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2005年5月19日 (木)

経教は鏡の如し

以前、阿弥陀如来についてお話したことがありました(果てない波がちゃんと止まりますように)。

阿弥陀如来は、「南無阿弥陀仏」と念仏申すものを救いたいという願いを起こされました。
そのお話のときに、「唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」についての説明をしませんでした。
「ただし、五逆の罪を犯したものと、教えをそしるものは除く」と言われています。
「南無阿弥陀仏と念仏申すものを救いたい」と言いながら、「五逆の罪を犯したものと、教えをそしるものは除く」と言われます。
〔五逆の罪とは、(1)父殺し(2)母殺し(3)阿羅漢殺し(4)和合僧破り(5)仏身から血を出すことなのですが、今はこれ以上の説明はしないでおきますね。〕

どのように感じられますか?
「阿弥陀さんといえど、そんな大罪を犯したものまでは救わないだろう。また、救われなくて当然だ」
「阿弥陀さんは、皆救うと言いながら こういうものは救わないって、言ってることが違うじゃないですか」

「大きな罪を犯したもの、仏法をそしるものは救われなくて当然だ」って思う人が多いのではないかと思います。

思ったことはですね、こういうふうに考えること自体が「仏法をそしる」ことなんじゃないかなぁってことです。
「そしる」というと、悪口を言ったり、バカにしたり、ののしる、というような態度を思いますが、疑うとか、どういうことかな?って考える態度も「そしる」ってことだなぁ、と思いました。

そう考えると、私たちはすべて救われない対象なわけです。
「大きな罪を犯したもの、仏法をそしるもの」について考えるとき、「自分は違う」というところに立って考えてしまいがちですが、実はそのまんま私の姿なわけですよ。
善導大師という方は、「経教は鏡の如し(お経や教えのことばは、私を写しだす鏡である)」と教えてくださいました。
お経や教えのことばは、いい人間になる方法や幸せになる方法が説かれているわけではありません。自分の姿が書かれているんですね。というか、ことばを自分のこととして受け止められるか、他人事として見てしまうか。どちらに立つかで、私の生きる道筋がガラッと変わってしまいます。

「大きな罪を犯したもの、仏法をそしるもの」が救われるか救われないかが問題なのではなく、そこに自分の姿を見るか、他人事として見てしまうか、私の姿勢が問われているんですね。

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