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2005年4月

2005年4月30日 (土)

どくさいスイッチ

昨晩、久々に「ドラえもん」を見ました。
新聞のテレビ欄に「ドラえもん どくさいスイッチ」と書いてあったから。

どくさい(独裁)スイッチは、自分と意見の合わない者、気に食わない者、逆らう者を消し去ってしまうスイッチです。
のび太は、いじめっ子のジャイアンを消してしまいます。さぁ、これでスッキリかと思ったら、のび太は自責の念に駆られます。「もう このスイッチは使わないぞ」。そこにスネ夫が現われます。いじめっ子として。
のび太は、いじめっ子のスネ夫も消してしまいます。すると、他のクラスメイトがいじめっ子として現われます。

自分に都合の悪いこと、悪い者さえ無ければ、どんなに気が楽だろう、人生が楽しいだろうと考えます。
あんな出来事さえなければ、あいつさえいなければ…。
でも、仮にそれらが無かったとしても、同じような出来事、似たような役割の人間が現われるのかもしれませんね。“都合の悪いこと、悪い者”って、自分の人生になくてはならないものとして存在するのかもしれません。
なぜあんな出来事が私の身に起きたのか。なぜあんな奴が私の身の回りにいるのか、その意味を考えさせられます。

いじめっ子(自分に都合の悪い者)を消してきた のび太ですが、ついには大好きなしずかちゃんまで消してしまいます。

どんなに親しい人でも、どんなに世話になった人でも、どんなに大切な人でも、長い付き合いのうちに、一度や二度は気に食わないと思うことがあります。関係を生きるということは、そういうことも受容することでしょう。
一度や二度の過ちで、あんな人だとは思わなかった、と見限りますか? それって、スイッチを押したのと同じことですよ。

もし私に どくさいスイッチ が与えられたら、初めのうちは、“都合の悪いこと、悪い者”を消す本来の目的(?)のためにスイッチを使うことでしょう。でも、次第にエスカレートしていき、チョットでも自分の気にいらないことをされたら、簡単に人を消していくことでしょう。そう、私にとって大事な人までも。そして終には、自分を消してしまうことでしょう。

「どくさいスイッチ」は、ドラえもんの話の中でも、異色の作品だと思います。たしか小学生の頃に漫画を読みましたが、子供ながらに、自分の中にある身勝手さを感じたことを覚えています。そして、このスイッチがあったら、最後は自分を消してしまうだろうなぁと感じたことも。

2005年4月29日 (金)

西蓮寺永代経法要

本日は、西蓮寺永代経法要が勤められました。
80名ほどのご門徒が参加されました。
心地よい晴天の中(ちょっと暑かったですが)、日常から少し脱した時間を過ごされたのではないでしょうか。

「永代経法要」というと、先祖代々の為のご供養と思いがちですが、今、生きている私が仏の教えにふれることが願われている法要なのです。今私が教えにふれ、受け継ぐことがなければ、私たち以降の代に教えが伝わっていくことはありえません。「永代」とは、過去からの代々ということにとどまらず、私から始まる、これから先の代々へという意味が含まれているのだと思います。過去という“点”で いのち を見るのではなく、過去・現在・未来という“流れ”の中を生きている→生かされているという視座が見開かれていきます。

今年は、私が法話を担当しました。
前日、友人から谷川俊太郎さんの文章「声の力」を紹介してもらいました。
本を読む「読み聞かせ」よりも、自分のからだが覚えた話の「語り聞かせ」のほうがはるかに聴衆をとらえる
なるほど、「語り聞かせ」かぁと思い、意識してお話してみました。
う〜む、どうやらアルファ波を発してしまったようで、食事の後の、心地よい昼下がり、子守唄法話になってしまいました。

谷川さんの文章で、
聞いた話だが、胎児は四ヶ月のころから、もう耳が聞こえているのだそうだ。外界の音は聞こえないとしても、母親の心音や血液の流れる音などは聞こえるのだろう。もしかすると、母親の話し声ももちろん意味は分からぬとしても、そこにこめられた感情によって胎児になんらかの影響を与えているのではないだろうか。
と、ありました。
うん、意味は分からなくても、音の響きがこころに訴えかけることってありますよね。
今日は、みんなで「仏説阿弥陀経」というお経を声を出して読みました。練習してないのに、みなさんキチンと声を出されていて、とても素敵な響きが本堂を覆いました。お経の意味は分からなくても、響きが こころ に影響を与えることってあるなぁと思いました。 

2005年4月28日 (木)

わたしの この足は

わたしの この足は 毎日歩きたいのに
私が 歩こうとしない

こころと体がバラバラになってしまうことがあります。
気持ちはいろいろやらなきゃって思うのに、体がついてこない。
そうなってしまうと、後は悪循環。
やらなきゃならないことはたまる、でも片付かない、あせってしまう…

こういう時って、調子が元に戻るのを待つことが一番の近道かもしれない。
今やらなきゃ、私がやらなきゃって思ってしまうけど、もしかしたらそんなにあせることはないのかも。
こころと体がバラバラになった状態はつらいけど、あせってしまうのは二次的なつらさだと思う。自分で自分を追い詰めてしまっているのかも。もっと自分を楽にしてあげなきゃ。

不思議ですよね。調子が元にもどると、クヨクヨしてたのがウソみたいに元気になれる。
やっぱ、波があるんでしょうね。こころも体も。そう考えると、ふたつの波がピッタリ合うことのほうが不自然な状態なのかもしれない。ただ、そっちの方が何でもできちゃうから、自然な状態だと思ってしまう。で、調子が悪いときが不自然な状態なんだと。

  わたしの この足は 毎日歩きたいのに
  私が 歩こうとしない

この ことば は、それじゃダメだよっていう戒めのことばじゃなくて、
「それでいいんだよっ」ていう励ましの ことば なんだ!!
いきいき生きるって、一歩一歩元気に闊歩することじゃなくて、自分の歩幅でゆっくり歩くことなんですね。時には休みながら。

2005年4月26日 (火)

果てない波がちゃんと止まりますように

おとといの「ハナミズキ」の記事を書いていたとき、考えていたこと。

境内に綺麗なハナミズキが咲いたので、ブログにアップしたいなぁ。
写真だけじゃつまらないから、ハナミズキに似合う ことばはないかなぁ。
ハナミズキといえば、一青窈!(独断?)
で、ハナミズキの歌詞(母がCDを持っていた)を眺めていたら、阿弥陀さんはこんな気持ちだったのかなぁ、なんて感じていました。そうして書いたのが、おとといの記事です。

私のことは気にしなくていいから、先にゆきなさい。
あなたの幸せを願っています。
私に「ごめんね」っていう気持ちがあるなら、あなたを思う奴がいるってことを、あなたのこころの片隅にとどめておいてください。私はそれだけで幸せです。


阿弥陀さんとは・・・
たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

この文章は、「大無量寿経」というお経の中にある一節です。親鸞聖人は、数あるお経、数あるお釈迦さまのおことばの中から、この一節を見出し、阿弥陀如来のはたらきを感得されました。
「この世に生きとし生けるもの すべてを救いたい。生きとし生けるもの皆が「南無阿弥陀仏」とお念仏して、救われるまでは、私の救いはない」というのが、真宗の本尊、阿弥陀如来の願い(本願)です。
親鸞聖人はこの一節に出会い、私の人生は「南無阿弥陀仏」と、お念仏していけばいいのだということに目覚められました。そして、このような私でも救おうと願ってくださるはたらき(阿弥陀如来)に感謝されました。

「ハナミズキ」の歌詞を読みながら、阿弥陀如来のご苦労を感じていたのでした。

痛ましい事件・事故が起きたとき、やはり宗教では人は救えない、宗教はいらないという声を聞くことがあります。
反面、宗教があるからこころの救いになると言う声も聞く。
どっちも、言ってる人にとっては本音でしょう。でも、宗教が大切か否か、必要か不必要かなどということは、人間の側が論じることではないのだと思う。だって、私が思うよりも先に、私を思っているはたらきが阿弥陀如来なのだから。そのはたらきのなかを生かされているのだから。

 生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける

        (親鸞聖人「高僧和讃」)

果てのない迷いの人生をさまよっているわれらを、阿弥陀如来が衆生を救おうという願いの船は、かならず救いの世界へと渡してくださいます。

2005年4月25日 (月)

あたたかいひと

昨日の「ハナミズキ」の記事で、私のことを心配してくださった方がいます。ありがとうございます。
正直うれしかったです。ブログで出会った、顔もあわせたことのない人々が、私のことを心配してくれた。
世の中、すさんでいるというけれど、私はそんなに悲観してない。こころ温かい人はたくさんいる。
事件・事故が起こると、その加害者や環境の問題点が取り沙汰される。
教育に、社会環境に問題がある、と。
果たして そうですか?
人の記憶には、良いことよりは悪いことの方が根付いてしまう。
似たような事件(少年犯罪等)が続けば、親は何してんだ、先生は何してんだ、最近の若者は何を考えているかわからない…。視野が狭くはありませんか。
礼儀正しい若者はたくさんいる。努力している若者はたくさんいる。なにか世の中のためになりたいんだけど、どう動いたらいいか分からずに悩んでいる若者もたくさんいる。
悪い印象にばかり目がいって、綺麗に光り輝いている力が見えなくなっていませんか?
その光り輝きを、消してしまうのも私なら、ますます輝かせるのも私。
影があるということは、光も必ずある。
影ばかり見てると、真っ暗闇の中だけど、じっと目を凝らすと、光が差し込んでいることに気付きます。
永い歳月暗闇だったからといって、明るくなるのに同じ歳月がかかるかといったら、そんなことはない。
光が差し込んだその瞬間に明るくなります。
光はどこにでも差し込んでいます。私の思いが、その光を無いものとしているのです。
最近の社会状況を歎く前に、光を探してみませんか?
今まで見えなかったものが、きっと見えてきますから。

2005年4月24日 (日)

ハナミズキ

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  夏は暑過ぎて
  僕から気持ちは重すぎて
  一緒に渡るには
  きっと船が沈んじゃう
  どうぞゆきなさい
  お先にゆきなさい

   僕の我慢がいつか実を結び
   果てない波がちゃんと止まりますように
   君と好きな人が百年続きますように
             (一青 窈 ハナミズキ)

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私のことは気にしなくていいから、先にゆきなさい。
あなたの幸せを願っています。
私に対して「ごめんね」っていう気持ちがあるのなら、
あなたを思う奴がいるってことを、
あなたのこころの片隅にとどめておいてください。
私はそれだけで幸せです。

2005年4月23日 (土)

汚れちまった悲しみに

朝一番に口ずさんだ歌って、その日一日口ずさんだりしません?
今日はなぜか「汚れちまった悲しみに」を口ずさんでいました(歌じゃないけど)。

 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまった悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる

今朝はなんでこの詩を口ずさんでいたんだろう? しかも、新緑がまぶしい季節に「小雪の降りかかる」だって。
この一節しか覚えてなかったので、詩の全部調べてみました。

汚れちまった悲しみに (中原 中也)

 汚れちまった悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れちまった悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる

 汚れちまった悲しみは
 たとえば狐の皮衣
 汚れちまった悲しみは
 小雪のかかってちぢこまる

 汚れちまった悲しみは
 なにのぞむなくねがうなく
 汚れちまった悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

 汚れちまった悲しみに
 いたいたしくも怖気づき
 汚れちまった悲しみに
 なすところもなく日はくれる

悲しい詩です。悲しいけど、共感してしまう。そんな日だったのかな、今日は。
汚れちまった悲しみに、汚れちまった悲しみに、汚れちまった悲しみに…

2005年4月22日 (金)

ボウズ

昨日西蓮寺で副住職の会合があり、会終了後居酒屋に行きました。
烏山に珍しい名前のお店があり、前々から一度は行ってみたいなと目をつけていたお店でした。
お店に入って、注文して、お酒も料理もおいしくいただきました。
お勘定のとき、「お店の名前の由来は?」と聞くと、
お店のお兄さん「見習いのことをボウズって言いますよね、いつまでも初心を忘れないようにってことです」
フ〜ン、なるほどぉ
続いて言いました「それと、ボウズ丸儲けって言いますよね、それにあやかってですかね」
ハァ、そうですか…

坊さんって、丸儲けしているように思われるんですかね。お寺からお給料をいただいて、ちゃんと税金も納めてるんですけどね。 寂しい気持ちでお店を出ました。酔いも醒めてたりして。
発言には気をつけたいものですね。話している相手が、その当人であったり、身内や友人だったりすることってありますから。
お兄さんも、まさか我々が坊さんだとは思いもよらなかったでしょう。
あっ、坊さんて分かってて言ったのかも。「お前ら、もっとガンバレよ」って。
ハイ、頑張ります。

カテゴリー「つぶやき」じゃなくて、「ぼやき」ですね。

2005年4月21日 (木)

仏教青年会

「幼児虐待のニュースを聞くと、虐待した人が仏教に出会ってたら、どうなっていたかなぁと思います」
昨晩、友人のお寺の仏教青年会に行って来ました。先のセリフは、参加者の一人が言ったものですが、このセリフを聞いて、自分がブログに書いた記事を思い返していました。

仏教に出会っていたら虐待はしなかったかもしれないし、出会っていても虐待をしてしまうかもしれない。どっちかはやっぱり分かりません。分かりませんけど、虐待が減るかもしれない可能性があるなら、仏教に出会ってほしいし、僧侶としては、仏教に出会う可能性を少しでも広げることが役目なのかなぁと考えていました。
実際、僧侶に何かできる力があるわけではありません。僧侶だって、仏教に出会っていても、悩みや苦しみは尽きないし。
そもそも、仏教は不幸をなくして 幸せになる教えでもないし、人間を丸くする教えでもありません。悩み苦しみながら生きるのが人間であるということを気付かせてくれる教えだと思っています。そんな教えいらないって? こっちがいらないって言っても、仏さまは私に人間の現実を突きつけてくださってます。

仏さまが、衆生を想うはたらきを「慈悲」と言います。
「慈悲」は、「与楽抜苦(よらくばっく)」といって「楽を与え、苦を抜く」という意味があります。
「楽を与え、苦を抜く」・・・「なんだ、仏教ってやっぱり不幸をなくして幸せになるおしえじゃん!」って思いました?
でも、この「与楽抜苦」とは、私たちの欲望レベルの“与楽”や“抜苦”を指しているのではありません。
悩み苦しみの中を生きるという、身の事実に目を向ける、そのことこそ「与楽抜苦」であると教えてくださっています。
自分が嫌なことは遠ざけ、隠し、無くしながら生きることはごまかしでしかありません。嫌なことも人生の一部であると引き受けて生きる道に、ごまかしではない、本当の人生が開かれてくるのです。そのことを「与楽抜苦」といい、そのはたらきが既にこの私に注がれているのです。

悩み苦しみも人生だって言われて、そんな教えはお嫌いですか?
でも、教えに出会って生きている人間もいて、その教えに触れたものが「仏教に出会ってほしい」って言えるってことは、生きていく力を与えてくれるもんだと思うんですよね。仏教って。

「仏教青年会」を定義付けるのは難しいですが、昨晩は、発題(問題提起)者が、今関心のあることを述べ、それについて参加者みんなが思うところを述べ、人の話を聞く会です。今、そういう場ってなかなかありません。人前で話すのが苦手という人だっていますが、話してみると、自分の考えが整理されるものです。分からないということも分かるし。人の話を聞くことも、自分の視野を広げてくれます。今の世の中、自分の意見を言うことが大切で、人の話を聞けないような気がしますが、「仏教青年会」で人の話を殺してしまうこともありません。
「仏教」って、そういう場が持てる教えなんです。

2005年4月20日 (水)

ゆるすということ

ゆるすということはむずかしいが、
もしゆるすとなったら限度はない
ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、
それは初めからゆるしてはいないのだ

                山本 周五郎 「ちくしょう谷」より

昨日の記事で、人間の持つ能力をもっと信じていいのではないかと書きました。書きましたが、書いていながらも心の中で「でも信じるって、難しいんだよね」とつぶやいていました。
人と人との関係って、ゆるす、信じる、愛する、頼りにするといったことが関係の礎になると思います。でも、この礎ってもろいもので、ちょっとした出来事で簡単に崩れてしまいます。ゆるす、信じるなどと言いながら、それに徹することができない、不安になってしまう。しかもその責任を相手に押し付けてしまう。ゆるした、信じた、愛した、頼りにしたのは、この私自身なのに。
山本周五郎さんの このことばに出会った時は、思いっきり頭を殴られたような衝撃がありました。そうですよね、信じるといいながら、どっかで線引きしているんですよね。信じることに徹せられず、裏切られたら相手のせいにしてしまう。そういう自分の姿を嫌というほど思い知らされました。
「そんなこといったら、人間なんて信じられないじゃないか!」と思います? そうかもしれませんね。でも、それは相手に完璧を求めるから。信じることができないから信じないのではなく、「信じられないけど、信じる」「信じているけど、信じられない」という矛盾の中を生きることが、人間関係を生きるってことなんだなぁと痛感しました。だって私自身がゆるしてもらう、信じてもらうに足る人間ではありませんから。

でも、そんな人間でも、線引きなく信じてくださっているはたらきがあるんです。阿弥陀如来というはたらきが(あなたの宗教の本尊に当てはめて考えてみてください)。私が信じるから神が、仏が、如来が存在するんじゃないんですよ。すでに私を見つめているはたらきがあるからこそ、私たちは信仰を持つことができ、生きることができるんです。線引きのない平等な人生を生かされているのです。

2005年4月19日 (火)

ケフィアヨーグルトから…

今朝の食卓の話題「ケフィアヨーグルトはアレルギーにいいらしい」。
ケフィアヨーグルト。聞き慣れないかもしれませんが、うちでは一年程前から朝食時に食べています。アレルギーに効果があるなんて知らずに。
今年のスギ花粉は例年の30倍飛散するといわれ、既に花粉症だった者も、今年初めて発症した者も、実際大変な目に遭いました。
私も花粉症持ちなので、大変でした。たしかに大変でしたが、テレビや新聞で騒いでるほどにはキツクありませんでした。ケフィアヨーグルトを食べ続けていたおかげかもしれませんね。
花粉症が軽く済んだのは、ケフィアヨーグルトのおかげかもしれない。おかげかもしれないけど、もしケフィアヨーグルトを食べてなかったら、どうなっていたかは分からないわけですよね。食べてなかったら かなりキツイ花粉症だったかもしれないし、食べてなかったけど 軽く済んだかもしれない。どっちなのか、それは分かりません。

さぁここから私の頭の中で考えたこと、
昨今の凶悪事件の原因は、テレビや映画やゲームで、人を傷つけたり殺したりする残酷なシーンが子供たちの目に入るからである。だから、こういうものは見せるべきでない、作るべきでないというような意見をよく聞きます。しかし私、この意見には懐疑的なんです。
だって、「残酷なシーンを見る機会がなかったら、凶悪事件が起きない」かどうか分からないわけじゃないですか。残酷なシーンを見たから凶悪事件も増えるのか、見なかったら起きないのか、分からないわけです。それに、もしかしたら残酷なシーンのおかげで「こんなことをやってはいけないんだ」という抑止力が働いているかもしれないですよね。
喧嘩・殺人・戦争…無い方がいいです。いいですが、無い方がいいということと、残酷なものを見せない・隠すというのは、筋が合わないことだと思います。
人間にはね、人を傷つけたいという種(欲求・欲望)があるんだと思います。誰にでも。でも、その種を発芽させない能力もあると思います。種はある。種はあるけれど、誰に教えられるでもなく、人を傷つけてはいけないという意識がはたらくのが人間だと思います。そういう能力をもっと信じてもいいんじゃないかなと思うわけです。見せるべきでない、作るべきでない、なんて意見を大上段に立って言われたりするとね。

でも最近の子供は、「死んだ人間でも生き返る」と本気で思っているらしいですね。いつだったか忘れましたが、そういうアンケート結果が出てるのを見て、私の足元がガラガラッっと崩れ去っていきました。

以上、ケフィアヨーグルトから発展(?)した私の思考の中身でした。
ヨーグルトからそんな話に行くなんて、思いもしなかったでしょ。

2005年4月18日 (月)

時の流れ

ボタンが咲きました♪
PICT0003
これが4月16日(土)の状態で、

PICT0012
こっちが17日(日)です。1日でかなり咲いたでしょ。

時間の流れって、時計やカレンダーで認識してるんじゃないんですよ。
春に咲く花の美しさにこころ奪われ
 夏の暑さに生命の躍動を感じ
  秋の寂しさに感傷に浸り
   冬の寒さのなかで人のぬくもりを感じ
    冬を越えてやってくる春の陽気に新しい息吹を感じる
気候や自然の変化によって、時の流れを感じているんですね。
四季を味わえる日本ってスッゴイ贅沢です。

ゆとりが求められていますが、「ゆとり」って、このような時間の流れを感じるこころだと思います。
どんなに忙しくても、このようなこころを持てる人は、精神的ゆとりが生まれてくる。
時間的な余裕はあるのに、時の流れを感じるこころがないと、精神的なゆとりは生まれません。

贅沢な環境の中にいるんですから、満喫しなきゃ もったいないですよ。

2005年4月17日 (日)

われわれは他人によって苦しめられるのではない

なんで苦しい思いや、つらい思をするのでしょう いや、そんな悲観的なことでなくても、なんでうれしい思いや、楽しい思いもするのでしょう。
生きていると、現実にいろいろな出来事が起きているわけです。ですが、どうしてそれが苦しいこと、つらいこと、うれしいこと、楽しいことと認識できるのでしょうか?
それは、他者と「比較」しているからではないでしょうか。他者と比較することによって、自分の現状を確かめてしまう。他者よりヒドイ状態だと思えば、つらく、苦しい。他者より優れていると思えば、うれしいし、楽しい。
この「比較」する心がクセモノだなと、思いついたわけです。心当たりはありませんか?
「比較」して一喜一憂しているわけです。心が疲れてしまいますね。

「平等」ということが願われています。でも、ぜんぜん平等じゃないですよね、世の中は。なぜなら、平等を願いながらも、すべて他者と同じでも許せない、他者より優れていたいと思う私がいるからです。
平等の「等」という字、日本人の感覚では「イコール」のイメージがありますよね。インド人の発想はすばらしいですよ。「等しい」とわざわざ言わなければならないということは、イコールじゃないんですよ、って発想です。イコールなら、「同じ」って言えばいいんですからね。
「平等」 “平に等しい”ということは、真平じゃないんですよ。よく見たら凸凹してるんです。
みんな同じである状態を求めながらも、それじゃつまらない、それじゃ許せないという気持ちが、「平等」という言葉にはハッキリ表れていますね。

われわれは他人によって苦しめられるのではない
清沢満之(明治期の真宗の教学者)

2005年4月16日 (土)

当たり前?

買い物をしたり、食事をしたりすると、いろいろな店員さんがいたり、いろいろなお客さんがいるものです。

自分がお客さんの立場だった場合、店員さんの接客態度が気になります。
良い雰囲気の人だなぁと思うこともあれば、なんだその態度は(怒)と思うこともあります。
ありますが、そのように思うということは、「自分が金を払ってやってる」という意識がはたらいているのではないでしょうか。金を払っているんだから、丁寧な接客態度が当たり前だ!って。

自分が店員の立場だった場合、お客さんの態度が気になります。
働いていて良かったと思わせるお客さんもいれば、何様だよ(怒)と思うこともあります。
ありますが、そのように思うということは、「自分がやってやってる」という意識がはたらいているのではないでしょうか。私が働いているからこそ、お前が必要としているものを手に入れられるんだ!って。

自分が当然のことをやってるんだから、お前もそれに応えて当たり前だ!という意識は、悲しい結末を生みます。

自分が手を煩わすのが嫌なことを、この店員さんはお金を払っただけでやってくれてるんだなぁ。
自分の働きにたいして、お客さんはお金を払ってくれてるんだなぁ。

発想の転換ではないけれど、そういうふうにお互いが思うだけで、空気・雰囲気は変わるものです。良い循環が生まれます。
やって当たり前なんて思っていては、気に障ることばかりですから、お互いに傷つけあって、空気・雰囲気は悪くなってしまいます。悪い循環が生まれます。

「当たり前」という発想は、自分にとっての常識でしかありません。
自分の狭い常識を破って、「おかげさま」という意識が芽生えたところに、笑顔が生まれてくるものだと思います。

2005年4月15日 (金)

居場所

みなさん、自分の居場所をお持ちですか?
こう書くと、みんなどう思うんだろう。家庭や職場やサークル活動の場(等々)であると答えられる人もいると思う。居場所がないなぁと言う人もいることでしょう。
居場所の捉え方も人それぞれかも。実在の場所を思う人もいれば、ぼんやりと空間・雰囲気を思い浮かべる人もいるでしょう。居場所がないなぁという人だって。

昨日、作家の田口ランディさんの講演を聞きに行きました。
講題:「人はなぜ、生きるのか」〜寄るべなき時代の希望〜

「寄る」ということをキーワードにお話をされました。
「寄る」と「集まる」は同義のようだけど、実は違う。「集まる」というと、意思を持った人間が、ある目的のために“集まる”。「寄る」といった場合は、自分の意思に関係なく、なんとなく くっつく。そういうはたらきが“寄る”。
「寄る」ということには、自分の力とは関係ない力(他力)がはたらいていて、寄り合って出来た“場”は、生命を活気づける、お互いに支えあう力を与えてくれる、と。
田口さんは、「九州の、ある老人のグループホーム」「浦河べてるの家」「水俣病患者さんで、国に訴訟を起こされた方々」の中に生命を活気付ける“場”の姿を見出されました。
その寄り合いの中から溢れ出る、人が生き生きと生きることが出来る力について語られていました。押し付けでもなく、教えるでもなく、「こういう場所があるのよ!」って笑顔で語られる姿が印象的でした。まるで、前から知り合いだったかのように。

はじめに、居場所(自分が「ここにいていいんだぁ」とこころから安心できる場)をお持ちですか?と尋ねました。
現代は「居場所がないなぁ」と嘆かれる人が多い時代です。で、その居場所のないことの責任を、外に押し付けている時代でもあると思うんですよね。「安心できる人がいない」「誰も信用できない」などなど不満だらけです。
でも、「居場所を作ろう!」として作ったのでは、それは「寄る」ものじゃなく、「集ま」ったものになってしまいます。本当の意味での居場所にはなりません。

田口さんは、どうやったら“場”が作れるかは分からない、マニュアルなんかないと言われました。
決して、3件の例を出して、こうすれば“場”を作れると言われたのではありません。でも、寄り合って、力が湧いてくる場が現実にあるんだということを私たちに教えてくださいました。だから、私たちにできることは「とりあえず、いい加減に信じる」ことだと。“場”作りを目標にするんじゃない、と。

どうしても居場所を求めてしまいます。で、次のような質問が出ました。
「田口さんが言われた方々は、絶望を感じられた方々です。そういう絶望した者どうしでないと、場は作れないのでしょうか? それほどまでの絶望がない者には、場は作れないのでしょうか?」
田口さんが例に挙げられた方々は、世間的弱者とか、ハンデを背負った方という目で見られている方々です。でも、田口さんは講演の中で、その方々を「絶望を感じた人々」とは一言も言っていません。質問をされた方だけでなく、そこにいた多くの人が、田口さんが紹介された方々を「絶望を背負いながらも頑張って生きている人々」という捉え方をしたのではないでしょうか。
「彼らは、自分の病気や境遇のことを真正面から受け止められています。受け止めてはいても、それでも悩み苦しんでいます。でも、その悩み苦しみは自分の問題だと割り切られています。悲しいのは、そういう人たちという目で見られ、しかも素通りされてしまう。そのことが悲しいと彼らは言います」と田口さんは教えてくださいました。

場を求めているのに、場を自ら失っている我々の姿を見たような気がしました。

仲間意識が 仲間はずれを生み出す

2005年4月14日 (木)

一粒の麦は、

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。
だが死ねば多くの実を結ぶ

                       (ヨハネ福音書 12章24節)

桜、きれいでしたね。ブログで写真をアップしたいなぁという意識もあったせいか、例年以上に桜に注目していたような気がします。それに、多くの方がブログに写真をアップしてくれたおかげで、全国の桜を自室で眺めることができました。

桜の美しさにひたっていたのも束の間、今朝、道路(アスファルト)に落ちた桜の花びらを掃き集めていました。排水溝を詰まらせてはいけないので、必死に集めたら、花びらの山ができました(こちらはあまり良い絵ではないので、アップしません)。
あんなに私たちの目に潤いを与えてくれた桜の花びらも、散ってしまうと、はかないものです。
土にかえれば養分にもなりますが、アスファルトではそうもいきません。
死が浸透する土壌が必要なのですが、現代はそれも許されないのでしょうか。自然にも人の心にも…。

死とは、受け容れる人がいて初めて“死”と言えるのではないでしょうか。
受け容れる人がいない死は、亡き人をただの遺体・骨にしてしまいます。
死を避ける、受け容れられない私の心に、いのちが実を結ぶことはありません。
散ってしまったものを養分にできるのか、散ってしまったらゴミにしかできないのか。この違いが、実を結ぶか結ばないかの違いになってきます。
「いのちを大切に」とわざわざ叫ばなければならない時代とは、どちらの姿を表わしているのでしょうか。

2005年4月13日 (水)

生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける

花に鳴く鶯 水に住むかはづの声を聞けば 
 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける

                      紀貫之(『古今和歌集』より)

漠然と「生きとし生けるもの」って表現でいいんだっけ?と疑問に思い、調べていたら、この一文に出会いました。
ウグイスやカエルの鳴き声を聞いていると、この世に生きるもので、歌を詠まないものなどいるだろうか(う〜ん、もっと文学的に訳したいのだけど…)。
「鳴かない生き物だっている」とか「人間は鳴かない」なんて無粋なことは言いっこなしですよ。

先日、“生きている”ってどういうことだろうねと友人と話していたら、「ちゃんと笑って、ちゃんと泣くってことじゃねぇかなぁ」と教えられました。
「喜怒哀楽」という感情を持っているのに、それをちゃんと出せないでいる、歌えないでいるのが今の私なのかもしれない。

以前、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問がテレビの公開討論番組でされた時、「なぜそんな質問をするのか?(怒)」という方向に話の力点が行ってしまい、直接には応えてなかったということがあったと聞いています。
(私、その番組を見てないのですが、人のいのちについて考える時に、度々この番組のことは取り上げられます。皆さんはどう思いますか?)
考えるまでもないことだと思う人もいるでしょう。馬鹿馬鹿しいと思う人もいるでしょう。「なぜか?」と一生懸命に考える人もいるでしょう。

「なぜ人を殺してはいけないの?」
「歌を詠まない人間はいないからだよ」という応えも考えられるなぁと思いました。

2005年4月12日 (火)

苦しみの果てに誰かを傷つけるのは、もっと苦しいこと

苦しみは人それぞれ
苦しみの内容も程度も許容量も
でも、苦しみの果てに誰かを傷つけるのは、もっと苦しいこと

〜苦しさの対処法〜
人と話す。
今の思いを書き出してみる。
ジッと受けいれ、もがき苦しむ。
じきに訪れるであろう楽しいことを思い描く。
「自分より苦しんでいる人がいるんだから、私も頑張らなくっちゃ」と自分を励ます。
誰かを傷つける。

「苦しさの対処法」
今思い浮かんだままを書きました。あなたの対処法は?

苦しさは、結局は自分が背負うしかないこと。でも、話を聞いてくれる人、同じ苦しみを体験している人との出会いは、苦しい思いを軽減してくれる。そういう人は必ずいる。
人によるストレスは、人によってしか解消されない。
誰も助けてくれないというのは、自分で壁を作ってしまっているのでは。心当たりはありませんか?


哀しいのは、苦しみの中を生きていくことではない
苦しさの果てに誰かを傷つけてしまうこと
そのことこそ哀しくて、苦しくて、

「誰かを傷つける」
“誰か”って、自分も含んだ“誰か”ってこと。
“傷つける”って、実際に傷を負わすことだけじゃない。羨んだり、恨んだり、無視したり…。

誰かを傷つけていませんか。
自分が苦しいからといって、誰かを傷つけることが許されるわけはない。
そのことを忘れているなぁということを、窓の外、雨の降る景色を見て、思い浮かびました。

2005年4月11日 (月)

人によるストレスは、人によってしか解消されない

最近の記事を振り返ると、関係性の中を生きている人間について書いているような気がする。
ブログで分かったふうなことを書いてはいるけれど、書いてる私自身、迷い続けている。
決して、「皆さん、こういう生き方がいいんですよ!」なんて気持ちはない。
こういうふうに生きられたらいいだろうなぁ、でも現実はつらいよねぇ、でも世の中そんなに捨てたもんじゃないよ、でも…。こんな感じです。フラリフラリ。

人間関係の中を生きることは大切なことです。っていうか、今現に一人では生きていませんから。
関係の中を生きてはいるわけだけど、自分にとって良い関係もあれば、悪い関係もある。
「あの人さえいなければ、」「あのひとのせいで、」「うざい!」なんて思いがストレスになります。
だからといって、誰もいないところに行けばストレス解消になるかといえば、そういうわけでもない。一時は落ち着くかもしれんないけれど。
ストレス発散になる趣味があったとして、いつまでもそれをし続けることはできない。
やはり、生きていくこととは、人との関係の中を生き続けていくことに尽きる。
白ばかりの世の中だと、白って認識ができない。黒があるから白もあり、白があるから黒もある。いい人ばかりだったら、いい人という判断ができない。ストレスを感じる人・事柄があるということは、落ち着かせてくれる人や事柄があるということ。ただ、人間の意識として、悪い面の方がクローズアップされてしまうから、人間関係の嫌な面ばかりが私を押しつぶしてしまう。
「私を押しつぶしてしまう」か。
実は私を押しつぶしているのは、この私の“思い”だったりする。ストレスを与えているのは、他でもない、私自身の思いだったりする。自分の思いが、自分を押しつぶしている。ということは、私の気持ちを楽にしてくれるのも、“私の思い”なんですよね。
ストレスの原因にしかならないと人間関係を毛嫌いせず、自分を輝かせてくれる人がいるという希望を常に持ち続けていたい。

2005年4月10日 (日)

人は、一人では生まれてこない

「人は、一人では生きられない」ということばは、よく聞きます(聞いたことありませんか?)。
人は一人だけの力では、何もできません。人との関係作りが面倒臭いからといって、ひきこもったり、他者との関係を断ってみたところで、そんなのはただいきがっているだけのことです。着るもの・食べるもの・住む処、人の手が関わってないものはありません。
突き詰めて考えると、「人は一人では生きられないのではない、今現に一人では生きていないのだ」と言い切れるでしょう。

昨晩、素敵なことばに出会いました。
人は、一人では生まれてこない
「人は、一人では生まれてこない」というのは、私にとって耳慣れませんでした。そして、そのことばを聞いた瞬間、感動しました。「人は、一人では生きられない」って、このことを言ってるんだなって。
誰かと一緒に生まれてくるってことではなくて、私が生まれてくるためには、父と母がいなければ生まれてこれないわけですし、父と母それぞれをたどっていくと、とんでもない数の人間(衆生)が関わっています。
「人は、一人では生きられない」と言われると反論したくなってしまいますが、「人は、一人では生まれてこない」と言われると、そうですねと納得させてしまう力が秘められているような気がしました。

中学高校の頃、「頼れるものは己だけだ」といきがっていました。
今、「自分ほど頼りにならないものはねえなぁ」と歎息しています(ハァッ)。
そんな自分が見えてきたところで、一人じゃ生きていけない、一人じゃ生まれてこない自分というものを痛切に感じています。

2005年4月 9日 (土)

ユズリハ

春らしいポカポカ陽気な週末、いかがおすごしですか?
境内の木々からは新芽が芽吹き、桜や海棠(かいどう)が咲き乱れ、生命の息吹を感じます。
ところが…
境内に一本の大きなユズリハがあるのですが、全く元気がないんです。
数年前に木のお医者さんに診てもらいました。そして、一時的に元気になったのですが、やはりダメでした。
それでね、今、ユズリハの姿を見ていて思ったんです。ユズリハの元気がなくなったのは寿命なのかな?って。
病気なら治すこともできたでしょうが、寿命で元気がなくなってしまったものを、薬を使って元気を出させても、無理が来ますよね。今、そういう状態なんだと思います。
これって、人間にも当てはまることだと思いません? 病気を治すことはできても、老いを止めること・若返ることはできません。気持ちを若く持つことはいいことだと思います。でも、いつまでも「あのころ」を背負って生きるのは、実は本人が一番つらいんですよね。
ありのままを受けいれるのは残酷なことでもあります。でも、受けいれてしまえば、これほど楽なことはありません。

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突然ですが、「衆生(しゅじょう)」と聞いて何を思い浮かべますか? 人間(だけ)のことだと思っていませんか?
“衆生”とは、生きとし生けるもの全てのことです。人間に限ったことではありません。
いつからか、どういうわけか、人間がこの世の生物の中で最高の生き物であるというような考え方がはびこってしまってます。そのような考えを基にしてしまうと、「人間さえ良ければ」「人間さえ救われれば」という発想につながってしまいます。こんな発想をしてしまう生き物が最高の生き物なわけはないわけで(その考え方も、比較しているという点では、同質の間違いを犯しています)。
えっと、つまり、木も人間も、その他の生き物も、同じいのちをいただいて生かされているんだなぁということを、ユズリハから教えられましたということを言いたかったのです。

幼い頃、毎日登って遊んだユズリハを見て。

2005年4月 8日 (金)

天上天下唯我独尊

4月8日は、お釈迦さまの誕生日です。
お釈迦さまは今からおよそ2500年前、北インド・カピラ城のスッドーダナ王を父とし、王妃マーヤーを母として生まれました。
王妃マーヤーが出産のため実家に帰る途中、ルンビニー園という花園に立ち寄られ、休憩されました。王妃マーヤーが、美しいアショーカという木に右手を伸ばされたとき、右脇からお釈迦さまは生まれました。
お釈迦さまは誕生してすぐに7歩あゆまれ、右手は天を、左手は地を指して言われました。
天上天下唯我独尊(天にも地にも、ただ我ひとりにして尊し)

「天上天下唯我独尊」
自分ひとりが尊いと言ってるのではありませんよ。私は、他の誰とも代わることのできないいのちをいただいて生きているという意味です。(前にも似たようなことを書いたような)

右脇から生まれたとか、生まれてすぐに7歩歩いたとか、「そんなわけないだろう!」って突っ込みはなしね。エピソードの一つひとつにも意味が込められているのですから(その意味については、そのうち)。このようなお話が2500年以上も語り継がれてきたという事実が大切なことだと思います。
「仏教は、現代の問題に追いついていない。お釈迦さんのいたころには想像できないほど文明が発展し、考えも及ばないような出来事が起こっているのだから、仏教は古いんだよ」
なんて言われたことがあるのですが、私はそうは思わないんですよね。お釈迦さまのころから2500年経った今でも、「人はなぜ生まれてきたのか」「なぜ生きるのか」「どのようないのちを生きているのか」という問題・悩みを抱えて生きているのですから。
お釈迦さまは、古いどころか、ものすごい先見の明があったんですよ。

「なんでこんな思いをしなければいけないのか」。そう思うことって、誰でもあると思う。私もです。でもこれって、問いの持ち方が間違っているのかな。「このような思いをしてまで生きなければならない人生は、私になにを学ばせようとしているのだろうか」。そういう考え方もあるかな。
「なんでこんな思いをしなければいけないのか」は愚痴だけど、
「このような思いをしてまで生きなければならない人生は、私になにを学ばせようとしているのだろうか」っていうのは、私ひとりに与えられた問いなのだから。

2005年4月 7日 (木)

桜の樹の下には

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桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
『桜の樹の下には』梶井基次郎

桜が一気に咲き乱れましたね。写真は、井の頭公園の桜です。
桜は、人の想像力を掻き立てますね。
(4月8日に内容書き換えました)

2005年4月 6日 (水)

苦しさの対比をするわけではないけれど、

井原 今朝男さん(国立歴史民族博物館教授)のお話を聞きに行って来ました。
講題は「中世東国における社会と賤民」
親鸞聖人の頃の民衆の生活についてのお話です。

今の日本では、人が死ぬとほぼ火葬にされますが、中世は風葬でした。風葬、聞き慣れませんが、亡くなった人をそのままにしておくことです(もちろん、どこか決まった場所へ運んだでしょうが)。そのままにしておくということは、蛆が湧き、鳥や獣に食べられ、骨となり、土にかえっていくということです。亡くなった人は、次第に姿を変えていくことになります。その姿の変化を九相(くそう)と言います。
現代では、死ぬとすぐに火葬にされます。日を置いたとしても、せいぜい一週間ほどでしょうか。つまり、亡くなってから全く別の姿に変わりゆく様を見ることがないのです。今の私たちは。
先日、地獄絵について書きました。
地獄絵に描かれる人の顔は、やせ細り、苦しさをにじませています。それは地獄の苦しさによるものかと思っていましたが、九相を表したものだそうです。人の死にゆくさまを描写しているわけです。今の私たちは、亡き人を通して、そのような顔・姿に出会うことはありません。

ここで法話を・・・
今いただいている命を大切に生きるためには、“死”を見つめなければいけません。現代は、死が敬遠されている時代です。死を見つめてこそ、生が輝いてくるのです。
健康の有り難さに気付くのは、病気をした時ではありませんか? 病気をした時に、体を大事にしなきゃなぁと反省します。健康な時に、健康は大切だなぁと感謝することは滅多にありません。
それと同じで、“生”ばかり見つめていても、生の有り難さや命の大切さは見えてきません。“死”を見つめてこそ、生について考えるようになるのです。
亡き人というのは、自らの死を通して、私に“生”について考える機会を与えてくださっているのです。安らかに眠るどころか、一生懸命私に呼びかけてくださっているんです。「かけがえなのない命を生かされているんだぞ。それに目覚めろよ」って。

うん、このように法話で話します。自分としては、死を見つめることを通して、生を考えてきたつもりです。つもりですが、井原先生の話を聞いて、“死”についての認識が甘かったなということを痛感しました。つまり、現代の我々がかろうじて目にする人の死は、“死”のほんの一部・一時でしかなかったのだなぁと思いました(だからといって風葬にすればいいというわけじゃないですよ)。

じゃぁ、九相を見つめていた、その時代の人々は生き生きと生きていたのかというと、貧困・戦乱・飢饉・疫病に苦しんでいた時代です。今の我々以上に、苦しい人生を歩んでいたわけです。でも、「なんで生まれてきたんだろう」「なんで生んだんだ」「生きがいが見つからない」「やりたいことが見つからない」「生きていてもつまらない」等々というようなことは口にもしないし、考えもしなかっただろうと思います。生きることに一生懸命だったはずだから。

2005年4月 5日 (火)

烏山仏教会 花まつり2005

心弾むような晴天でしたね。桜も一気に開花したのではないでしょうか。
春爛漫の日和の中、烏山花まつりが開催されました。

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花まつりメイン会場 幸龍寺

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「灌仏(かんぶつ)」…誕生仏に甘茶をかけます。お釈迦様が生まれた時、天からお祝いの甘露の雨が降ってきたことに由来します。ベタベタしそうですね。

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稚児行列のスタートです。〔万福寺⇒幸龍寺〕

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「白象」…お釈迦さまの母親マーヤー夫人の夢に白象が現れて、お釈迦さまの誕生を予言したことに由来します。

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今年は42名のお稚児さんが参加されました。おそらく最多記録だと思います。

2005年4月 4日 (月)

理解できる動機って?

「好きなトラックで死にたかった」=大友容疑者を送検 仙台の暴走事件・宮城県警(時事通信)
 仙台市青葉区のアーケード街で、トラックが暴走し6人が死傷した事件で、業務上過失致死傷と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで逮捕された無職大友誠治容疑者(38)が「好きなトラックに乗って死のうと思った」と供述していることが4日、仙台中央署の調べで分かった。同署は同日午前、大友容疑者を送検した。 

車の運転中にラジオを聴いていて、このニュースが流れてきました(何の番組かも分からず聞いていましたが)。
出演者「動機が理解できませんね」
司会者「意味もなく殺された方や、その遺族はやり切れませんよね」

どんなに動機が理解できたって、どんなに理屈の通った理由があったって、殺された人や遺族にとっては、たまったもんじゃないです。
思うんですけど、何事に対しても、動機や理由を求めすぎていませんか?
“自分が納得する”動機や理由をね。
自分にとって動機や理由が納得できたからといって、殺された人や遺族にとって納得できるかと言えばそんなわけないです。もちろん、遺族にしてみれば、動機・理由は知りたいことですが、「あぁ、それなら仕方ない」なんて思えるわけはないわけで。

動機っていうのは、そもそも不純なもの。自分が納得できる動機を求めても、見つかるはずはありません。

2005年4月 3日 (日)

2005年4月のことば 

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  教育
  教えることによって
  私が育てられること

〈教えるということ〉
人になにか教えるとき、つい自分が上に立ってしまいます。
辞書で引くと、「【教育】おしえそだてること」と載っていますが、教えることによって、私が育てられるということがあるのではないかと思うわけです。
人に教えることによって、私自身が育てられる。そういう経験、ありませんか?
勉強に限った話ではなく、例えば、道を尋ねられた場合。頭では分かっているのに、口で説明するのは難しい。地図を書いても、いかに自分の記憶があやふやなものか思い知らされます。知っているようで何も知らない自分を知らされます。
そういう経験を通して、道を覚え直したり、どのように話せば伝わるのかを考えるようになります。
教えるときに、自分が上だという意識があると、知らないことを聞かれたときに「知らない」と答えられないものです。浅はかな知識でごまかしたり、全く見当違いのことを答えたり、「そんなことは知らなくていいことだ!」なんて怒っている人はいませんか?
「知らない」と言えるということは、知りたいという欲求が出てくるもの。自分で調べるようになるし、ひとつのことを調べ始めると、そこからどんどん広がって、いろいろなことを知ることができます。そのようになれば、質問した人よりも、された人のほうが得したようなものです。
人の上に立って教えるという意識があると、自分の持っているものを出し惜しみしてしまうようになるかも知れません。自分より賢くなられては困るから。人の成長を喜べないということは、自分の成長を止めてしまうということなのですね。

〈自信教人信(じしんきょうにんしん)〉
「自信教人信」という言葉があります。
「自信教人信」とは、一般的には「自分が信じることを通して、人に教え、信じさせること」と解釈・理解されています。しかしそれでは、ここまで述べてきたように、自分が上に立ってしまうような印象があります。
「自信」とは…。
親鸞聖人は、人間は煩悩を持つ生き物であり、その煩悩を断つことを目標とするのではなく、煩悩を持ちながら生きているという自覚こそ必要なことであると言われました。
そのような自覚により、聖人は自ら「愚禿(ぐとく)」と名告(なの)られました。「愚禿」とは、直訳すると「愚かな半端者」とでもいう意味ですが、煩悩を持って生きるものであるという自覚の名告りです。「愚禿」親鸞は、煩悩盛んな衆生(つまり、生きとし生けるものすべて)こそ救おうと願われた阿弥陀仏を頼りとするしかない。「南無阿弥陀仏」とお念仏するしか道がないというところに立たれました。
親鸞聖人の教えを通して「自信」ということを考えると、「愚かな(煩悩を持ちながら生きる)自分を知ること」といただけます。
親鸞聖人は、「念仏はいいですよ、念仏を称えなさい」と、民衆に勧めたわけではありません。阿弥陀仏の救いは、この親鸞一人のためのものであり、私はただ念仏を称えるだけであるという姿を示されました。
「親鸞一人のため」とは、私親鸞に阿弥陀仏の慈悲がそそがれているということは、つまり、誰の身にもそそがれているということを意味します。このような考えがあるからこそ、人に念仏を勧める必要もなく、ひたすら念仏申されたのです。
このような親鸞聖人の姿を通して、当時の民衆に念仏は広まっていきました。そして、永い年月を経てもなお、念仏の声は続いています。この歴史が、「教人信」の表われだと思います。
「教えることによって育てられる」ということを考えてきましたが、「教(おしえ)によって育てられている」私の姿が浮かび上がってきました。

2005年4月 2日 (土)

私の誕生日こそ母の日

誕生日こそ母の日です

“母の日が私の誕生日”ではありませんよ。
“私の誕生日こそ母の日”なのです。
違い、わかります?

誕生日というと、誕生日を迎えたその人をお祝いします。コングラッチュレイション♪
それと同時に、誕生日は、自分を生んでくれた母に感謝をする日でもあるわけです。
5月の第二日曜日(だっけ?)が“母の日”ということになってはいますが、自分の誕生日こそが母の日と言えるかと思うわけです。

家庭・仕事・社会活動などにおいて、「私がいなければ」「私でなければ」と自負することがあると思います。でも、家庭・仕事・社会活動などにおける私って、実はいくらでも代わりがいるものです。「私がいなければ、家庭は(職場は、この活動は)、どうなってしまうか分からない」なんて思っていても、いざいなくなっても、ちゃんと代わりが現われて、キチンとこなしてくれるものです。ご心配なく。
さて、何を言いたいのかと言うと、役割における代わりはいくらでもいるんです。でも、私の代わりは誰もいないのです。○○ ○○(ご自分の名前を入れてください)の代わりは○○ ○○しかいないんです。代わりのいない大事ないのちを頂戴しているわけですね。

「なんで生んだんだ!」「お前が勝手に生んだんだ!」なんて思ったことはありませんか? 芥川龍之介の『河童』を読むと、父河童が、母河童のお腹の中にいる子河童に聞くんですね「お前は生まれたいか?」って。で、お腹の中の子河童が「生まれたくない」と言うと、父河童は殺すわけです。それを読んだときは衝撃的でしたが、私たちがこの世に生を受けたのは、自分自身の判断によるものなんだなぁと強く思うわけです。ですから、「なんで生んだんだ!」って言うのは、筋違いだと思います。

自分の判断で生まれてきて、代わりのない私を生きている。誕生日には、そういう私の生の事実を受け止め、母に感謝をする日なんだなぁと思います。
私、本日4月2日、34歳の誕生日を迎えました。
とても「お母さん、生んでくれてありがとう」なんて面と向かって言えませんけどね。(オイオイ) 

2005年4月 1日 (金)

音楽法要

本山(東本願寺)では、春の法要がお勤めされています(4/1〜4/5)。
4月1日は音楽法要として、お坊さんのお経だけでなく、仏教音楽のコーラスがあります。
住職と坊守がコーラス経験者なので、ぜひ門徒さんに聞かせてあげたいという話になり、門徒さん6人と住職(父)・坊守(母)・副住職(私)で旅行会を計画しました。音楽法要、皆さんも感動されたようで、計画・実行して、よかったです(この旅行会の案内は、西蓮寺の法話会に来られている方に限定させていただきました)。

京都入りした3月31日は、京都観光をして来ました。
詩仙堂ー銀閣寺ー法然院ー青蓮院ー大谷祖廟という、ちょっと渋めのコースを回ってきました。
予定外だったのですが、清水寺のライトアップをしていたので、夕食後に行って来ました。昼に見る風景とは違い、とても趣がありました。暗くて写真が取れなかったのが残念です。

例年ですと桜も咲いているのですが、今年は寒くてまだ全く咲いていませんでした。円山公園のしだれ桜が好きなのですが、今回は拝めませんでした。

桜には恵まれませんでしたが、そのおかげで観光客が少なく、天気には恵まれ、音楽法要にお参りもできて、普段は味わえない京都を堪能してきました。
機会がありましたら、いつかご一緒しましょう。

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