果てない波がちゃんと止まりますように
おとといの「ハナミズキ」の記事を書いていたとき、考えていたこと。
境内に綺麗なハナミズキが咲いたので、ブログにアップしたいなぁ。
写真だけじゃつまらないから、ハナミズキに似合う ことばはないかなぁ。
ハナミズキといえば、一青窈!(独断?)
で、ハナミズキの歌詞(母がCDを持っていた)を眺めていたら、阿弥陀さんはこんな気持ちだったのかなぁ、なんて感じていました。そうして書いたのが、おとといの記事です。
私のことは気にしなくていいから、先にゆきなさい。
あなたの幸せを願っています。
私に「ごめんね」っていう気持ちがあるなら、あなたを思う奴がいるってことを、あなたのこころの片隅にとどめておいてください。私はそれだけで幸せです。
阿弥陀さんとは・・・
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。
この文章は、「大無量寿経」というお経の中にある一節です。親鸞聖人は、数あるお経、数あるお釈迦さまのおことばの中から、この一節を見出し、阿弥陀如来のはたらきを感得されました。
「この世に生きとし生けるもの すべてを救いたい。生きとし生けるもの皆が「南無阿弥陀仏」とお念仏して、救われるまでは、私の救いはない」というのが、真宗の本尊、阿弥陀如来の願い(本願)です。
親鸞聖人はこの一節に出会い、私の人生は「南無阿弥陀仏」と、お念仏していけばいいのだということに目覚められました。そして、このような私でも救おうと願ってくださるはたらき(阿弥陀如来)に感謝されました。
「ハナミズキ」の歌詞を読みながら、阿弥陀如来のご苦労を感じていたのでした。
痛ましい事件・事故が起きたとき、やはり宗教では人は救えない、宗教はいらないという声を聞くことがあります。
反面、宗教があるからこころの救いになると言う声も聞く。
どっちも、言ってる人にとっては本音でしょう。でも、宗教が大切か否か、必要か不必要かなどということは、人間の側が論じることではないのだと思う。だって、私が思うよりも先に、私を思っているはたらきが阿弥陀如来なのだから。そのはたらきのなかを生かされているのだから。
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(親鸞聖人「高僧和讃」)
果てのない迷いの人生をさまよっているわれらを、阿弥陀如来が衆生を救おうという願いの船は、かならず救いの世界へと渡してくださいます。
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おかあさま、お若いですね ^^
たゆたゆたゆと さまよいながら
救いの舟を 待っております
投稿: Giraffe | 2005年4月26日 (火) 23:31
気は若いです(怒られちゃう)。
投稿: かつ | 2005年4月27日 (水) 00:34
こんばんは^^
何気なく開いた本の正にそのページに
今すべきことのヒントや答えを
見つけることがよくあります。
見守られているというのはそういうことなのでしょうか。やはりそのページを開くように促されているのでしょうか。
最近そんなことを不思議に思っています。
投稿: kazuya | 2005年4月27日 (水) 02:22
kazuyaさんこんばんは
そういうことってありますよね。
私が初めてkazuyaさんにコメント送ったときのことば「あの頃は良かったとは言いたくないですね/あの頃もよかったと皆で笑いあえるのを/楽しみにするようで在りたい」も、その時の私にまさにピッタシ来たのでした。
自分で物事判断し行動していると思いがちですが、促される力というものがはたらいているのかもしれませんね。
投稿: かつ | 2005年4月27日 (水) 03:16
kazuya さんのおっしゃること、すごくわかります
そういうの、よく あります わたしにも
偶然と思えない偶然が^^
かつさんのおっしゃるそういう力が
はたらいているのですね きっと
そう思うと、なんだか ちょっと勇気がわいてきますね
珈琲いれてきます^^
投稿: Giraffe | 2005年4月27日 (水) 06:23
おふたりの ことばや文章も、いろいろな巡り合わせ・縁によって生まれてくるわけで、その縁を大切にされてるなぁと感じるわけです。
実際に目に見えるものや、効果があるものでないと信じることができないという人もたくさんいますが、「偶然と思えない偶然」や「ページを開くように促されている」 目に見えないはたらきってあるんですよね。
そういうはたらきがあるんだなぁと感じることができると、ホント勇気がわいてきます。
投稿: かつ | 2005年4月27日 (水) 09:24