2018年7月18日 (水)

掲示板のことばアーカイブズ(34)

2010年(平成22年)

1月〔395/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」137〕
想いは響きあうもの。
もらうばかりでは「共感」とは言わない。

2月〔396/寺報138〕
求めたものが得られなくて苦しいのではない
すでに得ているのに求めるから苦しい

3月〔397/寺報139〕
今という 今こそ今が 大事なれ 大事の今が 生涯の今

4月〔398/寺報140〕
よう生まれてきたねぇ

5月〔399/寺報141〕
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6月〔400/寺報142〕
生死(しょうじ)を忘れるとき 生活は浮き
生死におびえるとき 生活は沈み
生死を凝視(みつめ)るとき 生活は一期一会に輝く

7月〔401/寺報143〕
老・病・死
 このあたりまえのことがただごとでないことを、
 身体から教えてもらう このごろ

8月〔402/寺報144〕
後世に残るこの世界最大の悲劇は
悪しき人の暴言や暴力ではなく、
善意の人の沈黙と無関心だ
   キング牧師

9月〔403/寺報145〕
前(さき)に生まれん者は 後(のち)を導き
後に生まれん者は 前を訪(とぶら)え
   道綽禅師 『安楽集』

10月〔404/寺報146〕
私の心の中にも「ありがとう」とお念仏の灯がともってくださる
   東井義雄

11月〔405/寺報147〕
やり直しがきくのが真宗だ!

12月〔406/寺報148〕
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし
   親鸞聖人

2018年7月17日 (火)

掲示板のことばアーカイブズ(33)

2009年(平成21年)

1月〔383/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」125〕
汝、起(た)ちて 更に衣服(えぶく)を整うべし
   『仏説無量寿経(巻下)』

2月〔384/寺報126〕
おしえを聞いて そのように成ろうとするけれど
そのように成っていることを おしえに聞くのです

3月〔385/寺報127〕
井戸のポンプでも 動かしていれば そのうちに水が出てくる
面白くなくても にっこり笑っていると だんだんうれしい感情がわいてくる
   樹木希林

4月〔386/寺報128〕
過去のすべてを許します
現在のすべてを許します
未来のすべてを許します

5月〔387/寺報129〕
念仏者は 無碍(むげ)の一道なり
   親鸞聖人

6月〔388/寺報130〕
忙しいということは 怠けている証拠です
   安田理深

7月〔389/寺報131〕
一切の有情(うじょう)は みな食によりて住す
   『成唯識論』

8月〔390/寺報132〕
仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
   親鸞聖人

9月〔391/寺報133〕
浄土に往生するということは
ここで生きられるようになったということ
   信国淳

10月〔392/寺報134〕
川の向こうの紅葉がきれいだったので 橋を渡って行ってみた
ふりかえると さきまでいた所の方がきれいだった
  星野富弘

11月〔393/寺報135〕
顕微鏡で自分ばかり見ていたけれど、
望遠鏡で自分を見ると とても小さく見える。
自分しか見えないと、世界が見えないんです。
   姜尚中

12月〔394/寺報136〕
身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし
   『仏説無量寿経(巻下)』

2018年7月16日 (月)

掲示板のことばアーカイブズ(32)

酷暑の中、皆様お盆のお参りお疲れ様でした。
まだまだ続く暑さ、おからだご無理ありませんように。
「掲示板のことばアーカイブズ」の投稿が、2007年分までで止まっていました。
アーカイブズを楽しみにしている方がいらっしゃって、お盆のお墓参りの際に「2008年以降もお願いします」と声をかけていただきました。ありがとうございます。

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2008年(平成20年)

1月〔371/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」113〕
あたりまえのことって ありがたいことの積みかさね

2月〔372/寺報114〕
涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味はわからない
   ゲーテ

3月〔373/寺報115〕
楽を求めて苦しみに陥る
苦しみを生きる中で楽しみに出遇う(であう)

4月〔374/寺報116〕
朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり

5月〔375/寺報117〕
生きていてたのしいと思うことの ひとつ
それは人間が人間に逢って 人間について話をするときです
   相田みつを

6月〔376/寺報118〕
苦悩を抱いている その一点で人間は尊い
   佐野明弘

7月〔377/寺報119〕
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ 災難をのがるる妙法にて候
   良寛

8月〔378/寺報120〕
誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞 愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。
   親鸞聖人『教行信証』「行巻」より

9月〔379/寺報121〕
影が教えてくれるのは そこにある悲しみだけじゃない
うつむく顔を上げて振り返れば そこにある光に気付くだろう
   コブクロ「ここにしか咲かない花」より

10月〔380/寺報122〕
善い行いは よい報いがくるというよりも
善い行いをするところに 報いられている
   佐々木蓮麿

11月〔381/寺報123〕
海よ、僕らの使う文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西(フランス)人の言葉では、あなたの中に海がある。
   三好達治

12月〔382/寺報124〕
えらばず きらわず みすてず
   竹中智秀

2018年7月 9日 (月)

反省(懺悔)と感謝(讃嘆)を合わせ持っている人を「人間」といいます

2018年7月6日(金) オウム真理教元代表 麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の死刑が執行されたのを皮切りに6人の元幹部の死刑が執行される。

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昨晩(7月5日)、ご門徒のお通夜に車で20分で着いた斎場に、今日のお葬儀には1時間近くかかってたどり着いた。
渋滞に巻き込まれて少し焦り始めた頃、「麻原死刑囚の死刑執行」のニュースが入る。驚きと共に、胸騒ぎがした。
車を走らせること数分・・・
松本死刑囚の死刑が執行され、続いて井上嘉浩 早川紀代秀 中川智正 新実智光 遠藤誠一 土谷正実の死刑が執行されたとのニュース。

大学の先輩が、『「生きて罪を償う」井上嘉浩さんを死刑から守る会』に携われている。今年に入り、死刑が執行されるのではないかという気配が漂い初め、機関誌『悲』の発行作業を進められていました。
私は、死刑制度は公の殺人であると考え、ブログにも書いていました。また、“私”の持つ罪業性についても常々語っています。そんな私に先輩は声をかけてくださり、『悲』に原稿を書くご縁をいただきました。
私の原稿を含め、寄せられた原稿に目を通された井上嘉浩さんは、先輩宛に手紙を書かれました。(死刑囚は手紙を書くにも制限があります。)
その手紙の中に、原稿を寄せた人 一人ひとりの名前を書いて、「感謝しています」と書かれていました。その手紙を、先輩から写メで読ませていただきました。私の名前もありました。

「感謝しています」
井上さんと私との間の、最初で最後のやりとりです。

手紙に書かれた言葉ですが、まるで聞いた言葉であるかのように脳裏で繰り返されます。

感謝しています・・・感謝しています・・・感謝しています・・・

井上さんは、「感謝しています」と言い遺して、逝ってしまった・・・

私は、井上嘉浩さんを、殺してしまった。

「感謝しています」という気持ちを持っている人を、殺してしまった。

気がついたら、渋滞に呑み込まれた車の中で、嗚咽号泣していました。

次から次へと、死刑執行のニュースが入ってくる。

日本は、開けることがあっては絶対にいけない扉を開けてしまいました

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法を犯した人は相当の罰を受けて当然だと考える人は多いでしょう。
明白な考え方です。それを否定はしません。
けれど、
麻原彰晃死刑囚と6人の元幹部の死刑が、同じ日に続けて執行された。その準備は数日前から進められ、
死刑執行の前日には、同じ席で総理大臣と法務大臣がお酒を酌み交わしていた。
翌日の死刑執行の話題が出ないはずはない。
平成のうちに平成の事件のけりを付けたかったのではないか・・・などとまことしやかに噂されているが、それならば他の死刑囚にも、執行の足音は近づいていることになる。

権力者が、自分たちに都合の良いように法律を解釈し、制定し、
友人は厚遇して友人でない者は冷遇し、
街中には当たり前のように“防犯”カメラが設置され、
パソコンやスマホで見たもの買ったものがチェックされ、個人の思考・嗜好が把握されている世の中。
いつ誰がどのような理由で捕まるか分からない世の中になっています。
悪い考えをした奴が悪いんだ!と、権力者は高笑いしながらお酒を酌み交わすのでしょう。

情報が流れていたのか、流していたのか、
マスコミは、死刑の執行が分かっていたかのように報道を始めた。
執行された死刑囚の顔写真に「執行」のシールを貼り、
縁ある場所が「信者から神聖視されることが考えられます」なんて報道しておきながら、荼毘に付す火葬場の前でスタンバイしている。ここで火葬しましたよ!と分かるように。
イベント化し、矛盾し、伝えることを控えるべきことを声高に報道している。
報道されている内容は、視聴者の求めているものに応じているという側面もある。ということは、それを求めている私がいるということ。
自分は罰せられる側に立つことはない、という根拠のない自信が、テレビの向こう側とこちら側に大きな溝を作っている。

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東本願寺 「死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明」(2018年7月9日)

2018年7月 7日 (土)

2018年7月のことば

日本各地、大雨の警報が発令され、大雨による被害も出ています。被害が拡大しませんように。
1982年(昭和57年)に長崎の水害を目の当たりにし、ほんの少しの時間差で今にいのちを長らえさせていただいている身として、ここ数年毎年起る大雨の被害には、恐怖を感じています。どうか不要の外出はお避けください(と、言われながらも、避難所へ避難しなければならない状況にある方もいるわけで、無事を念じるばかりです)。

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他人と過去は変えられないが、
自分と未来は変えられる。
   エリック・バーン
(カナダ出身の精神科医)

痛みのない非難
「きょうよりかもっともっと あしたは できるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください」
少女の悲痛な叫びに涙しました。
どのようなニュースであろうとも、目を背けずに向き合おうと努めているけれど、このニュースはなかなか正視できませんでした。
どれだけの恐怖を、悲しさを、そして、親への愛を小さな胸に抱いていたことでしょう。

小さい人が虐待を受け、そしていのちを奪われる事件が報道されると、「虐待した親を許せない」「児童相談所は、警察は何をやっているんだ。救える命だったはずだ」「いつまでこんなことが続くのか」などという声を耳にします。
虐待した親に対し、怒りが湧き起こるのは当然です。しかし、「いつまでこんなことが続くのか」と悲しみながらも、児童相談所や警察の怠慢だと憎しみを込めて歎く。他人事として見ているに過ぎません。
児童相談所で働く方1人当りが担当する案件が何件くらいあるか・・・想像したことありますか?  とてもすべての子どもを、家庭をカバーできるものではありません。しかし、日夜懸命に努めていらっしゃいます。現に救われているいのちもあるはずです。
人は、ミスに対するバッシングは容赦なく浴びせますが、私たちの生活のために日々尽力されている人に対して、感謝のことばをかけることはしません。
虐待の報道に涙する人は多い。けれど、保育園や幼稚園の設立を拒む人もまた多い。拒むことがいけないと言っているわけではありません。それは当然の権利です。しかし、自分の身の回りの環境を整えるために、子どもやその親を疎ましく思いながらも、子どもが傷を負うニュースに涙する矛盾に気がついていますか? 痛みを感じていますか? 自分が犯している罪の深さを、 もっと背負ってもいいのではないでしょうか。
痛みのない非難が、他者(ひと)を苦しめています。悪循環を作っているのですから、いつまでもこんなことが続くことは自明のことです。

今ある私
いつの時代も、人の苦しみ悲しみが消えることはありません。人が他者を傷つける報道を目にするとき、私たちは真偽も分からぬ情報や数少ない情報を元に犯人捜しに興味を示し、容疑者が捕まると、容疑者のみならずその身内の者にまでもバッシングを浴びせて溜飲を下げています。
犯した罪は、決して償いきれるものではありません。罪を犯した者は、たとえ刑期を終えたとしても、背負い続けねばならない責任があります。
しかし、物事にはそうなるに至った経緯や背景があります。罪を犯すことにしても、経緯や背景があります。経緯や背景が生まれるには、さまざまな縁が重なりあっています。私たち一人ひとりも、決して無縁ではありません。

親鸞聖人のことばです
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」(『歎異抄』)
「そうあるべき縁がもよおしたならば、どのような行いもしてしまう」という教えを学び、「私も、縁がもよおせば何をしでかしてしまうか分かりません」と言う人もいますが、そのセリフは、起こり得ない前提として語っているようにも聞こえます。「いくら縁がもよおしても、私はそんな酷いことはしません」と。
「さるべき業縁のもよおせば」とは、これから先のことを言っているのではなく、今ある私のことを語っています。誰もが、縁によって私として生を受け、縁によって今の私として生きています。虐待した親も、虐待に恐怖する子も、救えなかったと悔やむ人も、他者を責めるだけの人も。みんな同じです。

未来は、この瞬間の延長線上にある
「いつまでこんなことが続くのか」という歎きは、本当は「何とかしたい」という叫びだと感じます。
悲しみを縁として、「何とかしたい」という叫びが私のこころの奥底から噴き出してきました。私の気持ちをそのように変えさせたのは、人の世の悲しみです。それならば、私が変わることによって人の世の悲しみを変えることができるのかもしれません。などと考えるのですが・・・
お釈迦さまの教えの根本は「縁起の道理」。「あらゆるいのち・物事・事柄は、縁によってつながっている」という教え。自然にそのようになっているということ。つまり、自分の意志で世の中を、他人を、自分自身でさえも、どうこうできるものではないのです。
ないのですが、人が他者を傷つける事件が相次ぎ、その度に自分を抜きにした他者批判が渦巻く世の中で、このままではいけない!と感じています。 私は、縁というつながりの中を生きる一人。他人事なことなどなにひとつなく、すべて当事者なのですから。

6月23日「沖縄慰霊の日」。相良倫子さん(沖縄県浦添市立港川中学校3年生)が自作の、平和の詩「生きる」を朗読されました。その一部です。

 

私は、今を生きている。
 みんなと一緒に。
 そして、これからも生きていく。
 一日一日を大切に。
 平和を想って。平和を祈って。
 なぜなら、未来は、
 この瞬間の延長線上にあるからだ。
 つまり、未来は、今なんだ。

未来は、この瞬間の延長線上にある。つまり、未来は、今。
未来のことを想うなら、今なんだ!

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掲示板の人形
6月23日は沖縄慰霊の日。
6月25日~27日 沖縄へ行ってきました。シーサーの色に惹かれました。
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2018年6月15日 (金)

英雄の報酬

日も経って、いろいろな事件が起き、既に記憶の片隅に追いやられていることと思いますが、ベランダから落ちそうな幼児を救出した青年の話がありました。彼の勇気・行動力をたたる気持ちに違いはない。けれど、こころの片隅にモヤモヤが引っかかっていました。「なにか気持ち悪い。なにか間違っている。なにか彼に対してとても失礼なことが起きている。なにか・・・」。
そんなときに師岡さんのコラムを読んで、私のモヤモヤを表現している!と思いました。
気づかぬうちに(いや、気づいているのか?)上から目線で他者(ひと)を評価している私。
目に見えぬところ、評価されぬところで一生懸命に生きている人々のことに思いを馳せることなく、その人々のおかげで楽になっている暮らしを享受している私。
私は、落ちそうなときに、いのちがけで助けてもらえるような人間だろうか?

「本音のコラム」 師岡カリーマ(文筆家)

英雄の報酬

 パリ。4階のベランダからぶら下がって今にも落ちそうな幼児を見るなり、アフリカのマリから来た青年は身の危険を顧みず、超人的な身軽さで外壁をよじ登って幼児の救出に成功した。その様子を撮影した映像は瞬く間に拡散し、マクロン大統領の目に留った。
 英雄とたたえられた「不法移民」に大統領は早速面会。感謝の印として滞在許可と市民権のスピード取得が約束された。
 青年の勇気を私もたたえたい。本人の夢でもあっただろうから、褒美の市民権も祝福したい。でもなんだか複雑だ。フランス国籍はマリ国籍より格上と見なされる不条理が、祝福の拍手に埋もれてしまうからだ。これがカナダ人や日本人なら、仏国籍進呈の必要はない。自明のことだが、経済難民の立場の弱さをこうもあっけらかんと肯定されると、やはり哀しい。「お眼鏡にかなって光栄ですが、お気持ちだけ頂いておきます」とは彼も言えない格差社会の現実。「ぜひ消防士に」という断りにくい就職内定までついてきて、人々はよかったねと喝采する。
 彼の場合はたまたま見物客の撮った映像が人の目に触れた。でも世の中には、誰もやりたがらない仕事を黙々とこなし、誰も見ていないところで人助けもし、底辺で社会を支えていながら、その労働を買いたたかれ、感謝もされない移民が大勢いる。それを思うと、やりきれない。
〔2018年6月2日(土)「東京新聞」朝刊より〕

2018年6月 9日 (土)

阿弥陀さまの元で遇えるね^^

6月9日 前坊守(祖母)50回忌の命日。
家族で本堂でお勤め。娘(祖母からするとひ孫)も「正信偈」をお勤めしてくれました。
ジィジバァバ(住職 坊守)も一緒に食卓を囲み夕食。子どもたちの要望でピザhappy01
「美味しいheart04」と言いながら、小学校での出来事を楽しそうに話す娘たち。
有り難い時間をもらってるんだなぁと感じました。

祖母は、47歳で癌のため亡くなりました。
今、私は47歳。おばあちゃんは、この年で世を去ったんだなぁ。
子どもたちをおいて、この世を去る。やっぱつらいなぁ。ピザを頬張る娘たちを見ていて、感傷的になりました。おばあちゃんも、心残りいっぱいいっぱいあっただろうな。
おばあちゃんに還浄のときが近づいていたとき、長男(西蓮寺現住職)は大学を終えて寺にいました。もう二十歳を越えていたわけですが、子どもが幾つであろうと、「安心して逝ける」なんてことはないでしょうね。父もまたつらかっただろうなぁ。
病床の母の前で、父と母(住職と坊守)は簡単な式を挙げました。そういう面ではホッとしたことと思います。でも、おばあちゃんは孫を見ることも抱くこともなく亡くなりました。私はおばあちゃんに会うこと叶いませんでした。

今年の「西蓮寺永代経法要」は、前坊守の50回忌と、15世住職(現住職は18世)の100回忌も合わせてお勤めしました。前坊守のことを覚えていてくださる門徒さんもお参りくださり、思い出話を伺って、会うこと叶わなかったおばあちゃんに出遇うことができました。ご法事を通して、亡き人に出遇うんですね。

いのちあるものは、いつかいのち終えて往く。当り前のことだし、避けられないこと。でも、その当たり前のことに抗いながら生きるのが人間。

大学の後輩が語ってくれたことを思い出します。
「先輩、蟻って、水たまりの中に落っこちると、必死で泳ぐっていうかもがくじゃないですか。僕ね、あれって人間の姿だと思うんですよ。たとえ阿弥陀さんに守られていると信じたって、泰然自若としてられるのではなくて、もがくんですよ。ジタバタジタバタ。それが他力の中で自力を生きるってことだと思います。蟻を見てて思いました」

私もそう思います。
ジタバタジタバタしたなかで、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すのです。
お念仏申しながら、ジタバタジタバタ生ききるのです。

平均寿命が80歳とか90歳といったって、その前に亡くなる人も大勢いるわけで、年を重ねるほどに自分の身体の衰えを感じ、近しい人の大病や死の話が日常になってきます。50手前にして、よりリアルに生老病死の身を生きていることを感じています。

おばあちゃんの話をできた夕食でした。おばあちゃん、乾杯winewine

2018年6月 1日 (金)

2018年6月のことば

2018年6月のことば

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なむあみだぶつ
 人の世の悲しみは尽きないけれど
 阿弥陀の慈悲は常に私を照らす

なみだ
「涙が枯れ果てて」ということばを耳にし、こころに引っかかっています。
溢れんばかりの涙をこぼし、いつまでも止まらぬ涙に衣服を濡らす。やがて嗚咽の声も小さくなり、あんなに溢れていた涙も流れることをやめる。

涙をこぼしたのはいつだろう。
なぜあんなに泣いたのだろう。

くるしいとき  
つらいとき
くやしいとき  
いたいとき
さみしいとき  
かなしいとき

自分の想いを誰にも理解してもらえないとき
自分のしでかしたことの罪の重さに押しつぶされそうなとき
「うれし涙」ということばもあるけれど、うれしさが表出する奥底には、堪え忍んできた苦しみや、歯を食いしばるほどの努力がある。

辛苦の涙と
歓喜の涙があるわけではなくて、
涙の源は悲しみ

「涙が枯れ果てて」という表現が耳の底に残ったのは、枯れ果てた涙はもう こぼれないのかといえば、そうではないから。「もう流す涙もない」「体中の水分が抜けるくらい泣いた」と思うほど泣いた。それほど泣いたのに、またあるときふと涙がこぼれる。
涙をこぼす。「こぼす」を漢字で書くと「溢す」。「溢」は「あふれる」という意味。涙は、あふれ出ているんだ。あんなに泣いたのにまだ涙が溢れ出る。泣けるって、人間って凄いな。

涙は、枯れ果てることがない。なぜならば、起きた出来事、起こした事柄が、こころに刻み込まれているから。人の世の悲しみは、尽きることがないから。
ここまで書くと「泣けない自分は冷たい人間ですか?」という声も聞こえてきそうだけど、そうではありません。
涙を多く流したから悲しんでいて、流さないから悲しんでいないわけではなくて。涙をこらえさせる大きな堤防はなんだろう。意地・世間体・憎しみ・・・堤防の正体はいろいろだけど、こころ揺さぶられる出来事が私の身に起きていることは事実。溢れんばかりの涙を流すこともあれば、からだの中に涙をためることもある。 どちらにしても、枯れ果てることのない涙が、私の内と外とで波打っている。

あわれというも中々おろかなり
「友だちの死が悲しくて、いつまでも泣いていたら、ある人から「あなたが泣き続けていたら、亡くなった友だちが悲しむから、泣いてはいけないよ」と言われました。泣いてはいけませんか?」
と尋ねられたことがあります。
「泣いていいんですよ。どれだけ泣いたっていい。悲しいときは泣きましょう」と応えました。
本願寺8世蓮如上人(1415~1499)が書かれた「白骨の御文」に、身内の死に際し、尽きることのない悲しみが描かれています。

(原文)
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。

(現代語試訳)
今、無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、呼吸は永遠に途絶えてしまいます。血の通った顔もはかなく色あせ、桃や李(すもも)のような瑞々(みずみず)しい美しさも失われてしまいます。無常の風が吹いたその時、家族や親族が集まり歎き悲しんでも、元気な姿を再び見せることはありません。
いつまでも悲しんではいられないと、火葬し、夜中、火も燃え尽きて煙が立ち昇る頃には、後にはただ白骨が残るばかりであります。悲しいというだけでは言い尽くせません。

かけがえのない人との別れは、悲しいというだけでは言い尽くせません。枯れ果てることのない涙が流れるのは、いつの世も変わりありません。

無明を照らす涙(ともしび)
涙は、感情の表出。自分でも分からなかった自分が見えてきます。自身に何事も起らなければ、誰もが自分の気持ちさえ分からずに、真っ暗な無明の闇を生きています。闇の中にいることすら気づかないままに。涙は、無明の闇を照らす、ほんの小さな明かり。一滴(ひとしずく)の涙が、今まで見えなかったものを照らし出します。無明を歩いていた私のこと。人の世の尽きせぬ悲しみ。人の世の悲しみをすべて受け止め、  救わんと願われた阿弥陀の慈悲。
人の世の悲しみと阿弥陀の慈悲。 親鸞聖人のことばが響いてきます。

無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
     (「正像末和讃」)

(趣意)人の世の悲しみにこころ痛めています。けれど、出口の見えない暗闇だと立ち尽くすことはありません。阿弥陀の慈悲の船・筏(いかだ)が私を乗せて、人の世の悲しみという大海を渡らせてくださいます。

涙は、人間がつくるいちばん小さな海。
みんな海でつながっています。

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掲示板の人形
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2018年5月31日 (木)

心を動かされることから逃げるな!!

鈴愛(すずめ)、恋をしろ。

私がなぜお前を弟子にしたか分かるか? 楡野(鈴愛)は他の2人(のアシスタント)とは違う。山を駆け回っていた。そのリアルが重要だ。小宮やボクテとは違うんだ。あいつらの漫画の知識は深い。なぜだか分かるか?漫画ばかり読んだり描いたりしていたからだ。それではダメなんだ。
俺が「恋をしろ」と言うのは、そういうことだ。

リアルを拾うんだ。想像は負ける。
好きな奴がいたら、ガンガン会いに行け!
仕事なんか いつでもできる。
ベタなんか いつでも塗れる。
空想の世界で生きている奴は弱いんだ。
心を動かされることから逃げるな! そこには真実がある。

半端に生きるな。
創作物は人が試される。
その人がどれだけ痛みと向き合ったか、
憎しみと向き合ったか、
喜びを喜びとして受け止めたか・・・
逃げるな!

NHK 朝ドラ 「半分、青い。」 2018年5月30日放送分より
トヨエツ、いや、秋風羽織凄い!!
秋風先生のセリフに、かなり刺激を受けていますhappy01

2018年5月30日 (水)

到達することよりも出発すること、否、出発点に立っているという自覚

いろいろと経験して、習熟して、理解して、あるレベルに到達して・・・

ある意味本気で、ある地点に到達した私であることによって、人のためにあろうとしているのかもしれない

けれど、到達したところで、人に出会えない

人に出会えるのは、到達点ではなく、出発点

どこに進んでいいのか分からない

どこを目標とすればいいのか分からない

何から始めればいいのか分からない

分からないところから、共に(朋に)歩む一歩が始まる

2018年5月29日 (火)

意味を求めて、意味を見失う

生きる意味を求めて、
生きる意味を見失い、
迷いを深めている。
存在していることの前で、
意味が有るとか無いとか、
意味が無いのではないか。

2018年5月28日 (月)

群衆の中のひとり 個が集まって群衆

小学1年生の娘 
小学校の宿題は、ひらがなの練習。毎日1字か2字、20文字ほど書いてくること。

 あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ

 え え え え え え え え え え

 お お お お お お お お お お

 か か か か か か か か か か

 せ せ せ せ せ せ せ せ せ せ

 た た た た た た た た た た

 な な な な な な な な な な

 ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ ぬ

 の の の の の の の の の の

 め め め め め め め め め め

 ね ね ね ね ね ね ね ね ね ね

 れ れ れ れ れ れ れ れ れ れ

 わ わ わ わ わ わ わ わ わ わ

娘は毎日一生懸命宿題をやっている。上手に書けている。間違っていない。なのに、同じ字がたくさん並んでいて、○付けをしてあげていると、「あれ、この字あってる? うん、あってる あってる」と、なぜか不安になってくる。
試しに自分でも書いてみると、「あれ、この字あってる?」って不安になってくるから不思議。
お試しあれhappy01

似たもの同士の集団でも個々に個性はあるし、個性はあっても群衆の中では目立たなくなる。

2018年5月27日 (日)

口虚

ウソをつくと、ウソがウソを呼び、どんどん どんどん大きくなる。

ウソがどんどん大きくなると、関わる人間も増えてくる。

中には「このままでいいわけがない」「(ウソの言い出しっぺ)を困らせてやろう」などと考える人も出てくる(はずなんだけど・・・)。

人の口に戸は立てられない。数人を黙らせることはできたとしても、全員を黙らせることはできない(と、思うんだけど・・・)。

ウソをつくと、つかれた人も苦しいけれど、ついた本人こそ本当は一番苦しい(のになぁ・・・)。

ウソをつくと、自分でもそのうちウソだったんだか、ホントだったんだか訳が分からなくなることがある。

どれだけ塗り固めても、どれだけ優れたシナリオを書いても、どれだけ役者が揃っていたとしても、ウソは、ウソ。


口が虚しい。
口に虚しい。
口も虚しい。

2018年5月 8日 (火)

お育てをいただきました。ありがとうございます

2018年5月2日 絵本作家の かこさとし さんが亡くなられました(92歳)。
私が小さい頃は「だるまちゃん」シリーズをよく読んでいました。
娘たちは『からすのパンやさん』がお気に入りで、どれだけ読み聞かせしたことでしょう。
かわいい絵とストーリーの絵本だけでなく、風景を描いた緻密な絵も引き込まれました(絵巻仕立ての「かわ」は、見ていてワクワクします)。

2018年4月5日には高畑勲監督が亡くなられています(82歳)。
私の中での高畑勲監督作品といえば『火垂るの墓』です。
4月13日に追悼として放送されました。翌日までに仕上げなければならない仕事があったのですが、放送を見てしまいました。涙をポロポロこぼしながら。何度見ても、ストーリーに、節子の声に、ドロップの缶に涙腺が緩んでしまいます。
娘たちは、『平成狸合戦ぽんぽこ』が好きで、録画したものを何度も何度も見ています。つい、「また見てるの!」と言ってしまいますが、今度見ていたら、「どこが好き?」と聞いてみたいと思います。
長女が小さいときのヘビーローテーションは『パンダコパンダ』。ルパンの声の山田康雄さんがパンダコパンダ2作品ともに出ていて、懐かしいのと、ルパン以外の声もやってたんだ!(当然ですが)という驚きと、記憶に残る作品です。

自分自身の幼い時の思い出の一端と、そして子どもたちと一緒に楽しんだ作品を生み出してくださった方が亡くなられ、淋しいです。
けれど、子どもたちの元気な声が聞こえたときに周りの者をも元気にさせるエネルギー。そのエネルギーの根っこに、かこさとしさん 高畑勲さん の、子どもたちへの愛情が流れ続けることでしょう。
小さな人たちを敬う方々の姿に、私もお育ていただきました。

2018年5月 1日 (火)

2018年5月のことば

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人類は、生類の一部であるとき、はじめて人類たり得る。

生と死
かつて、ある場所で法話をした後の座談会での話。
「衛生状態の悪い国の人って、子どもをたくさん産むじゃないですか。どうしてあんなに産むんでしょう。産むべきでないと思うんだけど」と、語る人がいました。
私の法話に対しての感想・意見ではなかったので、私がその尋ねに応えることはしませんでした。けれど、私はこころの中で思いました。「それは、生きているからです」と。
帰宅して、座談会での声を妻に話すと、妻は「それは、死ぬからだよ」と話してくれました。同じことを考えているなぁと思いました。「生きているから」と「死ぬから」。表現は反対ですが、言わんとしていることは同じです。
衛生状態の悪い国は、政治状況や治安も良くはないことでしょう。そのような環境は、子どもを産み、育てるには適していないと、座談会で語られた方は考えたのでしょう。そんな気持ちも、分からなくはありません。しかし、いのちあるものは、子孫を残すことを第一に考えます。「考えます」という表現もおかしいですね。考えるまでもなく、計算するまでもなく、いのちとして、我がいのちを懸けて子孫を残します。そういう意味において、私は「生きているから」と思いました。
環境が落ち着いた場においては、死は非日常としてしか映りません。しかし、環境の良くない場では、死は日常です。いのちが、次から次へと絶えてゆく。死が日常にあるからこそ、子孫を残すことに必死になります。生類として当然必然の営みです。おそらく、そういう意味において妻は「死ぬから」と言ったのだと受け止めています。
しかし、「人間は、最も優れた生物である」とか「人間は、万物の長である」などという考え方に立ってしまうと、「子孫を残すために生まれてきたわけではないだろう」とか「より大切な使命があって生まれてきたはずだ」などと思い、「生類の一部である」ことを忘れてしまうことでしょう。そのことは結局、いのちの否定、人類の否定につながるのですが。

石牟礼道子さん
今月のことばは、今年2月10日に亡くなられた石牟礼道子さんと交流のあった若松英輔さんが、彼女の綴ったことばを受けて表現されたものです。若松さんの文章は続きます。
「しかし、人類は、いつしか生類とのつながりを自らの手で断ち切ったのではないか。」と。
 (参考「週刊金曜日」1178号 2018年3月30日発行)
石牟礼道子さんは、人間の極限的惨苦を描破した『苦海浄土』で水俣病を告発し、豊穣な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説の主題にすえておられました。
阿弥陀さまの浄土へ還られた彼女の眼を通すと、近代社会の人類は、生類とは切り離されてある。いや、生類から自ら切り離してあろうとした人類が、行く場を見失って放浪しているように見えていたのかもしれません。人類は、すでに人類たり得なくなっている、と。

反対言語=同義語
さて、「生きているから」と「死ぬから」は、表現は反対だけれど、言いたいことは同じであると書きました。その妻との会話のおかげで、「反対の意味の言葉は、同義である」という感得がありました。

たとえば「生」と「死」。
法話で、「生と死は、切り離して考えられる事柄ではありません。死を忌み嫌いながら生活していますが、生があっての死であり、死があってこその生です」などと話すのですが、そう言っていることが、「生」と「死」を違う事柄と認識して語っているように思いました。
懸命に生きることができる背景には死があり、死んで終わりではなく、死して後も、私として生きた瞬間(いのち)は、次のいのちとして生き続ける。
「生」と「死」は、見え方はまったく違うけれど、それは見る角度の違いなだけで、いのちの姿として違いなどありません。

たとえば「ありがとう」と「あたりまえ」。
法話における問いかけで、「“ありがとう”の反対は何だと思いますか?」という問いがあります。答えは「あたりまえ」です。
「ありがとう」は、「有り難う」と書きます。有ることが難い良い出来事が我が身に起きた。だから「ありがとう」と感謝の気持ちが湧いてきます。一方、「あたりまえ」は日常です。あって当然です。「あたりまえ」という気持ちに「ありがとう」という感謝は芽生えません。それゆえに、「ありがとう」の反対は「あたりまえ」なのです。
誰かのためを思ってしたことに「ありがとう」の一言がないとムッとしますよね(お礼を言ってもらうために為したわけではないのだけれど)。相手にしてみれば、「あたりまえ」なだけです。逆に、「ありがとう」を言われたとき、「え、あたりまえのことをしただけなんだけど」と、ビックリしたことはありませんか? それらを思い返してみると、「ありがとう」と「あたりまえ」は、決して反対の事柄というわけではなく、人によって表現が変わっているだけなのです。
食事を共にする家族。食事できることを「あたりまえ」のことと思っているけれど、食事の1回1回が「ありがたい」出来事です。悲しいかな、そのことに気づくのは、失ってから。「あたりまえ」が崩れたとき、「ありがとう」も一緒に崩れます。「ありがとう」も「あたりまえ」も同義です。
「あたりまえ」のそのときに、「ありがとう」を忘れずに!

「人類」と「生類」も、そもそも同義です。それなのに、いつの頃からか反対言語としてしまった。それゆえに、生類と切り離してあろうとした人類は、人類たり得なくなってしまいました。

セクハラやパワハラのニュースが、現代社会の様相をあぶり出しています。ハラスメントは、自分の優位性を保ちたいがために、他者を見下し、貶める行為です。性別や生まれや信仰する宗教等々、他者の尊厳を、自分には相容れないものとして考えています。つまり、他者を自分とは「反対言語」として捉えているのです。そのことは、自分自身の尊厳を自ら傷つけることになります。
他者と自分(私)を、「反対言語」ではなく「同義」として頷く。

私は、
他者と共にある中での一人であるとき、
はじめて私たり得る。

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掲示板の人形
Dsc_0764
右は、昨夏 長崎のガラス細工屋さんで買ったステンドグラス製の「カブト」です。やっと飾るときがきましたhappy01
左は、「鯉に乗る少年」の陶磁器です。

«いつも ここにある いのち

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