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2004年10月13日 (水)

2004年10月のことば

出会いとは 再会である

 「出会い」ということをどのように考えられますか? 
 力や喜びを与えてくれる出会いもあれば、こいつと出会いさえしなければと思うこともある。良い出会いもあれば悪い出会いもある。そんなことを考えてしまいます。でも、良いとか悪いとか、誰が決めるのでしょう?良い人悪い人、良い出会い悪い出会いがあるわけではない。そう思っている私がいるだけ。
 「出会い」とは、「縁」ということ。「出会い」や「縁」が良いとか悪いとか言うけれど、そもそも「出会い」や「縁」に良いも悪いもありません。
 「出会い」や「縁」について考えるとき、先ず自分があって、その自分に対して「出会い」や「縁」が起こるものと考えていませんか? 数え切れないほどの「出会い」や「縁」が幾重にも重なって、今の私となっているのです。今の状況がどうであれ、縁あって出会った人々とのつながりの中で今の私となっているのです。自分を中心に考えるから、「出会い」が良いとか悪いとか愚痴が出てしまうのです。本来、「出会い」や「縁」に良いも悪いもないのです。

「であい」を「出会い」と書いてきましたが、真宗では「出遇い」と書き表します。「出会い」と「出遇い」、どのように違うのか。
「出会い」とは、日々の生活の中での「出会い」です。「出遇い」とは、遇い難い教えに出遇えたことを意味します。親鸞聖人が法然上人との出遇いを通して釈迦に、阿弥陀仏に、真実に出遇えたように。
「出会い」と「出遇い」を分けて説明しましたが、「出会い」は全て「出遇い」に納まるものだと思います。昔からの数え切れないほどの「出会い」や「縁」が幾重にも重なって今の私となっていることを思う時、日々の何気ない「出会い」が、私を教えへと導く「出遇い」に転化されます。

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願に出遇えた喜びを次のように記しています。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
(親鸞聖人『教行信証』総序)
この「遇(たまたま)行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」について蓮如上人(本願寺第八代)は次のように注釈しています。
たまたまといふは過去にあふと云心なり・・・今始めてうる信心にあらず、過去遠の昔より以来の御哀にて今うる
信心なり・・・遇といふ字をたまたまとよませらるること肝要なり (実悟『蓮如上人一期記』)
ここでは阿弥陀仏の本願に出遇えた喜びについて語られているわけですが、「出遇い」が今初めて私の身に起きたのではなく、昔からの縁によるのだと語られています。
「阿弥陀仏の本願」とは、「さまざまな悩み苦しみを抱えながら生きる衆生を、悩み苦しみはそのままに私が救おう」という阿弥陀仏の願いです。阿弥陀仏は、はるか昔にこの願いを起こされました。この願いのおかげで、苦しみを苦しみのままに生きていける世界が私に開かれるのです。そのような世界との「出遇い」は、はるか昔からかけられている阿弥陀仏の本願との「再会」と言うことが出来ます。
マルチン・ブーバー(ユダヤ人の宗教哲学者)は、「出会い」は恩寵によるものだと説いています。
  私が汝と出会うのは恩寵によってである。捜しもとめることによっては汝は見いだされない。
  私が汝と出会うのは、 汝が私に向かいよってくるからである。
 親鸞聖人も、「弥陀の御もよおし」によって、私たちが信心を得ると言われています。私たちが得ようとして手に入れられるものではないのです。
 親鸞聖人や蓮如上人、マルチン・ブーバーの言葉は信仰における「出遇い」を語っているわけで、日常における人との「出会い」を、同じように受け止めていいのか、疑問が生じる方もいるかもしれません。しかし、幾重もの縁によって今の私がいるという事実を思うとき、私の思いを超えたはたらきが届いている有り難さを感じます。信仰における「出遇い」も、日常の「出会い」も、同質と思われます。
 そういえば、「袖摺り合うも他生(たしょう)の縁」と言いますね。「多少」ではありません、「他生」です。多少の縁で袖が摺り合うという意味ではありません。街を歩いていて、袖がスッと摺り合うのは、昔からの深いつながり(「他生」)のおかげであると教えられています。

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