2004年12月のことば
ともかくも あなたまかせの 年の暮れ (小林一茶)
小林 一茶
小林一茶の生涯は、悲しい出来事が続きます。3歳で母を亡くし、継母とはなじめず、15歳で奉公に出されます。39歳で故郷に戻ると、看病の甲斐なく父を亡くし、遺産相続問題が継母・異母弟との間に起こります。結婚してから授かった4人の子供は夭逝し、妻とも死別します。その後、再々婚した妻との間に授かった娘は、一茶の没後に生まれます。一茶は亡くなる直前に大火に遭い、家も失っています。
そういえば、一茶の俳句はどこか悲しげですね。
めでたさも 中位なり おらが春
我ときて 遊べや親の ない雀
その一茶が、
ともかくも あなたまかせの 年の暮れ
と詠まれました。あなたはこの時の一茶の心境をどのように感じられますか? 次々に襲いかかる不幸によってやけくそ状態で詠まれた俳句であると解説しているホームページもありました。「あなたまかせ」のフレーズが、全てを投げ出したように受け止められたのでしょうか。
この「あなた」は「阿弥陀如来」を指します。一茶は浄土真宗の門徒であり、信仰の篤い父の影響を受けたようです。阿弥陀如来におまかせするとは、どういうことでしょう?
恩徳讃(おんどくさん)
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
「恩徳讃」と呼ばれるこの和讃は、親鸞聖人が阿弥陀如来と、その教えに生きた師教とに出遇えた喜びを表わされたものです。「私親鸞は、悩みの尽きない人間である。しかし、このような私でも、阿弥陀如来や師教のおかげで生かされている」という、生かされて今の私がいるという身の事実に目覚められて書かれたものです。その感動を、書かずにはおれなかったのです。「如来大悲の恩徳・師主知識の恩徳を励みとして、この身を生きる私となりました」と告白された和讃です。
如来や師教の恩徳を誰かに教えようとか伝えようという計らいはなかったことでしょう。ましてや、「報ずべし」「謝すべし」と書いてあるからといって、「報じなさい」「謝しなさい」と命令・説教されたのではありません。ただただ、迷いの人生を生きる私親鸞が、阿弥陀如来や師教の恩徳を受けながら、迷い・苦しみの人生を歩んでいけるようになりましたと喜びを持って語られているのです。
一茶や親鸞聖人のように、阿弥陀如来を頼りとすることを【他力】と言います。現代では【他力】というと、他人の助けを借りることをいい、否定的に使われます。「他力本願ではダメだ」と。それは誤解です。
【他力】とは、阿弥陀如来を頼りとすることですが、このことを、阿弥陀如来が手助けしてくれると解釈してしまっては、他人の助けを借りるという考え方と何も変わりません。阿弥陀如来を頼りとする身となるということは、苦しみは苦しみのままに、悩みは悩みのままに「そのままでいい」という生き方に身が落ち着くようになることです。
真宗では、【他力】を教えるあまり、【自力】が否定的な響きを持ってしまっています。阿弥陀如来の救いの中にいるのだから、自分から励んで救われようと思わなくてもいいのだ、と。しかし、我々の生き方としては、【自力】を尽くすしかないのです。【他力】の中を生かされているからこそ、【自力】を尽くせるのです。阿弥陀如来・師教の恩徳によって、苦労しながらも、悩みながらも、今のままの私を生きることができるのです。その姿こそ「報ずべし」「謝すべし」の姿なのです。
【自力】を否定的に受け止めると、「あなたまかせ」がやけくそに聞こえてしまいますが、一茶の「あなたまかせ」は、積極的な思いが含まれています。苦労を通して、つらい思いを通して、やっと【他力】の中を、阿弥陀如来の救いの中を既に生かされていたことに気付いたのです。だからこそ、「あなたまかせ」と言い切れたのです。でなければ、「ともかくも あなたまかせの 年の暮れ」なんて詠めません。
親鸞聖人が「恩徳讃」などの和讃を作られたのは晩年になってからです。一茶も、晩年になってこの俳句を詠まれたといわれています。「年の暮れ」とは、人生の暮れ時とも読み取れますね。
おふたりとも、人生の晩年に阿弥陀如来を感得された作品を作られた。このことは、人生の晩年になって気が付いたってことではなく、生涯を通して阿弥陀如来の導きの中を生きられたことの告白なのです。そのような人生を歩まれた方がいるってことです。そのように生きたいものです。いや、生きられるってことです。今のままの私を。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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