2018年9月 3日 (月)

2018年9月のことば

暑い夏でしたsun
まだ暑さは続くことでしょうが、日の暮れる時間が早まり、朝晩が幾分過ごしやすくなり、虫の音が聞こえてきました。季節は秋へ向かっていますね。そうなると勝手なもので、夏の暑さも名残惜しくなっても来ます。
この夏、皆様いかがお過ごしでしたか。体調はいかがでしょうか。私は、毎日ホウキを持って掃除をしていました。一日に何枚もTシャツを着替えていました。体が動いているので夏バテをしている認識はありませんでした。けれど、事務仕事が思うように手に付かず、夜は子どもたちと一緒に寝ていました(いつもは、子どもたちが寝静まってから事務仕事や執筆をしています)。妻から「それって夏バテよ」と言われて、「あ、そうなんだ!」と思いました。体は動いても、やる気が起きないのも夏バテの表われなのですね。この9月号の寺報も、8月30日になってやっと書き始めました(あ、それは毎月か)。
夏バテが続いている方もいることと思います。涼しくなって、これから体調を崩される方も出てくるかと思います。どうかご無理なく、体調と相談して日々の生活をお送りくださいjapanesetea

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 悲しむということが、心ここに非(あら)ずになっていないか

私たちは、本当に悲しんでいるのか?
 天災 事件 事故
 理不尽な出来事
 権力を持つ者の暴走
 弱い立場にある者への圧力
 他者(ひと)の人生を蹂躙し、高笑いする者 
 人は、権力を持つと間違う
 悲しみの多い世の中だ。どれだけの人が涙を流していることだろう。

この地球という限られた環境に、70億を越える人間が生き、それ以上のいのちが生きている。人と人とが生きているのだから、助け合うこともあれば、争い合うこともある。人類の歴史は、そのまま悲しみの歴史でもある。悲しい出来事の多さに、今更驚きもしない。
けれど、ふと感じた。「私たちは、本当に悲しんでいるのか?」

ネットやテレビや新聞を通して、世間で起きている出来事を知り、悲しい出来事に涙を流す。けれど、涙の後に来るものは、加害者に対する憎悪。人によっては、被害者へのバッシングということもある。あいつが悪い、こいつが悪い。いやいや被害者にも問題がある、など。
悲しみは、通過儀礼に過ぎないのか。悲しんでいるといっても、悲しんでいる自分に酔っているのではないか。

慈悲
「悲」という漢字は、「両の手で心を引き裂く」形を象(かたど)っている。
両の手で心を引き裂く痛みとは、どれほどのものだろう。つまり、それほどの痛みを伴うのが「悲しむ」ということ。それなのに、痛みを感じることもなく、誰が悪いだの、何が問題だの、事情も理由も経緯も背景も知らない者が他者を裁く。まるで心が無いかのようだ。
などと考えていたら、「心ここに非ず」ということばが見えてきた。
私たちの「悲」は、「心ここに非ず」。悲しんでいるに違いないのだけれど、悲しんでいるそのときに、心は他のことを考えている。
本来の「悲」、悲しむ主体というのは私ではない。「心ここに非ず」な悲しみ方しかできない私のことを、悲しんでいるはたらきがある。それを阿弥陀という。阿弥陀は、私のことを悲しんでいる。私は、阿弥陀から悲しまれている。
阿弥陀の悲しみは、心を引き裂く痛みがある。衆生(生きとし生けるもの)への慈しみがあるからこそ、その痛みにも耐えられる。「慈悲」は、阿弥陀のこころ。私は、その「慈悲」を受けている。

みんなマイノリティ(少数者)
昨今、「多様性を認め合おう」ということが声高に言われている。その通りだ。だからこそ思う。どうして「多様性を認め合おう」と、わざわざ言われなければならないのか。それは、多様性が認められていない現実があるから。
自分の性別をどう表現するか、誰を好きになるかなど、どうして批判されなければならないのだろう。どうしてそうしたことを表明することを「カミングアウト」と表現し、決意・決心を必要とさせるのだろう。
国籍にしても、ハーフやクォーターの方々がいじめの対象になったり、特異な目で見られたりする現実がある。けれど、文化・芸術・芸能・スポーツなどの世界で優秀な功績を残すと、途端に「日本人」に引き入れて、わが国の誇りとばかりに讃える。性的少数者の方に対しても同じ。多様性は認め難いが、功績や名誉は認めやすいらしい。
「多様性を認め合おう」とは、多数派が少数派を認めてあげようという話ではない。この世は多数派と少数派で分けられると勘違いしている人が多いけれど、個人個人みんな違う。言うなれば、みんながマイノリティ(少数者)。 地球という大きな世界に、多数派に 混じって少数派がいるのではない。一人ひとり自分の世界を持つ者が集まって、この地球に生きている。多様性を認めるとは、私自身が少数者であることを知ることから始まる。

悲しみのない世界
「悲しみのない世界」を望む声を聞くけれど、悲しみのない世界って、どんな世界だろう。
悲しみを生み出す事柄がなくなる世界なのだろうか? 人と人とが出会いの縁を結び、関係を築きながら生きているからには、悲しみを生み出す事柄はなくならない。
悲しみを生み出す事柄がなくならないのに、悲しみのない世界を望むということは、悲しみを感じなくなることを望むことになってしまう。つまり、 悲しみを感じない私になるということ。

何が起きても気にしない。
誰かが困っていても無関心。
何を見ても、こころ動かされない。
何を聞いても、こころに響かない。

それは果たして生きていると言えるのだろうか。それで人間と言えるのだろうか。

悲しみのない世界を望むよりも、
涙をボロボロ流し、
声を出して叫び、
目の前の人と抱きしめ合いたい。

悲しいことが悲しいのではない。悲しみを悲しみと感じない私となることが悲しい。心を持って、痛みを感じて悲しむ私でありたい。

掲示板の人形
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2018年8月10日 (金)

吾れ、日に三たび吾が身を省みる。

子どもたちのおもちゃや学用品が増えてきたし、もう自分の持ち物をいつまでも残しておいても仕方がないので、物置にある自身の持ち物の整理(断捨離happy01)。
手紙をまとめた箱が出てくる。現代(いま)はメールが当たり前のようになったけれど、学生時代の25年ほど前(四半世紀前かcoldsweats01)は、まだ手紙でやりとりしていた時代(時代だってcoldsweats02)。
懐かしい名前、見覚えのある字、既に亡くなられた先輩の達筆な字! 目に留った手紙を読み返していると、四半世紀ほど前のことが思い起こされます。しばし読みふける(片付けあるある)。
手紙の、ちょっとおかしい文面や乱れた文字に、「あれ、なんかあったかな?」「疲れてんのかな?」「大丈夫かな?」なんて心配したりしたものです。直接会った友もいるし、私の手紙を読んで連絡をくれた友もいたなぁ。みんな、どうしてるかなぁ。直筆の手紙なんてと笑われる、煩わしがられる時代だけれど、メールからは感じられない息づかいが、手紙にはあります。

そのうちの一通。孔子の弟子の曾子が書いた言葉。それだけが書かれたハガキが出て来ました。

吾れ、日に三たび吾が身を省みる。

人の為に謀りて忠ならざるか。

朋友と交わりて信ならざるか。

習わざるを伝うるか。

友が書き添えてくれた現代語訳には、
「わたしは毎日何度もわが身について反省する。
人のために考えてあげて、まごころからしてあげられなかったのではないか。
友だちと交際して誠実ではなかったのではないか。
よくおさらいもしないことを受けうりで人に教えたのではないか。」と。

私の態度が気になってハガキをくれたのか、
自分自身を問うてのハガキだったのかは分からない。
でも、大切なハガキ。
今になってこのハガキと出遇ったということは、何か意味があることに違いない。
ふと我が身を省みる。
物だけでなく、こころの断捨離(整理)も。

2018年8月 1日 (水)

2018年8月のことば

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罪障(ざいしょう) 功徳(くどく)の体(たい)となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳(とく)おおし
       親鸞聖人「曇鸞和讃(どんらんわさん)」

現代語試訳
私のなかにある罪や障り
罪や障りを抱える私であるからこそ
仏から功徳を与えられる身として
生きている
氷が大きければ
溶けたときの水の量も多い
それと同じように
大きな罪や障りの本体である私は
仏から多くの功徳をいただいている


2018年7月6日・26日
オウム真理教による一連の事件に関わる13人の死刑囚の死刑が執行された。3週間という短い期間で。日本においては法律で認められているとはいえ、人の手によって人を殺すということが、リアルタイムに行なわれた。衝撃・  無念・憤慨・恐怖・動揺・疑問・・・何も感じなかっただろうか? こころが動かされることはなかっただろうか?
死刑執行のボタンを押す刑務官は、その感触が残るという。その感触は、死刑が存置されている日本では、すべての人間が背負わなければならない感触だ。刑務官ひとりに背負わせるのではなく、「私もボタンを押した者のひとりである」という自覚が、果たしてあるだろうか。
そもそも、人が他者(ひと)を裁くということに無理がある。「私」は、果たして他者を裁けるような「私」だろうか? 裁ける「私」ではないのに、そのうえ他者のいのちを奪えるのだろうか?

人間のいのちを奪う生き物の1番は「蚊」だとのこと。年間約70万人超の人間が、蚊が媒介したウィルスによって死に至る。そして、2番目に多いのが  「人間」。年間約50万人弱。同じ種族どうしで殺し合う生き物は「人間」だけだと聞いたことがある。
今年の世界規模での猛暑。「人間は知能があるから、生きやすいように環境を変えることができる。そうして生きてきた」と語る学者がいた。地球誕生から46億年、原始生命の出現から40億年が経つという(諸説あり)。その歴史の中で、生命は、地球環境に適応するように姿形を変えてきた。適応できない生命は絶滅してきた。生命は、環境の変化に適応しながら成長するものなのだ。自分たちの都合に合わせて環境を変えようとするのは、地球に生きる生命体のすることではない。
人間は、同じ種族のいのちを奪う。人間は、環境に適応しようとするのではなく、人類に環境を適応させようとする。それらは、知恵があるゆえと言う者もいるが、果たしてそれが知恵のある生命体がすることなのだろうか。
人間の持つ罪や障りは、計り知れないほど大きい。必然、悲しみや苦しみも大きく深いものとなる。

本願海と群生海
本願海(ほんがんかい)
 阿弥陀の慈悲を、
 親鸞聖人は「海」に譬えられる。
 海のように広く、大きく、
 ほとりのない慈悲のこころ
 阿弥陀が私を想うこころ

群生海(ぐんじょうかい)
 私の中にある罪深さ、世への障りを、
 親鸞聖人は「海」に譬えられる。
 海のように深く、暗く、
 底の知れない欲望のこころ
 私が自分を見失っているこころ

正反対のものを、親鸞聖人は同じ「海」に譬えられている。
正反対と見ているのは、私の眼。罪や障りにあふれた私が、阿弥陀に救われるためには、そこに接点がなければならない。
蚊(にこだわるわけではないけれど)は、人間のことを、私たちが目にするような人間の形としては認識していない。蚊からすれば、人間はあまりに巨大すぎて、形としては認識できないらしい。 
阿弥陀の慈悲も、「計り知れない 罪障を持つ私のことを包みこんでくださるほど大きい」のであれば、その慈悲に気付くことは、誰もできないだろう。
阿弥陀の慈悲に気付き、温もりを感じ、涙を流し、生きる支えとしてきた人たちがいる。そのような人たちが、 阿弥陀の慈悲を語り、記し、生き抜いてくれたおかげで、「南無阿弥陀仏」の念仏が今、私にまで伝わっている。
そのためには、罪や障りが必要だった。罪障心が、阿弥陀の慈悲心に匹敵する大きさだからこそ、自身の罪障の大きさを自覚した人たちが、阿弥陀の慈悲を感得できた。親鸞聖人も同じ。
だからこそ親鸞聖人は、阿弥陀の慈悲と私の罪障を、同じ「海」に譬えられた。罪障の自覚は、阿弥陀の救済の自覚となる。

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ヤクルトスワローズ マスコット つばくろうhappy01
7月、神宮球場に試合を見に行ったら、無料配布していましたgood
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2018年7月25日 (水)

掲示板のことばアーカイブズ(41)

2017年(平成29年)

1月〔479/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」220〕
じっと西に沈む落日を心にとどめよ
   仏陀

2月〔480/寺報221〕
人を人とすることによって、自分も人になる
   安田理深

3月〔481/寺報222〕
きみとぼくの間に たんぽぽを咲かせよう
   『きみとぼくの間に』(作詞・作曲 柚梨太郎)

4月〔482/寺報223〕
勇気と 愛情と 信頼と 希望と
ちょっとの悲しみがあれば☆(ほし)ができるよ

5月〔483/寺報224〕
人間の脳の中には、絶対に祈りの回路があると思うんです。
   柳澤桂子

6月〔484/寺報225〕
人間の愚かさは 何に対しても答えを持っているということです
   ミラン・クンデラ

7月〔485/寺報226〕
ひとり一人が光に照らされている
だからこそ それぞれの色に輝いている

8月〔486/寺報227〕
鳥は飛び方を変えることはできない
しかし人間はいつからでも生き方を変えられる
   日野原重明

9月〔487/寺報228〕
あらゆる自由は奪われても 念仏する自由は奪われない

10月〔488/寺報229〕
いのちはみんな母なる海に還ります
みんな一緒だから 淋しくないよ

11月〔489/寺報230〕
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
   親鸞聖人

12月〔490/寺報231〕
過去は消えず 未来は読めず 不安がつきまとう
だけど明日を変えていくんなら今
今だけがここにある
   Mr.Children 「ヒカリノアトリエ」

2018年7月24日 (火)

掲示板のことばアーカイブズ(40)

2016年(平成28年)

1月〔467/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」209〕
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
    親鸞聖人

2月〔468/寺報210〕
福願う 心の裏に 鬼の顔

3月〔469/寺報211〕
今日という日は あなたの人生の残りの、最初の一日
   チャールズ・ディードリッヒ

4月〔470/寺報212〕
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え
   道綽大師 『安楽集』

5月〔471/寺報213〕
我以上に 我を愛するものを 阿弥陀という
   武田定光

6月〔472/寺報214〕
こころの強い人なんて、いないんだから!

7月〔473/寺報215〕
高原(こうげん)の陸地(ろくじ)には、蓮華(れんげ)を生ぜず。
卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に、いまし蓮華を生ず。
   『維摩経(ゆいまきょう)』

8月〔474/寺報216〕
リアルタイムが 歴史を殺す

9月〔475/寺報217〕
子どもを守る者はすべてを守る。
子どもを守らない者は何ものをも守らない。
   むのたけじ

10月〔476/寺報218〕
もしある朝目を覚ますと、
全ての人間が同じ人種、同じ宗教、同じ肌の色になっているとしたら、
我々は正午までに
別の偏見のタネを捜し出すことだろう
   ジョージ・エイケン(アメリカの劇作家)

11月〔477/寺報219〕
散ると見たのは凡夫の眼 木の葉は大地へ帰るなり

12月〔478/寺報220〕
青春時代と呼ぶには
あまりに
重すぎるけれど
漆黒とは
光を映す色のことだと     
   岩崎 航

2018年7月23日 (月)

掲示板のことばアーカイブズ(39)

2015年(平成27年)

1月〔455/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」197〕
死を分かち合うことがなければ 生は分かち合えない

2月〔456/寺報198〕
いのちの声を聞く

3月〔457/寺報199〕
いろんなぐうぜんがかさなって ここにこうして あなたといっしょにいられることが ただとてもうれしい
   『ね』(作詞・作曲 高橋はゆみ)

4月〔458/寺報200〕
人生に必要な知恵は すべて幼稚園の砂場で学んだ
   ロバート・フルガム

5月〔459/寺報201〕
子どもは 誰かといっしょのとき ひとりになれる
   D.W.ウィニコット

6月〔460/寺報202〕
前人(ぜんじん)樹(き)を植えて 後人(こうじん)涼(りょう)を得

7月〔461/寺報203〕
よしあしの文字をも しらぬひとはみな まことのこころなりけるを 善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり
   親鸞聖人

8月〔462/寺報204〕
ぼくは、戦争の原因は
「飢え」と「欲」ではないか、と考えています。
腹が減ったから隣の国からとってこようとか、
領土でも資源でもちゃんとあるのにもっと欲しいとか、
そういうものが戦争につながるのです。
   やなせたかし(『ぼくは戦争は大きらい』より)

9月〔463/寺報205〕
弥陀の五劫思惟の願を よくよく案ずれば ひとえに親鸞一人がためなりけり
   親鸞聖人

10月〔464/寺報206〕
ただひとすじに聞く そこから世界は開かれる

11月〔465/寺報207〕
できることは減りました ありがとうが増えました

12月〔466/寺報208〕
目の前の方を ただの人と思うなよ
   高橋 卯平

2018年7月22日 (日)

掲示板のことばアーカイブズ(38)

2014年(平成26年)

1月〔443/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」185〕
どれほど道があろうと 自分が登るとなると ひとつです
   平野修

2月〔444/寺報186〕
貧乏な人とは 少ししかものを持っていない人ではなく
無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ
   ホセ・ムヒカ

3月〔445/寺報187〕
ないものを欲しがらんで、あるものを喜ばしてもらおうよのう
   河村ふで

4月〔446/寺報188〕
こころの弱さを知っている人がいる
こころの強い人がいるわけではない

5月〔447/寺報189〕
一悪を以て 衆善を忘れず

6月〔448/寺報190〕
正義と名のつく殺しがあってたまるか!!!
   アイスバーグ 『ONE PIECE』より

7月〔449/寺報191〕
善き人に遇って教えられ
悪しき人に会って反省すれば
善悪ともにありがたい

8月〔450/寺報192〕
殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
   仏陀

9月〔451/寺報193〕
ひとつのいのちは すべてのいのちにつながっている
  本橋成一

10月〔452/寺報194〕
善人ばかりの家庭では 争いが絶えない

11月〔453/寺報195〕
計算なんて何もなく生まれてきたのに
損得勘定に疲弊して生きているわたし

12月〔454/寺報196〕
私の生活の基盤を支えていたのは
電気・ガス・水道ではなくて、山や川であり、大地であるんだなと思います。
   広田奈津子

2018年7月21日 (土)

掲示板のことばアーカイブズ(37)

2013年(平成25年)

1月〔431/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」173〕
深海魚 光に遠く 住むものは つひにまなこも 失ふとあり
   堀口大学

2月〔432/寺報174〕
どれほど巧みに着物を縫っても、糸に結び目がなかったら みな抜けてしまう

3月〔433/寺報175〕
五濁を生きる我が眼 弥陀の大悲に包まれて 光り輝く美しさを美ゆ

4月〔434/寺報176〕
われわれの世界には善悪がある
しかし善悪の世界だけでは どうしてもたすかることができぬ
   藤原鉄乗

5月〔435/寺報177〕
こんなに我慢しているのに・・・と思っていたら
こんなに我慢されている私でした

6月〔436/寺報178〕
あなたたちの生きる未来を!!
私達が諦めるわけにはいかない!!!
   ニコ・オルビア 『ONE PIECE』より

7月〔437/寺報179〕
限りない いのちに遇って 限りあるいのちを尽くす
   金子大榮

8月〔438/寺報180〕
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける
   親鸞聖人

9月〔439/寺報181〕
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
-ある日のある少女の手記から
   (長崎平和公園内の碑より)

10月〔440/寺報182〕
この世は生きるに値する
   宮崎駿

11月〔441/寺報183〕
ひとりがひとりに出遇って生きてゆく
出遇ってしまったら 忘れられないんです
   佐々木道範

12月〔442/寺報184〕
如是我聞
 私の中に新しい世界が生まれてきました

2018年7月20日 (金)

掲示板のことばアーカイブズ(36)

2012年(平成24年)

1月〔419/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」161〕
丁寧に生きる

2月〔420/寺報162〕
浄土宗のひとは愚者になりて往生す
   法然上人

3月〔421/寺報163〕
み仏の み名を称える わが声は わば声ながら 尊かりけり
   甲斐和里子

4月〔422/寺報164〕
無明
 分からずに迷うのではない 分かったふりだから迷う

5月〔423/寺報165〕
人は慣れると 手ですることを 足でする

6月〔424/寺報166〕
名前は宝物

7月〔425/寺報167〕
もしも自分のためにかがやくなら、燈台は船をみちびくことができない。
   むのたけじ

8月〔426/寺報168〕
私が無駄に過ごした今日は、昨日死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である。

9月〔427/寺報169〕
吾(われ) 唯だ 足るを 知る

10月〔428/寺報170〕
機嫌が悪いのも、もとは全部 自分から出ている

11月〔429/寺報171〕
肉眼(にくげん)は 他の非が見える
仏眼(ぶつげん)は 自己の非に目覚める
   川瀬和敬

12月〔430/寺報172〕
食(く)うか 食(た)べるか いただくか

2018年7月19日 (木)

掲示板のことばアーカイブズ(35)

2011年(平成23年)

1月〔407/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」149〕
思うこと ひとつ叶えば またひとつ

2月〔408/寺報150〕
語られるに値しない人生はない 書かれるに値しない人生はない
   井上 憲司

3月〔409/寺報151〕
誰もが温もりという願いの中を生かされています

4月〔410/寺報152〕
人が見えると 憂いは 優しさに変わります

5月〔411/寺報153〕
明日、世界が滅びようとも 今日、私はリンゴの木を植える
   ルター

6月〔412/寺報154〕
物をうくるには心を以てし 法をうくるには身を以てす
   金子大榮

7月〔413/寺報155〕
本願力にあいぬれば
むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
   親鸞聖人

8月〔414/寺報156〕
蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず、伊虫、あに朱陽の節を知らんや
   曇鸞(どんらん)大師 『浄土論註』
《〔文意〕蟪蛄とはセミのことです。伊虫とは「この虫」という意味で、ここではセミを指します。夏に成虫となるセミは、春や秋があることを知りません。春や秋を知らないこの虫が、どうして朱陽の節(夏)を知ることができるでしょうか(いえ、できません)。》

9月〔415/寺報157〕
他者(ひと)を想う慈しみのこころからは、「あぶない!」という叫びが生まれる。

10月〔416/寺報158〕
時の流れに身をまかせ ただ過(す)ぎゆくだけならば、過去に起きた出来事が過(あやま)ちとなって表われる。

11月〔417/寺報159〕
人身受け難し いますでに受く 仏法聞き難し いますでに聞く

12月〔418/寺報160〕
老いや病や死が、人生を輝かせてくださる

2018年7月18日 (水)

掲示板のことばアーカイブズ(34)

2010年(平成22年)

1月〔395/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」137〕
想いは響きあうもの。
もらうばかりでは「共感」とは言わない。

2月〔396/寺報138〕
求めたものが得られなくて苦しいのではない
すでに得ているのに求めるから苦しい

3月〔397/寺報139〕
今という 今こそ今が 大事なれ 大事の今が 生涯の今

4月〔398/寺報140〕
よう生まれてきたねぇ

5月〔399/寺報141〕
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6月〔400/寺報142〕
生死(しょうじ)を忘れるとき 生活は浮き
生死におびえるとき 生活は沈み
生死を凝視(みつめ)るとき 生活は一期一会に輝く

7月〔401/寺報143〕
老・病・死
 このあたりまえのことがただごとでないことを、
 身体から教えてもらう このごろ

8月〔402/寺報144〕
後世に残るこの世界最大の悲劇は
悪しき人の暴言や暴力ではなく、
善意の人の沈黙と無関心だ
   キング牧師

9月〔403/寺報145〕
前(さき)に生まれん者は 後(のち)を導き
後に生まれん者は 前を訪(とぶら)え
   道綽禅師 『安楽集』

10月〔404/寺報146〕
私の心の中にも「ありがとう」とお念仏の灯がともってくださる
   東井義雄

11月〔405/寺報147〕
やり直しがきくのが真宗だ!

12月〔406/寺報148〕
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
   親鸞聖人

2018年7月17日 (火)

掲示板のことばアーカイブズ(33)

2009年(平成21年)

1月〔383/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」125〕
汝、起(た)ちて 更に衣服(えぶく)を整うべし
   『仏説無量寿経(巻下)』

2月〔384/寺報126〕
おしえを聞いて そのように成ろうとするけれど
そのように成っていることを おしえに聞くのです

3月〔385/寺報127〕
井戸のポンプでも 動かしていれば そのうちに水が出てくる
面白くなくても にっこり笑っていると だんだんうれしい感情がわいてくる
   樹木希林

4月〔386/寺報128〕
過去のすべてを許します
現在のすべてを許します
未来のすべてを許します

5月〔387/寺報129〕
念仏者は 無碍(むげ)の一道なり
   親鸞聖人

6月〔388/寺報130〕
忙しいということは 怠けている証拠です
   安田理深

7月〔389/寺報131〕
一切の有情(うじょう)は みな食によりて住す
   『成唯識論』

8月〔390/寺報132〕
仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
   親鸞聖人

9月〔391/寺報133〕
浄土に往生するということは
ここで生きられるようになったということ
   信国淳

10月〔392/寺報134〕
川の向こうの紅葉がきれいだったので 橋を渡って行ってみた
ふりかえると さきまでいた所の方がきれいだった
  星野富弘

11月〔393/寺報135〕
顕微鏡で自分ばかり見ていたけれど、
望遠鏡で自分を見ると とても小さく見える。
自分しか見えないと、世界が見えないんです。
   姜尚中

12月〔394/寺報136〕
身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし
   『仏説無量寿経(巻下)』

2018年7月16日 (月)

掲示板のことばアーカイブズ(32)

酷暑の中、皆様お盆のお参りお疲れ様でした。
まだまだ続く暑さ、おからだご無理ありませんように。
「掲示板のことばアーカイブズ」の投稿が、2007年分までで止まっていました。
アーカイブズを楽しみにしている方がいらっしゃって、お盆のお墓参りの際に「2008年以降もお願いします」と声をかけていただきました。ありがとうございます。

 sun sun sun

2008年(平成20年)

1月〔371/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」113〕
あたりまえのことって ありがたいことの積みかさね

2月〔372/寺報114〕
涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味はわからない
   ゲーテ

3月〔373/寺報115〕
楽を求めて苦しみに陥る
苦しみを生きる中で楽しみに出遇う(であう)

4月〔374/寺報116〕
朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり

5月〔375/寺報117〕
生きていてたのしいと思うことの ひとつ
それは人間が人間に逢って 人間について話をするときです
   相田みつを

6月〔376/寺報118〕
苦悩を抱いている その一点で人間は尊い
   佐野明弘

7月〔377/寺報119〕
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ 災難をのがるる妙法にて候
   良寛

8月〔378/寺報120〕
誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
   親鸞聖人『教行信証』「行巻」より

9月〔379/寺報121〕
影が教えてくれるのは そこにある悲しみだけじゃない
うつむく顔を上げて振り返れば そこにある光に気付くだろう
   コブクロ「ここにしか咲かない花」より

10月〔380/寺報122〕
善い行いは よい報いがくるというよりも
善い行いをするところに 報いられている
   佐々木蓮麿

11月〔381/寺報123〕
海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西(フランス)人の言葉では、あなたの中に海がある。
   三好達治

12月〔382/寺報124〕
えらばず きらわず みすてず
   竹中智秀

2018年7月 9日 (月)

反省(懺悔)と感謝(讃嘆)を合わせ持っている人を「人間」といいます

2018年7月6日(金) オウム真理教元代表 麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の死刑が執行されたのを皮切りに6人の元幹部の死刑が執行される。

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昨晩(7月5日)、ご門徒のお通夜に車で20分で着いた斎場に、今日のお葬儀には1時間近くかかってたどり着いた。
渋滞に巻き込まれて少し焦り始めた頃、「麻原死刑囚の死刑執行」のニュースが入る。驚きと共に、胸騒ぎがした。
車を走らせること数分・・・
松本死刑囚の死刑が執行され、続いて井上嘉浩 早川紀代秀 中川智正 新実智光 遠藤誠一 土谷正実の死刑が執行されたとのニュース。

大学の先輩が、『「生きて罪を償う」井上嘉浩さんを死刑から守る会』に携われている。今年に入り、死刑が執行されるのではないかという気配が漂い初め、機関誌『悲』の発行作業を進められていました。
私は、死刑制度は公の殺人であると考え、ブログにも書いていました。また、“私”の持つ罪業性についても常々語っています。そんな私に先輩は声をかけてくださり、『悲』に原稿を書くご縁をいただきました。
私の原稿を含め、寄せられた原稿に目を通された井上嘉浩さんは、先輩宛に手紙を書かれました。(死刑囚は手紙を書くにも制限があります。)
その手紙の中に、原稿を寄せた人 一人ひとりの名前を書いて、「感謝しています」と書かれていました。その手紙を、先輩から写メで読ませていただきました。私の名前もありました。

「感謝しています」
井上さんと私との間の、最初で最後のやりとりです。

手紙に書かれた言葉ですが、まるで聞いた言葉であるかのように脳裏で繰り返されます。

感謝しています・・・感謝しています・・・感謝しています・・・

井上さんは、「感謝しています」と言い遺して、逝ってしまった・・・

私は、井上嘉浩さんを、殺してしまった。

「感謝しています」という気持ちを持っている人を、殺してしまった。

気がついたら、渋滞に呑み込まれた車の中で、嗚咽号泣していました。

次から次へと、死刑執行のニュースが入ってくる。

日本は、開けることがあっては絶対にいけない扉を開けてしまいました

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法を犯した人は相当の罰を受けて当然だと考える人は多いでしょう。
明白な考え方です。それを否定はしません。
けれど、
麻原彰晃死刑囚と6人の元幹部の死刑が、同じ日に続けて執行された。その準備は数日前から進められ、
死刑執行の前日には、同じ席で総理大臣と法務大臣がお酒を酌み交わしていた。
翌日の死刑執行の話題が出ないはずはない。
平成のうちに平成の事件のけりを付けたかったのではないか・・・などとまことしやかに噂されているが、それならば他の死刑囚にも、執行の足音は近づいていることになる。

権力者が、自分たちに都合の良いように法律を解釈し、制定し、
友人は厚遇して友人でない者は冷遇し、
街中には当たり前のように“防犯”カメラが設置され、
パソコンやスマホで見たもの買ったものがチェックされ、個人の思考・嗜好が把握されている世の中。
いつ誰がどのような理由で捕まるか分からない世の中になっています。
悪い考えをした奴が悪いんだ!と、権力者は高笑いしながらお酒を酌み交わすのでしょう。

情報が流れていたのか、流していたのか、
マスコミは、死刑の執行が分かっていたかのように報道を始めた。
執行された死刑囚の顔写真に「執行」のシールを貼り、
縁ある場所が「信者から神聖視されることが考えられます」なんて報道しておきながら、荼毘に付す火葬場の前でスタンバイしている。ここで火葬しましたよ!と分かるように。
イベント化し、矛盾し、伝えることを控えるべきことを声高に報道している。
報道されている内容は、視聴者の求めているものに応じているという側面もある。ということは、それを求めている私がいるということ。
自分は罰せられる側に立つことはない、という根拠のない自信が、テレビの向こう側とこちら側に大きな溝を作っている。

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東本願寺 「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」(2018年7月9日)

2018年7月 7日 (土)

2018年7月のことば

日本各地、大雨の警報が発令され、大雨による被害も出ています。被害が拡大しませんように。
1982年(昭和57年)に長崎の水害を目の当たりにし、ほんの少しの時間差で今にいのちを長らえさせていただいている身として、ここ数年毎年起る大雨の被害には、恐怖を感じています。どうか不要の外出はお避けください(と、言われながらも、避難所へ避難しなければならない状況にある方もいるわけで、無事を念じるばかりです)。

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他人と過去は変えられないが、
自分と未来は変えられる。
   エリック・バーン
(カナダ出身の精神科医)

痛みのない非難
「きょうよりかもっともっと あしたは できるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください」
少女の悲痛な叫びに涙しました。
どのようなニュースであろうとも、目を背けずに向き合おうと努めているけれど、このニュースはなかなか正視できませんでした。
どれだけの恐怖を、悲しさを、そして、親への愛を小さな胸に抱いていたことでしょう。

小さい人が虐待を受け、そしていのちを奪われる事件が報道されると、「虐待した親を許せない」「児童相談所は、警察は何をやっているんだ。救える命だったはずだ」「いつまでこんなことが続くのか」などという声を耳にします。
虐待した親に対し、怒りが湧き起こるのは当然です。しかし、「いつまでこんなことが続くのか」と悲しみながらも、児童相談所や警察の怠慢だと憎しみを込めて歎く。他人事として見ているに過ぎません。
児童相談所で働く方1人当りが担当する案件が何件くらいあるか・・・想像したことありますか?  とてもすべての子どもを、家庭をカバーできるものではありません。しかし、日夜懸命に努めていらっしゃいます。現に救われているいのちもあるはずです。
人は、ミスに対するバッシングは容赦なく浴びせますが、私たちの生活のために日々尽力されている人に対して、感謝のことばをかけることはしません。
虐待の報道に涙する人は多い。けれど、保育園や幼稚園の設立を拒む人もまた多い。拒むことがいけないと言っているわけではありません。それは当然の権利です。しかし、自分の身の回りの環境を整えるために、子どもやその親を疎ましく思いながらも、子どもが傷を負うニュースに涙する矛盾に気がついていますか? 痛みを感じていますか? 自分が犯している罪の深さを、 もっと背負ってもいいのではないでしょうか。
痛みのない非難が、他者(ひと)を苦しめています。悪循環を作っているのですから、いつまでもこんなことが続くことは自明のことです。

今ある私
いつの時代も、人の苦しみ悲しみが消えることはありません。人が他者を傷つける報道を目にするとき、私たちは真偽も分からぬ情報や数少ない情報を元に犯人捜しに興味を示し、容疑者が捕まると、容疑者のみならずその身内の者にまでもバッシングを浴びせて溜飲を下げています。
犯した罪は、決して償いきれるものではありません。罪を犯した者は、たとえ刑期を終えたとしても、背負い続けねばならない責任があります。
しかし、物事にはそうなるに至った経緯や背景があります。罪を犯すことにしても、経緯や背景があります。経緯や背景が生まれるには、さまざまな縁が重なりあっています。私たち一人ひとりも、決して無縁ではありません。

親鸞聖人のことばです
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」(『歎異抄』)
「そうあるべき縁がもよおしたならば、どのような行いもしてしまう」という教えを学び、「私も、縁がもよおせば何をしでかしてしまうか分かりません」と言う人もいますが、そのセリフは、起こり得ない前提として語っているようにも聞こえます。「いくら縁がもよおしても、私はそんな酷いことはしません」と。
「さるべき業縁のもよおせば」とは、これから先のことを言っているのではなく、今ある私のことを語っています。誰もが、縁によって私として生を受け、縁によって今の私として生きています。虐待した親も、虐待に恐怖する子も、救えなかったと悔やむ人も、他者を責めるだけの人も。みんな同じです。

未来は、この瞬間の延長線上にある
「いつまでこんなことが続くのか」という歎きは、本当は「何とかしたい」という叫びだと感じます。
悲しみを縁として、「何とかしたい」という叫びが私のこころの奥底から噴き出してきました。私の気持ちをそのように変えさせたのは、人の世の悲しみです。それならば、私が変わることによって人の世の悲しみを変えることができるのかもしれません。などと考えるのですが・・・
お釈迦さまの教えの根本は「縁起の道理」。「あらゆるいのち・物事・事柄は、縁によってつながっている」という教え。自然にそのようになっているということ。つまり、自分の意志で世の中を、他人を、自分自身でさえも、どうこうできるものではないのです。
ないのですが、人が他者を傷つける事件が相次ぎ、その度に自分を抜きにした他者批判が渦巻く世の中で、このままではいけない!と感じています。 私は、縁というつながりの中を生きる一人。他人事なことなどなにひとつなく、すべて当事者なのですから。

6月23日「沖縄慰霊の日」。相良倫子さん(沖縄県浦添市立港川中学校3年生)が自作の、平和の詩「生きる」を朗読されました。その一部です。

 

私は、今を生きている。
 みんなと一緒に。
 そして、これからも生きていく。
 一日一日を大切に。
 平和を想って。平和を祈って。
 なぜなら、未来は、
 この瞬間の延長線上にあるからだ。
 つまり、未来は、今なんだ。

未来は、この瞬間の延長線上にある。つまり、未来は、今。
未来のことを想うなら、今なんだ!

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掲示板の人形
6月23日は沖縄慰霊の日。
6月25日~27日 沖縄へ行ってきました。シーサーの色に惹かれました。
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