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2005年5月 1日 (日)

2005年5月のことば 

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  許されるつもりで謝るのか
   許されない覚悟で謝るのか

謝るということについて、最近考えさせられています。
兵庫県尼崎市のJR福知山線で起きた脱線事故。
中国が日本に対し、謝罪が無い、足りないと言う。
JRの関係者の謝罪に対して、遺族としては納得できるはずがありません。たとえ原因がハッキリ究明できたとしても、たとえ同じ事故がおきないように対策をとってくれたとしても。「殺人と一緒だ!」という遺族の怒りの声ももっともです。
中国と日本との関係を見ていて、謝るということは、一方が上で、もう一方が下という図式が出来てしまうと、謝るという行為が意味をなさなくなるものだなぁと感じています。
事件・事故や国家間のこととして考えると、客観的に見てしまいますが、謝る・謝られるということは日常あることです。謝る立場に立つこともありますし、謝られる立場に立つこともあります。決して客観的な出来事ではなく、自分の身に起こることとして考えてみたいと思います。

謝る立場に立つ
謝る立場の場合、許されるつもりで謝っていますか、それとも、許されない覚悟で謝っていますか。「これだけ謝ってるんだから、もう許してくれよ」なんて思ってしまうことはありませんか?

謝られる立場に立つ
謝られる立場の場合、相手を許せますか? その内容にも寄りますが、許すということは、被った被害以上に、苦しい決断が必要です。
ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない。ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ
                     (山本 周五郎 「ちくしょう谷」より)

以前この寺報で、さだまさしさんの「償い」という歌を取り上げました。
歌の主人公は、かつて交通事故で人を殺してしまいました。被害者の奥さんは「人殺し あんたを許さない」とののしります。それから彼は人が変わったように働き、償いきれるはずもないことは分かっているけれども、毎月被害者の奥さんに仕送りを続けます。
事件から7年目にして初めて奥さんから手紙が届きます。
「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度に 主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」
この歌は実話に基づくそうです。2001年4月、東急田園都市線三軒茶屋駅で銀行員が殴られて死亡する事件がありました。東京地裁の山室恵裁判長が判決後に、事件を起こした少年2人に対して「償い」の歌詞を読むことを勧めました。
「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、君たちの反省の言葉がなぜ人の心を打たないかが分かるだろう」と。

許してもらえたとしても、罪そのものは消えません。でも、「許してもらえた」という事実の背景には、謝る人の懸命さや誠実さと、謝られる人の決断があります。双方が一致して初めて、悲しい出来事を抱えながらも(消えるわけではありませんが)生きていく道が開かれてくるのです。

事件・事故・戦争に限らず、生きるということは、罪を犯しながら生きているということだと思います。そう、私たちは、許されることがない存在なのです。そのような人間の姿を親鸞聖人は「愚者」と言い当てられました。そんな許されるはずのない人間の事実に目を向けるほどに、阿弥陀如来が「南無阿弥陀仏」と念仏申す者を救おうと願われたことの有り難さを感じずにはいられません。

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コメント

こんにちは^^
生きている限り
自分は常に加害者で
加害者になる可能性を含んだ存在なので
人が人を許すということはとても傲慢なことのように思えました。
たまたま加害者、たまたま被害者
事故の場合なおさらそう思えます。

事故で死ぬということに理由やさだめがあって
死んでもいつかまた会える
死んだ後の世界があると信じられれば
人は人をもう少し簡単に許せるのでしょうか。

去年、縁があって”さだまさし”さんのコンサートに3回行きました。その中でも「償い」は、とても印象に残っている歌です。
「風に立つライオン」も大好きな歌。

あっ、きりんさんのコメントの所で一緒に手を挙げさせて頂いたhakka-ameです^^
2度目まして(笑)

さださんの唄う節と、言葉に込められた想いはとても心を揺さぶりますね。
私も今、許す事と戦っています。
許すという事を長さにして、それを計る定規があったなら・・・そんな風に思う今日この頃です。
勝手ですが、リンクいただいて帰ります^^

一哉さん こんにちは
たまたま加害者 たまたま被害者
私もそう思います。
加害者になることもあるし、被害者になることもあるんですよね。

「簡単に許せるのでしょうか。」
どうなのでしょうね。
でも、今コメントのお返しを打っていて感じたことがあります。例えばJR福知山線の脱線事故。遺族の方々の怒りの様子がテレビで映し出されています。許せないから怒っているわけですが、
“許したいけど許せない”から、怒り・苦しまれているのではないでしょうか。
“許したくないから許せない”のなら、怒りではなく、直接的な報復攻撃に出るのではないかと。
つまり、既に許しているのだけど、でも許せないという矛盾が自分の中で発生し、それが苦しみとなり、怒りとなって表出するのではないかと思いつきました。
分かりづらいですかね。

hakka-ameさん こんにちは
Giraffeさんのブログのコメントでは便乗して手を挙げさせていただき、失礼しました。でも、私もGiraffeさんには癒されていますので、同じ気持ちだったと思います。

母が長崎出身なので、小さい頃から さださんの歌に親しんできました。私も「風に立つライオン」好きです。素晴らしい曲ですよね。カラオケで歌うと嫌われるけど(長いから)。

「許す事と戦っています」
“許す”ということって、生きていくうえでのテーマに成り得るようですね。
一哉さんへのコメントでも書きましたが、腹立つこと、悲しいことがあったとき、“許したい”という気持ちが心のどこかにあるから、許すということと戦うのかも知れませんね。
そうでなかったら悩む必要もないわけですから。
許すということを計れる定規…。直線じゃなくて、輪っかの定規かも。
いつまでも終わりがないじゃないかと思われるかもしれませんが、出発点がすでにゴールだったという見方も出来ます。自分の気持ちしだいでどっちにもなります。

リンクありがとうございます。こちらもリンクさせていただきますね。
これからもよろしくお願いいたします。

かつさんありがとうございます。
とてもよく解ります。
人間である限り
許す・許されるの呪縛は付きまとうもので
それを学ぶために生まれてきたのだと
感じました。
理想ばかりでなく
かつさんのように等身大にたって
物事を考えていきたいです。

一哉さん ありがとうございます。

「学ぶために生まれてきた」
一生学びですよね。答なんかないし、すべてが答でもあるし(また ややこしいことを言ってしまった)。

等身大だなんて、恥ずかしいです。背伸びしたり、自分にない自分になろうとしたり、なかなか等身大になれない私です。

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