« 当たり前? | トップページ | 時の流れ »

2005年4月17日 (日)

われわれは他人によって苦しめられるのではない

なんで苦しい思いや、つらい思をするのでしょう いや、そんな悲観的なことでなくても、なんでうれしい思いや、楽しい思いもするのでしょう。
生きていると、現実にいろいろな出来事が起きているわけです。ですが、どうしてそれが苦しいこと、つらいこと、うれしいこと、楽しいことと認識できるのでしょうか?
それは、他者と「比較」しているからではないでしょうか。他者と比較することによって、自分の現状を確かめてしまう。他者よりヒドイ状態だと思えば、つらく、苦しい。他者より優れていると思えば、うれしいし、楽しい。
この「比較」する心がクセモノだなと、思いついたわけです。心当たりはありませんか?
「比較」して一喜一憂しているわけです。心が疲れてしまいますね。

「平等」ということが願われています。でも、ぜんぜん平等じゃないですよね、世の中は。なぜなら、平等を願いながらも、すべて他者と同じでも許せない、他者より優れていたいと思う私がいるからです。
平等の「等」という字、日本人の感覚では「イコール」のイメージがありますよね。インド人の発想はすばらしいですよ。「等しい」とわざわざ言わなければならないということは、イコールじゃないんですよ、って発想です。イコールなら、「同じ」って言えばいいんですからね。
「平等」 “平に等しい”ということは、真平じゃないんですよ。よく見たら凸凹してるんです。
みんな同じである状態を求めながらも、それじゃつまらない、それじゃ許せないという気持ちが、「平等」という言葉にはハッキリ表れていますね。

われわれは他人によって苦しめられるのではない
清沢満之(明治期の真宗の教学者)

« 当たり前? | トップページ | 時の流れ »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: われわれは他人によって苦しめられるのではない:

« 当たり前? | トップページ | 時の流れ »

フォト
2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ