2025年5月のことば
2025年も5月を迎えました。暑くなりそうでいて、ひんやりする日、身震いする日がありますね。体調崩されませんように。
去る4月14日~18日、練馬区谷原の真宗会館において、真宗大谷派 東京教区「慶讃法要」をお勤めしました。
従来の法要とは趣を変え、日々色合いの違う法要が勤まりました。
5日間真宗会館におりましたが、最前線で慶讃法要を堪能させていただき、充実した毎日でした。
ご参拝いただいた皆様、運営側の皆様、ありがとうございました。
ふと思う。50歳を迎える前くらいまでは、自分が身を動かして物事に従事していたけれど、いつの間にか 周囲が動いてくれる立場に身を置いていることを(その分、責任ある立場に身を置いていることも肝に銘じています)。
若い方々が、やらされてではなく、率先して法要に関わり、勤め、身を動かしている。
あぁ、素晴らしい光景だなぁ、素敵な人たちだなぁと感嘆する。慶讃法要を一緒にお勤めできて、よかった。ありがとう
今月のことばは、今年に入って、金沢の友人(真宗大谷派僧侶)から教えてもらったことばを掲示。
毎月掲示板のことばを読んで、「なるほどなぁ」「いいことばだなぁ」「ちょっと何言ってるんだかわからないんだけど」「納得できないなぁ」など、思いを巡らされている方からすると、「え!?」と思われるかもしれません。
「あたわり」ということばだけ掲示しているのですから(註は付しておきましたが)。
以下、今月のことばのいただきを綴りましたので、ブログをお読みのあなたも「あたわり」についてお味わいください。
南無阿弥陀仏
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2025年5月のことば
あたわり
【北陸地方の方言】
「すべては阿弥陀さまからのたまわりもの」の意
あたわり
金沢出身の友人(僧侶)から教わりました。「北陸には、『あたわり』という言葉があるんですよ」と。
「与えられたもの」という意味で、「ひとり一人に与えられた使命や宿命」として語られることもあるけれど、その根本は「阿弥陀さまからたまわったものである」という思いを大切にされてのことばであるという。
北陸は「真宗王国」と表現されるほど浄土真宗篤信の地として知られています。それだけ親鸞聖人の教えを、「南無阿弥陀仏」の念仏を大切に生きる方が多いのです。
北陸の方は、なにか物事をなすとき、出来事に巡り合ったとき、「阿弥陀さまからのたまわりもの」であるといただき、「あたわった」と表現されます。嬉しいこと、喜ばしいことばかりを「あたわり」と表現されるのではなく、悲しいこと、つらいこともまた「あたわり」といただかれます。
そのことは、受け容れ難いことを受け容れるための人間の知恵として「阿弥陀さまからのたまわりもの」と考えたわけではありません。また、達観したわけでも、諦めの気持ちを紛らわすために言われたわけでもありません。心底、阿弥陀さまからのたまわりものであると、いただかれているのです。
他力というは
親鸞聖人は説かれました。
「他力というは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」)
「他力」とは、「阿弥陀如来が、衆生救済を願うはたらき」である、と。
(衆生:しゅじょう・・・すべての生きとし 生けるもの)
現代日本社会において、自分の力で励み、努力し、結果を出すことが価値あることとされます。
それゆえに「他力本願ではダメだ」「他力頼みではいけない」などと言われます。
しかし、「他力」とはそもそも、他人の力を当てにすることでも、他人の力を借りることでもありません。すべての生きとし生けるものを救いたいと願う、阿弥陀如来の本願力を「他力」というのです。阿弥陀如来が衆生を想う慈悲心をいただいているからこそ、辛苦の世の中を私たちは生きている、生きていられるのです。
信仰心のある人にのみ慈悲心が注がれるわけではなく、すべてのものに、今現に注がれています。であるからこそ、私は自力を尽くしながら人生をまっとうすることができるのです。
他力と自力。人間は、自力は尊く、他力は甘えであると考えます。
であるから、自力の結果を求めます。「これだけ頑張ったのだから、相当の結果があってしかるべきだ」と。
しかし、世の中そんなに甘くないことも、思い通りにならないことも、みんなわかっています。
思うような結果が伴わない、相応に報われるということがないとなると、自分より頑張っていない(ように見える)人を見下したり、結果に恵まれた(ように見える)人に対して嫉妬したりします。
誰もが皆、自力を尽くして生きているのにかかわらず。
私たち自身は、自力を生きることしかできません。できませんが、他力に包まれてあるからこそ、自力を尽くすことができるのです。
他力と自力は、どちらが優れて、どちらが劣ってというものではありません。双方があるからこそ成り立っているものです。「今、ここに私がいる」という事実が、阿弥陀如来のはたらきがあることの証明であり、阿弥陀如来の慈悲心(他力)があるからこそ、私がいて、生き、自力を尽くすことができるのです。
私の一挙手一投足に阿弥陀がいます。私そのものが阿弥陀さまからのたまわりもの、「あたわり」なのです。そのことを感得しているからこそ、いかなるときも、いかなる事柄に対しても、「阿弥陀さまからのたまわりもの」であると、手が合わさるのです。自分にとって都合の良い事柄に対して「阿弥陀さまのおかげです」と感謝し手を合わせているのではなく。
回向(えこう)せしめたまえり
親鸞聖人は、漢字の意味や送り仮名のふり方について深く深く思慮されました。
「回向」という言葉があります。親鸞聖人の師である法然上人の流れを汲む方々の多くが「回向して」と読まれているところを、聖人は熟慮して「回向せしめたまえり」と送り仮名をふられました。
「回向して」という読み方が間違っているわけではなく、むしろ一般的な読み方です。ただ、「回向して」の場合、自らが行なった行為・善行を回向する(仏に、亡き人に差し向ける)ことを表し、主語が自分になります。ところが、「回向せしめたまえり」と読むと、阿弥陀如来から私に(衆生に)差し向けられていることを表します。「回向の主語・主体は阿弥陀如来である」と、聖人の目には映っているのです。「如来」と書き著さずとも、聖人の著作には阿弥陀が溢れています。そのことは、阿弥陀の慈悲心(他力)を感得していることの表われです。北陸の方々が「あたわり」と言われることも、ことばのなかに、口にされる人々のこころのなかに阿弥陀さまがいることのあらわれです。
聖人が晩年に著わされた「恩徳讃」。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
真宗の法座で、閉式の折に唱和します。聖人の大切なことばなのですが、いただいている恩徳に対して、「身を粉にするほどに報ずべし」「ほねをくだくほどに謝すべし」というところに抵抗を感じる人も少なくありません。どうしてそれほどまでに、と。それは、「自分が」報ずもの、謝すものと考えるからでしょう。
阿弥陀如来より回向せしめられている本願力のなかを、自力を尽くして生きているのですから、艱難(かんなん)辛苦の世の中、私が生きている姿そのものが報じていることであり、謝していることに違いありません。既に身をもって阿弥陀如来の大悲に応えているのです。
「あたわり」ということばを教えていただき、聖人の教えに生きている人びとのことを想いました。南無阿弥陀仏
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掲示板の人形
五月ということで、鯉をかたどった人形を飾っています(短絡的ですが)。
男の子が鯉に乗っている人形2つと、鯉の人形です。
しんどいこともある世の中だけど、人生だけど、前に向かって進める世の中であり、人生であると思っています。
「前に向かって進める」って、立ち止まることも、今まで歩いてきた道を眺めることも、それらも「前に向かって」進んでいることだと思うのです。