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2005年4月15日 (金)

居場所

みなさん、自分の居場所をお持ちですか?
こう書くと、みんなどう思うんだろう。家庭や職場やサークル活動の場(等々)であると答えられる人もいると思う。居場所がないなぁと言う人もいることでしょう。
居場所の捉え方も人それぞれかも。実在の場所を思う人もいれば、ぼんやりと空間・雰囲気を思い浮かべる人もいるでしょう。居場所がないなぁという人だって。

昨日、作家の田口ランディさんの講演を聞きに行きました。
講題:「人はなぜ、生きるのか」〜寄るべなき時代の希望〜

「寄る」ということをキーワードにお話をされました。
「寄る」と「集まる」は同義のようだけど、実は違う。「集まる」というと、意思を持った人間が、ある目的のために“集まる”。「寄る」といった場合は、自分の意思に関係なく、なんとなく くっつく。そういうはたらきが“寄る”。
「寄る」ということには、自分の力とは関係ない力(他力)がはたらいていて、寄り合って出来た“場”は、生命を活気づける、お互いに支えあう力を与えてくれる、と。
田口さんは、「九州の、ある老人のグループホーム」「浦河べてるの家」「水俣病患者さんで、国に訴訟を起こされた方々」の中に生命を活気付ける“場”の姿を見出されました。
その寄り合いの中から溢れ出る、人が生き生きと生きることが出来る力について語られていました。押し付けでもなく、教えるでもなく、「こういう場所があるのよ!」って笑顔で語られる姿が印象的でした。まるで、前から知り合いだったかのように。

はじめに、居場所(自分が「ここにいていいんだぁ」とこころから安心できる場)をお持ちですか?と尋ねました。
現代は「居場所がないなぁ」と嘆かれる人が多い時代です。で、その居場所のないことの責任を、外に押し付けている時代でもあると思うんですよね。「安心できる人がいない」「誰も信用できない」などなど不満だらけです。
でも、「居場所を作ろう!」として作ったのでは、それは「寄る」ものじゃなく、「集ま」ったものになってしまいます。本当の意味での居場所にはなりません。

田口さんは、どうやったら“場”が作れるかは分からない、マニュアルなんかないと言われました。
決して、3件の例を出して、こうすれば“場”を作れると言われたのではありません。でも、寄り合って、力が湧いてくる場が現実にあるんだということを私たちに教えてくださいました。だから、私たちにできることは「とりあえず、いい加減に信じる」ことだと。“場”作りを目標にするんじゃない、と。

どうしても居場所を求めてしまいます。で、次のような質問が出ました。
「田口さんが言われた方々は、絶望を感じられた方々です。そういう絶望した者どうしでないと、場は作れないのでしょうか? それほどまでの絶望がない者には、場は作れないのでしょうか?」
田口さんが例に挙げられた方々は、世間的弱者とか、ハンデを背負った方という目で見られている方々です。でも、田口さんは講演の中で、その方々を「絶望を感じた人々」とは一言も言っていません。質問をされた方だけでなく、そこにいた多くの人が、田口さんが紹介された方々を「絶望を背負いながらも頑張って生きている人々」という捉え方をしたのではないでしょうか。
「彼らは、自分の病気や境遇のことを真正面から受け止められています。受け止めてはいても、それでも悩み苦しんでいます。でも、その悩み苦しみは自分の問題だと割り切られています。悲しいのは、そういう人たちという目で見られ、しかも素通りされてしまう。そのことが悲しいと彼らは言います」と田口さんは教えてくださいました。

場を求めているのに、場を自ら失っている我々の姿を見たような気がしました。

仲間意識が 仲間はずれを生み出す

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