2021年2月24日 (水)

サーフェス(上っ面)

「あなたの言葉で語ってほしい」「生の声を聞きたい」などと渇望するけれど、

ほんの小さなほころびを、鬼の首を取ったかのように責め立てられる時代。

自分の言葉で、生の声で、自分の思いに正直に話すということは、とても恐ろしいでもある。

そうすると、綿密に検討を重ねて原稿を作り それを読もう!という方向に動いても何の不思議もない。

けれど、読まれる原稿の文言がどんなに素晴らしくとも、感情がこもらない、熱は伝わらない、立て板に水の如くサラサラと聞き流れていくことでしょう。

それでいて、「字を読み間違えた!」という部分はしっかりとらえられてしまう💦

聞く方は、熱の伝わらない文言を聞き続けていても、からだも、こころも動かない。 

この人のために! この人と一緒に! この人の話を聞き続けたいんだ! という思いも薄らいでいく。

語る方は、語ってもダメだしされると、無難な物言いしかできなくなる。

原稿に目を向けて、目の前にいる人のことを見なくなる。

この悪循環に転がって行くと、表面上の薄っぺらい会話しかできなくなる、しなくなる。

そんな気がしている今日この頃です。

2021年2月23日 (火)

見と観

スイミングに通う娘

一緒にレッスンを受けている子で、メチャクチャ早く泳ぐ子がいるらしい

「その子が、なんでそんなに早く泳げるのか、観察してごらん」と言ったら、

「目が悪いし、早くてよく見えないんだよ」とのこと。

確かに、プールではメガネを外すから見えなくて当然だけど、見えたからと言って、うまく泳げるわけでもない。

“見る”というと、漠然と、注視はしなくとも見えるものを見ているだけのこと。

けれど、観察の“観”は、観察対象の奥にあるもの、より内面にあるものをもよく観ることをいいます。

泳いでいる人の姿を見て、そこから学び取ることもあるでしょう。

でも、早く泳げる人が、普段どのような努力をしているのか、どのような食生活をしているのかなど、泳いでいる姿だけではなく、見えない部分の努力を知ることも、“観る”ということです。

目の前にいる人の顔色を見て、「今日は元気そうだ」とは思っても、その人の言動を観察していると、なにかおかしい。

悲しいことがあったのかな、怪我でもしたのかな、体調がおかしいのかな・・・ちょっと見ただけでは変化に気づけないけれど、よく観ていると気づくことってあります。

「観察」は、今は「かんさつ」と読みますが、仏教語としては「かんざつ」と読みます。

阿弥陀如来を、阿弥陀如来の浄土を思い浮かべ、念仏申すことを言います。

修行のひとつです。

今、「観察(かんさつ)」とか「観光」とか「(試合)観戦」とか言いますが、

さすがに、それらは修行ではありませんが、

ただ調べるだけ、ただ出かけるだけ、ただ応援するだけでは「観察」「観光」「観戦」と言うには足りないのです。

調べた結果、出かけた結果、応援した結果、何がわかったのか、何を得たのか、試合している人たちの努力苦労を感じたのか・・・

あるいは、更なる目的や疑問が生じたのか・・・

そういうことがあっての「観察」「観光」「観戦」であり、

そういうことのために「観察」「観光」「観戦」をしようと欲するのが人間なのかもしれません。

日常の生活においても、ただ見るだけではなく、観察するということを意識してもいいのかもしれません。

今まで見えていなかったものが見える。

今まで気づけなかったことに気づける。

そういう意味では、同じ日常、退屈な日常、何もない一日なんてありません。

「観察(かんざつ)」とは、阿弥陀を観ることであるとともに、一日一日を、目の前の出来事をしっかりみなさいという呼びかけなのかもしれません。

南無阿弥陀仏

2021年2月22日 (月)

一色の映ずるも、一香の薫ずるも

絶対他力之大道

宇宙万有の千変万化は、皆これ一大不可思議の妙用に属す。

而して我等はこれを当然通常の現象として、毫もこれを尊崇敬拝するの念を生ずることなし。

我等にして智なく感なくば、すなわち止む。

やしくも智と感とを具備してこの如きは、けだし迷倒ならずとするを得んや。

 

一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力に因るに非ず。

皆彼の一大不可思議力の発動に基づくものならずばあらず。

色香のみならず、我等自己そのものは如何。

その従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。

ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。

我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。

  (清沢満之 「絶対他力の大道」)

☆ ☆ ☆

宇宙万有の千変万化は、ことごとくひとつの大いなる不可思議な力の絶妙の働きによる。

それでいてわれらはこれをあたりまえでふつうの現象とみなし、これを尊敬し うやまうわずかの気持ちすらもたない。

われらに知力も感情もないとしたら、われらはなにものでもないのだ。

いやしくも知力と感情をそなえていながらも このようなていたらくでは、おもえば迷いつまづかないほうがおかしいくらいである。

 

ひとつの色が目に映るのも、ひとつの香がかぐわしくにおうのも、けっして色や香そのものから立ち上がってくるものではない。

それらはみなあの大いなる不可思議力の発動にもとづくのではないだろうか。

色や香だけではない、われらの自己そのものはどうなのか。

自己がどこからきたのか、どこへいくのか、どれもわれらが自分で意欲して左右できるものではない。

生前や死後が意のままにならないだけではない、現在の一念における心の生と滅もまた自在にならないのである。

われらは絶対的に他力の掌中にあるものなのだ。

  〔『現代語訳 清沢満之語録』今村仁司[編訳](岩波現代文庫)〕

☆ ☆ ☆

昨日、白梅の芳香によって、我が身のあることを感じると綴った。

今日、教えをいただいている先生から、先生のお寺の寺報が届く。

表紙には 住職の文章が・・・そこで、清沢満之先生の「絶対他力の大道」第2節(上記。改行は私がしました。また、今村先生の現代語訳を書かせていただきました。申し訳ありません)に触れられている。

ひとつの色が映えるのも、ひとつの香がかぐわしくにおうのも、

不可思議力の発動に基づくものではないだろうか。

そう想うと、私自身もいかなる存在だろうか。

自分の思い通りになることなどひとつもないなかを生きている。

けれど、わたしを包むはたらき、わたしを支えるはたらき、わたしを死滅させるはたらきがなければ、

果たして わたしは いない。

わたしは はたらきの中に、

わたしは阿弥陀の掌中にいる。

・・・

青い空と白梅と暖かな日和

それら景色や香りが わたしの心を動かす。

その、動かされたはたらきがあったから、寺報の文章も私の目に、心に届いたのかもしれない。

そして、清沢満之先生の本を数冊、今、開いている。

清沢先生に向き合え、親鸞聖人に向き合え、阿弥陀に向き合え、

今、そう言われているような気がする。

そこにもまた 阿弥陀がはたらいている。

阿弥陀がいる。

わたしとともに 阿弥陀がいる。

南無阿弥陀仏

2021年2月21日 (日)

ここがわたしの居場所

まだ2月 とはいえ気温は20度超え

暖かな日曜

境内では 白梅が一気に開花して

芳香を漂わせている

つらい気持ち

悲しい気持ち

淋しい気持ち

そんななかに身を置きながらも

梅の香りに

こころが落ち着く

つらく 悲しく 淋しくとも

香りに包まれる私(こころ)は

あぁ ここにいていいんだと

身の置き所のない わたしに

身の置き場を与えてくれる

梅の姿

梅の香りは

わたしと共にある

2021年2月20日 (土)

私から念仏の声が出るということは、すべての人から出るということ

若くして亡くなった人に向けて、「まだ早すぎるよ」「もっとお話ししたかった」「これから、より一層の活躍が望まれたのに」などという声を聞く。

気持ちとしては分かるけれど、違和感もある。それでいいのだろうか?って。

なぜ早すぎると思うのか、なぜお話したかったのか、なぜ活躍が望まれたのか・・・

その人から受け止めた、大きなメッセージが、はたらきがあったからではないのか。

であるならば、受け止めた者の責任として、なすべき何かがあるのではないか。

悔やんで終わるのならば、「まだ早すぎるよ」と言って終わってしまっては、その人の死を、いや生を踏みにじることになる。

その人の分まで生きる。なんて意味ではなく、

その人から相続した メッセージを、はたらきを、私は胸に留めて生きるべきではないか。

そのメッセージを、はたらきを、親鸞聖人から「南無阿弥陀仏」と教えていただいた。

「南無阿弥陀仏」とともに生きる道を、亡き人は示された。

それだけで、先行く人はその生涯において大きなお仕事をされた。

「より一層の活躍を!」どころではない大きなお仕事を。

 ☆

人間は、長い短いの尺度で物事を見てしまう。

それゆえに、「早すぎるよ」という思いに覆われてしまう。

しかし、自然の尺度、阿弥陀の眼から見れば、長いも短いもない。

かけがえのないいのちが、確かにあったという事実があるだけ。

長い短い、貧富の差、地位の上下、宗教の違い、性差・・・人間の意識からは大きな違いとなって表れ、そこから争いも起こる。

けれど、

大きなはたらきからすれば、

先行く方が示してくださった「南無阿弥陀仏」の仏道を歩めば、

先行く人の姿から、「どうして?」という悔恨や疑問で留まるのではなく、「私もやがて」という自覚があれば、

人間の尺度が錯覚を起こさせている違いや差に、そもそもそんなこと有り得ない!という眼が開かれてくる。 

「南無阿弥陀仏」は、私の口からも称えられるのだから。

2021年2月19日 (金)

よくみると「寺」がある!

車で移動中、赤信号で停車。

ふと横を見ると薬局が。

薬局の前に「痔」ののぼりが。

ジッと見ながら、「“痔”って、寺に病垂れ(やまいだれ)なんだなぁ。なんでだろう? 正座や座禅をしてたら痔になるから? いやいや、ならないから」なんて思いながら青信号を待つ。

「寺」は「じ」と読むので、「痔(じ)」の音を充てて「寺」を用いた。病気ゆえに、「寺」に病垂れをかぶせて「痔」としたようです。誰が⁉

 ☆

娘の小学校の宿題 漢字の書き取り。

「パパ、出来たよ」(^-^)

というのでノートを見たら「等」の字。

ノートを見ながら、「“等”って、寺に竹冠なんだなぁ。なんでだろう? 境内に竹がいっぱいあるから? いやいや、無いお寺もあるし、そもそも「等しい」ことの説明になってないから」なんて思いながら、ノートに〇を書いてあげる。よくできました。

「等」の竹冠は、竹製の紙を表わす。昔は、植物を乾かしたものに字を書いていたからね。

その竹製の紙を整然と整えるところから「等しい」ということへ派生したらしい。

「寺」は、「痔」同様に「じ」という音を充てたもの。

書類を整えることを「し」と言ったらしい(本当のところは確認できませんでした)。

竹製の書類をきちんと整えることを表わしているのが、そもそもの「等」だそうです。

 ☆

「痔」も「等」も、「じ」という音に対して「寺」の字を当てただけなので、寺院としての「寺」の意味はないようです。

なぁんだ、ってお話です (^-^)

2021年2月18日 (木)

責める者と、どうしてなり得るのか。

お昼ごろに見ていた番組で、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員長の新会長について報じていた。

どうしてこういうのは、正式発表がなされてから報じないのだろう?と、いつも思う。

スクープや速報性を求めるのも、人間の性としてはわかる。

だけど、今回の件で言えば、検討会も発表もないうちから、M前会長がKさんに託して、Kさんも黙っていればいいのに、引き受ける旨を話し始めて反感かって余計にこじれてしまった。

喋る方も喋る方だし、報じる方も報じる方だと思った(見る方も見る方なのだろうけど)。

今回の会長辞任、新会長選出の経緯は、M前会長の女性蔑視発言が引き金となっているわけだけど・・・

お昼ごろに見ていた番組では、新会長選出の報道に続いて、このコロナ禍におけるハラスメントの状況を報じていた。

自粛自粛でイライラが募るなか、店員さんにクレームをつける客、カスタマーハラスメント(カスハラ)と、

リモートでの会合時に、部屋を見せろだの、プライバシーに関わる部分に触れる発言をするだのするリモートハラスメント(リモハラ)について取り上げていた。

カスハラ💦 リモハラ💦  人間ってハラスメントの塊(かたまり)だなと思った。

番組としては、別々の事柄として、オリンピック・パラリンピック新会長の話題とカスハラ・リモハラの話題を取り上げたのだと思うけれど、私にはつながって見えました。

M前会長の女性蔑視発言も、その根っこにはパワハラやセクハラがあり、そのことを多くの人びとが不快に思いました。

現代に、オリンピック憲章に、上に立つ者の姿勢に そぐわないという理由・観点・想いから批判が高まり、辞任へとなりました。

多くの人が、ハラスメントはいけないことだという思いから、筋を通したうえでの辞任を求めたことと思います。

けれどなかには、それもまたハラスメントじゃない?という言葉や圧力で、M前会長の辞任を要求する声もありました。

そして、私たちの生活の場を見わたしても、ハラスメントが広がっている。

ハラスメントを受ける怖さもあるけれど、

より気を付けなければいけないことは、より怖いことは、私自身がハラスメントを発する者となること。

コロナ禍でイライラが募っていることも、思う通りに生きられないことも、みんな一緒。

店員と客、上司と部下、上下関係と言われるそんな関係なんて、そもそもありません。

私がハラスメントを発する者とならないこと。

でないと、ハラスメントはなくなりません。

テレビで報じていることが、他人事(ひとごと)ではなく自分事として感じられました。

2021年2月17日 (水)

滞っているようでいて、すべての事柄は移ろういている

ご門徒の一周忌をお勤めして、思い返しています。

一年前、ご本山での仕事を終えて、一緒に仕事をした方と京都で一献。

その日は京都に泊まり、翌日帰京して、そのままご門徒のご葬儀へ。

一年前にご本山をお参りして そのままコロナ禍へ突入したので、ご本山へ行ったのは、京都へ行ったのは、新幹線に乗ったのは、現時点でそれが最後。

京都で一献した方は、今はもう・・・いない。

 🌸 🌞 🍂 ⛄

コロナ禍の生活が始まってから、

京都へ、ご本山へ行ってから、

あなたと呑んでから、

ご門徒のご葬儀から、

ほぼ一年

いろいろなことが複合的に絡んで、味わい深い一年であったことを、今思い返しています。

南無阿弥陀仏

2021年2月16日 (火)

「つまらない」と「知らない」は違う

昨日は、司馬遼太郎さんの「資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴を書く」エピソードを紹介しました。

今日は、天狼院書店にお勤めの川代紗生さんが書かれていたお話から・・・

未知のジャンルでも本を10冊読めば大枠を掴むことができる

この言葉は、彼女が社長から教わったものであり、その教えを実践されています。

「天狼院書店」は、書店とはいっても本を売っているだけのお店ではなく、いろいろな催しをされています。

勤めている方々は執筆活動もされています。

それゆえに、未知のジャンルについて書いたり、知らない世界に触れたりする際、そのジャンルの本を10冊読めば大枠を掴むことができると、社長は教えられたのだと思います。

彼女は、未知の世界についての「つまらない」「興味がない」の判断は、先ず10冊本を読んでみて判断するようになったと言います。

それが習慣づいてみると、「つまらない」と感じる原因は「知らない」ことから発生していることがほとんどで、10冊読んでみると「つまらない」と感じることはほぼなくなった、と綴られています。

「つまらない」と「知らない」は違うのだ!と、彼女は教えてくださっています。

 ☆

温かい気づきです。

はじめから「つまらない」「興味ない」といって未知のジャンルとの距離をとることは、自ら「つまらない」人生へ歩を進めているようなものです。

未知のジャンルの本をピックアップして読むこと自体大変なことではありますが、「知ろうとする」ことで、自分の中のキャパシティーが広がっていきます。

今まで見えていなかったものが見えてきます。

司馬遼太郎さんも、書こうとしている時代のすべてを知ったうえで小説を書こうとされたのではなく、知らない時代についても筆を執られていたことでしょう。

その際、それこそ古本屋街の関連書籍を買い占めるほどの本を読み、その世界、その時代、そのジャンルに思いきり踏み込んで行かれたのだと想像します。

本は、自分の知らない世界を見せてくれます。

本は、有限ないのちを生きる私が、生きているうちに触れられなかったであろうものを感じ取らせてくれます。

ネットもそういう性質があるとは思うのですが、

結局自分の興味関心の範囲でしか、自分の思想の許容できるものしか目にしません。

「ネットの発展・発達により情報が溢れている」などという言い方がされますが、私の方のキャパシティーが狭いので、その情報を処理できません。

自分にとって美味しいものをつまみ食いして終わりです。

本も、手にしなければ当然読むことも知ることもできませんね・・・あぁ、司馬さんも 川代さんも、川代さんの社長も、“書く”という必然性があったからこそ、本を手にされたのですね。

“書く”ことは、自分と向き合うことにもなりますし、現実逃避にもなります。

矛盾したことを言っているようですが、つまりは、気持ちの整理をしているということ。

書くことが、自分の内面を見つめる方面に向かう人もいるし、現実から逃避する方面に向かう人もいる。

現実から逃避するには、現実を認識しなければ逃避できません。つまり、現実に向き合うということです。

書くことは、自身を見つめること、現実を見つめること。

すると、今まで見えていなかったものが見えてくる。

自分一人の殻に籠っていたつもりが、自分の周囲にある壁にぶつかっていたつもりが・・・殻も壁も自分の一部、世界のほんのひとかけらに過ぎないことも見えてくる。

気が向いたときに書いていたこのブログ。このコロナ禍にあって、読んでくれる人にとって少しでも気が紛れる時間になればいいな、と思って毎日書き始めて間もなく一年。

あぁ、読んでくださる方のためのブログではなかった!

書いている私自身が、書くことによって気持ちを保っていたんだ!

そういうことに、ある日気づきました。

だから、好き勝手書いてます (^∀^)

書くためには、やっぱりいろんなもの読むんです。

「知ること」は、「つまらない」から抜け出す道です。

南無阿弥陀仏(‐人‐)

 ☆

天狼院書店 Facebook

川代紗生さん Facebook

2021年2月15日 (月)

透明な滴

「東京新聞」朝刊 2021年2月13日(土)コラム「筆洗」

菜の花畠(ばたけ)に入日(いりひ)薄れ−。唱歌「朧(おぼろ)月夜」を歌う声に司馬遼太郎さんは「それ何の歌だ」と尋ねたそうだ。菜の花が大好きな司馬さんのためにと歌ったのは作家半藤一利さんである。小学校に通う代わりに図書館に入り浸ったせいで有名な唱歌を知らなかったとは、長いつきあいの半藤さんの見立てだ▼人がコーヒーを一杯飲む間に司馬さんは300ページほどの本を3冊読み終えていた。唱歌の話に片りんがみえる「神がかった」読書の量と力、取材や知識への熱意の人であったそうだ。「資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴(しずく)を書くのです」という言葉とともに半藤さんが書き残している▼司馬さんが亡くなり25年たった。12日は命日「菜の花忌」である。「半藤君、俺たちには相当責任がある。こんな国を残して子孫に顔向けできるか」。没する一年前に語ったという▼憂えていたのは、ひたすら金もうけに走り、金もうけに操られるような社会だった。「足るを知る」の心が大切になると、世に語りかけようとしていた▼憂いは過去のものになっていないだろう。災害、経済の混乱、疫病の流行・・・。司馬さんなら何を語るかと思うことも多い四半世紀である。憂いをともにし、後を継ぐように昭和を書いてきた半藤さんも他界した▼著作の中に、残された滴に、声を探したくなる菜の花忌である。

 ☆

資料を読んで読んで読み尽くして、そのあとに一滴、二滴出る透明な滴を書くのです

という言葉に、本当にそのような意識で資料や本を読み、書き続けた人 司馬遼太郎さんの真髄が凝縮されているように感じました。

司馬さんが原稿を書く際、その時代に関する書物が神保町の古本屋街から消えたという伝説を聞いたことがあります。

それだけ資料を集めていたことの譬(たと)えとして受け止めていましたが、コーヒー1杯中のエピソードを聞くと、資料を買い漁り読み尽くししていたのも「さもありなん」と思いました。

私は、資料の上っ面だけを読んで(見て⁉)、何杯にも薄めて書き物をしていました。恥ずかしい限りです。

こんな国を残して子孫に顔向けできるか

司馬遼太郎さんの目に映る“こんな国”とは、どのような国だったのでしょう。

金もうけに走り、金もうけに操られるような社会」では、人を人として見ることはありません。

「人材(じんざい)」という言葉が一般的に使われますが、「才能があり、役に立つ人物」という意味です。

人を人間として見ているのではなく、人を資材として見ている言葉です。

使える奴か使えない奴か、利用できる奴かできない奴か、自分の思いのままに動く奴か逆らう奴か・・・

資料を読み尽くして、そうして滴り出る一滴、二滴を書く。

人との接し方も、本来はそうあるべきなのだと思います。

人と話していて、人の書いたものを読んで、その人が本当に伝えたいことって、そのなかのほんの一滴二滴に凝縮されている。

それを感じ取る。

忙しい世の中、余裕のない世の中では、そういうことを感じ取る余裕がありません。

でも、その作業こそが、後の世を生きる人を育て、後の世を作っていくのだと思います。

足るを知る」にヒントがあるのかもしれません。

無いピースを埋めよう埋めようとするけれど、手元には、私の周りには既に必要なものが足りている、大切なことが満ちている

南無阿弥陀仏

2021年2月14日 (日)

ひとつの出来事が、現在と過去を結ぶ

昨晩の地震はびっくりしましたね。皆様ご無事でしたか。
地震があったとき、ちょうどZOOMでリモート輪読会をしていたのですが、宮城県の方が「あ、揺れてる!!」と言って、みんなで「大丈夫?」「気を付けて!」なんて心配しているうちに、こっち(関東)のメンバーも「うわ、揺れてる!!」ってなって、地震の広がりを思いもよらない方法で感じることとなりました。
「東日本大震災の余震と思われる」と報道されています。人間の感覚からすると「10年も経つのに⁉」ですが、地球にしてみれば ひと続きの揺れなのでしょうね。あらためえて、自然のスケールの大きさも感じています。
「一週間は注意が必要」とも言われていますので、気をつけましょう。
皆様お大事に。

2021年2月13日 (土)

ひとつの事柄には、多くの事象が集約されている

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の「女性蔑視発言」。

会長(この投稿においては“会長”と書いてあります)自身の責任としては、“辞任”(というのだろうか)によって終わるのだろう。

けれど、それだけで終わらせていい話ではない(会長への責任追及をもっと!と言う意味ではない)。

当の会長に対するマスコミの扱いや、私たちの見方も、「問題発言の常習者」という見方をしてはいなかっただろうか。

「女性蔑視発言」があった瞬間(とき)、「また言ってる!」という思いで留まってはいなかっただろうか。

そこにも責任があると痛感している。

「また言っている!」と思うのであれば、会長職に就く時点で「相応しくない!」という声を挙げることがあるべき姿だった。

「一般人が何を言っても無駄だろう」と思う人もいると思う。私もそう思う。

けれど、暗黙の了解でいくのか、たとえ覆らなくても声を挙げ続けるのか。

暗黙の了解で来てしまっていたのならば、今回の「女性蔑視発言」の一端は(責任の一端というべきか、原因の一端というべきか)、私にもある。

今回の発言がクローズアップされるけれど、振り返れば「子どもをつくらない女性を税金で面倒をみるのはおかしい」という発言があり、私は、その発言は議員として問題ありと感じていた。

そのような思想を持つ人が、オリンピック・パラリンピックの会長に就く・・・本当は、その時点で反対を叫ばなければいけなかった。

 ☆

人の思想というものは、そう簡単に変わるものではなく、簡単に変わってしまう思想もまた「その程度のものかい!」という突込みが入るだろう。

「この人は、こういう思想の持主なんだ」

その前提で人に接しなければ、私自身が「気に食わない奴の考え方を改めてやる!!」という独裁者思考に陥ってしまう。

思想と言う意味では、今回の会長の発言は、会長個人の思想ではなく、彼の周囲にいる人びとの思想でもあるように見えてくる。

この日本では、

・天皇制を大切にしながらも(しているようなことを言いながらも)、女性の皇位継承を認めようとしない。

・夫婦別姓を認めようとせず、議論の俎上に載せようともしない。

・女性には民法の規定により再婚禁止期間なるものが定められている。
(1898年に施行された民法から、長いこと「離婚届の提出から“6ヶ月間”」が再婚禁止期間だった。2016年に民法が改正されて、期間が“100日”と短縮された。父親が誰であるかで混乱が生じないようにするためという建前はあるが、男性に「再婚禁止期間」はなく、男女平等に反すると批判されてきた)

など、女性に対して厳しい現状がある。

それらのことに対して、会長のいた政党は、前向きに、時代に合わせて議論していこうという姿勢は見せていない。

そのようななかに長年身を置き、自分の発言の多くが尊重されてきたならば、誰だって勘違いを犯すだろう。時代社会の流れを学ばないし、感じようともしないだろう。

さて、会長は「一度は会長の辞任を考えたが、引き留められた」と言っていた。

であるならば、引き留めた人たちは必至に会長の必要性を説き、守らなければいけなかったのではないか。

「辞任しようとしたけど引き留められた」発言以降の逆風が、引き留めた人たちの想像以上だったのだろう。

はしごの外し方が見事だった。

さて、オリンピック・パラリンピックのスポンサー企業のトップが、“徐々に”遺憾の意を表し始めた。

会長の女性蔑視発言からしばらくは、何も表明していなかったように思う。

世間の逆風が強くなってきたところで、その風に乗っかるかのように“遺憾の意”を表明し始めたように映ったが、どうであっただろう。

日本の企業の多くも、会長や会長が在籍していた政党の思想に近いのではないだろうか。

つまり、今回の一件は、会長個人の問題という認識ではなく、日本社会全体の思想・風潮・ことなかれ主義・誰かに責任負わせてバイバイ的な土壌が露になったこととして、私たちは受け止めなければいけない。

この、世界中から失笑されている土壌をずっと放ってきたのだ。

今回、会長自身の発言が辞任へとつながったが、日本国内の大会や催しに関してだったら、謝罪になっていない謝罪で押し切れたかもしれない。

いや、押し通していたことだろう。

けれど、オリンピック・パラリンピックは世界と通じる大会、世界が見ている事柄だった。

今までの日本のなかだけでは起こり得なかった風が吹いたのだと思う。想像を超える風が。

それでやっと動き出した。

首を変えて終わる話ではない。

土壌の変化のためには、土を耕し直さなければならない。

そのためには、長い時間をかけて、しっかりと耕す覚悟もなければならない。

関わり合いながら。

2021年2月12日 (金)

独り言

人間ってぇ生き物は

孤独が嫌いなくせに

他者(ひと)を孤独に追いやるのは好きだよなぁ

「独り言(ひとりごと)」って

「孤独な言葉」って書くんだなぁ

淋しくて つぶやく 言葉なんだろうなぁ

2021年2月11日 (木)

自然(じねん)

【自然(じねん)】

自(おの)ずから然(しか)らしむる

そのままに ありのままに

そもそもこの世は、人間の意思・思惑・要望など入る余地もなく、そうなるべくして移ろうている

縁に生きている

そのことに頷けず、そうあるがままに生きられない私

草花は、鳥や獣たちは、そのことをすべて受け容れながら生きている

雨 陽光 風の流れに身をゆだね 抗うことなく生きている

現代(いま)一般的に使われる「自然(しぜん)」という言葉は、

本来 「自然(じねん)」という仏さまの教えからきている言葉でした

ネイチャーを「自然(しぜん)」という漢字にしたのは誰だろう?

自然(しぜん)は、自然(じねん)に生きている

そう感じ取ったから、ネイチャーを「自然」と書いたのではないだろうか

本来、人間もまたネイチャーの一員

にもかかわらず、自然(じねん)を嫌い、自然(しぜん)をも我がものとしようとしながら生きている人間

けれど、自然(しぜん)に歯向かう者をも、自然(しぜん)は取り込んでいる。

自然(しぜん)にとっては、それもまた自然(じねん)のこと。

南無阿弥陀仏

2021年2月10日 (水)

和か(やわらか)

「おはようございます」

「おはようございます。あら、今日も素敵なお洋服ね。春らしくていいわぁ」

「いつもそういうふうに声をかけてくださってありがとうございます。毎朝元気をいただいているんですよ」

「あら、そうなの。いつも素敵よ」

 ☆

バス停での、おふたりのレディの会話。

横にいた私も、暖かな気持ちになりました。

 ☆

高い地位にある方の差別発言をきっかけに、日本だけでなく世界規模で批判の声が挙がっています。

批判されて仕方のない発言であり、謝って済ませられる発言ではありません。

発言者だけでなく、みんなで考え続け、話し合い続けていかなければいけない事柄であると思います。

けれど、イデオロギーに絡む話し合いは、どうしてもギクシャクします。

差別発言をした方もそれを糺そうとする方も言葉がきつくなります。

相手を傷つけ合います。

バス停のおふたりのように、前向きになれるような形、元気が出るような形で会話がなされればいいなぁと感じました。

 ☆

「おはようございます」「ありがとうございます」

その言葉だけで、会話として次の言葉が出てこない私のような人間は(日本の男性に多いと思うのですが)、目の前の人のことを知る機会も失ってしまいます。

ということはつまり、相手への理解も深まらないわけで、印象だけで決めつけがちになるわけで・・・。

そうなると、無理解・無知・決めつけで、しかも「女性は」「男性は」「ここの出身の人は」「これをやっていた人は」などなど、大きな括りで他者(ひと)のことを語ることになります。

 ☆

間違いや差別的な物言いがあったとき、「その発言はいけませんよ(いけないと思います)」と言える人、言えることが大切だし、

指摘されたとき、「あぁ、そうなんだ!そうなんですね。それは申し訳なかった。思いが至りませんでした」と言える人、言えることが大事。

相手を諭す、糺すことを目的にすると、結局相容れない(それって、今テレビやネットを賑わしている件だけではなく、日常に転がっていることだと思う)。

伝えるべきことを伝えようと、目の前の人のことを想いながら話す。

結果分かってもらえるか否かはわからないけれど。

つまりそれって、“会話ができること”なのだなぁと、バス停のお二人の姿に教えられました。

南無阿弥陀仏

2021年2月 9日 (火)

青空に白梅

陽射しは暖かいけれど、空気は冷たい

何もはおらずに外に出たら 寒い 寒い

これもまた春の訪れ

澄んだ空気 晴れ渡った青空 咲き始めた白梅

手元には花粉症の薬

これもまた 春の訪れ

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2021年2月 8日 (月)

昨日は暖かった。

今日はまた寒くなった。

けれど、気温は同じだったとしても、体感の寒さは違う不思議。

日々暖かくなってきた。

花瓶に挿す花も墓地花も、春の雰囲気が漂ってきた。

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2021年2月 7日 (日)

気滅を滅す

「どうして私は報われないんだろう・・・」

と思うとき、

「これだけのことをしたのだから、このようになるはずだ(こうなるに違いない)!」

と、

“はずだ” “違いない”

という自分で想定していた答えがある。

その、自分で想定した答え通りにことが運ばないから、

自分の報われなさに気が滅入ってしまう。

でも、自分で想定した答えだけが答えとは限らない。

そもそも、答えとして相応しくなかったかもしれない。

考え方を変えてみる。

「そっか、自分で用意していた答えに辿り着かないからしんどかったんだ!」

って。

今まで生きてきた。

そこに、そもそも報われてきた事柄や事実があったのではないだろうか!?

「これだけのことを」する身になっていたこと自体が、報われていた事実ではないだろうか!!

そのように考え方を変えてみると、

(他者からの反応として)報われる報われないなんて、どうでもいいことに思えてくる。

報われるためにやってたんじゃないことを、思い出す。

これが私じゃん!!

そこに落在することって、けっこう大事、かなり気持ちが楽になる。

南無阿弥陀仏

2021年2月 6日 (土)

木を隠すなら森のなか

失言や、不倫や、ハラスメントや・・・

週刊誌がスクープをすると、

失言を、不倫を、ハラスメントをした人は、謝罪をする。

その光景に見慣れてしまっている自分にも驚くわけだけれど、

そもそも公に対して謝罪が行われなければいけなくなってしまったことに、本来は驚くべきではないだろうか。

なぜ、私たちに謝る?

あるいは、誰に謝っているのか、その対象を漠然とさせたまま、なぜ謝る?

失言し、不倫し、ハラスメントを行い、

自分が傷つけた人に対して、面と向かって謝ることが先ではないか。
(傷つけられた人にとっては、「会いたくない!!」という場合もあるだろうけど)

でも、いつも思うことは、

スクープされることがなければ、

この人は、反省することも、後悔することも、謝罪することもなかっただろうな、ということ。

ずっと失言を、不倫を、ハラスメントを続けていることだろう。

頭を下げている映像を見て、「バレてなかったらまだやっていたんだよね」とも思ってしまう。

でもそれは、有名人ゆえにスクープされるのであって、

一般の人びとが週刊誌にスクープされることはない。
(傷つけた相手から公にされたり、訴えられることはあるけれど)

つまり、この世の中には、誰にも指摘されない失言や、不倫や、ハラスメント等があふれている。

失言主は、たとえ謝罪はしても、自分の何が失言なのか、考え方のどこがおかしかったのか、わかっていない。

だから、結局 失言を繰り返す。

不倫主は、誰にも気付かれていないつもりらしい。

だけど、けっこう周りは知っている。

ハラスメントは、弱い自分、自分の能力のなさを隠すための遠吠え。

自分が責められたくないから。自分を低い位置に置きたくないから。

なんて、今おもいつくままに、失言、不倫、ハラスメントと書き綴ったけど、他者(ひと)を傷つける行為は他にもたくさんある。

その、他者を傷つける行為は、実は誰もがやっている。

程度の差や 意識しているのか否かの違いはあるけれど、

他者を傷つけている事実に違いはない。

他者を傷つける行為は、自身の問題もあるけれど、それを助長する周りの問題もある。

個人の問題という側面だけでは解決しない、集団の、組織の、社会の問題でもある。

森を育てる土壌は、この日本にある。

あ、“森”って、メタファー(隠喩)ですから。

2021年2月 5日 (金)

ごめんなさい

相手に対して、「申し訳ないことをした」という思いを背負っているとき、

心の底から「申し訳ないことをした」と思いつつ、「でも、こういう理由があったんだよ」と言い訳がましいことも思ってしまう。

自分なりの理由。

でも、どんな理由を並べても、それが理由になっていないことは分かっている。

自分のしたことの罪の重さを、実は感じている。

私がした「申し訳ないこと」は、

どれほど真っ当な理由があっても、

どれほど謝っても、

どれほど相手が許してくれようとも、

決して消えることはない。

私がした「申し訳ないこと」の意味をよく考え、よく知り、よく感じ取る。

であるならば、

「ごめんなさい」って、許してもらうために言うのではなく、

許されないことを分かったうえで、それでも「ごめんなさい」という言葉が湧いて出てくるもの。

「ごめんなさい」

南無阿弥陀仏

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