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2005年3月25日 (金)

またあしたね

好きな言葉のこと。
またあしたね
というのがそれで、夜ねるとき、私と妹が必ずかわした挨拶の言葉だ。
おやすみなさい、のあとに(あるいはかわりに)、必ず言った。その言葉をきくと、私はたちまち幸福な気持ちになった。あしたもあそべるのだ。

(『泣かない子供』 江國 香織)

3月は別れの季節でもあります。
いつでも会えると思い込んでいた人とも、別れが来ることがあります。ある日突然に。
なぜ別れるのか。それは、出会いがあったから。
なぜ死ぬのか。それは、この世にいのちをいただいたから。
“あったりまえじゃないか”と思われるかも知れないけれど、当たり前のことだからこそ、自分の身に起きたときは戸惑ってしまう。
別れ。引っ越して遠くに行ってしまうこともある。理由は無いけど、自然と会わなくなることもある。死別ということだってある。
別れのときが来ても悔いのないようにといっても、それは無理なこと。
どれだけ大切に過ごしても、別れは寂しい。大切に過ごせば過ごすほど、寂しさは増す。
“悔いのないように”会うことよりも、“別れのときがくる”ということを心に抱いていたい。

「生きていれば、いつかは会えるさ」と思っていても、なかなか会えるものじゃない。
相手が亡くなったからといって会えないかといえば、そんなことはない。亡くなった人の生きてきた道を忘れることがなければ、亡くなった人の歩んだ道の険しさに想いを寄せることがあれば、亡くなった人とだっていつでも会える。

別れがあるということは、また会える日が来るということ。
またあしたね

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