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2005年5月

2005年5月31日 (火)

考えるということ

なにかを考えるとき、自分が考えられる形にしてしまう。
自分が考えられる範囲を超えて考えられることはない。
いのち について考えるときも、自分が考えられる範囲の中でしか考えられない。
いのち って、自分の思考の範囲内にとどまるほど小さなものではないはず。
もっともっと大きくて、もっともっと深いものなのに、
自分の思考力・想像力・価値観の中で考え、その中に納まるものにしてしまう。

考えるということは、とても大事なこと。
考える・悩む・行動する。その歩みはとどめてはいけない。
自分の狭い思考力を補うために、人と話すということは有効。
そんな事実があるんだ。そんな考え方があるんだ。そんな方法があるんだ。
自分が知っていることより、知らないことのほうがはるかに多い。
それを知らされる。
でも、人との会話を経ても、まだまだ知らないことがたくさんある。

考えるということは、とても大事なこと。
考えても考えても、まだまだ知らないこと、思いが及ばないことがあるということを知ることは、もっと肝心なこと。

仏教の教えでは、仏法不思議・仏法不可思議という ことば がよく出てきます。
不思議・不可思議。手品・自然現象などを見てビックリという意味ではない。
思議できない。自分の思いを越えているということ。
自分の思いを越えたはたらきがあるということ。
それほど大きく、深く、広い はたらきが、私の身を包み込んでいる。

不思議・不可思議。そういうことばに出会いながら、思議しようとしていた自分に気付きました。
分かったふうなことを言ってきてしまいましたね。
ものを知り尽くすことより、知りたいと思う気持ちこそが大切なんですよね。
そういう気持ちを見失っていました。

2005年5月28日 (土)

自分の思いどおりにしようとしたら孤独になる

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昨日の文章を書きながら、この一節を思い出していました。
というか、この一節だけの詩だと思い込んでいました。
調べたら、まだ続きがありました。

自分の思いどおりにしようとしたら
孤独になる

思いどおりを捨てさせてもらったら
ずいぶん明るい

一人であっても明るい
足元を支えてくれている
諸佛が見えてくる

そして明るさに気付いた者は
闇から明るさへの道を
知っているので
闇があんまり
気にならなくなる

(鈴木 章子
  『癌告知のあとで なんでもないことが、こんなにうれしい』探求社)

鈴木章子さんは、北海道の大谷派のお寺の坊守さんです。癌で40代で亡くなられました。
病床生活の間、自分が感じられた思いを、たくさんの詩にして遺されています。

自分の思いどおりにしようとしたら 孤独になる
「孤独」は自分が思い通りにしようとした報いです。苦しみです。
一人であっても明るい 足元を支えてくれている 諸佛が見えてくる
「一人」は孤独とは違います。つねに諸仏が私の足元を支えてくれている。一人ひとりの足元を。
常に私を支えてくれているはたらきがあることに、気付きもしないで生きてきました。
そのようなはたらきに支えられている私であるということに気付かず、不安の中を生きているから、何かを求め、結果孤独になってしまうのですね。
私を支えるはたらきがあることに気付いた時、既に私の歩む道が開けていたことが見えてきます。
その道を歩むのは、私ひとり。一人ひとりが自分の道を歩む。でも、一人ひとりの足元に、私を支えるはたらきがあるから、淋しくもない、孤独でもない。

自分の思いどおりにしようとしたら 孤独になる
この一節だけの詩だと思っていたとき、私たちに対する戒めの ことば だと思っていました。
詩のすべてに出会ったとき、鈴木章子さん自分自身の生きる姿を示してくださった ことば であることに気付きました。
私の生きる道を、身をもって示してくださっていたのですね。
ありがとうございます。

2005年5月27日 (金)

幸せ=孤独

孤独はつらいもの。
 一人の世界に没頭したいなぁ、
 あいつウザイ、いなくなりゃいいのに、なんて言うけれど、
ホンットにひとりぼっちになったら、孤独に耐えられる人はいないんじゃないかな。

孤独に耐えられないのに、人とは競争をしたがる。
 自分以外の誰かが、自分より秀でることを許さない。
 自分が他人より幸せでないと落ちつかない。
自分の理想どおりになったとき、自分がひとりぼっちになっていることに気付くことでしょう。
幸せになりたいという欲望は、孤独になりたいという欲望でもあるわけです。

でも、孤独はつらいもの…。
 一人の世界に没頭したいなぁ、
 あいつウザイ、いなくなりゃいいのに、なんて言うけれど…

この繰り返しですね ( ̄∧ ̄)ウーム

2005年5月26日 (木)

会うなら「今」

今日は、このブログをいつも見てくださっている方が、寺に遊びに来てくださいました。
コメントやメールで会話をして、前々からの友達のような気でいたけれど、実際に会ってお話をすると、もっともっと楽しかったです。
寺でお話して、本堂や境内を見学していただいて。天気が良くて、緑や風を感じるのに、最高の日でした。

 「久しく会ってませんね。会いませんか?」
 「そうですね、会いましょう」
 「いつ空いてるかなぁ」
 「そうですね…。そのうち連絡します」
この手の会話、日常でもよくありますよね。で、まだ会ってない。経験ありませんか?
でも、今回はとんとん拍子で話が進みました。
 「いつかお寺にお邪魔してもいいですか?」
 「はい、大歓迎です」
 「じゃぁ、○日はいかがですか?」
 「ハイ、空いてます」
で、今日お会いすることが出来ました。こういう行動力って、大切ですね。

出会いを大切に、時間を大切に、と心掛けていながら、先延ばしにしていることってありませんか?
ホントに会いたいなら、「そのうち」ではなく、「今」ですよ。

西蓮寺に行ってみたいなぁって方、ご連絡お待ちしています。
私に会った結果、失望するか否かは、責任もてませんが^^

ameさん、今日はありがとうございました。
またお出かけください。

2005年5月25日 (水)

星になれたら

長く助走をとった方が
より遠くに 飛べるって聞いた
そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るはず
動き出した僕の夢 深い谷越えて
虹になれたらいいな

(Mr.Children 「星になれたら」)

学生時代、カラオケで先輩が歌っているのを聞いて、いい歌詞だなぁって感じて、次の日にはCDを買ってました(アルバム「KIND OF LOVE」収録)。

「そのうちきっと 大きな声で 笑える日が来るはず」
なにか嫌なこと、つらいことがあると、この部分だけ口ずさんできました。
えっと、「そのうち」って?
「そのうち」って、「この先いつか」って考えていました。
そのうち嫌なことも つらいこともなくなって、笑える日が来るだろうって。
いやいや、そんなふうに考えているうちはいつまでたっても「そのうち」なんですよね。
「そのうち」って、「今」なんじゃないかなって気付きました。
嫌なことも つらいこともなくなるわけではないけど、そういうことも含めて今を生きているんだなぁって思ったら、こころの中で微笑んでいる自分が見えた。
「そのうち」って、「今」なんだ。
長い助走期間かと思っていたけど、すでに飛んでいたんだ。
やっと気付きました。
(学生時代から何年経ったことか…)

2005年5月24日 (火)

談合

「談合」という ことば がニュースを賑わせています。悪い意味として。

歴史上「談合」を勧めた人物がいます。
本願寺第8代 蓮如上人です。
一 前前住上人、御法談已後仰せられ候う。四五人の御兄弟へ仰せられ候う。「四五人の衆、寄り合い談合せよ。必ず、五人は五人ながら、意巧にきく物なり。能く能く(よくよく)談合すべき」の由、仰せられ候う。
「蓮如上人御一代聞書」(120)

蓮如上人は、ご法話の後、寄り合い、談合することを勧められました。
5人いれば5人がそれぞれ、自分の心に合わせて、自分勝手に聞いてしまうものです。教えを聞いた後、よくよく話し合いなさいとおっしゃられました。

お気付きだと思いますが、蓮如上人が勧める「談合」と、今使われている「談合」はまったく違います。

蓮如上人が勧める「談合」は、人の話を聞き、違う見方・考え方があることを知れということだと思います。
訳本によっては、「自分の間違いを正す為」という書き方をしたものもありますが、何が間違いで何が正しいかは分かりません。でも、違う意見を聞くことによって、思いもしなかった考え方を教えてもらえることはたくさんあります。当然、頷けない考え方もあります。でも蓮如上人はよくよく談合しろと言います。答を見い出せということではなく、たとえ頷けない考え方をする人とでも、話し合いをするということが大事だよと教えてくださっているのだと思います。
なにかひとつの答を導き出すために「談合」せよと言われたのではなく、たとえ考え方はバラバラのままでも、「談合」するという行為自体を大切にされたのだと思います。

今の世の「談合」は、関わる人間がおいしい思いをするために話し合って、「まぁこれぐらいで」って感じの一応の答を作ることを言います。そういうのは「談合」とは言わないんですけどね。

2005年5月23日 (月)

ことばのひびき

ことばには響きがあります。
その響きを通して、ことばが身に染み入ってきます。
思いやりをもって発せられた ことば には温もりの響きがあり、冷淡さをもって発せられた ことば は人を傷つける響きがあります。たとえ同じ ことば であっても、響きの感覚は違ってきます。
温もりがあるのが良くて、冷淡なのが悪いってことじゃありませんよ。励まそうとする時、温もりをもって励ます場合もあれば、わざと冷淡に励ますこともあります。
ことばだけでなく、ことばの響きを感じれば、発した人の思いが伝わってきます。
響きを聞こうとしなければ、温かい ことば だけ受け容れ、冷淡な ことば に恨みを持つことになります。
温かい ことば だけど、突き放している場合だってありますよ。

「響き」といっても、声や音だけのものではありません。
手紙にもメールにもこのブログでも、文章には「ことばのひびき」があります。その響きを聞いていく。
響きを聴こうという意識を持ちながら読んでいると、自然と書き手の思いが聞こえてきます。
(余談ですが、自分で意識して「きく」ことを「聴く」。その結果、きこえてきたのが「聞く」。という意味があります。
ですから、人の話を「きく」と言うより、人の話を「聴聞」すると言うと、相手の話を必死に理解しようという意思が感じられます。)
声を出しながら読むことって、大切な作業なんですね。ひとり 部屋にいるとき、声に出して本や手紙を読んでみましょう。今までと違う響きや息吹が聞こえてきます。

ネットが普及して、メールやブログのことば足らずによる誤解や喧嘩が増えているような気がします。
昨年長崎の佐世保で起きた、小学生が同級生を殺してしまった事件も、発端はメールでした。
確かに、メールよりは手書きの手紙が、手紙よりは直接会って話すことが思いは伝わると思います。
でも、だからといって、メールに不備があるわけではありません。
手紙だって、思いが伝わらないときはある。直接会っているだけに、冷静に考える時間もなく、相手に突っかかってしまうこともある。どんな状態であれ、誤解や喧嘩は付き物。不備があるとしたら、私自身かもしれませんね。

ことばの上っ面だけで相手の思いや物事を理解しようとしないで、
ことばの響きを聞く努力を心がけたいものです。

2005年5月22日 (日)

ありがとう

    出会ってくれて、ありがとう。

      「こころの引力の力」
 
   友達になったり、恋人になったり。
出会いは私にたくさんのエネルギーをくれる。
    ドキドキしたり、ホッとしたり。
  出会いは私にいろんな気持ちをくれる。
  私のいのち、輝かせてくれてありがとう。
     あなたに会えて、よかった。

『ありがとうの本』 竹本 聖(ぶんか社)より
 たくさんの「ありがとう」に出会える本。
 「ありがとう」って、自分ひとりだけで生きていては出てこない ことば。 
 たくさんの「ありがとう」に囲まれて生かされていることに気付きます。


今日も読んでくれて、ありがとう。

2005年5月21日 (土)

感謝について

昨日は「恩について」考えていました。
恩を受けている、大切な人なのに、“恩”が“怨”に変わってしまうこともある。“恩”を“温”に感じない私は何様なんだろう。
そんなことを考えていて、ふと思い出したのがこの ことば。
  幸せだから感謝するのではない
  感謝しているから幸せなのだ

前々から大事にしている ことば。
それが今朝、急に頭の中にバーンと現われた。その瞬間に、
  恩を受けたから感謝するのではない
  感謝しているから恩を感じるのだ

という ことば に入れ替わった。

いつのまにか、“恩”を遣り取りするものと勘違いしていました。“恩”はもらうものでもないし。それに、(意識して)売るものでもない。“恩”を遣り取りするものだと思っていたから、不平不満が出る。
日々の生活の中、様々な縁によって今の私がいる。たくさんの縁をいただいている。それだけで感謝感謝。
その気持ちを忘れていたんだろうなぁ。だから、“恩”についての深い迷宮を彷徨ってしまいました。しかも、その彷徨った原因を恩人に向けてしまうなんて…。
実は、昨日の記事は、2年ほど前に書いた文章の焼き直し。つまり、2年ほど前にも同じ迷宮を彷徨っていたわけ。出口を見つけたわけではないけど、彷徨っていたことも忘れていた。成長してないねぇ。

感謝を忘れて生きている人間に、“恩”は感じられません。
でも、私が感じられないだけで、たくさんの人やものから、たくさんの“恩”を受けているんですよね。

2005年5月20日 (金)

恩について

ひとつの恨みで、とおの恩を消し去りますか
ひとつの恨みで、とおの恩を強く感じますか

誰にだって、恩を受けている人はいるものです。
親であり、先生であり、先輩であり…。
目上の人ばかりとは限りません。子や生徒、後輩から恩を受けていることもたくさんあります。
私が教えている・育てているという意識からは、年少者から恩を受けているなんて思いもしないでしょうけど。
教える・育てることによって、教えられる・育てられるということがあるわけです。
家族もそうですね。近い人間なだけに、恩のやりとりがあるなんて忘れてしまいがちですが、実は常にお互いに恩を与え合っているんですよね。

恩を受けて生きている私ですが、たくさんの恩を受けているにも関わらず、恩を与えてくれているその人が、たったひとつ、自分に嫌な思いをさせた時、あなたはどのように感じますか?
「そんなことをする人だとは思わなかった」「信じていたのに」「裏切られた」と怒ってしまいますか?
ひとつの恨みで、とおの恩を消し去りますか?
「なにかの間違いだろう」「こんなことを気にする以上に、この人からはたくさんの恩をうけているなぁ」と許せますか?
ひとつの恨みで、とおの恩を強く感じますか?

恩を感じるほどの人ですから、付き合いも深いことと思います。
ということは、接する機会も多いわけですから、どんなに恩を受けた人であっても、不快な思いをさせられることもあるでしょう。
そんな時、今まで受けてきたたくさんの恩を忘れて腹立たしく思ってしまうのか、それとも、一度不快な思いをしたことによって、それまでの恩を改めて強く思い起こすのか。
あなたはどちらですか?


2005年5月19日 (木)

経教は鏡の如し

以前、阿弥陀如来についてお話したことがありました(果てない波がちゃんと止まりますように)。

阿弥陀如来は、「南無阿弥陀仏」と念仏申すものを救いたいという願いを起こされました。
そのお話のときに、「唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」についての説明をしませんでした。
「ただし、五逆の罪を犯したものと、教えをそしるものは除く」と言われています。
「南無阿弥陀仏と念仏申すものを救いたい」と言いながら、「五逆の罪を犯したものと、教えをそしるものは除く」と言われます。
〔五逆の罪とは、(1)父殺し(2)母殺し(3)阿羅漢殺し(4)和合僧破り(5)仏身から血を出すことなのですが、今はこれ以上の説明はしないでおきますね。〕

どのように感じられますか?
「阿弥陀さんといえど、そんな大罪を犯したものまでは救わないだろう。また、救われなくて当然だ」
「阿弥陀さんは、皆救うと言いながら こういうものは救わないって、言ってることが違うじゃないですか」

「大きな罪を犯したもの、仏法をそしるものは救われなくて当然だ」って思う人が多いのではないかと思います。

思ったことはですね、こういうふうに考えること自体が「仏法をそしる」ことなんじゃないかなぁってことです。
「そしる」というと、悪口を言ったり、バカにしたり、ののしる、というような態度を思いますが、疑うとか、どういうことかな?って考える態度も「そしる」ってことだなぁ、と思いました。

そう考えると、私たちはすべて救われない対象なわけです。
「大きな罪を犯したもの、仏法をそしるもの」について考えるとき、「自分は違う」というところに立って考えてしまいがちですが、実はそのまんま私の姿なわけですよ。
善導大師という方は、「経教は鏡の如し(お経や教えのことばは、私を写しだす鏡である)」と教えてくださいました。
お経や教えのことばは、いい人間になる方法や幸せになる方法が説かれているわけではありません。自分の姿が書かれているんですね。というか、ことばを自分のこととして受け止められるか、他人事として見てしまうか。どちらに立つかで、私の生きる道筋がガラッと変わってしまいます。

「大きな罪を犯したもの、仏法をそしるもの」が救われるか救われないかが問題なのではなく、そこに自分の姿を見るか、他人事として見てしまうか、私の姿勢が問われているんですね。

2005年5月17日 (火)

ため息ひとつで幸せひとつ逃げてっちゃうよ

ひとりごと
皆さん、なにをブツブツつぶやいてますか?
いつも同じことをつぶやいてる人もいるだろうし、その時に問題になっていることについてつぶやいている人もいるでしょうね。ひとりごとを言ってることに気付いてない人もいるかも。
歌を歌ってることもありますよね。自分ひとりしか居ないと思って、気分よく歌ってたら、そばに誰かいたりして(*^_^*)ハズカシィ

自分は何をひとりごと言ってるかなぁって思い返してみました。
あまり覚えてない…。たいしたこと考えてないんでしょうね。
その代わり、ため息をついてることが多いことに気付きました。  
                   ハァー C= C= C=( ̄□ ̄;) って。

なにをそんなにため息をついてるんだろう。原因は不明です(いや、ホントに不明か?)。
自分ひとりの時はべつにかまいませんが、飲んでる時とかにたまに出るんですよね。ハァーって。これは一緒にいる人にとって不愉快ですよね。ため息ついた瞬間に「いけない 2」ってハッとするのですが、場が白けてしまいます。
そんな時に、よく一緒に飲む友人が、
ため息ひとつで幸せがひとつ逃げてっちゃうよ」(^。^)y-。oO
と言ってくれました。怒るでもなく、ため息の原因を尋ねるでもなく。
ごめんなさい。そんで、ありがとう。

あぁ、いったいどれだけの幸せが逃げていったことか…(T-T)
最近はため息をつくことはなくなりました(^-^)

今晩は、その友人と飲みに行ってきます (^-^)/~ マタネッ

2005年5月15日 (日)

うるさい・五月蝿い・常人い

(((((((((ブーン)))))))))
                        (((((((((ブーン)))))))))
  (((((((((ブーン)))))))))
             (((((((((ブーン)))))))))

あ〜、うるさい!!
ブログの記事を書こうとしたらハエが飛び回って、うるさい、うるさい。
「五月の蝿(五月蝿い)」と書いて「うるさい」と読ますとは、よく考えたものですねぇ。
誰が考えたんだろう。っていうより、よく採用されたなぁ。
よっぽどみんながウンウンって頷いたんでしょうね
(そういう会議があったのかどうか知りませんが^^)。

でも、ハエにしてみれば、ただ生きているだけのことであって、この時期の自分を「うるさい」と呼ばれるなんて心外でしょうね。傷ついてるかもしれませんね。

えっと、大地を掘り返して、海を埋め立てて、宇宙に飛び出そうとしたり、二酸化炭素まき散らかして…。
常に自然破壊をし続けている人間って、自然界からすれば一番「うるさい」存在でしょうね。
「常人い」で「うるさい」と読まれてたりして。ハエから。

2005年5月14日 (土)

自由を手に入れて淋しくなった

  一緒にいるときは
  きゅうくつに思えるけど
  やっと自由を手に入れた
  ぼくはもっと淋しくなった

       (槇原敬之「もう恋なんてしない」)

なくしてから、失ったものの大切さに気付くことってあるわけで…。
しかもそれが二度と戻らないとなると、淋しくて淋しくて。
こんなことなら、一緒にいる時間をもっと大切にしておけばよかった。
思い出を もっと もっとたくさん 作っておけばよかった。

とは思うけど、
どんなに一緒にいる時間を大切にしても、
どんなに思い出をたくさん作ったとしても、
いなくなってしまった淋しさは、私の心をしめつける。

どんなに一緒にいる時間を大切にしても、
どんなに思い出をたくさん作ったとしても、
これで満足、これで淋しくないなんてことはありえない。

いつかは離ればなれになってしまうことは、避けられない現実。
一緒にいて、きゅうくつに思ってしまうことがあるのも、正直な気持ち。
どちらも真実。
その真実を受け容れられないから、もっと淋しくなってしまう。

淋しさって、
なくしてしまった淋しさでもあるけれど、
今まで当たり前と思っていたことが、実は当たり前のことではないということに気付かされた淋しさかもしれない。

当たり前の存在ではなく、有り難い存在のあなた。

2005年5月12日 (木)

弱い私

生きるということは、いろいろな悩みを抱えているということ。
明るく振る舞っている人ほど、哀しみを背負っているのかもしれない。

  ユーモアの源泉は、哀愁である
                   マーク・トゥエイン

    哀しみがあると生きていけないのか
     哀しみがあっても生きていけるのか
      哀しみがあるから生きていけるのか

哀しみのないところにユーモアは生まれない。
哀しみを見せることは弱さだと人は言う。
でも、弱い自分を見せたっていいじゃないか。隠す必要ないじゃないか。誰だって持っているのに。
哀しみを正直に表現することが許されない世の中なのか?

  脆弱(ぜいじゃく)を恐れず、寂寥(せきりょう)を忘れず
                                   良寛

    心の中にさびしさひとつ
     弱い自分と戦いながら
      これも自分と気がついた

弱い自分を知る人こそ本当に強い人。
弱い自分を恐れず、忘れず。

2005年5月11日 (水)

もっともよい復讐の方法は…

「JR西日本 運転士に暴行、暴言相次ぐ」(時事通信)

なんでそういうことをするの?

もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。
(マルクス・アウレーリウス『自省録』)

2005年5月10日 (火)

ハーモニーを奏でられない

ハーモニー(調和)について、もう一考。

地球上には多くの生物が生息しています(話が大きくなりすぎました?)。
地球上には150万余種の生物が生息しているそうです。これらの生物が、自分の生息範囲を競っていては、お互いに潰し合いになり、結局はすべてが滅びてしまいます。
自然界は弱肉強食のイメージがありますが、本当に強いものだけが勝ち残っていくシステムならば、一瞬の栄華は極めるでしょうが、結局はその強い生き物も滅びてしまいます。食料となる動物や気温を調節してくれる植物が無くなってしまうわけですから。
でも現実には、多くの生物が生息している。これは、棲み分けがちゃんとされているからです。棲み分け、自分の生きる分限を守って生きることです。自分の与えられた場で、必要最小限の食物で生きていく。自分の領分を越えてしまうということは、最終的には自分で自分の首を絞めることになります。
地球上に生息できる生物の絶対数は決まっているということを聞いたことがあります。つまり、特定の生き物の数が増えるということは、他の生物の数が減る、或いは絶滅に追い込むということになるわけです。

生きとし生けるものの声を聞く努力をしないと、きれいなハーモニーは奏でられません。
ハーモニーの輪から外れるということは…

2005年5月 9日 (月)

ハーモニー

GWも終わって 〔 私にはまったく関係ありませんでしたが (T_T) 〕、さぁ気分一新 仕事に勉強に励みましょう!!
とはいっても、休みモードからはたらきモードへはなかなか戻らないですよね。
休みモードが切り替わらないのは自分の問題ですが、人との関係で憂鬱な気持ちが切り替わらないのはつらいですよね。
人と接していると、自分と合う人間、合わない人間と色分けされてきます。そこで思うのが、自分と気や意見の合う人ばかりならいいのに…ということ (なんて考えてしまう人はこちらへどうぞ)。

ハーモニーは調和を意味しますが、みんなが同じ音階だと、そろっていて綺麗に聞こえるかもしれませんが、ハーモニーになりません。気の合う人ばかり集まると、意見は綺麗にそろうかもしれませんが、そこに発展性はなく、美しいハーモニーが奏でられることはないでしょう。
(「意見は綺麗にそろうかもしれませんが」と書きましたが、それだって難しいことですよね)

手段や考え方は様々でも、目指している方向や目標が同じなら、美しいハーモニーを奏でられる可能性があります。美しいハーモニーのためには、相手の声を聞くことも大切です。個々の歌声はどんなに素晴らしくても、相手の声を聞かずに歌っていては、人の心に響くことはありません。個々の考え方はいろいろでも、相手の話を聞くことによって、更にいい考えが浮かぶことがあります。よりよい道すじが見えることもあります。

風薫る5月、素敵なハーモニーが聞こえてきます。


追伸
今日は素敵な詩に出会いました。一哉さん、ありがとうございます。
一哉さんの詩のおかげで、人との調和について考えるきっかけをいただきました。

2005年5月 8日 (日)

母の日

今日はたくさんの方がお墓参りにみえました。
ほとんどの方がカーネーションを持って。
今日は母の日ですね。

カーネーションの花言葉は、「純粋な愛情」「あなたを熱愛する」だそうです。
  色別の花言葉もあって、
    赤  「愛情」
    白  「尊敬」
   ピンク 「感謝」 だそうです。

白いカーネーションには「私の愛は生きている」という花言葉もあります。
私の愛は生きている
生きている私が、亡き母を慕い、カーネーションを贈っているように思っていたけれど、
実は今もなお この私に亡き母の愛情がそそがれ続けているのですね。

       05-05-08_09-40

2005年5月 7日 (土)

苦しみがなくなるということ

  苦しみがなくなるということは
  その苦しみを生かしていくことが
  できるということ

               蓬茨祖運

以前、仏の「慈悲」とは「与楽抜苦」であるという話をしました。
 仏さまが、衆生を想うはたらきを「慈悲」と言います。
 「慈悲」は、「与楽抜苦(よらくばつく)」といって「楽を与え、苦を抜く」
 という意味があります。
 この「与楽抜苦」とは、私たちの欲望レベルの“与楽”や“抜苦”を
 指しているのではありません。
 悩み苦しみの中を生きるという、身の事実に目を向ける、
 そのことこそ「与楽抜苦」であると教えてくださっています。

下線部分をもっと分かりやすく表現できないかなぁと思いながら書いたのですが、
今日蓮光寺さんのHPで 、この ことば に出会い、「あぁこういうことかなぁ」と感じました。

苦しみがなくなるということは その苦しみを生かしていくことができるということ

苦しみを生かすことなしに 苦しみがなくなるということはないんですね。
苦しみから逃れたいと思っても、実際に苦しみがなくなることはありません。
酒や遊びでごまかしても、苦しみはそのままです。
日の良し悪しを選んで行動したところで、苦しみに遭うことはあります。
時が経てば解決するということもありますが、苦しみがなかったことになるわけではありません。

苦しみを生かすのは、私じゃない。
苦しみを生かしていくことができるようになることが、仏の慈悲「与楽抜苦」なのです。
教えの ことば に触れて、
前向きになったけど、やっぱり落ち込んで、でもまた頑張って、でもまた・・・。
この繰り返しです。でも悪循環ではない。
仏の慈悲が、この私に注がれているから立ち直る力が湧いてくるのです。

「じゃぁ、落ち込まないように常に慈悲を注いでください」
「常に仏の慈悲は注がれていますよ」
「それなのにどうして落ち込んでしまうのでしょう?」
「それは、私がしばしば仏を忘れてしまうから。でもね、仏さまは常に私のことを見ていてくださっていますよ」

2005年5月 6日 (金)

日々是好日

東京 午後7時30分 雨。

雨の日は、憂鬱な気持ちで出かけることがあります。出かける予定をやめてしまう人もいるのではないでしょうか。天気で自分の行動・気持ちを左右されてることがありますが、日や方角の良し悪し、数字(4とか9)を気にする人はいませんか?

「吉日に悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なり」といへり。
吉凶は人によりて、日によらず。
(吉田兼好)

結論から言うと、まったく気にしなくていいことなんですよ。
六曜(仏滅や大安など)とか厄日・厄年を気にして、更には天気に左右されてしまう。終にはなにも出来なくなってしまいますね。
限られた人生の中で、なぜそのようなことで自分の行動を縛ってしまうのでしょう。
それとも、限られた人生だからこそ、最善の日・方角などを選ぼうというのでしょうか。

物事には原因と結果が必ずあります。
自分や家族にとって悪い結果が出たからといって、それは日や方角に原因があるわけではありません。
日や方角に気をとられていると、物事の原因・本質を見失ってしまいます。
かけがえのない今日一日を生かされていると考えれば、「日々是好日」〔雲門(中国のお坊さん)〕。日の良し悪しを気にすることはありません。

そのように考えれば、余計なことを気にせず、自分がすべきことを堂々と行えるのですが、
厄介なのは、日を気にする親戚や周りの人間ですよね。葬儀・結婚式・建築などの日取りにうるさく口を出す人はいませんか? 親切心から言っている人もいるのでしょうが、他にアドバイスすることはたくさんあると思うのですが。

気にするといえば、六曜。でも、勘違いして理解されているようです。
「大安」に結納や結婚式など祝い事をすることが好まれます。 
でも「大安」って「大いに安んずることが吉」という意味で、家でじっと休む日なのだそうです。ですから、忙しく祝い事をするということは、自ら良くない行動をとっていることになりますよね。
「友引」は「友を引く」という意味で葬儀の日としては嫌われますし、結婚式をするには喜ばれています。
しかし「友引」は元々「共に引き分け」勝ち負けのない日を意味します。

「気にする必要はないんです」といくら言い続けても、気にする人はいつまでも気にします。否定はしません。でも、世間一般に言われていることを鵜呑みにしているだけで、実はなにも根拠なく信じているという姿が浮き彫りになります。信じれば信じるほど、日の良し悪しは気にする必要がないことだということを、自ら示してくださっています。


付記(5月7日記)
気にするな 気にするな と言っていること自体、実は気にしているってことなんですよね。

「アンチ巨人」なんてわざわざ言うってことは、どこか気にしているから言うわけで(「アンチオリックス」とか「アンチカープ」とかって、聞かないじゃないですか)、そういう意味ではファン心理がはたらいているんですよ。
例に挙げたチームを応援してる方、ゴメンナサイ

気にしなくていいですよって言ってる私が気にしすぎているんだよなってことです。

こんなことがありました。
真宗のお勉強をして、「真宗では日や数字の良し悪しは言わないんだ!」って力んでいた頃、
車のナンバーを自分で選べるようになって、「44−44」にしたんですよ、
「良い番号だろう!」って友達に見せたら、
「良い番号だけど、だけど、これってくだらないよ」って言われました。
(ムンクの叫び!!!!)
「そうだ、気にしないといいながら、気にしてるからこんなことしてしまうんだ!」その瞬間に気付きました(もっと早く気づけよってなぁ)。

自分が割り当てられた番号をいただいて、自分が物事を成すご縁をいただいた日に物事を成す。
あるがまま生きればいいのに、気にする必要がないことに振り回されていました。
雨を止まそうと思ったり、晴れが続くことを不安に思ったりしなくていい、
雨の日は雨の中を、晴れの日は晴れの中を生きればいいんです。
「日々是好日」なんです。

2005年5月 5日 (木)

怒ってる?

怒ってるのかな?
 本人は怒ってない。
 怒っているように見えるのは、
  怒らすようなことをしたから。

これぐらい いいよね。
 本当はよくない。
 これぐらいいいよね なんて わざわざ考えるのは、
  いけないことと自分がよ〜く分かっているから。

気があるのかな?
 相手はなんとも思ってない。
 気があるように見えるのは、
  自分の方こそ気があるから。

嫌われてんのかな?
 やっぱり相手はなんとも思ってない。
 嫌われてるように感じるのは、
  自分が相手のことを好きだから。

なにかあったのかな?
 な〜んにもないです。
 心配してしまうのは、
   自分の心の中にも思い当たることがあるから。

追伸
 可愛いバラが咲きました♪
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2005年5月 4日 (水)

祝婚歌

  祝婚歌    吉野 弘

  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと
  気付いているほうがいい

  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい

  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい

  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい

  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい

  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったりゆたかに
  光をあびているほうがいい

  健康で風にふかれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと胸が熱くなる
  そんな日があってもいい
  そして、なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい

昨日に続いて、吉野 弘さんの詩をご紹介します。
「祝婚歌」 披露宴のスピーチで聞いたことがある方もたくさんいるのではないでしょうか。
吉野さんが自分の姪御さんの披露宴に出席できなかったときに贈った詩だそうですが、そのまま詩集に載り、新たな一歩を踏み出すふたりのために贈られています。

「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気付いているほうがいい]
私はこの部分が特に好きです。
「祝婚歌」とはいっても、結婚されたふたりだけへのメッセージではないと思うんですよね。
誰に対しても通じるメッセージだと思います。

「正義」が何なのか、分からない世の中です。
いや、分かっているのでしょう。私の考え方が正しいと思っている人にとっては。
仮に正しいことを言ってたとしても、人を傷つけることってあるわけで。
いや、正しければ正しいほど傷つけるのかも。

JRの脱線事故をニュースで見ていてですね、遺族の怒りの様子が映し出されています。
遺族にしてみれば、当然の怒りだと思います。
でも、あの怒りに ついていけない第三者もそろそろ登場するわけです。
「謝っているんだから、許してあげて」「そんなに怒ることないじゃないか」って。
それもまた否定できない感情だと思います。
悲しいのは、遺族と、遺族に対して「謝っているんだから、許してあげて」と思い始めた人たちが争ってしまうこと。
直接に争いが起こることはないでしょうが、争う必要のない人どうしが争い、傷つけあうことがとても悲しい。
遺族の怒りも真実ですし、それを見て辛く思う人の感情も真実。

「正義」が何なのか。それは分かりきっている。自分なんですよ。そこは外せない。だから、正義と正義が対立してしまう。正義の反対は悪じゃないんですよね。
自分が正義という考え方は誰だって外せません。
お前の「正義」に、悲しみの共感はあるのか。そういうことを問う眼を持ち続けていたい。そういうことを問うてくれる人こそ一生の伴侶なのでしょう。

2005年5月 3日 (火)

  過        吉野 弘
日々を過(す)ごす
日々を過(あやま)つ
二つは
一つことか
生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々
「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたはどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようで―


「過」という漢字、「すごす」とも「あやまつ」とも読めます。
まったく関係がないように思いますが、「度が過(す)ぎることが、過(あやま)ちに通じる」と考えると、まったく関係がないとは言えませんね。
「過ごす」の対に「過ち」があるとしたら、時間を無駄に過ごすことを「過ち」と言うのかもしれません。
時間を大切に生きようと思いつつ、気付いたらダラダラ過ごしていたりします。「過」という字は、そのような生活態度を戒めているのかもしれませんね。

生きるということは、罪を犯しながら生きているということだと思います。そう、私たちは、許されることがない存在なのです。(5月1日の記事より)ということを書きました。「過去」は「過ちの」歴史を表わしています。悲観的に言っているのではなく、過ちを繰り返しながら生きているという身の事実ですね。悲しいことは、そのような身の事実ではなく、そのような歴史を「過去」のこと、「過(あやま)ちが去っていった」ことにしてしまうことです。

「あなたはどんな過ちをしていますか」
常に自分に問い続けて生きていきたいものです。日々反省。


付記
『詩のすすめ』吉野 弘(思潮社)を読んでいて、「過」についての考察のきっかけをいただきました。

2005年5月 1日 (日)

2005年5月のことば 

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  許されるつもりで謝るのか
   許されない覚悟で謝るのか

謝るということについて、最近考えさせられています。
兵庫県尼崎市のJR福知山線で起きた脱線事故。
中国が日本に対し、謝罪が無い、足りないと言う。
JRの関係者の謝罪に対して、遺族としては納得できるはずがありません。たとえ原因がハッキリ究明できたとしても、たとえ同じ事故がおきないように対策をとってくれたとしても。「殺人と一緒だ!」という遺族の怒りの声ももっともです。
中国と日本との関係を見ていて、謝るということは、一方が上で、もう一方が下という図式が出来てしまうと、謝るという行為が意味をなさなくなるものだなぁと感じています。
事件・事故や国家間のこととして考えると、客観的に見てしまいますが、謝る・謝られるということは日常あることです。謝る立場に立つこともありますし、謝られる立場に立つこともあります。決して客観的な出来事ではなく、自分の身に起こることとして考えてみたいと思います。

謝る立場に立つ
謝る立場の場合、許されるつもりで謝っていますか、それとも、許されない覚悟で謝っていますか。「これだけ謝ってるんだから、もう許してくれよ」なんて思ってしまうことはありませんか?

謝られる立場に立つ
謝られる立場の場合、相手を許せますか? その内容にも寄りますが、許すということは、被った被害以上に、苦しい決断が必要です。
ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない。ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ
                     (山本 周五郎 「ちくしょう谷」より)

以前この寺報で、さだまさしさんの「償い」という歌を取り上げました。
歌の主人公は、かつて交通事故で人を殺してしまいました。被害者の奥さんは「人殺し あんたを許さない」とののしります。それから彼は人が変わったように働き、償いきれるはずもないことは分かっているけれども、毎月被害者の奥さんに仕送りを続けます。
事件から7年目にして初めて奥さんから手紙が届きます。
「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度に 主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
この歌は実話に基づくそうです。2001年4月、東急田園都市線三軒茶屋駅で銀行員が殴られて死亡する事件がありました。東京地裁の山室恵裁判長が判決後に、事件を起こした少年2人に対して「償い」の歌詞を読むことを勧めました。
「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、君たちの反省の言葉がなぜ人の心を打たないかが分かるだろう」と。

許してもらえたとしても、罪そのものは消えません。でも、「許してもらえた」という事実の背景には、謝る人の懸命さや誠実さと、謝られる人の決断があります。双方が一致して初めて、悲しい出来事を抱えながらも(消えるわけではありませんが)生きていく道が開かれてくるのです。

事件・事故・戦争に限らず、生きるということは、罪を犯しながら生きているということだと思います。そう、私たちは、許されることがない存在なのです。そのような人間の姿を親鸞聖人は「愚者」と言い当てられました。そんな許されるはずのない人間の事実に目を向けるほどに、阿弥陀如来が「南無阿弥陀仏」と念仏申す者を救おうと願われたことの有り難さを感じずにはいられません。

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