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2005年6月 1日 (水)

2005年6月のことば

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 他力の道こそ 最後まで努力を尽くす道


今更ではありますが、西蓮寺の紹介です。
   宗派  真宗大谷派
   本尊  阿弥陀如来
   宗祖  親鸞聖人
   本山  東本願寺(京都市)
   おしえ 本願を信じ念仏申さば仏になる

「本願を信じ念仏申さば仏になる」
「本願」…阿弥陀如来が、念仏申す衆生をすべて救おうと誓われた願い。
本願があるからこそ、私たちは「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏を頼りとして生きます)」とお念仏申せば仏になると教えられています。
阿弥陀如来がすべての衆生を救おうとするはたらきを「他力」と言います。そのはたらきがあるから、南無阿弥陀仏と念仏申せば救われると教えられています。
しかし、阿弥陀如来のはたらきがあるのなら、念仏するだけでいいのなら、浄土真宗・親鸞聖人のおしえは、努力する必要のない教えだと曲解されることもあります。
生きるということは、努力の連続です。努力には、頑張るとか一生懸命というイメージがあります。
努力する理由は様々です。自分のため、人のため、社会のため、目標のため等々。でも、私の頑張り、一生懸命って、危ういんですよね。

退転してしまう努力
新しいことに挑戦する人や、一度失敗した人が再起を誓うときに「不退転の境地で頑張ります」と言うのを聞くことがあります。それほどの決意でという気持ちなのでしょうが、「不退転」、退転しない努力が、いかに難しいことか。

努力をしても結果が出ない場合、やめてしまうことがあります。「これだけ努力しているのにうまくいかない、なにも変わらない、誰も評価してくれない。それなら、やめてしまえ」って。やめないまでも、疑問を持ったり、中休みをしてしまうことがあります。
初めは、やる気があったのに、その気持ちが退いてしまう。このような姿を「退」と言います。

努力をして結果が出る場合もあります。周りの人からも評価され、地位や名声も上がります。気分も良くなります。良くなって、更に頑張る気になる。しかし、当初のひたすら努力してという気持ちを見失って、頑張ってしまう。人に褒められるため、自分の地位・名声の向上のために頑張る、と。
初めの、ひたすらな気持ちが、いつのまにか自分の欲のためにと転化してしまう。このような姿を「転」と言います。

「退」は自分でも気付いているのですが、「転」は自分で気付かないうちにそうなっている。やっかいなものです。
私たちがする努力って、退転してしまうのです。いけないというのではなく、私の現実の姿なんです。
でも、努力の結果が重要なのではない。努力する気持ちになるということが、大変な出来事なんだと思います。努力するご恩をいただいたわけですから。

努力を尽くせるのは、
「他力の道こそ 最後まで努力を尽くす道」。
退転してしまうような私の「努力」ではあるけれど、私にはそういう生き方しか出来ない。それでいい。それでいいといえるのは、他力の道を歩ませていただいているから。南無阿弥陀仏と念仏申しながら、一歩一歩、自分の歩幅で歩いていけばいい。退転してしまう生き方しか出来ない私の目の前に、他力の大きな一本道が開かれているのです。
阿弥陀如来にお守りいただいているのに、どうして、努力を尽くすのか。いえ、阿弥陀如来にお守りいただいているからこそ、最後まで努力を尽くせるのです。

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