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2005年4月 6日 (水)

苦しさの対比をするわけではないけれど、

井原 今朝男さん(国立歴史民族博物館教授)のお話を聞きに行って来ました。
講題は「中世東国における社会と賤民」
親鸞聖人の頃の民衆の生活についてのお話です。

今の日本では、人が死ぬとほぼ火葬にされますが、中世は風葬でした。風葬、聞き慣れませんが、亡くなった人をそのままにしておくことです(もちろん、どこか決まった場所へ運んだでしょうが)。そのままにしておくということは、蛆が湧き、鳥や獣に食べられ、骨となり、土にかえっていくということです。亡くなった人は、次第に姿を変えていくことになります。その姿の変化を九相(くそう)と言います。
現代では、死ぬとすぐに火葬にされます。日を置いたとしても、せいぜい一週間ほどでしょうか。つまり、亡くなってから全く別の姿に変わりゆく様を見ることがないのです。今の私たちは。
先日、地獄絵について書きました。
地獄絵に描かれる人の顔は、やせ細り、苦しさをにじませています。それは地獄の苦しさによるものかと思っていましたが、九相を表したものだそうです。人の死にゆくさまを描写しているわけです。今の私たちは、亡き人を通して、そのような顔・姿に出会うことはありません。

ここで法話を・・・
今いただいている命を大切に生きるためには、“死”を見つめなければいけません。現代は、死が敬遠されている時代です。死を見つめてこそ、生が輝いてくるのです。
健康の有り難さに気付くのは、病気をした時ではありませんか? 病気をした時に、体を大事にしなきゃなぁと反省します。健康な時に、健康は大切だなぁと感謝することは滅多にありません。
それと同じで、“生”ばかり見つめていても、生の有り難さや命の大切さは見えてきません。“死”を見つめてこそ、生について考えるようになるのです。
亡き人というのは、自らの死を通して、私に“生”について考える機会を与えてくださっているのです。安らかに眠るどころか、一生懸命私に呼びかけてくださっているんです。「かけがえなのない命を生かされているんだぞ。それに目覚めろよ」って。

うん、このように法話で話します。自分としては、死を見つめることを通して、生を考えてきたつもりです。つもりですが、井原先生の話を聞いて、“死”についての認識が甘かったなということを痛感しました。つまり、現代の我々がかろうじて目にする人の死は、“死”のほんの一部・一時でしかなかったのだなぁと思いました(だからといって風葬にすればいいというわけじゃないですよ)。

じゃぁ、九相を見つめていた、その時代の人々は生き生きと生きていたのかというと、貧困・戦乱・飢饉・疫病に苦しんでいた時代です。今の我々以上に、苦しい人生を歩んでいたわけです。でも、「なんで生まれてきたんだろう」「なんで生んだんだ」「生きがいが見つからない」「やりたいことが見つからない」「生きていてもつまらない」等々というようなことは口にもしないし、考えもしなかっただろうと思います。生きることに一生懸命だったはずだから。

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