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2005年3月 1日 (火)

2005年3月のことば

PICT0057

古木は老木ではありません
毎年新しい芽が出てきます

境内に咲く梅の木は、樹齢何年になるのでしょう。幹はがらんどうです。それでも毎年綺麗な花が咲き、梅の薫りが辺りを漂います。
そんな古木から咲く梅の花を見ていると、人間だって、いくつになっても、生き生きとがんばらなければいけないなという気持ちが沸いてきます。
「生き生きとがんばらなければいけないな」。「がんばる」という言葉。個人的には好きなのですが、あまり好まれる言葉ではないようです。
病気の方、苦しみを背負っている方、受験生等に、「がんばってください」と声をかけます。声をかける側は励ましているつもりでも、声をかけられる人にとっては苦痛のようです。「今まで、こんなにがんばっているのに、これ以上なにをがんばれというんだ」と。(私なんかは、「俺はこんなにがんばってるよ。お前こそ もっとがんばれよ」なんて言い返す性格の人間なので、苦痛には感じませんが)
「がんばれ」と言われることが苦痛だという方は、優しく、真面目な方なのですね。それだけに病気や苦労を背負って、本当にがんばっているのに、何気ない「がんばれ」の一言が、「がんばっているように見えないのだろうか」と、疑心暗鬼になってしまうのでしょう。
なぜ「がんばる」ことが苦痛なのか。「がんばる」という言葉には、今のマイナスの状態を努力・忍耐・我慢によってプラスに転じようという思いが含まれているように感じます。更に上を目指したり、今の自分より良い人間になろうとしたり、病気を治そうとしたり。それ故に、それができないことが、いけないことのように感じてしまう。だから、「がんばれ」と声をかけられることが苦痛になってしまう。

「がんばる」には、2つの語源があります。
ひとつは「眼張る(がんはる)」を語源とする説。「目をつける」や「見張る」といった意味が、「一定の場所から動かない」に転じ、さらに、現在のような意味に転じたとする説。
もうひとつは、自分の考えを押し通す意味の 「我を張る」が転じたとする説。

「がんばる」の元々の意味を考えると、嫌悪感を抱かせるようなものではないようです。
それどころか、「我を張る」ということは、今の自分を正直に出すと理解してもいいのではないでしょうか。上を目指したり、より良い状態を目指す必要が無いわけです。今のままでいいんだよということではないでしょうか。
しかし、今のままの私に満足できないのが、この私なのです。より優れた状態を目指し、無理な目標を立ててしまう。出来もしないから、余計に苦痛に感じてしまう。うん、私を苦しめているのは、この私自身だったのですね(努力や忍耐を否定しているわけではありませんよ)。
考えてもみれば、古木は、無理をして綺麗な花を咲かせているわけではありません。自分が咲かせられるだけの花を咲かせているのです。
ご法事でお勤めする『仏説阿弥陀経』には、次のように説かれています。
  池中蓮華 大如車輪 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
「(浄土の)池には蓮華が、大きな車輪のように咲いています。青い花は青く、黄色い花は黄色く、赤い花は赤く、白い花は白く、光り輝いています」と。
このような浄土の蓮華の姿は、「私には私の輝きがあり、あなたにはあなたの輝きがある」という、当たり前のことなのに、忘れてしまっている事実を教えてくれています。
  赤い実のなる木に 赤い実がなった。木の満足 (竹部勝之進)
私が持つ輝きに気付かずに、あるいは満足できずに、私の持っていない輝きを出すことに必死になっていませんか。
  花は ただ咲く ただひたすらに ただになれない 人間のわたし (相田みつを)


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