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2005年5月28日 (土)

自分の思いどおりにしようとしたら孤独になる

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昨日の文章を書きながら、この一節を思い出していました。
というか、この一節だけの詩だと思い込んでいました。
調べたら、まだ続きがありました。

自分の思いどおりにしようとしたら
孤独になる

思いどおりを捨てさせてもらったら
ずいぶん明るい

一人であっても明るい
足元を支えてくれている
諸佛が見えてくる

そして明るさに気付いた者は
闇から明るさへの道を
知っているので
闇があんまり
気にならなくなる

(鈴木 章子
  『癌告知のあとで なんでもないことが、こんなにうれしい』探求社)

鈴木章子さんは、北海道の大谷派のお寺の坊守さんです。癌で40代で亡くなられました。
病床生活の間、自分が感じられた思いを、たくさんの詩にして遺されています。

自分の思いどおりにしようとしたら 孤独になる
「孤独」は自分が思い通りにしようとした報いです。苦しみです。
一人であっても明るい 足元を支えてくれている 諸佛が見えてくる
「一人」は孤独とは違います。つねに諸仏が私の足元を支えてくれている。一人ひとりの足元を。
常に私を支えてくれているはたらきがあることに、気付きもしないで生きてきました。
そのようなはたらきに支えられている私であるということに気付かず、不安の中を生きているから、何かを求め、結果孤独になってしまうのですね。
私を支えるはたらきがあることに気付いた時、既に私の歩む道が開けていたことが見えてきます。
その道を歩むのは、私ひとり。一人ひとりが自分の道を歩む。でも、一人ひとりの足元に、私を支えるはたらきがあるから、淋しくもない、孤独でもない。

自分の思いどおりにしようとしたら 孤独になる
この一節だけの詩だと思っていたとき、私たちに対する戒めの ことば だと思っていました。
詩のすべてに出会ったとき、鈴木章子さん自分自身の生きる姿を示してくださった ことば であることに気付きました。
私の生きる道を、身をもって示してくださっていたのですね。
ありがとうございます。

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コメント

この言葉、実は本堂でずっと見てました。
何度も読み直して、ん・・・・って感じで。
鈴木章子さんとはどなたなのだろう?とも思っていたのですよ。
そうですか、そうなんですね。

人は自分の命の限りを知った時に、いかに必要のない欲に振り回されていたのかと気がつくのかもしれませんね。

ameさん コメントありがとうございます。

私も、昨日の記事を書いた直後に、本堂で見て、ハッとしたんです。自分の思いと、視覚がピタッと一致しました。毎日見ているんですが、目にしているだけだったんですね。でも、潜在意識に刷り込まれてもいたんでしょうね。普段から 教えに触れた生活をしていると、迷ったときに、道標として教えのことばが蘇ってきます。

「自分の命の限りを知った時」
そうですよね、いろいろなことが見えてくるんでしょうね。
でも、「限りある自分の命」であることは認識しているはずなんですけどね。その認識はどこに隠れているのでしょう。(隠しているのかな?)

こんにちは^^
以前バンドに夢中になっていたときに父が倒れました。それでバンドどころではなくなったのですが、そのとき見守りというか見えない親分に軌道修正してもらったように思います。
「ぬしの役目は親を支えていくことだ」と。
変ですね^^;
でも人生を振り返ると必然の連続のような気がします。

「人生を振り返ると必然の連続」
名言ですね。

その時は「なんで?」とか「納得できない!」とか思ってしまいますが、あとで考えると、自分に何か役目を与えようとした力がはたらいていたのかなぁなんて思える気がします。
人生偶然の連続なのではなく、実は必然の連続だったのですね。

初めまして。ご挨拶です。思いどうりを捨てる事は出来るのでしょうか?
そう、思いたっかったのではないでしょうか?
母を亡くしました。大きな出来事です。
母は、もっと生きていたかったと思います。自分が死ぬ事は わかってました。だから、自分が命短いとわかった時から我侭でした。
今までの我慢を吐き出してみたのです。でも、本当は死にたくなかった。
本当に闇は怖くないのでしょうか?
死ぬと分かったら余計に怖いのではないのでしょうか?私達は死ぬと宣告されていない。
いずれ死ぬであろうとしか思っていない。だから、死ぬ間際の人のことは分からない。
これを書いた人は、本当にそう思ったのか?
そう思いたっかたのか?
私にはわからない。でも、知りたいなって思うのです。

はじめましてmirifumiさん
死に直面した人は、何かを悟ったような状態になる、というような言い方をしますが、
それが事実なのか否か、私にはわかりません。そういう人もいれば、そうでない人もいることでしょう。
鈴木章子さんが「本当に思ったのか、そう思いたかったのか」は分からないことです。死を宣告されてないというのは、医師からということでしょうか? でも、生を受けたということは、死の宣告を受けたということだと、私は思っています。鈴木章子さんの詩に出会った私が、どう生きて来たか、これからどう生きるのかを問われているように思います。

闇は怖いものです。怖いからこそ、そこに一筋の光明が見えたとき、「闇があんまり気にならなくなる」と思われたのでしょう。「闇がなくなる」とは言われてないんですよね。それに、「あんまり」ということばに、「怖いです。怖いですが、大丈夫です」という思いが含まれているように感じました(私の勝手な解釈ですが)。

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