2022年5月 9日 (月)

人の為と書いたら、偽りという字になりました

一人ではどうにもならん事でもさ
誰かと一緒にがんばれば
クリアできる問題って けっこうあるんだ

そうやって力をかりたら
次は相手が困っている時
お前が力をかしてやればいい

世界って そうやって まわってるんだ

あのな 大事な事だぞ? いいか?
一人じゃどうにならなくなったら
誰かに頼れ

 ーーーでないと実は
     誰もお前にも頼れないんだ

『3月のライオン』(著者 羽海野チカ)より

羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』『3月のライオン』は、時折読み返したくなる。
久しぶりに波が来て、ただいま読み返し中(『3月のライオン』はまだ連載中)。
現在(いま)は、この言葉が響いてきた…

その時の境遇、心境、体調などで、響いてくる言葉は変わる。
生きてるってことなんだろうなぁ…

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2022年5月 2日 (月)

2022年5月のことば

2022年5月を迎えました。
涼しいゴールデンウイーク期間を迎えています。一時 暑かっただけに、余計に寒さを感じます。体調整えてお過ごしください。
なんて言いながら、体調整えるには睡眠が大事と思うのですが、眠れぬ夜を過ごしてもいます。本を読んだりテレビを見たり、ひとりの時間を楽しみたくて。でも、以前は夜な夜なパソコンに向かって仕事をしていましたが、最近は極力控えています。寝る前にパソコンやスマホは見ないようにしています(テレビも控えた方がいいのかな?)。
つまり、おからだご自愛ください(-人-)

 🎏 🎏 🎏

2022年5月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら
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どうして、
さんずい に 争(あらそ)う と書いて
なんだろう?

「浄」の成り立ち

「浄土」「浄財」「清浄」「浄化」など、「浄」という漢字は、澄み切った様子、穢れのない様子を表わしています。けれど「浄」は、「さんずい」と「争う」で象(かたど)られています。成り立ちと意味とが噛み合っていないようにも感じます。あなたは、どう思いますか?

混沌(こんとん)

ロシアのウクライナへの侵攻が、一刻も早く終結することを願っています。そのうえで、この侵攻の報道を見ながら、平和を希求する側面と、争いで物事を解決しようとする側面とを持つ人間の混沌とした姿に、複雑な感情が湧いています。

たとえば、侵攻している側を責める言論。ロシアのウクライナ侵攻に対し、なぜ、今、これほどまでに過熱しているのか。ここに至るまで、香港への、台湾への、ミャンマーへの、ウイグル自治区への圧政や蹂躙(じゅうりん)が報じられても、今回のロシアへの非難ほどに熱を帯びることはありませんでした。何が違うというのだろう。今回は何がここまで突き動かしているのだろう。

たとえば、他者(ひと)の命を奪う行為への非難。非難があって当然だけれど、忘れてはならないことを抜かしてはいないか。かつての大戦で、人類は同様の行為を犯し、犯されてきた。実際に自分の手を血で染めたわけではなくても、今、私が、ここに生きている背景には、人類がしてきた行為や歴史がある。そのことを顧みる(省みる)ことなく、平和を語ってはいないだろうか。

たとえば、停戦を呼び掛けながらも、ウクライナへの武器・兵器の供給も行われている。ウクライナの人びとを守るためという大義名分もあるけれど、戦争は、やはり経済なのだとあらためて感じている。今頃、ウハウハした気分になっている人もいるのだろう。

他者を非難するとき、自分の行いや考えを顧みる(省みる)ことはない。

自己を正当化するとき、他者の言い分に耳を傾けることはない。

戦争と平和は、反対の概念ではなく、ひとつの循環のなかにある。

ひとたび戦争が起これば、私は、それまで言っていたことを、いとも簡単に翻すことだろう。平和を、安定を、秩序を大切だと訴えてきた私が、平和や安定や秩序をかろうじて守ってきたルールの否定を叫び始めるだろう。

戦争は、私を別人にしてしまう。いや、別人になるのではない。元々いた私が、今までとは違う形で表れるだけであって、私であることに変わりはない。そういうことをまるっきりすっ飛ばして他者を責める。私も罪を犯しているという懺悔と共にある叫びが、聞こえることはない。

「浄」のなかの「争」は私を表わす

さて、「浄」という漢字は、澄み切った様子、穢れのない様子を表わしています、と書きました。けれど、考えるべきことがあります。

あるもの、ある事柄を「浄(きよ)い」「清い」「きれい」などと表現するとき、どうして「浄い」「清い」「きれい」と言えるのでしょう? それだけしかない状況では、きれいという感情や感覚は湧いてきません。私は、比較によって物事を形容しています。いろいろなものを見て、知って、感じて、浄いとか濁っているとか認識します。
人間の視点では、比較することによって優劣・清濁・好醜など、区別・分類・差別をし、自分にとって都合の良いものを選び取ります。そんな私もまた、比較される対象でもあるのですが。
しかし、阿弥陀如来の眼は、比較することはありません。すべての生きとし生けるものが救いの対象です。区別や救いの順序は生じません。浄土、清浄なる世界とは、阿弥陀において表現されることであり、人間が形容するものではありません。

「南無阿弥陀仏と念仏申す者は、阿弥陀の浄土に摂め取られる」と説かれる教え。人間のイメージでは、浄土は浄い場所として捉えられているかもしれません。すると、浄土に摂め取られる私もまた、浄いものとなる想像がなされているのではないでしょうか。
いや、私のなかにある争いのこころ、濁ったこころは、捨てきれるものではありません。現在(いま)、世界(世間)で起きている出来事を見ていると、混沌とした私の姿が浮かび上がってきます。「浄」のなかの「争」は、まるで 私の姿を表しているかのようです。浄くなって救われるのではない。自分の姿を見失うなよと、教えから呼びかけられています。

紛(まが)いの美しさ

吉野弘さん(19262014)の詩です。

流れる水は
いつでも自分と争っている。
それが浄化のダイナミクス。

溜り水の透明は
沈殿物の上澄み、紛いの清浄。
河をせきとめたダム
その水は澄んで死ぬ。
ダムの安逸から放たれてくる水は
土地を肥やす力がないと
農に携わる人々が嘆くそうな

一見きれいに見えるものも、その美しさは紛(まが)いもの。澄んで透明に見える溜水も、その奥底には沈殿物がある。せきとめられた空間に貯められた水は、澄んではいても死んでいる状態。
「浄」とは、決して浄く穢れのない姿を言うのではなく、清濁合わせ持つ姿をいう。生きていれば、他者とのせめぎ合いや自分の中での葛藤もある。それはつらく悲しいことでもあるけれど、流れている、動いている、生きていることの証。紛いものではない私の姿。
「いつでも自分と争っている」。それが、私が生きてある姿。清濁合わせ持つ私が、阿弥陀如来と共にあります。南無阿弥陀仏

 🎏 🎏 🎏

掲示板の人形
5月は毎年 鯉のガラス細工 昨年と同じような配置をしてしまいました😄


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2022年4月29日 (金)

西蓮寺永代経法要2022

2022年4月29日(金) 西蓮寺永代経法要をお勤めしました。
今永代経法要計画初期、10~15名ほど限定でお寺にお参りいただく形を考えいましたが、結局 Zoom配信のみにいたしました。
Zoom参拝いただきました皆様、ありがとうございます。

【法要】
住職 副住職(私) 娘の3人でお勤めしました。
娘の裳付(白い衣)、新調しました(^-^)
私は前日からの顎関節症で大きな声が出ませんでした。
住職はまだまだ声が出るので、安心して身を置いていました。さすが合唱団にいた人は違うなぁと思いました。
娘も声が通るので、参拝いただいた門徒さんも「いい声ですね」と喜んでいらっしゃいました。

【法話】
法要の最後に住職が「安心の一義」の御文(5-9)を拝読したので、そのお話を。
「当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。」
いろいろとお話をしても、このことに尽きるんだなぁと思いながらお話ししていました。
あなかしこ あなかしこ(-人-)

ゴールデンウイークに突入する季節にも拘わらす、雨も降って肌寒い一日でした。
皆様、体調整えながらお過ごしください。

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2022年4月 8日 (金)

4月8日花まつり 降誕会(ごうたんえ)

2022年4月8日(金) 午前10時より 西蓮寺本堂にて「花まつり」法要をお勤め致しました。
3年続けて烏山仏教会「花まつり」はお休みとなりましたが、各寺院にて法要をお勤めしています。

お誕生日の法要を勤めさせていただきました(-人-) 南無阿弥陀仏

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2022年4月 7日 (木)

宝物

おひな、そなたが鍛錬し、培い、身につけたものはそなたのもの。一生の宝となるもの。されどその宝は、分かち与えるほどに輝きが増すものと心得よ。
伴 虚無蔵(松重 豊)
(NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」2022年4月6日(水)放送より)

2022年4月 1日 (金)

2022年4月のことば

2022年4月を迎えました。
桜を仰ぎ見る頃となりましたが、日が暮れ始めてからの寒さは、まだ厳しいものがあります。
体調を崩しやすい時期ですので、皆様お気を付けください👋

新年度のスタートですね。
小学校の、お世話になった先生方が異動されて、ちょっとショックを味わっています。
仕方のないこととはいえ、新しいスタートの季節は、共にお別れの季節でもあることを実感しています。
先生、お世話になりました。ありがとうございます。新天地でもお元気で (^-^)

 🌸 🌸 🌸

2022年4月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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たとえ朝咲いて夜散る花であっても
その中には無限のいのちがある
   金子大榮1881年~1976年 真宗大谷派僧侶)

生まれ、生きるということ

長引くコロナと共にある生活。2年前の春彼岸、少しでも雰囲気が明るくなればと、風船をいくつもふくらませて境内に飾りました。
あれから早や2年。コロナを気にかけながらの生活に変わりはないものの、その内容は様変わりしました。得体の知れない新型ウイルスに戦々恐々していたときと比べると、精神的・肉体的負担は下がってきたのではないでしょうか。安心できる状況になったというわけではありませんが。
この2年ほど、何も進展がないようでいて、それぞれの生命(いのち)は、さまざまな事柄は、動き続けています。
境内の花々は、芽吹き、花を咲かせています。芝生に自生する水仙は、往来する人びとに踏まれてしまうのですが、それでも毎年草が生え、花を咲かせています。沈丁花(ジンチョウゲ)や満天星躑躅(ドウダンツツジ)は、春彼岸の参道に芳香を漂わせていました。4月末の永代経法要の頃に黄色い花を咲かす牡丹(ボタン)は、蕾をつけ始めました。
山門を入って正面にある松、柘植や梅などの木々は、植木屋さんが手入れに入る度に支えの棒が増えていきます。幹に手を触れると、その老いが伝わってきます。
成長という名の老い、老いという名の成長を続けているのは、植物だけでなく、人も、あらゆる生命も同様です。たとえ行動が抑制されてはいても、生命の営みは休むことがありません。生命の誕生と終焉は、コロナ禍であろうと懸命に尽くされています。

朝、夢や希望に満ち溢れていても、その日の夕刻には白骨となることもある。そのような生命を、私は生きています。しかし、生命を終えていったからといって、いのちが終わるわけではありません。無限のいのちを生きています。とはいっても、種を残し、また次の生命へとつながっていく。そういう意味での無限性ではありません。私自身は有限な生命を生きているのですが、そこに無限なるいのち、つまり阿弥陀如来が共にあります。
有限なものが有限なだけであったならば、諸行無常の辛さ悲しさが重く圧し掛かるだけです。人と生まれたことの意味は、悲しみに圧し潰されるだけであるはずがありません。無限なるものの支え(阿弥陀の慈悲)があるからこそ、有限なるものが、悲しみに圧し潰されるのではなく、悲喜こもごもの人生を生きていく力となるのです。
有限な私が立脚できる大地として無限のいのちがあります。無限のいのちと出遇うために、私は、人として生まれてきました。

私には、還るところがある

無限のいのちについて想うとき、親鸞聖人のご和讃を思い起こします。

名号不思議(みょうごう・ふしぎ)の海水
 逆(ぎゃくほう)の死骸(しがい)もとどまらず
 衆(しゅあく)の万川(ばんせん)帰しぬれば
 功のうしおに一味なり

十方無碍光(じんじっぽうむげこう)の
 大悲大願海水
 煩衆流(しゅりゅう)帰しぬれば
 智(ちえ)のうしおに一味なり
        (親鸞聖人曇鸞和讃」)

ふたつの和讃の主意を汲み取り、このように試訳しました。
「どんなに濁った川も海に流れ出れば、清浄なる海とひとつとなります。同じように、阿弥陀如来を信じず、教えを謗(そし)り、煩悩で濁りきっている私でさえも、阿弥陀如来の、衆生をすくいたいと願う、海のように大きく深い慈悲のこころに摂(おさ)め取られて一味となります。」

ふたつの和讃に「一味」と出てきます。阿弥陀如来に摂め取られる、つまり、阿弥陀如来と共なる世界を生きる身となるという味わいが「一味」という語にはあります。
「一味」ということは、すべてが溶け合い混ざり合って阿弥陀と共なるひとつのいのちとなるということです。それは、死んで後の話ではなく、今現に、という話です。有限な私と無限の阿弥陀が一味となっているのです。

両方の和讃に「うしお(海)に一味なり」と書かれています。海の風景や姿は、親鸞聖人の思想に大きな影響を与えました。
海は、常に穏やかな状態であるわけではありません。波の形をとり、浜辺で人々の足元をくすぐる柔らかな波となるときもあれば、あらゆる建造物 あらゆる生命 あらゆる思い出を呑み込む大波となることもあります。穏やかなときもあれば、恐ろしい勢いを示すときもある。そして、どのような姿を見せたとしても、波は、元の海へと還ってゆきます。
そんな波に、人間の姿が重なります。人もまた、物静かな一面もあれば、怒り、威嚇し、相手を征服しようとする大きな波となって現われる一面もあります。
静かな波(人)もあれば、恐ろしい波(人)もある…のではなく、ときに物静かに、ときに荒れ狂う、一人の人間のなかにある姿です。そんな波(私)を摂め取ってくれる海(阿弥陀)がある。
たとえ朝咲いて夜には散るいのちであっても、たとえどのような姿形をとるかわからぬ私であっても、その中には無限のいのちがあります。

南無阿弥陀仏

 🐶 🦊 🐶 

掲示板の人形
イヌの人形2匹と、子どもの作ったキツネ(粘土細工)を飾りました。
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2022年3月24日 (木)

春彼岸2022⑦

2022年3月24日(木)
春のお彼岸最終日
お彼岸中は、朝6時から夕6時まで実働して、夕飯の後は事務仕事。お彼岸ウィークは興奮状態にあるためか疲れはしないけれど、朝の掃除中に漂う芳しい香りに、こころもからだもホッとしているのがわかります。
沈丁花(ジンチョウゲ)が咲いています。
満天星躑躅(ドウダンツツジ)がかわいらしい姿を見せています。
4月末の永代経の頃に花咲かす牡丹(ボタン)の蕾も出てきました。
寒い寒い言ってたけど、陽射しの温もりが有り難く感じられるようになってきました。
お彼岸のお参り、ありがとうございます(-人-)

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2022年3月23日 (水)

春彼岸2022⑥

2022年3月23日(水)
雨雪も上がり晴れたとはいえ、寒さの続く23日。
今日お参りにみえた方々も、「寒いですね」と口にされます。ようこそお参りくださいました。
一昨日(21日)に投稿した“水仙”の花が咲きました。
春の花々は、冬の寒さを経て花開きます。
この寒さの先に、花開く日々が訪れますように。南無阿弥陀仏(-人-)

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2022年3月22日 (火)

春彼岸2022⑤

2022年3月22日(火)
雨の降る寒い一日。日中、雪も降りだしました⛄
桜も咲き始めているのに珍しい!とも思いはしますが、ほんの4年前の春彼岸中にも雪が降り、積もりました。当時、子どもたちは雪だるまを作って遊んでいました。
この寒さで、東京電力管内では、電力不足の恐れが!とのこと。玄関の6畳間で、電池で点火できる灯油ストーブをつけて過ごしていました。本日お墓参りにみえた皆さま、ご苦労様でした。お風邪召しませんように。
春彼岸は、暖かい時期というよりは、気候の不順な時期。体調管理を万全に👋

Dsc_7615雪が映ってませんね (^∀^)

2022年3月21日 (月)

春彼岸2022④

2022年3月21日(月)
境内の芝生に、毎年この時期に水仙が咲きます。
とはいっても、葉が出てくるだけで、花まで咲かすことは滅多にないのですが、今年は蕾が出てきました。
いつも水仙は踏まれてしまうので、ガーデニングの柵を買ってきて、囲ってあげました。
お参りにみえた方が、「これは何だろう?」とのぞき込んで行かれます。
今年は踏まれずに済み、そろそろ花が咲きそうです。

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2022年3月20日 (日)

春彼岸2022③

2022年3月20日(日)
開業医をされている門徒さんがお参りにみえました。昨日は、一日かけて100人ほどの人に新型コロナワクチン接種をされていたとのこと。
その後、運送業をされている方がみえました。今日の午前2時まで配達をされていたとのこと。
おふたりとも、お顔にお疲れの色が出ていました。でも、お参りの時間は大事なんですと、お寺までお出かけくださいました。
日々お勤め(お努め)の方々がいらっしゃるおかげで、私たちの日常が保たれていることを想います。多謝(-人-)

「お花を入荷したので差し上げます。どうぞお使いください」と、瑞々しいお花をいただきました。玄関に飾らせていただいています。ありがとうございます。

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2022年3月19日 (土)

春彼岸2022②

2022年3月19日(土)
毎年、お彼岸に手作りの牡丹餅(おはぎ)をお持ちくださるおばあちゃんがいらっしゃいます。
お彼岸中は ゆっくりお昼を食べている時間もないので、時間を見つけては家族で順番にお昼をいただいています。
牡丹餅をいただいた日は、お昼が待ち遠しいのです。今日は2個いただきました。ありがとうございます(-人-)

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2022年3月18日 (金)

春彼岸2022①

2022年3月18日(金) 春のお彼岸入りの日
桜の木の枝をいただきました。毎年ありがとうございます。
他のお花と一緒に生けて、玄関に飾っています。

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2022年3月15日 (火)

人に会い 人を知りなさい それは自分を知る旅だよ (再掲)

 

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人に会い
人を知りなさい
それは自分を知る旅だよ
   『ミステリと言う勿(なか)れ』

縁起の道理(えんぎのどうり)

お釈迦さまは、「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆる物事は、縁によって生じ、縁によって滅す」と。

人も私も誰もが、縁によって生じ、縁によって人や事柄に出会い、縁によって阿弥陀の浄土へと還って往きます。

縁によってつながる私たちです。お互いに影響し合いながら生きています。人と自分とは、決して分断されているわけではありません。

「人に会い 人を知る」とは、個々の人柄や思想、生まれ育ってきた背景を知るということではなく、「人に会いながら生きている自分」であることを知ることだと思います。

「人に会いながら生きている自分」は、今までに無数の人に会い、育てられてきました。実際に会ったことがある人だけではありません。会わずに一生を終えるであろう人びとと共に生きています。私が口にする食べものを、私が身に着けている衣類を、作っている人がいます。自分を知るということは、多くの人との関係が結ばれながら生きている、そのことを知ることです。

「縁起の道理」を生きている私です。人を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは人を知ることです。

愚禿釋親鸞(ぐとく しゃく しんらん)

「自分を知る旅」という言葉から、親鸞聖人を想いました。

聖人は自らを「愚禿親鸞」あるいは「愚禿釋親鸞」と名告(なの)りました。
「愚」は「愚か」。
「禿」は「道を求める心もないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶」を意味します。
そのような「愚禿」の名告りには、どのような意味(想い)があるのでしょう。

聖人は、念仏の弾圧を受け、遠流に処されます(「承元の法難」)。僧籍をはく奪され、京の都から越後へと流されました。

流罪の地 越後へ渡る際、聖人を乗せた船の船頭に会います。板一枚下は地獄、つまり、日本海の荒波に呑み込まれればたちまちに命を失う仕事を生業(なりわい)としています。
越後の地は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。そのような地で、懸命に生きる人びととも出会いました。

船頭や越後の人びととの出会いを縁として「この人たちがいなければ、私はいない」という気づきがありました。

聖人は、人間は それぞれの思いはからいで生きるものではなく、縁によって生きるものであることを、遠流に処されることによって実際体験しました。

自身の懸命な修行によってさとりをえようと考えていた独善的な歩みが打ち砕かれ、人と共に生き、阿弥陀と共にある自分であったという気づき、懺悔と讃嘆(反省と感謝)の目覚めが、「愚禿釋親鸞」の名告りとなりました。

不安や混沌(こんとん)

ここ数年、自分の考えや思想のみをより所にし、自分の理解の許容範囲外の人びとを排除する行為が目に余るようになってきました。

悲しみの色合いが濃くなっているように感じます。

つながりを大切にする思いもあれば、少数者・弱者を排除する思いもあります。あたかもそれぞれの人がいるかのように考えてしまいますが、つながりを大切にする者と排除を思想する者、それぞれの人がいるわけではありません。あい反する両方の顔を、誰もが持ち合わせています。

平和を希求しながらも争いが生み出され、排除を思想する者どうしの絆が生まれる。「不安や混沌に覆われた世の中」などと、現代社会の様相をまるで外の景色のように語るけれど、その景色を描いているのは私自身でした。

私の外の景色の、悲しみの色合いが色濃くなってきたのではありません。

私(個)の想いを世界中に表現・拡散しやすくなった世の中にあって、個と個の想いが入り混じりやすくなりました。

その色は、決して心落ち着く穏やかな色ばかりではありません。

そうなるのは、元の個の心根の色が濁っているからではありません。

平和を求める心や、自分が是とする者が集まれば理想的な世界になると想像する心。

その心は、安心を求める心でしょう。

けれど、平和を希求して争いが起こり、理想的な世界を作ろうとして排除が起こる。

個の心根は、決して濁っているわけではない。けれど、個と個が出会って混ざり合えば、必然色は濃く濁ってゆく。

この濁りは、人類通じてのいのちの濁り。

濁りの中にいると、私自身が濁りを作っているということに気づきません。

その気付きを与えてくれるのが、仏教の視座、阿弥陀の眼差し。

阿弥陀の眼差しを、私自身の濁りを知るために、仏法聴聞するのです。

南無阿弥陀仏

 ☆

今日のことばは、田村由美さんが描くミステリー漫画『ミステリと言う勿れ』からの引用です。
主人公の久能整(くのう・ととのう)君は、他人に干渉されることが苦手な大学生。自分のペースで過ごしたいのに、事件に巻き込まれていきます。持ち前の記憶力や観察眼で、目の前で起きている物事の本質を見抜き、事件を解決していきます。
掲示したことばは、整君が大学の先生からかけられたことばです(7巻参照)。誰にでも通じる言葉であると感じました。

(追記)
昨晩、ドラマ「ミステリと言う勿れ」を見ていたら、このセリフが出てきました。
ドラマを見ながら、あらためて「そうだなぁ」と思い、再掲してみました。

2022年3月14日 (月)

暑くなりました

今日(2022年3月14日)は、気温20℃を超える暖かさ。子どもたちにとっては暑い日かも。

窓を開けようにも、花粉症持ちにとってはそれほど大きくは開けられず、空気清浄機に頑張ってもらっています。

春彼岸を前にして、植木屋さんが剪定作業に入ってくださいました。

今日、ひと通りの作業を終えられました。

先週は冷たい雨の中を作業していただき、そうかと思えば今日は20℃超え。

体調管理の難しいなか、ありがとうございます。

植木屋さんに限らず、外でお仕事をされる方のご苦労を想います。

ありがとうございます。

桜の季節の頃ですね。天気も不安定のようです。

お身体ご慈愛のほどを(-人-)

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高知県在住の友人が送信してくれました。ありがとう(^-^)

2022年3月11日 (金)

2022年3月11日

2022年3月11日 東日本大震災から11年目を迎えました。
今日の午前中、地域の小学校の3年生がお寺を訪ねてくれました。自分たちの地域を知ろうという「地域探検」の一環で、西蓮寺に来てくれました。
西蓮寺がある世田谷区北烏山の地には26ヵ寺のお寺があります。先ずは子どもたちに、「どうして こんなにお寺がいっぱいあるか知ってますか?」と尋ねました。すると、何人かの子が「関東大震災!」と口に出してくれました。
はい、烏山寺町は、都内各地にあったお寺が、それぞれ関東大震災によって被災して、見渡す限り田畑であった烏山、つまり被害の少なかった烏山に移転してきたのです。
西蓮寺は、三田(慶応大学近く)から移ってきましたが、震災で被災したためではなく、震災後の区画整理・道路整理のため、現在地に移ってきました(ラーメン二郎の前の道路辺りは、西蓮寺があった所です)。そのため、烏山寺町の他のお寺より10年ほど遅れての烏山入りでした。

それから、「今日は何の日か知ってる?」と尋ねると、「東日本大震災!」と応えてくれました。
小学3年生、10歳くらいです。つまり、東日本大震災の揺れを体感していないし、津波の映像をリアルタイムで見ていない人たちです。それでも、「3月11日は、何が起きたか知っていますか?」と問えば、「東日本大震災」とすぐに出てくる。お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんの会話で知ったり、テレビやネットを見て、情報を身につけているのだと思います。そして、大変なことが起きたときなんだということは認識してくれています。

昨日、3月10日は「東京大空襲」があった日です。77年の時を経ています。
51歳の私は、そのときを知りません、空襲の恐ろしさをリアルタイムで体感していません。けれど、大変なことが起きたということ、つらい思いをした人びとがいるということ、そういうことは知っています。
それは、語り継いできてくださった方々がいるおかげです。

「関東大震災」「東日本大震災」「東京大空襲」・・・時を経て、その記憶は薄れていく。リアルタイムでは体験していない人びとが増えていく。それは当然のことですが、忘れてはならないこと、語り継いでいかねばならないことを、先往く方は言葉で、姿で遺していってくださいました。そのおかげで、私たちは起きた出来事の悲惨さ、大変さ、悲しさ、淋しさに触れ、知り、感じ、自分たちに出来ることを模索して、更に次の人びとに語り継いでいかねば!と、気持ちを奮い立たせていきます。
語り継がれてきても“戦争”の道を選ぶ人がいることは「人間の悲しさ」であると今現在感じていますが、それでも「ダメなことはダメ!」と語り継いでいくべきときです。

小学3年生の姿から、語り継がれてきたものは、受け止め続けられてきたものであることを感じました。
みんな、ありがとうございます(-人-)

(今日のお話し、法話YouTube版はこちら

2022年3月 1日 (火)

2022年3月のことば

2022年3月を迎えました。
護持会費をお預かりしている西蓮寺ご門徒の皆さま宛てに「西蓮寺だより2022」と「ことば こころのはな(西蓮寺寺報 2022年2月号)」を発送いたしました。到着まで今しばらくお待ちください。春のお彼岸のお参りもお待ちしています。

「郵便物の発送」といえば、昨年(2021年)10月から、土曜日の配達がなくなりました。また、配達日数もかかるようになり、都内への発送も翌日には届かなくなりました。「木曜日の午前中に出せば、金曜日中に届くだろう」とたかをくくって出した郵便物が翌週月曜日に届きました。これからは早め早めに投函することをおすすめします。また、翌日に確実に届けたい郵便物はレターパックが重宝しています。370円かかりますが、厚紙で中身も折れないし、九州・東北の親戚に出した際も翌日に届きました。
今までを思い返してみるに、日曜・祝日以外毎日郵便が配達され、しかもかなりの範囲で翌日に届く。どんなに有り難いことか、配達に携わる方にどんなにご苦労をおかけしていたことか。感謝です(‐人‐)
そんなことを思った3月の始まりです。

 💌 💌 💌

2022年3月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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その人を失った悲しみの深さは
生前にその人から
わが身が受けていた
贈り物の大きさであった
 宮城
 (みやぎ・しずか 1931年~2008年 真宗大谷派僧侶)

溢(あふ)れてくる悲しみ
大切な人との死別(わかれ)は、悲しみを生みます。また、「もっとお話しをしておけばよかった」「一緒に○○しておけばよかった」など、後悔の念も生じます。
そのように後悔する事柄を、どうして「その人」の生前にしておけなかったのでしょう。いえ、たとえ もっとお話しをし、もっと時間を共に過ごせていたとしても、「だから満足」ということはないでしょう。後悔の念が生じるのは、その人と共に過ごす喜びや有り難さを知っているから。この悲しみは、満ち足りなさから来るのではなく、満ち溢れているからこそ湧いてきます。

まぼろしのごとくなる一期なり
蓮如上人(本願寺第8世)は「白骨の御文」を、このように書き出されています。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまに いたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)を たもつべきや。

(意訳)さて、私たち人間の無常なる生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、まるで幻のような一生であります。この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生はあっという間に過ぎてゆくものです。いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。

人の死に際し、「早すぎる死だ」「もっと活躍するはずの人だった」「これからも必要な人だった」などという声を聞くことがあります。偽りのない心の底からの叫びです。
けれど、「白骨の御文」に書かれているように、誰もが無常である生涯を生き、幻のような一生を過ごし、一万歳も生きることはなく、この身のままの私を百年保ち続けることなどできない身を生きています。皆 同様のいのちを生きているにもかかわらず、若くして亡くなれば「まだ早い」と嘆き、年齢を重ねれば「いつまで…」と愚痴をこぼす私たちの感覚は、果たしていのちのリアルが見えているでしょうか。
私は、「その人」の死を、いのちをまっとうした事実として受け止めたいのです。「その人」は、すべてを尽くして往きました。ということは、「その人」の姿から感じとること、学ぶこと、受け継ぐことがあるはずです。それらは「その人」から既にいただいていた贈り物です。

死は、最後の贈り物
真宗大谷派の寺院の坊守(住職の連れ合い)平野恵子さんは、39歳のときに癌告知を受け、41歳で還浄されました。3人のお子さんたちに向けて、病床からお手紙を綴られていました。

お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。でも、事実は、どうしようもないのです。こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげられること、それは、死の瞬間まで「お母さん」でいることです。元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に、動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。
そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への、最後の贈り物になるはずです。
人生には、無駄なことは、何一つありません。お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいの、いや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。
たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。それが、お母さんの心からの願いなのですから。
〔『子どもたちよ、ありがとう』 法蔵館(品切れ・重版未定)〕

贈り物
「贈り物」とは、優しさ、仕草、共に過ごした時間、楽しい思い出など、「その人」を思い起こすものだけを意味するのではありません。
悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあること」、そのことに気付くきっかけ(縁)を、贈られていました。「贈り物」のおかげで、わたしは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える人となりました。
誰もが無常なるいのちを生き、それゆえに誰もが悲しみと共に生きています。その悲しみの深いところに、私を支えていてくださる大地がありました。大地に支えられながら、阿弥陀の慈悲に包まれながらある私でした。悲しみを抜きにしては気づかない世界がありました。
南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
3月、お雛祭りですね。
掲示板に飾るために、毎年毎年買っていた雛人形を並べました。
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2022年2月28日 (月)

淋しさの自覚

真宗大谷派 東京教区 真宗会館 日曜礼拝

2022年2月27日(日) お話しをしてきました。

講題「淋しさの自覚」

あっち行ったり こっち行ったり、あい変らず落ち着かない法話ですが、ご聴聞ください(‐人‐)
(落ち着かないのは法話じゃなくて、私か)

お坊さんの法話2022年2月27日 法話:白山 勝久 氏(世田谷区・西蓮寺) - YouTube

2022年2月27日 (日)

目の前の湯気に世界が含まれている

朝起きて、ヤカンを火にかけてお湯を沸かす。

朝、最初の仕事。家族で、お茶を飲むために使うお湯。

やがてお湯が沸いて、シュッ シュッと湯気が出てくる。

その湯気に、日々変わらぬルーティンという日常、家族でお茶を飲む姿、今日も一日が始まるという気持ちが込められていることを見る。

それでかのことが許されない状況下に置かれている人も見えてくる。

なんでもないことのようで、とても大変な出来事であることを想う。

朝起きて、ヤカンを火にかけてお湯を沸かす。

これだけのことが、いかに大切で有り難い出来事か。

これだけのことを、誰もが当たり前にできる世の中に(ー人‐)

2022年2月24日 (木)

一滴のしずくがすべてを潤す

鬱々とする世の中 お寺にお参りにみえた方に、少しでもホッとしていただければと想いながら 坊守が生けているお花
昨日のご法事の方が、お花をじっと見つめていらっしゃいました
南無阿弥陀仏(-人-)

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