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2005年4月 3日 (日)

2005年4月のことば 

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  教育
  教えることによって
  私が育てられること

〈教えるということ〉
人になにか教えるとき、つい自分が上に立ってしまいます。
辞書で引くと、「【教育】おしえそだてること」と載っていますが、教えることによって、私が育てられるということがあるのではないかと思うわけです。
人に教えることによって、私自身が育てられる。そういう経験、ありませんか?
勉強に限った話ではなく、例えば、道を尋ねられた場合。頭では分かっているのに、口で説明するのは難しい。地図を書いても、いかに自分の記憶があやふやなものか思い知らされます。知っているようで何も知らない自分を知らされます。
そういう経験を通して、道を覚え直したり、どのように話せば伝わるのかを考えるようになります。
教えるときに、自分が上だという意識があると、知らないことを聞かれたときに「知らない」と答えられないものです。浅はかな知識でごまかしたり、全く見当違いのことを答えたり、「そんなことは知らなくていいことだ!」なんて怒っている人はいませんか?
「知らない」と言えるということは、知りたいという欲求が出てくるもの。自分で調べるようになるし、ひとつのことを調べ始めると、そこからどんどん広がって、いろいろなことを知ることができます。そのようになれば、質問した人よりも、された人のほうが得したようなものです。
人の上に立って教えるという意識があると、自分の持っているものを出し惜しみしてしまうようになるかも知れません。自分より賢くなられては困るから。人の成長を喜べないということは、自分の成長を止めてしまうということなのですね。

〈自信教人信(じしんきょうにんしん)〉
「自信教人信」という言葉があります。
「自信教人信」とは、一般的には「自分が信じることを通して、人に教え、信じさせること」と解釈・理解されています。しかしそれでは、ここまで述べてきたように、自分が上に立ってしまうような印象があります。
「自信」とは…。
親鸞聖人は、人間は煩悩を持つ生き物であり、その煩悩を断つことを目標とするのではなく、煩悩を持ちながら生きているという自覚こそ必要なことであると言われました。
そのような自覚により、聖人は自ら「愚禿(ぐとく)」と名告(なの)られました。「愚禿」とは、直訳すると「愚かな半端者」とでもいう意味ですが、煩悩を持って生きるものであるという自覚の名告りです。「愚禿」親鸞は、煩悩盛んな衆生(つまり、生きとし生けるものすべて)こそ救おうと願われた阿弥陀仏を頼りとするしかない。「南無阿弥陀仏」とお念仏するしか道がないというところに立たれました。
親鸞聖人の教えを通して「自信」ということを考えると、「愚かな(煩悩を持ちながら生きる)自分を知ること」といただけます。
親鸞聖人は、「念仏はいいですよ、念仏を称えなさい」と、民衆に勧めたわけではありません。阿弥陀仏の救いは、この親鸞一人のためのものであり、私はただ念仏を称えるだけであるという姿を示されました。
「親鸞一人のため」とは、私親鸞に阿弥陀仏の慈悲がそそがれているということは、つまり、誰の身にもそそがれているということを意味します。このような考えがあるからこそ、人に念仏を勧める必要もなく、ひたすら念仏申されたのです。
このような親鸞聖人の姿を通して、当時の民衆に念仏は広まっていきました。そして、永い年月を経てもなお、念仏の声は続いています。この歴史が、「教人信」の表われだと思います。
「教えることによって育てられる」ということを考えてきましたが、「教(おしえ)によって育てられている」私の姿が浮かび上がってきました。

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