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2004年10月

2004年10月27日 (水)

「迷惑」とは、かけられて困るものではなく、かけ合いながら生きていくもの

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2004年10月15日 (金)

供養

ほとけさまのおはなし、仏法を聞く場が、真宗の寺(坊)のあり方です。
人生において、指針は必要なものです。ですが、指針なしに人生を歩んでいるのが、私の現状ではないでしょうか。人生の指針となるものの見方・考え方をあたえてくれるのが、聞法です。
願い事を叶えるため、幸せが訪れたり、賢くなるための仏法ではありません。
仏法を聞いたからといって、人生の苦難がなくなったり、軽くなったりするわけではありません。そういう意味では、私の身に起こる出来事は何も変わらないと思います。
しかし、今までにないものの見方・考え方を与えられることによって、私が歩む道は広くもなり、今まで見えなかった道が見えるかもしれません。

「寺のことは年寄りに任せて」とは、よく聞くセリフですが、教えに出会うのに、老いも若いもかんけいありません。
寺の行事・仏事とは、生きる指針を得る場としてあるのです。

「供養の場じゃないのか」って?
自分の迷いを 亡き人の迷いと勘違いしていることに気付かないで、供養と言えますか?
亡き人は、法を聞く場を私に与えてくださっているのです。
亡き人の縁を大事に、法を聞く歩みの第一歩を踏み出すことこそ、供養ではないでしょうか。

2004年10月14日 (木)

法事

「法事をお願いしたいのですが、命日を過ぎてはいけないのですよね」と、尋ねられることがあります。
結論から言いますと、法事は命日を過ぎてもかまいませんし、日の良し悪しを気にする必要もありません。
また、
「法事はしなければいけないのでしょうか」と尋ねられることもありますが、法事は“しなければいけないこと”ではありません。
法事や仏事というものは、私が思い立ってするものではありません。自分に先立って人生を歩まれた方々がいてこそ、仏さまの教えや寺、そこに集う人々との出会いがあるのです。
そのことを想うとき、自分の力を越えたはたらきの中を生かされている事実に驚くことでしょう。
そのはたらきこそ、阿弥陀如来であり、諸仏となって私に呼びかけてくださる亡き人々なのです。

法事は、“いつ”を気にするものでもありませんし、義務として勤めるものでもありません。
亡き人あってこその生を歩んでいる私です。
亡き人のために、私がするのではなく、
亡き人の呼びかけに応じて勤めるのが、法事・仏事なのです。

2004年10月13日 (水)

2004年10月のことば

出会いとは 再会である

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