ゆるすということ
ゆるすということはむずかしいが、
もしゆるすとなったら限度はない
ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、
それは初めからゆるしてはいないのだ
山本 周五郎 「ちくしょう谷」より
昨日の記事で、人間の持つ能力をもっと信じていいのではないかと書きました。書きましたが、書いていながらも心の中で「でも信じるって、難しいんだよね」とつぶやいていました。
人と人との関係って、ゆるす、信じる、愛する、頼りにするといったことが関係の礎になると思います。でも、この礎ってもろいもので、ちょっとした出来事で簡単に崩れてしまいます。ゆるす、信じるなどと言いながら、それに徹することができない、不安になってしまう。しかもその責任を相手に押し付けてしまう。ゆるした、信じた、愛した、頼りにしたのは、この私自身なのに。
山本周五郎さんの このことばに出会った時は、思いっきり頭を殴られたような衝撃がありました。そうですよね、信じるといいながら、どっかで線引きしているんですよね。信じることに徹せられず、裏切られたら相手のせいにしてしまう。そういう自分の姿を嫌というほど思い知らされました。
「そんなこといったら、人間なんて信じられないじゃないか!」と思います? そうかもしれませんね。でも、それは相手に完璧を求めるから。信じることができないから信じないのではなく、「信じられないけど、信じる」「信じているけど、信じられない」という矛盾の中を生きることが、人間関係を生きるってことなんだなぁと痛感しました。だって私自身がゆるしてもらう、信じてもらうに足る人間ではありませんから。
でも、そんな人間でも、線引きなく信じてくださっているはたらきがあるんです。阿弥陀如来というはたらきが(あなたの宗教の本尊に当てはめて考えてみてください)。私が信じるから神が、仏が、如来が存在するんじゃないんですよ。すでに私を見つめているはたらきがあるからこそ、私たちは信仰を持つことができ、生きることができるんです。線引きのない平等な人生を生かされているのです。
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