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2005年2月

2005年2月20日 (日)

重杯のよし、言語道断・・・

昨晩は珍しく、家でひとり、お酒を飲んでいました。
デパ地下でおいしそうなネギチャーシューを買ってきたので、ちょっと一杯のつもりで焼酎を飲んでいました(弱いくせに、飲みたがる)。
まぁ、一杯で終わるわけが無く、気付いたときには、前日に買ったばかりの焼酎「黒甕」を一本空けてしまいました。
えっ、いつの間に!! Σ( ̄ロ ̄lll) 
今朝の惨状はご想像にお任せします。☆.。.:*・°☆.。.:*・°
でも、ちゃんとお朝事(読経)は勤めましたよ(当たり前!!)。
頭がクラクラする中で聞こえてきたのが、住職が拝読する「御文」第4帖第8通。

一 坊主分の人、ちかごろはことのほか重杯のよし、そのきこえあり。言語道断しかるべからざる次第なり。あながちに、酒をのむ人を停止せよというにはあらず。仏法につけ、門徒につけ、重杯なれば、かならず、ややもすれば酔狂のみ出来せしむるあいだ、しかるべからず。さあらんときは、坊主分は停止せられても、まことに興隆仏法ともいいつべきか。しからずは、一盞(いっさん)にてもしかるべきか。これも仏法にこころざしのうすきによりてのことなれば、これをとどまらざるも道理か。ふかく思案あるべきものなり。

「飲むのは仕方ないけど、飲みすぎはいけません。もしお酒をやめられないのならば、それはあなたの、仏法に対する志の無さの表われですよ」
アイタタタ・・・。頭も痛いけど、心も痛い。痛いのは、本当の自分を突かれているから。
「御文」は繰り読み(第1帖第1通から順番に拝読)しているので、今朝この「御文」が拝読されたのは偶然だけど、正に私のために読まれたのですね。ナムナム。

仏法って、自分が置かれている状況にヒットしたときに、染み入ってくるものなんですよね。そのためには、聞き続けることが大切。普段は分からないなぁと思いながらでも、聞いているだけでいいんです。ある時、スッと私の中に浸透する時が来ますから。(っていうことを、こういう例えで言っても、緊張感がないですね)

ちなみに、今日は飲みません(飲めません)でした。

(注)「御文(おふみ)」・・・蓮如上人(本願寺8世)がご門徒に書かれたお手紙。真宗の教えが分かりやすく書かれている。

2005年2月18日 (金)

人がつらい時に励ませる私でありたい。

良い時に一緒にいることって簡単なんです。
人がつらい思いをしている時に、そばで励ませるようになりたい。
〔2005年2月17日(木)放送 NHK「夢・音楽館」より〕

槇原敬之さんがこのようなことを語られていました。
(私の記憶のまま書いたので、実際のことばと違いますが)

そうなんですよね。人が困っている時や苦しんでいる時に、そばにいる、励ますっていうことは難しいことです。
反面、つらい時に励まされるのって、鬱陶しく感じることもありませんか?「黙っててくれ!」「お前に何が分かる!」みたいな。悲劇のヒーロー・ヒロインになってしまうんですよね。人がつらい思いをしているときに、それを励ますことが難しいというのは、そういうことも原因としてあるのではないでしょうか。

でも、槇原さんがこういうことを言えたのは、自分自身がつまづいた時に、励ましてくれた、元気をくれた人がいて、その人たちを受け入れることができたからなんですね。
「私は自分で堕っこちていったんですけどね。その時に周りにいてくれた人たちと、今も仕事をしています」と語られていました。
テレビでは、どん底から這い上がってきた人しか取り上げないですから、「この人たちは、周りに優しい人たちがいていいよなぁ。それなのに、私の周りには誰もいない」なんて思う人もいることでしょう。でも、励ましてくれている人はいるものです。自分が堕ちた時に、励ましを受け入れるのか、それとも自暴自棄になってしまうのか。その違いだと思います。
励ますことは難しいけれど、(自分が苦しい時に)励ましを受け入れることはもっと難しい。


同じ星空の下、悲しんでいるあなたに何もできない私がいます。ごめんなさい。


2005年2月 4日 (金)

腹が立つのは、本当の自分を言い当てられているから

人にいろいろ言われて、腹を立てることがあります。
その時は怒りの感情しかありませんが、数日経って、冷静になって、どうして腹が立ったのか考えてみました。
考えれば考えるほど、余計に腹が立つのですが、そこでまた怒らずに、よ〜く考えてみます。
なるほど自分のことをズバリ言い当てられているから、腹が立ったんだなということに気が付きました。アイタタタ…。

2005年2月 1日 (火)

2005年2月のことば

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優しさって 人の憂いが分かること

優しいってどういうことだろう。
 親切にする。困っている人を助ける。話を聞く。
 相手を理解する。怒らない。気にかける。
そうすることで、優しくする人も、された人も、お互いに幸せな気分になれる、かな?

優しさとは、人の憂いが分かることだと教えられました。
人の憂いが分かるって、自分も一緒に背負ってあげることかな。難しい。うん、優しいって難しいんだ。
「あの人は優しい人だ」と好意を込めて言うけれど、優しいと言われるあの人は、人の憂いを背負い込んでいるのかもしれない。
人の憂いが分かる。いくらでも引き受けられる人もいれば、出来ない人だっている。悩んでいる本人以上に抱え込んでしまう人だっている。
しかし誰だって、人の憂いを全て分かってあげることは、当然できない。でも、理解しようと努めることはできる。

「優しさって 人の憂いが分かること」ならば、人の憂いが分かれば優しいのかというと、そうでもない。優しさを押し付ける人もいる。
 「あなたを信じてるから」
 「あなたを心配してるから」
 「あなたが好きだから」
この「から」ってなんだろう。どうして「から」が付くんだろう? あなたのことを想っているという気持ちに偽りはないのだろうけど、「から」は余計だ。「〜だから、こうであってほしい(ありなさい)」
そんな意識が見え隠れする。人の憂いを分かっているつもりかもしれないけれど、そんなのは優しさじゃない。人を自分の思い通りにしたいだけのこと。

もし優しいということが、最初に書いたこと(「親切にする」等々)だけだとしたら、人が生きていくうえで、そういう優しさを捨てなければいけないこともある。
 友人・知人に苦言を呈さなければならないこともある。
 「嘘をついてはいけません」と子供には教えるけれど、場合によっては、つかなけれホならない嘘もある(かな?)。
 会社を経営している人だったら、泣く泣くリストラを敢行しなければいけないこともある。
そういうことって、やらなくて済むことなら、誰だってやりたくはない。人が落ちこむことを言わなくて済むなら、嘘をつかなくて済むなら、誰の首も切らなくて済むなら、そんなことは誰だってしたくない。しかし、避けては通れないこともある。
その時に、私の中に憂いの心があるだろうか。憂うことなく苦言を呈し、嘘をつき、リストラしたならば、それは自分が可愛いだけのご都合主義。
「人の憂いが分かること」。「人」って誰? 
「人」って、「他人」を指していると思っていた。でも、この私のことを指してもいるのかも。
他人の憂いを100%分かるということは、無理なこと。ある程度は理解できたとしても。
でも、私自身の中に「憂いの心」が有るか無いかは、分かるでしょう。この私の中に「憂いの心」が有るならば、それこそが優しさ。たとえ苦言を呈し、嘘をつき、リストラしなければならないとしても。
でも、行為自体に違いはないのだから、相手にその優しさは伝わらない。ひどい奴だと思われることでしょう。そういうつらさと対峙するのが、優しさなのかもしれません。
でも、でも、私の中に憂いの心があるなら、優しさは伝わる必要はない。本来、優しさって、伝わらない、気付かれないものなのかもしれませんね。また、人に求めるものでもありません。

もう一方、落ち込むことを言われた人、嘘をつかれた人、リストラされた人にも憂いの心はあるだろうか。なぜあの人が、そういうことをしなければならなかったのだろうか。ただ怒ってばかりではありませんか?

優しさって、双方が憂いの心を持つこと。幸せな気分とは程遠いけれど、優しさは潤いを与えてくれるものに違いはない。
心悩ますことが、優しさの種なのかもしれない。その種から花を咲かせるのも、枯らせてしまうのも、私しだい。

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