも、海に入れば、汚れも浄化され、たちまち海の一味となります。私たち衆生を、すべて救い入れてくださるという比喩ですね。

それと、親鸞聖人は衆生を海で譬えることもあります。
 群生海・煩悩海などなど
衆生のもつ煩悩には、広さも深さも大きさも際限がないという譬えです。

阿弥陀如来も衆生も、双方とも海で譬えるって、驚くべきことだと思います。
阿弥陀如来が衆生を救うはたらきを海で譬えるのなら、衆生は、海に住む魚や、海に浮かぶ木片ででも譬えられそうな気がするのですが、そうはしない。
双方を海で譬えるということは、双方が混じりあうことができるということを表現されているのではないだろうか!

海の前に立ち、海を見つめ、海との一体感を、親鸞聖人も感じられたんだろうなぁと、昨晩、感慨にふけっていました。

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2005年6月 4日 (土)

パパパパ〜ン♪

結婚は鳥カゴのようなものだ。
カゴの外の鳥は餌箱をついばみたくて中へ入りたがり、
カゴの中の鳥は空を飛びたくて外へ出たがる。

                    モンテーニュ

「いいことがある。僕達は結婚しよう」
「もっといいことがあるわ。結婚しないでおきましょう」

                    映画『ジョルスン物語』

人は判断力の欠如によって結婚し、
忍耐力の欠如によって離婚し、
記憶力の欠如によって再婚する。

               アルマン・サラクルー(フランス劇作家)

結婚したまえ、君は後悔するだろう。
結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。

                    キルケゴール

2005年6月 3日 (金)

スマイル(^-^)

いよいよ紫陽花が咲き始めました♪050603_1755.jpg

ケ・セラ・セラ

朝一番に口ずさんだ歌って、その日一日口ずさんだりしません?
今日はなぜか「ケ・セラ・セラ」を口ずさんでいました。
(誰ですか、今笑ったのは? ^^)

『ケ・セラ・セラ』
大人になり恋をして 恋人に聞いたわ 未来には何が
幸せな生活が待っているの?
恋人は答えたは ケ・セラ・セラ なるようになるさ
先の事などわからない ケ・セラ・セラ わからない

口ずさんでいたのは「ケ・セラ・セラ なるようになるさ♪」の部分ばっかりでしたが。

学生の頃、「座右の銘は『ケ・セラ・セラ』」なんて言ってました(バカでしょう)。
その頃は、文字通り「なるようになる」って思っていました。
困ったり、つらいことがあった時に、「なるようになる」って自分を落ち着かせる気持ちで。
「どうにか なるさ」って感じかな。

でもいつからか、「なるようになる」っていうのは、自分が努力を尽くした結果だと思うようになりました。
ここでいう努力って、わざわざ励んでとか一生懸命にってことではなく、
人が生きることって、そのこと自体が一生懸命頑張って、努力していることだと思うんですよね。
今「頑張る」って言うと、「今まで以上に更に」ってニュアンスがあるけど、そういう意味じゃなくて、「今生きていること」そのことが充分頑張っていることだと思います。
つまり、努力を尽くした結果って、更に頑張った結果ということではなく、今まで生きてきた結果というような意味です。
だから、「なるようなになる」っていうのは、将来の自分の姿ではなく、今の私の姿なんじゃないかなと、ある時、ふと考えるようになりました(伝わってるかな?)。

「この道でよかったのかなぁ、間違ってたんじゃないかなぁ」
そう思って、振り向いてしまうときもあるけれど、
今歩いている道こそが、最善の道。なるようになっている道なんですよね。

2005年6月 2日 (木)

お元気ですか?

  「或いは」「もしも」だなんて あなたは嫌ったけど
  時を遡る切符(チケット)があれば 欲しくなる時がある
  あそこの別れ道で 選びなおせるならって…

  勿論 今の私を 悲しむつもりはない
  確かに自分で選んだ以上 精一杯生きる
  そうでなきゃ あなたにとても とてもはずかしいから

                         (さだ まさし「主人公」)


時の流れは傷を癒してくれる  だから 次の一歩を踏み出せる
時の流れは傷を癒してくれる  だけど 大切なことも薄らいでしまう
時の流れは傷を癒してくれる  なのに いつまでも心の中に…

あそこの分かれ道で 違う道を選んでいたら…
いや どの道を選んでもチケットを欲しくなる時は来る
そんな時に 誰のせいにもしたくはない
誰のせいでもない 今を選んだのは 私なのだから

あなたに はずかしくない生き方は出来ているだろうか
あなたに 笑って会える私だろうか

2005年6月 1日 (水)

2005年6月のことば

PICT0005
 他力の道こそ 最後まで努力を尽くす道


今更ではありますが、西蓮寺の紹介です。
   宗派  真宗大谷派
   本尊  阿弥陀如来
   宗祖  親鸞聖人
   本山  東本願寺(京都市)
   おしえ 本願を信じ念仏申さば仏になる

「本願を信じ念仏申さば仏になる」
「本願」…阿弥陀如来が、念仏申す衆生をすべて救おうと誓われた願い。
本願があるからこそ、私たちは「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏を頼りとして生きます)」とお念仏申せば仏になると教えられています。
阿弥陀如来がすべての衆生を救おうとするはたらきを「他力」と言います。そのはたらきがあるから、南無阿弥陀仏と念仏申せば救われると教えられています。
しかし、阿弥陀如来のはたらきがあるのなら、念仏するだけでいいのなら、浄土真宗・親鸞聖人のおしえは、努力する必要のない教えだと曲解されることもあります。
生きるということは、努力の連続です。努力には、頑張るとか一生懸命というイメージがあります。
努力する理由は様々です。自分のため、人のため、社会のため、目標のため等々。でも、私の頑張り、一生懸命って、危ういんですよね。

退転してしまう努力
新しいことに挑戦する人や、一度失敗した人が再起を誓うときに「不退転の境地で頑張ります」と言うのを聞くことがあります。それほどの決意でという気持ちなのでしょうが、「不退転」、退転しない努力が、いかに難しいことか。

努力をしても結果が出ない場合、やめてしまうことがあります。「これだけ努力しているのにうまくいかない、なにも変わらない、誰も評価してくれない。それなら、やめてしまえ」って。やめないまでも、疑問を持ったり、中休みをしてしまうことがあります。
初めは、やる気があったのに、その気持ちが退いてしまう。このような姿を「退」と言います。

努力をして結果が出る場合もあります。周りの人からも評価され、地位や名声も上がります。気分も良くなります。良くなって、更に頑張る気になる。しかし、当初のひたすら努力してという気持ちを見失って、頑張ってしまう。人に褒められるため、自分の地位・名声の向上のために頑張る、と。
初めの、ひたすらな気持ちが、いつのまにか自分の欲のためにと転化してしまう。このような姿を「転」と言います。

「退」は自分でも気付いているのですが、「転」は自分で気付かないうちにそうなっている。やっかいなものです。
私たちがする努力って、退転してしまうのです。いけないというのではなく、私の現実の姿なんです。
でも、努力の結果が重要なのではない。努力する気持ちになるということが、大変な出来事なんだと思います。努力するご恩をいただいたわけですから。

努力を尽くせるのは、
「他力の道こそ 最後まで努力を尽くす道」。
退転してしまうような私の「努力」ではあるけれど、私にはそういう生き方しか出来ない。それでいい。それでいいといえるのは、他力の道を歩ませていただいているから。南無阿弥陀仏と念仏申しながら、一歩一歩、自分の歩幅で歩いていけばいい。退転してしまう生き方しか出来ない私の目の前に、他力の大きな一本道が開かれているのです。
阿弥陀如来にお守りいただいているのに、どうして、努力を尽くすのか。いえ、阿弥陀如来にお守りいただいているからこそ、最後まで努力を尽くせるのです。

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