2024年9月のことば
9月を迎えました。2024年も3分の2が過ぎてしまいましたね。
9月は秋彼岸、10・11月は報恩講シーズン、12月は歳暮法要・新年準備等々で、2024年はあっという間に過ぎてゆきそうです。
台風10号の猛威・迷走により、私たち人間は振り回されました。自然にはかなわないものです。ご無事でいらっしゃいますか。
先月の投稿で書きましたが、京都での9月1日の講演は中止になりました(なので、只今自坊でブログを書いています)。福山雅治さん、堂本剛さん、ポルノグラフィティさんなどのコンサート等も台風の影響を鑑みて中止になっていますので、私の講演中止もまたやむを得ないことです(などとつぶやいたら、妻と娘から白い目で見られました)。
無事に過ごせることの有り難さ、大切さを感じるところです。
それから、もうひとつ先月の投稿で書きましたが、寺報入稿の件。
9月号は、昨日(8月31日)入稿しました。結局9月1日に印刷された寺報は間に合わないわけですが、今回は遅くなった理由があります。8月下旬に2泊3日の研修会に参加しました。そこでいただいた教えや出会った方々との会話からの気づきがあり、帰宅後に原稿を書き直しました。
研修会でいただいた教え。そこに集う人たちとの会話。研修会や道中での出来事。普段の生活では接し得ない言葉や事柄が、私を刺激します。新たな思い、違う角度からの物の見方、今までの思いをひっくり返されること。特に研修会(教えに聞く会)は、そんなことの連続です。研修会前に書き終えておこうと思って綴った文章など、一度の研修会でぶっ飛んでしまいます。研修会中に「つまんない文章書いてたなぁ」と思い、帰宅して全部削除したうえで書き直しました。って、入稿が遅れた言い訳にしかなりませんが。
今お伝えしたかったことは、教えにふれること、人と出会い話すこと、移動で景色が変わることなどは、机上だけで自分だけで考えた思考を吹き飛ばしてくれます。研修会という特別なことがなくても、実は日々の生活の中にだって私を刺激する出来事は散りばめられています。そのひとつ一つを楽しんで欲しいと思います。
今日(2024年9月1日)は日曜なので、明日2日から始まる学校が多いことと思います。憂鬱な思いをされている方もいることとお察しします。現実につらい出来事があるならば、休むことも逃げることも、生きることです。恥ずかしいことではありません(当時の私の中では、その発想がなかった)。特につらい出来事があるわけではないけど、気持ちが沈んでいるという方には、教えてもらうこと、人の話すこと(無理に会話する必要もないです)、通学路の景色をよく眺めてみること(私は、空を見るのが好きです。でも、気を付けてね)、それらのことから刺激を受けてみてください。こころを閉じているときは刺激もシャットアウトしてしまうけど、自分の気持ちを解放して、外の刺激を入れてみてください。新しい発見、今まで見えていなかったことの知覚、私が私としていることの気づきは、絶対に私を生かすはたらきとなるから。そのことを伝えたかったのです。
それから、今の気持ちを言葉に表わすのって、とても大事です。だから私も書き続けているのかもしれません。
🐸 🐰 🐸 🐰 🐸
2024年9月のことば
(寺報版はこちら)
箸を持ち
茶碗をかかえるほどの面倒もないのに
両手を合わせておがむことは
なかなかむずかしい
迷っているのは
9月、秋のお彼岸を迎えます。お彼岸には大勢の方がお墓参りにみえます。墓前では両手を合わせていらっしゃいます。手を合わせるとき、なにを想っていますか?
「安らかにお眠りください」「あの世で迷いませんように」。そのような声も聞こえてきます。
はて、先往く方は迷うのでしょうか?
8月、境内の第2掲示板に、次のことばを掲示しました。
亡き人を案ずる私が、
亡き人から案ぜられている
先往く方は諸仏となり、私に教えを届けてくださっています。「教えに出会いなさい」「念仏申しなさい」と休む間もなく呼びかけています。先往く方は、安らかに休んでもらう存在でも迷い彷徨う存在でもありません。
私が先往く人のことを想えるのは、先だって呼びかけをいただいているからです。
「先往く人が迷っているのでは?」と思う時とは、実は私自身が深い迷いを彷徨っていることの証です。先往く人のことを想うと同時に、私自身の姿を見つめる時間をいただいています。
この両手の中に
私は、どのような縁があって、今、ここにいるのでしょう。
親の縁、祖父母の縁、曽祖父母の縁…さかのぼればどれだけの人が私の誕生に関わっていることでしょう。当然、血縁に限った話ではありません。私が私となるために、どれだけの人との、いのちとの、事柄との縁があったことでしょう。実際に対面してお世話になった人ばかりではなく、生涯において会うこともない人びととの縁もまた、私であることに欠かすことのできない大切な縁です。
両手を合わせておがむ。私の目の前で合わさっている両の手のなかに、どれだけのいのちとのかかわりがあることでしょう。
「合掌」有り得ないことが起きている事実
合掌は、右手と左手を合わせます。
お釈迦さまが生きられたインド・ネパールでは、右手は清浄を表し、左手は不浄を表します。清浄なるものと不浄なるものは、本来ひとつとなるものではありません。しかし、合掌という所作は、清浄なるものと不浄なるものが合わさっていることを表します。つまり、有り得ないことが起きていることを表しています。
インドやネパールでは、手を合わせて「ナマステ」と挨拶を交わします。
「ナマステ」は、「南無阿弥陀仏」の「南無」の元々の言葉です。「あなたに会えてよかった」「あなたのことを大切に思います」「あなたに会うために、私は生まれてきました」などという意味・想いが込められた言葉です。目の前の人、ひいては私を生かすすべての人びと(いのち)に向けた敬いの気持ちが込められています。
お墓の前やお内仏(お仏壇)の前で、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えること。そのことは、先往く方のことを想って「私が」なす行為ではありません。私に先立っていのちを尽くして往かれた方があってこそ、今、私は手を合わせることができます。それだけの縁のなかに「私が」いるということです。有り得ないことが、今、私の身に起きているのです。
墓じまい…しまえるものなどない
「墓じまい」が、まるで現代の流行かのように口にされています。
お墓を守る後継ぎがいないという現実的理由はあります。しかし、墓じまいはお墓を片付けるということだけでなく、手を合わせる場所・機会の喪失でもあります。
墓じまいをしても、お内仏の御本尊に手を合わせたりお寺の法話会に通い続けたりする生活が続くことを願いますが、「墓じまいをして気にかかることがひとつ減った」くらいに考える人にとっては、手を合わせる生活もなかなかむずかしくなることでしょう。
また、墓じまいの決まり文句として「子や孫に迷惑をかけたくない」ということを聞きます。
さて、迷惑をかけたくないという子や孫と相談したり気持ちを吐露したりされましたか? 私の経験上、たいてい相談はされていません。そして、実際に相談をされた方の多くは、お墓をのこしておられます。お子さんやお孫さんなどが「私が守るよ」と言ってくれるのです。
「他者(ひと)のためを思いながら、自分の頭だけで考えている思い遣り」は「迷惑」となる場合があります。
そもそも、「墓じまい」という表現が間違っています。まるでいらない物を片付けるかのようなネーミングです。
お墓とは何なのか。どうしてこの石の塊に向かって今まで手を合わせお念仏申してきたのか。何がそうさせてきたのか。キリがないほど人生への問いをいただいていました。「しまう」「片づける」などといった表現が当てはまらないのがお墓です。
さまざまな縁のもよおしによって私が私として、今、ここにいます。手を合わせる、否、手が合わさることは、私の想いなどを遥かに超えた縁のもよおしがあってのことです。手が合わさることをとおして、私が私としてあることを知る。そのことはまた、他者があっての私であることを知ることであり、阿弥陀如来の慈悲をかけられた身であることに目覚めることです。
簡単だけどむずかしい
両手を合わせておがむことはなかなかむずかしい。行為としては難しい所作ではありませんが、そのことの意味や私にまでたどりついた縁のもよおしを想うと、手が合わさることがいかに有り得ないことか、難しいことかが身に沁みてきます。そういう意味では、箸を持つことも茶碗をかかえることも、どれだけ有り難いことが私の身に起こっていることでしょう。
他者(ひと)に出会うということも同様です。会った事実があるから、出会えたことの難しさを気に掛けることは滅多にありませんが、大切に思うあの人と出会えた事実は、どれだけ難しい事柄であったことか。墓前で、お内仏で合わさる手のなかに見いだされる大切なあの人と、会ってはいたけど、本当に会えていたでしょうか。
別れは、出会いの意味を深めていく縁となります。南無阿弥陀仏
🐰 🐸 🐰 🐸 🐰
掲示板の人形
今月の人形は、鳥獣戯画に描かれているウサギ🐰とカエル🐸の人形です。
寺報の表紙絵を次女に描いてもらっているのですが、楽しい鳥獣戯画の絵を描いていました(ウサギとサルですが)。
ネットで調べたら、鳥獣戯画をモチーフにしたウサギ🐰とカエル🐸の人形があったので即購入しました。
人間の姿を揶揄しているのでしょうが、絵も人形も見ていて楽しくなってきます。