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2005年3月

2005年3月30日 (水)

旅をするということ、

明日から、門徒さんと一緒に京都の本山に行ってきます(一泊二日ですが)。
私は、5年間京都に住んでいたことと、本山に行くということで、旅行という気分ではありませんが、門徒さんは楽しみにしてくれています。楽しみにしてくれている人と、何か行動を起こすという意味では、私もワクワクしています。

旅行者というものは、みな義務感めいたものをもっていて、訪れる労にあたいするかどうかはまったくわからぬままに、本に書かれているものをすべて見ようとしたがる。
オールコック

明日は午前中に京都に着いて、午後から観光。ゆったりしたコース設定にしたけど、それでも欲張ったかな?
円山公園の枝垂桜がスッゴイ綺麗なんですけど、今年はまだ咲いてないようです。残念。

外国へ行く者が、よく事情を知らぬから、知らぬからと言うが、知って往こうというのが、善くない。
何も、用意をしないで、フイと往って、不用意に見て来なければならぬ。

勝海舟

「旅のしおり」を作ってしまいました。しかも、観光地の説明を丁寧に書き込んで…。
予備知識無しに観て、自分がどう感じるか。その素直な気持ちが、旅の思い出になるものですよね。

誰でも旅行をするについては、何を見るべきか、何が自分に大切か、を知っていなければいけない。
エッカーマン

この言葉に初めて会ったときは、「旅先の情報はキチンと仕入れておかなければつまらないよ」と受け止めていました。が、そういう表向きの意味だけではないような気がしてきた。旅行を人生に置き換えてもいいような。

旅行について語った言葉がたくさんあるものです。それだけ、人の琴線に触れることが多いのでしょうね。
ということは、旅行をした後が大事ですね。「楽しかった」「つまらなかった」で終わらせてしまうのか、旅行中に抱いた気持ちを、これからも持ち続けるのか。
旅行は人生の縮図なのですね。

2005年3月28日 (月)

書けないときは、書けないということを書くしかない

書けないときは、書けないということを書くしかない。
できないときは、できない自分とむきあう。

                    (ドラマ「スタアの恋」より)

覚えている人いるかなぁ? フジテレビのドラマ「スタアの恋」
たしか2001年の10〜12月期の放送だったと思います(内容は省略)。
藤原紀香さんのセリフでした。どういう話の流れでこのセリフが出てきたか忘れてしまったけれど、聞いた瞬間に、心打たれました。

書けないときは、書けないということを書くしかない。
できないときは、できない自分とむきあう。

たまに全然文章が書けなくなってしまう。いいこと書かなきゃとか、格好つけたことを書こうとするから、無理が出る。思ったままを書けばいいんだけどね。そういうことで悩んでいたときに出会ったことばがこれ。気持ちが楽になりました。
「書けなくなったら、やめればいい」というところに気持ちが落ち着きました。しかしこのセリフは、書けなかったらやめればいい、できなかったらやめればいい、ということを言っているのではない(と思う)。いつやめたっていいというところに気持ちが落ち着くと、新たな方向性が見えたり、気持ちに余裕を与えてくれる。結果、やめるどころか、ますますやめられない状態へと導いていってくれるのです。

2005年3月27日 (日)

すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する

「おい、スゲー本があるぜ!!」
「なになに?」
今日、法事で寺に来た子供たちが本棚の前で騒いでます。
(ん!そんなスゲー本、置いてあったかな?)
何かと思って子供たちの様子を見ていたら、その「スゲー本」とは、地獄絵の本でした。
なるほど「スゲー本」だ。表現がストレートで素敵です。
地獄の様子を描いた本。今の子供たちは、そんな本見ることも教わることもないのでしょうね。
自分が小さい頃は、「悪いことをすると地獄に堕ちるぞ!!」という叱り方をする大人がいてくれたものです。地獄絵の本も見せられました。
「悪いことをしたら地獄に堕ちるんだ。悪いことをするのはやめておこう」と子供心に思ったものでした。
その教え方が良いとか悪いとか、本当か嘘かなんてことは問題じゃなくて、この会話の中には大人と子供のコミュニケーションがあります。「そんなの嘘だぁ」という子供だっていたでしょう。「嘘じゃないぞ!」とムキになる大人もいたりして。親子の会話に限らず、近所のお年寄りが子供たちにそのように語ったり、学校の先生も地獄絵を生徒に見せていたような記憶もあります。

ところが、小学校の先生が地獄絵を生徒に見せたら、親からクレームがあったという話を聞いたことがあります。
「子供が怖がってしまった。なんてものを見せるんだ!!」って。

こういう話もあります。
給食の時間、先生がクラスで“合掌して、いただきます”するようにしたら、「宗教の押し付けだから、やめろ」と言い出す親がいたそうです。

(個人的な視点での)都合の悪いものを、子供に見ない・触れないようにさせる行為。
見なければ、触れなければ、聞かなければ、知らなければそれでいいのでしょうか。
知ったうえで判断するという作業こそが必要なのだと思いますが。
「子供にそんな判断できるわけないだろう」というのが、大人の意見。
判断した内容の良し悪しを気にするから、「そんな判断できるわけない」と思い、大人が判断しなければということになる。その結果、特定の大人が良しとしたものしか子供に与えない。判断する、考えるという力を奪ってしまいます。
子供を甘く見ちゃいけない。見せれば、触れさせれば、聞かせれば、知らせれば、ちゃんと自分なりに判断します、考えます。現に、大人のことをよ〜く見てますよ。この大人は良い人か悪い人かって。

すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。
アリストテレス

知ることは抑えられても、知りたいという欲望までは抑えられません。

2005年3月26日 (土)

われわれは時間を浪費している

われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。
人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。

セネカ(ローマの哲人)

プロ野球パ・リーグが開幕しました。
昨シーズンは合併問題で揺れ、近鉄存続が叶わず、それならば新規参入を選手会やファンは望みました。
その要望に対する既存チームのオーナーや代表の応えは「時間がない」。
今から参入企業を決定し、チームを作り、日程を組むことができるわけないだろう、なんて言ってましたよね。
でも、楽天イーグルスが誕生し、球場も改修し、しかも開幕戦に勝ったじゃありませんか。
間に合わないなんて言ってたのは誰ですか?
時間を有効に費やすと、こんなに大変なこともできるものなんですね。
第三者的に見れば、「やればできるじゃないか」なんて思ってしまいますけど、やはり、かなり無理のある仕事だったと思います。現場ではとてつもない苦労をされた方々もいることでしょう。そういう人々がいるということ、そういう人々の苦労を、忘れてはいけないと思います。

「忙しい」とか「時間がない」と口にする人がいますが、果たして、他に何もできないほど忙しい人って、いるのでしょうか?
「忙」という字は、「心を亡くす」と書きます。
(この説明は、「人という字は〜(金八先生風に)」同様、よく聞くことではありますが)
心を亡くしている原因を、忙しさのせいにしてはいけません。気をつけたいものです。

忙しい、忙しい、けれど何もしていない私

2005年3月25日 (金)

またあしたね

好きな言葉のこと。
またあしたね
というのがそれで、夜ねるとき、私と妹が必ずかわした挨拶の言葉だ。
おやすみなさい、のあとに(あるいはかわりに)、必ず言った。その言葉をきくと、私はたちまち幸福な気持ちになった。あしたもあそべるのだ。

(『泣かない子供』 江國 香織)

3月は別れの季節でもあります。
いつでも会えると思い込んでいた人とも、別れが来ることがあります。ある日突然に。
なぜ別れるのか。それは、出会いがあったから。
なぜ死ぬのか。それは、この世にいのちをいただいたから。
“あったりまえじゃないか”と思われるかも知れないけれど、当たり前のことだからこそ、自分の身に起きたときは戸惑ってしまう。
別れ。引っ越して遠くに行ってしまうこともある。理由は無いけど、自然と会わなくなることもある。死別ということだってある。
別れのときが来ても悔いのないようにといっても、それは無理なこと。
どれだけ大切に過ごしても、別れは寂しい。大切に過ごせば過ごすほど、寂しさは増す。
“悔いのないように”会うことよりも、“別れのときがくる”ということを心に抱いていたい。

「生きていれば、いつかは会えるさ」と思っていても、なかなか会えるものじゃない。
相手が亡くなったからといって会えないかといえば、そんなことはない。亡くなった人の生きてきた道を忘れることがなければ、亡くなった人の歩んだ道の険しさに想いを寄せることがあれば、亡くなった人とだっていつでも会える。

別れがあるということは、また会える日が来るということ。
またあしたね

2005年3月24日 (木)

熟成したカップルは同じものを見るようになる

いつか、あなた私に言ったの覚えてる?
若いカップルはお互いをいつも見つめあってるけど、熟成したカップルは見つめあうより、同じものを見るようになるって。
同じものを見て、
同じものを聞いて、
同じものを感じて、
同じものに感動して。
そういう年をとったカップルは素敵だって。
あなたが見ているものを、私は見てるわ。
あなたが感じていること、私も感じてるわ。
ここのカウンターで、いつでも私、いっしょに…
(フジテレビ「優しい時間」最終回より)

涙しながら見てました。同じものを見るふたり。感性や価値観や考え方が同じってことじゃなくて、“いっしょに生きている”ってことなんだろうなぁ。

あぁ、もっと書こうとしたことはあるんだけど、実際下書きしてみたんだけど、ゴチャゴチャ感想を書くのがナンセンスな気がしてきました。ドラマを見た方、いろいろな想いが胸中をかけめぐったことと思います。私も感じています。
ドラマを見てない方、ゴメンナサイ。なんのことかサッパリ分かりませんよね。

2005年3月23日 (水)

お彼岸の風景7

今日でお彼岸も最終日。春のお彼岸はお参りが多いです。
お参りにみえる人の姿を見ていると、「日本人は無宗教」とか、「宗教は恐い」と言われていることが嘘のように思えます。
作家の五木寛之さんが百寺巡礼を終えた感想で「日本は世界有数の宗教国家ではないだろうか」と語っていました。なんだか分かるような気がします。
地下鉄サリン事件以降(かな?)、堂々と「私は何教です」「私は何宗です」と名のれない雰囲気が出来てしまったと思います。「無宗教・宗教は恐い」と言っとけば、それが多数派で、自分が責められることがないですものね。
既成宗教の怠慢とも言われますが、自分はそうは思っていません(僧侶だから自己弁護してるように思われるかな。そういうわけではないのだけど)。宗教・仏教に関心を持っている人ってけっこういます。そういう人を、「変わった人」という目で見る環境に問題があると思います。
「寺報を毎月ください」と言ってくれる人、「“白骨の御文”の現代語訳がほしい」と言ってくれる人(そう言ってくれたおかげで、試訳をして、読み物を作ることができました)、お寺に行くから副住職がいる日を教えてくださいとメールをくれる人、などなど。実際、宗教・仏教に関心のある人はたくさんいる。そういう人と関係を持てるか。そういう意味での責任はこちら側にあると思っています。

追伸
お彼岸に入ってから、このブログへのアクセス数が増えている(といっても30前後だけど。でも、今までは一桁でしたから)。毎日書くようになって、ヒットしやすくなっているのでしょうか。期待しているものと違ってたらごめんなさいね。

2005年3月22日 (火)

逆境をもらえる幸せがある

人間としてステップアップするには、いろんな環境で苦労することも必要。そういう逆境をもらえる幸せがある。
NYメッツ 石井一久投手

大リーグ石井投手のドジャースからメッツへの移籍が決まりました。テレビでは、のほほんとした性格のように作られているけれど、今まで逆境を乗り越えてきた自信がみなぎっているように感じます。

逆境を“もらう”という発想は、なかなか出てこないですよね。
「逆境」…思うようにならない境遇、ふしあわせな境遇。
そんな境遇に身を置きたくないけれど、そういうわけにもいかない。生きてれば逆境に出会うもの。誰の身にも起こりうること。
でも、そういう境遇を逆境と判断し、悲観しているのは、実は私自身。
今、何気なく「逆境と判断し、悲観しているのは私自身」と書いたけど、「逆境=不幸せ」という図式が当然のように出来上がっているわけですよね。私の頭の中で。
「逆境=幸せ」という図式もありうるわけだ!! そのように発想するのも私自身。
人生の逆境を、不幸せ・いらないものと考えるのか、幸せ・もらうものと考えるのか、その違いは大きい。

もし、世界に喜びしかなかったら、勇敢になるとか、忍耐強くなるとか、学ぶことは決してなかったでしょう。
(ヘレン・ケラー)

追記
「逆境をもらえる幸せがある」と言える石井投手。でも、そういう気持ちもあれば、やっぱり不安もあるはず。
逆境を乗り越えてきた自信があるということは、その怖さや不安も知っているわけだから。
自分に言い聞かせているんでしょうね。
石井投手、応援してます!!(実はヤクルト入団時からのファン)


お彼岸の風景6

3連休も終わり、今日はとても静かでした。
天気が不安定なこともあって、お参りは少なかったです。
お墓にはきれいな花があがっています。
でも、夕方頃から吹き始めた強い風邪で、せっかくのお花が飛んでしまいます。

2005年3月21日 (月)

お彼岸の風景5

3連休最終日。今日もお参りが多かったです。
午前中、風邪が強かったですね。花粉症持ちにとってはたまったもんじゃありません。
寺に来る方を見てると、今年はマスクをしている方がとてもとても目立ちます。今年初めて花粉症になったという人もたくさんいました。気の毒ですね。私もかなりひどい花粉症持ちですが、薬が合っているのか、マスクをするほどではありません。

不思議な現象なのですが、お参りの方が来るときは、ワーッと大勢の方が来るんですよ。
その波が引いたかと思うとガラーンとして、全く暇になるんです。
うまい具合に分散されるといいんだけど…。
寺に顔を出してくださる方の中に、“あっ何か話したいことがあったんじゃないかなぁ”って雰囲気の人がいるんです。でも、たくさん人がいるからって遠慮して、挨拶だけして帰ってしまわれます。
ゆっくりお話ができなくてゴメンナサイ。
お彼岸中はどうしても事務的な対応になってしまい、心苦しいです。
寺の行事のないときにお出かけください。ゆっくりお話いたしましょう。

追伸
マスクと帽子と花粉よけメガネをしたまま挨拶してくださる方、誰だか分からないまま返事をしているときがあります。申し訳ありません。

2005年3月20日 (日)

3月20日

今日、3月20日は地下鉄サリン事件の起きた日です。
サリン事件の起きた日、京都での学生生活(修行?)を終えて、寺へ戻って来た日でもあります。
もう10年経つのですね。
事件以後と自分が寺に戻ってからの日々、自分の中ではどうしてもリンクしてしまいます。
当然、直接つながっているわけはないけれど、
事件やオウムのことが語られるとき、自分の歩みが問われてきます。
自分の歩みを振り返るとき、事件やオウムのことは付いてきます。
これからも。

お彼岸の風景4

お彼岸に限らず、お参りに来た方には「西蓮寺掲示板のことば」という寺報をお渡ししています。
今日、寺報をお渡ししたら、「ことば」をその場で読まれて、文章のモデルになっている境内の梅の木を実際に見て、「本当だ。幹はがらんどうだけど、生命の力を感じますね」と言われた方がいました。
文章をすぐに読んでくれたこと、すぐに文中の梅を探されたこと、一緒にその梅の木を見られたこと、感想を言ってくれたこと、生命の力を感じてくれたこと、いろんなうれしいことが同時にたくさん来てくれました。
今日はお彼岸のお中日、たくさんお参りの方がみえ、少々疲れてましたが、一気に疲れも吹き飛びました。

2005年3月19日 (土)

お彼岸の風景3

世間は今日から3連休。お墓参りもたくさんみえました。
道路は大渋滞だったようです(寺にこもりっきりなので、外の様子が分かりません)。
流山から4時間かけてこられた方もいました。お疲れ様です。
お墓参りが多くて、何か忘れてるな〜と思いつつ、法務をこなしていました。
いつの間にか日が暮れていました。
何を忘れているのか、夕飯を食べる時に気付きました。
私、お昼ごはんを食べることを忘れていました。

さかなは目をあいたまましんでいる

さかな  たきぐちよしお
 さかなは 
 目を あいたまま
 しんで いる
 きっと
 たべられるのまで
 見ようと
 しているんだね
  (読売新聞2005.3.18朝刊「編集手帳」より)
たきぐちよしおさんが「さかな」という詩を書いたのは、1968年。
当時、小学2年生。力のある詩です。

見られているという感覚、いつからか失くしてません?
お釈迦さまが見てる。お天道様が見てる。神様が見てる。
子供の頃、そういうふうに注意されませんでしたか?
「そんなのウソだぁ〜」なんて言いつつも、悪いことはしちゃいけないんだと自分に言い聞かせていたような。
大人になると、そういう抑止力がはたらかなくなるのかな。
今の子は「そんなのウソだぁ〜」なんて言いながら、気にも止めないのかなぁ。
バレなかったら、迷惑をかけなかったら、何をやってもいい。そんな雰囲気が漂っている。
(バレても、迷惑をかけても、おかまいなしなんて人もいるけれど)
見られているという感覚、どこに置いて来てしまったんでしょうねぇ。

2005年3月18日 (金)

お彼岸の風景2

快晴。春の日差しが心地よく感じました。
午後3時、雨が降りましたが、すぐに通り過ぎてゆきました。
雨雲が通り過ぎると、風が吹いてきました。
お彼岸中、必ず風の強い日があります。
廊下はザラザラ、表のベンチもザラザラ。
せっかくの墓地花も飛び散ってしまいます。

お彼岸2日目。平日でしたが、多くの方がお墓参りに来ました。
ここ数年、お彼岸中のお墓参りが分散されてきた気がします。
お中日は道路が込みますからね。

2005年3月17日 (木)

お彼岸の風景1

いつからだろう、雨の降る日に心弾ませるようになったのは。

土。
カサカサに乾いた土が、みるみる湿気を含んでいく。
薄〜い白っぽい茶から、濃〜いこげ茶に色が変わっていく。
水分を含み、輝きを増している。
乾いた土に、生気がみなぎり始める。
 
花。鉢植えの花。
ジョウロから注がれる水よりも、天から降り注ぐ雨の方が、花も喜んでいる気がする。
植物の瑞々しさが、空気をやわらかくする。

土のにおい 花のかおり 静かな空気
心弾ませると言ったけど、心に静寂を与えてくれると言ったほうがいいのかも。
そんな雨の日が、とても好きだ。


う〜ん、「お彼岸の風景」と関係ないですね。
でも、彼岸の入りの日、お墓参りに来る方には気の毒でしたが、私は雨の風景を静かに眺めていました。
ちなみに、「じょうろ」って漢字で「如雨露」って書くんですね。初めて知りました。

2005年3月16日 (水)

ふつうでいられる事のしあわせ

日々の暮らし。同じことの繰り返しのようで、どうして生きているのか、今のままでいいのか、不安になる人が多いことと思います。
現状に満足できず、いろいろと考えてしまう人もいる。
現状に不満はないが、今のままでいいのか、物足りなさを感じてしまう人もいる。
もしかしたら、誰かと比較して、今のままでいいのか悩んでません?
もしかしたら、誰かに言われて、必要以上に悩んでません?
上昇志向と言えば聞こえはいいけれど、今、ふつうでいられる事にしあわせを感じないなら、上昇したところで、いつまでたっても、しあわせを感じないことでしょう。

「ふつう」って、何? 「しあわせ」って、どういうこと? という疑問もあるかもしれないけど、無理に定義付けする必要もないでしょう。
「ふつうでいられる事のしあわせ」ということばを目にして、どのような境遇であっても、「あぁ、ホントそうだなぁ」と思えるか、「とんでもない」と嘆くか。あなたはどちらの生き方をしてますか?って問われているような気がします。
さぁ、あなたはどちらですか?


2005年3月15日 (火)

孤独に怯えた日々を いつか懐かしむ時がくる

夢見て夢に破れて 自分のことを
あきらめてゆく それは違う
この世に出口のない 入り口なんて
ありはしないよ

今日は昨日の続きだったけど
明日流れが変わるかも知れないじゃない?
大丈夫孤独に怯えた日々を
いつか懐かしむ時がくる
(さだまさし The Day After Tomorrow〜明後日まで〜)

出口のない入り口はない
やまない雨はない
朝が来ない夜はない

似たフレーズがたくさんありますね。
これらのフレーズって、誰のことばだと思います?
苦境を乗り越えた人、孤独に怯えた日々を懐かしめるようになった人たちのことばだと思うんですよね。
乗り越えたからこそ、このようなことばって生まれてくるんだと思います。
苦しみがあって、それでも明日は流れが変わるかもしれないって信じて。

苦しみの真ん中にいる人に、「出口のない入り口はないよ」って言っても、もしかしたら無責任なセリフかもしれない。
でも、今の私にはそのようにしか言えません。
あなたの苦しみを背負うことも、変わることもできないから。
明日は流れが変わるかもしれない。流れを変えるのはこの私自身。

2005年3月14日 (月)

黙って腹にためこめば深刻味を帯びるが、口にすれば喜劇

黙って腹にためこめば深刻味を帯びるが、
口にすればどうしたって喜劇なのだ

(『対岸の彼女』 角野光代)

不満・怒り・寂しい気持ち、口に出したいことはたくさんあるのに、なかなか出せない。
相手との関係がこじれたらまずいから、相手を困らせたくないから、理由はいろいろ。
でも、自分の中にためこむのも限界がある。
涙として表われたり、気力を失ったり、病気になったり。
時には何倍もの怒りとして爆発することもある。これはシャレにならない(うん、ホントにシャレになんないです)。
やはり、言うべきことは口にしたほうがいいのかも。
口にした瞬間、自分の中だけで抱えていたことが、実は「くだらないこと」だったと笑えてくるかも。
人に話すと、いろいろな解決方法が出てきたり、抱えていたことが自分勝手な誤解であったり、話しただけで重荷が軽くなったり。問題そのものの解決には至らなくても、新たな動きが出てくるものです。
それにね、口に出してくれることを、助けを求めてくれることを待っている人がいるかもしれませんよ。自分では誰にもさとられてないつもりでも。腹にためてても、顔や態度に出てくるんですね。

当然、誰にも言ってはいけないこともあるけれど。
この世の中、誰と誰がつながっているか分かりません。あの人は誰ともつながりがないだろうと思って愚痴ったら、身内や友達だったりということもありえますから。コワイコワイ。

2005年3月11日 (金)

病気をして心が広くなりました

「病気をして心が広くなりました」
女優の木の実ナナさんのことばです(2005.3.11読売新聞夕刊「ラウンジ」より)
ナナさんは、46歳の時から4年間うつ病に苦しまれ、自分の病気が治った後も、病気を公表し、「うつ病」に関する理解を広めようと、公演をされたり、CMに出たりされています。
「うつ病」は、今でこそ新聞や健康に関する番組等で取り上げられる機会も増えてきましたが、まだまだ偏見・無理解があります。私も、無理解なひとりだと思います。
どんなに理解しようとしても、その苦しみというのは、その本人にしか分かりません。
ナナさんも、病気の苦しみの上に、理解されないという苦しみがあったことでしょう(その苦しみの方が強かったことと思います)。
病気やケガをしても、治ってしまうと、普通その苦しみは無くなってしまいます。忘れてしまおうと思うでしょう。
でもナナさんは覚えています。病気の苦しみも、偏見のつらさも。だからこそ、病気が治ってからも、人々に語り続けるのです。これは、義務感や責任感という言葉で言い表されるものではなく、心が広くなったことの表われのような気がします。
「心が広くなる」って、寛容になるという意味もあるでしょうが、人生の苦痛をも受け容れられるようになることをいうのではないでしょうか。

彼女は「病気をして心が広くなりました」と話し、「自分一人で心にしまっておかないで。救ってくれる人は近くにいますよ」と笑顔で呼びかけられたそうです。
2日前にこのブログで「泣ける相手がいますか?」って書きました。NOと答えるような人は、そういう相手がいないというよりも、自分で壁を作っているんじゃないかなって気がするんです。「ろくな人間がいない」とか「どうせ分かってもらえない」とか言いながら。私がそんな人間ですから。
でも、心にしまったままじゃ伝わらないし、当然救ってくれる人も現れません。
「広くなる」って、開放するっていう意味もあるんじゃないかな。自分で閉じてしまっている心を開放するという意味が。

2005年3月10日 (木)

子どもにじかに語るなら、どんな話も子どもに害は及ぼさないでしょう。

父親または母親が、あるいはそれに代わるような方々が、子どもにじかに語るなら、どんな話も子どもに害は及ぼさないでしょう。大人が気にかけなければならないのは、親身になって子どもに語る人の少ないことで、個々の残酷な言い回しではありません。
〔『グリム童話ー子どもに聞かせてよいか?』野村ゲン(「さんずい」に「玄」)著、筑摩書房刊〕

グリム童話って、けっこう残酷な描写があるんですよね。学生時代は、グリム童話のイメージが覆されて、その残酷さの裏にある人の本来の姿を見られるような気がして、よく読んでました。
残酷なシーンが著されている書物を子どもに読ませたくない親が増えているらしいですね。
書物に限らず、ゲーム・アニメ・ドラマ・映画も。
見せなければ済む問題かな?
見せたほうがかえって抑止力になるとか、そういうことを言いたいのでもない。
親身に語ったからといって、みんながみんな、残酷なことをしない子に育つわけでもないでしょう。

先ず、グリム童話に限らず、自分で読んでみてほしい。そうすれば、単に残酷なだけなのか、残酷さの奥にメッセージがあるのかわかるはず。「奥のメッセージ性なんか子どもに分かるか?」と考える人もいるかもしれないけれど、ナゼ分かるか分からないかの部分を親の方で考えてしまうんでしょう。それは子どもの領域ですよ。
「子どもにじかに語る」作業が大切だと思います。
自分で考える作業を通せば、マニュアル通りでなくたって、なにも気にする必要はないんですけどね。

2005年3月 9日 (水)

人って、つらいときは泣くべきものなんだよ。

「人って、つらいときは泣くべきものなんだよ」(ドラマ「87%」より)

泣くことが恥ずかしいことのように思われているけれど、泣けることってとても大切なことだと思う。

泣ける場所、泣ける相手がいますか?
自分をさらけ出して泣くことができますか?
YESと答えられる人は少ないのではないでしょうか。

強い人って、我慢できる人・耐えられる人のことではなく、泣くことが出来る人だと思う。

“幸せ”って、ツライ思いをしなくていい状態のことを思い描いていませんか?
でも、ツライ時に泣ける場所がある、泣ける相手がいるということが“幸せ”ということなのかも知れない。

夏川結衣さんと杉田かおるさんの演技を見ていて、もらい泣きしてしまいました。
(この場合の「泣く」は、本文中の「泣く」とは違いますけどね)

2005年3月 7日 (月)

病人になって病気をする

今日は、花粉症がひどかったです。今年最悪。鼻水は止まらないし、体はだるい。皆さんはいかがでしたか?
花粉の季節が早く過ぎさってくれるのを、待つばかりです。

そんな時に、このことばが目にとまりました。
真宗の教学者の安田理深先生のことばです。
安田先生が結核で入院されていたとき、お医者さんから絶対安静をするように言われます。
「絶対安静」。
じっとしていればいいように思ってしまいますが、それがなかなか難しい。体は動かさなくても、心は動きっぱなしです。
あれをしなければ、これをしなければ。仕事は、家庭は大丈夫だろうか、私がいなければならないのに…。退院したら、どこへ行こう、等々。
安田先生は絶対安静ということが、どうすることかわからなかった。そして、
「やっとわかったことは、病人になって病気することだった」と言われました。

私たちは、健康である状態を基準に物事を考えてしまいます。そう考えると、病気や死ということが、許せないこと、邪魔なことになってしまいます。でも、生きていれば、病気やケガもするし、いつかは死ぬんです。そういう当たり前のことを受け入れられない。「いつか健康になったら」と考え、病気が治らなければ「どうしてこんなことになったんだ」と前向きになれない。
健康を夢見るということは、一時的には活力になりますが、病気が続けば、苦痛にしかなりません。
私は今病人なんだということを受け入れるということは、こころの絶対安静にはなります。それが、実際に病気が治るかどうかはわかりません。でも、絶対安静できるということは、病気が治るとか治らないとか、そういうことは二の次になるのではないでしょうか。
仏さまのおしえって、病気を治すものではないんです。今ある自分を、自分として受け止められるようになる智慧を与えてくれるものなんです。

2005年3月 1日 (火)

2005年3月のことば

PICT0057

古木は老木ではありません
毎年新しい芽が出てきます

境内に咲く梅の木は、樹齢何年になるのでしょう。幹はがらんどうです。それでも毎年綺麗な花が咲き、梅の薫りが辺りを漂います。
そんな古木から咲く梅の花を見ていると、人間だって、いくつになっても、生き生きとがんばらなければいけないなという気持ちが沸いてきます。
「生き生きとがんばらなければいけないな」。「がんばる」という言葉。個人的には好きなのですが、あまり好まれる言葉ではないようです。
病気の方、苦しみを背負っている方、受験生等に、「がんばってください」と声をかけます。声をかける側は励ましているつもりでも、声をかけられる人にとっては苦痛のようです。「今まで、こんなにがんばっているのに、これ以上なにをがんばれというんだ」と。(私なんかは、「俺はこんなにがんばってるよ。お前こそ もっとがんばれよ」なんて言い返す性格の人間なので、苦痛には感じませんが)
「がんばれ」と言われることが苦痛だという方は、優しく、真面目な方なのですね。それだけに病気や苦労を背負って、本当にがんばっているのに、何気ない「がんばれ」の一言が、「がんばっているように見えないのだろうか」と、疑心暗鬼になってしまうのでしょう。
なぜ「がんばる」ことが苦痛なのか。「がんばる」という言葉には、今のマイナスの状態を努力・忍耐・我慢によってプラスに転じようという思いが含まれているように感じます。更に上を目指したり、今の自分より良い人間になろうとしたり、病気を治そうとしたり。それ故に、それができないことが、いけないことのように感じてしまう。だから、「がんばれ」と声をかけられることが苦痛になってしまう。

「がんばる」には、2つの語源があります。
ひとつは「眼張る(がんはる)」を語源とする説。「目をつける」や「見張る」といった意味が、「一定の場所から動かない」に転じ、さらに、現在のような意味に転じたとする説。
もうひとつは、自分の考えを押し通す意味の 「我を張る」が転じたとする説。

「がんばる」の元々の意味を考えると、嫌悪感を抱かせるようなものではないようです。
それどころか、「我を張る」ということは、今の自分を正直に出すと理解してもいいのではないでしょうか。上を目指したり、より良い状態を目指す必要が無いわけです。今のままでいいんだよということではないでしょうか。
しかし、今のままの私に満足できないのが、この私なのです。より優れた状態を目指し、無理な目標を立ててしまう。出来もしないから、余計に苦痛に感じてしまう。うん、私を苦しめているのは、この私自身だったのですね(努力や忍耐を否定しているわけではありませんよ)。
考えてもみれば、古木は、無理をして綺麗な花を咲かせているわけではありません。自分が咲かせられるだけの花を咲かせているのです。
ご法事でお勤めする『仏説阿弥陀経』には、次のように説かれています。
  池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
「(浄土の)池には蓮華が、大きな車輪のように咲いています。青い花は青く、黄色い花は黄色く、赤い花は赤く、白い花は白く、光り輝いています」と。
このような浄土の蓮華の姿は、「私には私の輝きがあり、あなたにはあなたの輝きがある」という、当たり前のことなのに、忘れてしまっている事実を教えてくれています。
  赤い実のなる木に 赤い実がなった。木の満足 (竹部勝之進)
私が持つ輝きに気付かずに、あるいは満足できずに、私の持っていない輝きを出すことに必死になっていませんか。
  花は ただ咲く ただひたすらに ただになれない 人間のわたし (相田みつを)


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