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2004年10月27日 (水)

「迷惑」とは、かけられて困るものではなく、かけ合いながら生きていくもの

「迷惑」というと、他人(ひと)が私にかけるもののように思っています。
「○○に迷惑をかけられた」「○○は迷惑な奴だ」って感じで。
それ故、他人に迷惑をかけてはいけないという自制心がはたらくわけです。
「これをやったら迷惑だろうか(だから、やめておこう)」ってな具合に。

どうして改めてこんなこと書くかっていうと、何度も読んでいる言葉なのに、今更になって「ガツン」ときた言葉があるんです。

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。(『教行信証』信巻)

私親鸞は、せっかく「南無阿弥陀仏」と念仏できる身になりながら、欲望の海に沈み、大いなる名誉欲に迷っている。恥ずべきことだ、痛むべきことだ。

と、親鸞聖人は自分の有り様を歎いています。「迷惑して」って、自分のこころが欲望に迷っているって言ってるんです。他人が私を困らせるのではなく、迷惑するのは私の思いなんですね。
「じゃあ、気の持ちようで迷惑と思わなければいいのかな」なんて思う人もいるかもしれないけれど、迷惑しないようなこころになるんじゃなくて、こころというのは常に迷惑しているものなんでしょう。だいたい「迷惑と思わなければいい」ほど寛容な気持ちになんてなれないでしょう。


「迷惑」といえば、年配の方が「(自分の老後のことで)子供には迷惑をかけたくない」と言いますが、気持ちはわかるけど、とってもとっても孤独で寂しいセリフですよ、それって。「迷惑をかけたくない」って言ってるってことは、自分が他人に迷惑をかけてないという意識がはたらいています。そのことに気付かないで「迷惑をかけたくない」って言っても、なにを言ってるんだって話です。

今、新潟では地震で大変な被害が出ています。避難している方々の様子が報道されていますが、被害に遭われた方々は「迷惑をかけたくない」なんて言える状況ではないでしょう。差し伸べられる手に、「ありがとう」という思いが出るのではないでしょうか。また、救助・援助する側も「迷惑だ」なんて思っている人はいないでしょう。
いつの間にか、人と人とが助け合う関係の中に、「迷惑」を気にする風潮が入り込んでしまいました。手を貸してもらう側は「ありがとう」という気持ちをわすれなきゃいいし、手を貸す側は「出来る時に、出来ることを、出来る限り」させてもらえばいいんです。その立場というのも、状況によって変わるんです。「迷惑」を掛け合う関係。そうやって生きてきたんじゃないんですか。

何も出来ないでいる自分に苛立たしさを感じています。(「出来る時に、出来ることを、出来る限り」ですね)。
被害に遭われた皆様の健康と、被災地の一日も早い復旧を念じております。

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