2020年5月28日 (木)

口はひとつで耳二つ ちょっと話して よく聞くために

ネット上での誹謗中傷によって いのちが失われた。

そのことがきっかけとなり、ネットでの誹謗中傷をやめよう! 厳罰化を! という声が挙がってきた。

コロナ禍における補償の動きが遅い自民党までもが、自民党政務調査会内に「インターネット上の誹謗中傷・人権侵害等の対策PT」なるものを立ち上げた。動きが早い! その座長に就かれた方は、「政治家であれ著名人であれ、批判でなく口汚い言葉での人格否定や人権侵害は許されるものでは無いですよね」と語っているらしい。それだけ聞けばもっともに聞こえるけれど、国会において野党議員に向かい「恥を知れ!」と一喝したり、コロナ禍における首相の会見を伝えぬ報道に対して「首相の“お”言葉を伝えるべきでは?」と発言したり、発する言葉の端々に、人間に優劣をつけて見る習慣(くせ)のある人なのだなぁというにおいが漂う。そのような方が座長に就き、ネット上での人権侵害の対策に当たるという…

ネット上の誹謗中傷は目に余り、なんとかならないものかと思う。
けれど、「♯検察庁法改正案に抗議します」で民意が示され、自民党が、与党が、政府がやろうとしていることの足止めをくらったことを受け、ネット上の発言を規制する動きにもつながりかねないと思う。それゆえに、今回の動きが早かったのだろう。

規制を求める声は多い。
けれど、(ネットに限らず)規制を求めるとき、「私はそんなひどいことはしない。ひどいことをする人たちは罰せられなければならない」という想いが根っこにある。つまり、「規制が生じても、私には影響ない」という前提で、規制を求めているのではないだろうか。

規制は、やはり自己規制に努めなければならない。
力のある者が、その力を利用して規制をかけようとするとき、必ず自分たちに都合のいいように規制をかける。規制を求める声を利用する。

「規制が生じても、私には影響ない」と思っていたら、大間違いとなる。

権力や法に頼って規制を求めていると、がんじがらめのなかを生きることとなる。

ここ数年で、あらゆることに規制がかかり、法が生まれ、ルールが生まれ、実は私たちの生活は縛られている。

気を付けなければならない時代(とき)を迎えている。

それから、権力に対する危惧とはべつに・・・

ネット上における規制や罰則を求めるけれど、

他者(ひと)を誹謗中傷してはいけないのは、現実社会でも同じこと。

このコロナ禍において、どれだけの人たちが、あらぬ批判や差別を受けていることだろう。

どれだけの人たちが、批判や差別を受ける筋合いの無い方々に向かって、罵詈雑言を浴びせていることだろう。

普段の生活においてもネット上においても(本来区別されるものではないけれど)、他者を罵詈雑言で誹謗中傷することは許されることではない。

日々の生活のなかで、私のこころというものを、大事に見つめなければならない

誹謗中傷という黒雲は世を汚し、結局は 誹謗中傷の発信者自身のこころを傷つける。

南無阿弥陀仏

2020年5月27日 (水)

南無阿弥陀仏をとなうれば

お朝事、繰り読みの「和讃」は「現世利益和讃」でした。

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
この世の利益きわもなし
 
流転輪回のつみきえて
 
定業中夭のぞこりぬ

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
梵王帝釈帰敬す
 
諸天善神ことごとく
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
四天大王もろともに
 
よるひるつねにまもりつつ
 
よろずの悪鬼をちかづけず

南無阿弥陀仏をとなうれば
 堅牢地祇は尊敬す
 
かげとかたちとのごとくにて
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
難陀跋難大龍等
 
無量の龍神尊敬し
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
炎魔法王尊敬す
 
五道の冥官みなともに
 
よるひるつねにまもるなり

傍らで聞いていた妻から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました。

親鸞聖人の「現世利益和讃」は15首あります。そのうちの上記6首を読みました。
原文だけで、現代語訳までは書きませんが、それでも「お念仏を称えたらこうなる!」的なことが書いてあるんだなぁってことを感じられるのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、聞こえるのではないでしょうか。

でも、それならば「南無阿弥陀仏をとなえれば」と書かれるはずです。

南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。
「~するときは いつも」とか「~するときは きっとそうなる」という確定の意味を持つ「ば」なのです。

「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んだならば都となる」という仮定の話ではありません。
「住むと きっと都(住みやすい場所)となる」という確定を表わします。

親鸞聖人が著わされる「南無阿弥陀仏をとなうればもまた、確定を表わしています。

つまり、「南無阿弥陀仏をとなえるということは、諸々の神々がお守りくださり、諸々の悪鬼はひれ伏す」といったことを聖人は詠まれています。

文章にすると仮定と確定のニュアンスが分かりづらいですが💧

だとしても、現世利益を、念仏申した後のご利益を詠んでいるように聞こえるかもしれません。

親鸞聖人が言われる“現世利益”は、「お念仏申したら、こんないいことがあるよ」ということではありません。

「念仏申すご縁をいただいたこと、そのことがご利益なのです。すでにしてご利益をいただいているからこそ、念仏申すことができるのです」と仰っているのです。

「諸々の神々がお守りくださる」とか「諸々の悪鬼がひれ伏す」ということも、「念仏称えた者に訪れる良いこと」として挙げているのではありません。

念仏称えるということと同時に、神々に守られ、悪鬼がひれ伏すということも起こっているのです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を頼りとし、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸仏諸神は信じるに値しない」と言ったり、土地土地で崇められている神々を否定されたり、私を迷わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。

それら諸仏諸神、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられたことと思います。

自分の欲望が叶った!ということが現世利益ではありません。

自分の思い通りに生きようとするけれど、ご縁をいただいてある身であることに気づけば、自分の思い通りになるものではないこと。私が生きるということは、そこにさまざまな人々のいのちとのご縁があるということ。

そのことを目覚めさせてくださるのが、南無阿弥陀仏のご利益です。

念仏申すそのときに、目覚めのご縁もいただいています。

南無阿弥陀仏

2020年5月26日 (火)

生かされてあることに感謝し念仏することである。

今週のことば 中村薫

「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりて初めて死するにあらず。」
蓮如上人『御文』

 蓮如は、人は疫癘で死ぬのではないという。生まれた時から死は定まっており、驚くことではないと。それは道理としては納得できるが、現実に自分たちに係わってくるとそうはいかない。それが情の世界である。
 そんな中、疫病は何度も人類に襲いかかってくる。有史以来手を替え品を替え襲ってきた。蓮如はその都度、静かに受け容れていった。今日のように医学の治療はなかったので、ただ念仏して耐えることしかなかった。しかし耐えながら辛抱することは、とても大変なことであった。ご承知のように、念仏は決して祈祷ではない。さりとて、諦めて生き方を放棄するものではない。むしろ、どうすることも出来ない身の事実を引き受けていったのである。
 阿弥陀如来は、無自覚な罪深い人間でも必ず救うといわれる。生かされてあることに感謝し念仏することである。
〔「東京新聞」2020年5月25日(月)朝刊〕

 

2020年5月8日に還浄された中村薫先生への追悼の文章を、5月16日のブログで投稿しました。

昨日の「東京新聞」朝刊に、中村先生の文章が掲載されていました(中村先生は、複数の執筆者と、「東京新聞」こころのページの「今週のことば」を執筆されていました)。

その文章が上記の文章です。

亡くなる前に書き上げていらっしゃったのですね。

先生は長患いをされていたので、常に「明日とも知れぬいのちを生きている」自覚を持ちながら、日々を過ごされていたことと思います。

いつ書かれたのか分かりませんが、このコロナ禍に際し、先生はご自坊の掲示板に、

「コロナウイルスに負けないように落ち着きましょう 南無阿弥陀仏」

と書き記されていました。

上記「東京新聞」の文章を読んでも感じますが、一生を通して「南無阿弥陀仏」と念仏申すことを大切にされた先生でした。

先生の遺言と受け止め、南無阿弥陀仏とともに生きてまいります

南無阿弥陀仏

2020年5月25日 (月)

言葉を発するということの自覚と想像力

女性プロレスラーが亡くなりました。

亡くなられた理由はまだ調査中との報道ですが、出演していたテレビ番組での言行に対して、多くの誹謗中傷がSNS上に流れていたと言われています。

言葉は、人を助けることもあれば、人を傷つけることもあります。

同じ言葉であっても、救われてた気持ちになる人もいれば、傷つく方もいます。

他者の人格否定をする言葉はもってのほかですが、

言葉を発するということ そのこと自体、他者を傷つけることがあります。

そのことを自覚したうえで、言葉は発しなければいけない。

自覚があるからこそ、発する言葉を慎重に選ぶ。

SNSで、自分の想いを手軽に発信できます。

この外出自粛期間中の過ごし方を発信してくださるおかげで、いろいろなことに挑戦出来たり、マネしたり、笑える環境を作ってくださる方もいる。

この外出自粛期間中のイライラを、ネット上で見ず知らずの他者(ひと)にぶつける人もいる。

情報を発信してくださる方は、それを見た方の反応も想像して、発信していることでしょう。

イライラをぶつける人は、それを見る人の反応は想像もしないことでしょう(もしかしたら、悲しむ姿を想像して発しているのでしょうか)。

言葉を発することによって、誰かを救うこともあれば、傷つけることもある。その自覚。

発した言葉を、見る人・読む人がいる。そして、見た人読んだ人の数だけ、受け止めがある。感情がある。その想像力。

自覚と想像力を忘れずに、言葉は発したい。

南無阿弥陀仏

2020年5月24日 (日)

阿吽(あうん)の呼吸を生きている

あるとき、お釈迦さまが3人のお弟子さんに尋ねられました。
「あなたは、あとどれくらい生きられると思いますか?」
  
1人目のお弟子さんが答えます。
「先のことは分かりませんが、数日は生きていられることでしょう」
「あなたはまだ本当のことが分かっていませんね」と、お釈迦さまは言われます。
   
2人目のお弟子さんが答えます。
「今ここで食事をしている間は生きていられることでしょう」
「あなたもまだ本当のことが分かっていませんね」と、お釈迦さまは言われます。
       
3人目のお弟子さんが答えます。
「阿吽(あうん)の呼吸の間のいのちです。吸った息が出なければ、そこでいのちは終わりです」
「その通りです。いのちというのは、吸った息が出るのを待たないほどの長さでしかないのです」と、お釈迦さまは言われました。(『四十二章経』)
   
「阿(あ)」は「吐く息」、「吽(うん)」は「吸う息」のことです。
吐く息、吸う息、どちらかが途切れた時、いのちは終わります。
私は、一瞬のいのちを生きています。一瞬一瞬のいのちを生き、それが生涯となります。
   
人間は、いのちを長さで計りがちです。
だから、若くして亡くなれば「まだ早いのに」「もったいない」と哀しみ、長生きすれば「まだ生きている」「長生きも、良いことばかりではない」と嘆きます。
どちらにしても、人間のものさしに過ぎません。
果たして、いのちとは「まだ早い」「まだ生きている」というものさしではかれるものなのでしょうか。

誰もが阿吽の呼吸の間のいのちを生きています。長さでは計れないいのちを、今、生きています。
   
「今」とか「阿吽」というと、とても短い時間を連想しますが、悠久の歴史の流れのなかの一瞬です。
人間のものさしを超えた時間の中を生きている私。そんな途方もない時間・空間を、なんの道案内もなく生きられるでしょうか。
いえ、阿弥陀という大きなはたらきに導かれながら、今を生きています。
阿吽の一息一息は、南無阿弥陀仏のお念仏の一声一声。

昨日、「誰もが同じ長さの1秒1秒を生きています」という文章を書いた後、「阿吽の呼吸」の話を思い出しました。

誰もが、吸った息が出なかったら、吐いた息の後に吸うことがなかったら、終えるいのちを生きています。

みんな、同じいのちを生きています。

南無阿弥陀仏

2020年5月23日 (土)

誰もが同じ1秒を生きている

若くして亡くなると、「早すぎる死だ」「まだやりたいことがあったでしょうに」という声が聞かれる。

そのように言いたくなる気持ちは分かるし、その方の死を受け入れられない気持ちの表われなのも分かる。

私も、ある方の死に対し、「ちょい、まだ早いだろ! まだ教わることがあったのに」「こないだ〇〇約束したじゃん!」と怒り(にも似た感情)をぶつけたこともある。

「早すぎる死」という想いは、年齢的な早さもあるけれど、その人が何らかの才能に長けている場合、尚更「まだ早いよ!」という感情が湧きたつ。

結局は、こちら(残された)側の気持ちの問題なのだけれど、昨晩、床に就いて天上を見ているときにふと思った。

「みんな、同じ1秒を生きているんだ」

夭逝しようが長生きしようが、1秒は誰にとっても同じ長さ。

才能ある人には長い1秒で、無駄に過ごしているときの1秒は短くて・・・なんてことはない。

誰もが同じ1秒を生きている。

そう考えると、死に、早いも遅いもないような気がしてきた。

なんて言うと、「若くして亡くなる人は1秒1秒の積み重ねが少なかったことになる。もっと積み重ねられたはずだ、もっと積み重ねてほしかった」という声もあるだろう。

けれど、何年生きた、あと何年は生きたい、あと何年くらいは大丈夫じゃないかな、という尺度は、人間という生き物の感覚として生じるもの。

だからこそ比較心が生じて、「早すぎる死だ」や、逆に「まだ生きてます」などというじ言葉が出てくる。

けれど人は、いのちは、1秒を生きている。

ただそれだけのこと。

1秒を生きている、という感覚を研ぎ澄ませて生きたい。

南無阿弥陀仏

 

2020年5月22日 (金)

くしけずる

このところ寒暖差が激しいですね。

昨日は、洗ってしまっておいた冬の服を引っ張り出して着てました。

暖房(ファンヒーター)もしまったので、エアコンの暖房をつけました。

それでなくともコロナに気を付けているのに、体調管理に余計気を遣わなくてはなりませんね。

皆様もお大事に👋

 ☆

朝食後、次女が櫛で髪をとかしています。

その姿を見て妻が、「くしけずる娘」(^-^)とつぶやくので、

私は「え、なに!?」と反応しました。

「え? だから、“くしけずる”娘って」

「くしけずるって、なに?」

「知らないの?」

「知らないよ、秋田の方言?」

「いえいえ、普通に使うでしょ!」

「初めて聞いたよ」😲

ということで、「くしけずる」をググりました(←「ググる」こそ最近の言葉なのに、もはや当たり前のように使われますね)

📱

【くしけずる(梳る)】櫛で髪の毛をとかして整えること。

📱

「あ、方言じゃないんだ! それに、“櫛削る”かと思ったら、“梳(くしけず)る”なんて漢字があるんだね!」

「でしょ‼」

ちなみに、「梳(くしけず)る」の「梳」という漢字は、「梳(す)く」とも読みます。

同様に「櫛で髪の毛をとかして整えること」の意味ですが、どちらかというと「理髪の技術。はさみなどで切って、髪の毛の量を少なくすること」の意味として「髪を梳(す)く」と使うことが多いのではないでしょうか。

朝一番、ひとつ賢くなりました。

2020年5月21日 (木)

度(ど)す

ネットでの法話配信がなされ、家にいながらも仏法聴聞できるようになってきました。南無阿弥陀仏

いま、あなたに届けたい法話」(真宗大谷派 しんらん交流館)

お坊さんの話を聞こう」(真宗大谷派 東京教区 真宗会館)

浄土真宗live!」(浄土真宗法話配信有志の会)

法話の初めには「三帰依文」を拝読します。法話配信においても、はじめに「三帰依文」の拝読があります。

「三帰依文」に「この身 今生において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん。」とあります。

「人と生まれ、仏法聴聞のご縁をいただき、今聞くことがなければ、いつ聞くことがあるだろうか(いいえ、聞くことはない)」という意味になります。

「聞くこと」と書きましたが、「三帰依文」の「度せずんば」「度せん」の「度」とは「救われる」という意味があります。

ですから、直訳すれば「今救われるということがなければ、いつ救われるだろうか(いいえ、救われることはありません)」ということになりますが、「救われる」と言ってしまうと、悟りの境地に入ること、悩み苦しみがなくなること、など現実の問題からの回避が目的となってしまいかねません。それでは、仏法聴聞自体が、現実の悩み苦しみを無くすための手段になってしまったり、悟りの境地に入ることを目的としてしまうと「私はこれだけ聴聞した(あなたはまだまだですね)」など、他者(ひと)との比較のために聴聞したりしてしまいます。

生涯仏法聴聞 そのこと自体が、いかに難しく、いかに尊いことか。

「三帰依文」を拝読するということは、その時点で仏法聴聞の場に身をおいているわけですから、「これから聴聞して、楽な気持ちになるぞ! 人生のスキルアップするぞ!」なんてことを目的とする必要がないわけです。すでに弥陀の大悲(救い)のなかにいるということです。

さて、「度す」が「救い」を意味するのは、「度す」ということが対岸、つまり弥陀の浄土へ“渡す”ということだからです。

「度」に「さんずい」を付けて「渡」。「渡す」と表現されれば、この娑婆世界(此岸)から弥陀の浄土(彼岸)へ渡してもらう、とイメージしやすいと思います。

「この身 今生において渡してもらわずんば、」の方が、読んでいても分かりやすいでしょうか?

しかし、「度」には そもそも「渡」という意味があるのです。

「度」は「わたる」ことを意味するから、わざわざ「さんずい」を付けて「渡」と表記する必要がなかったのです。

けれど、意味の厳密性というか分かりやすさを求めて、時代を経る中で、川や海を「度(わたる)」ことを「渡る」と表記するようになりました。

確かに、「さんずい」がつくことによって、「渡る」イメージも想像できます。

と、かつてある先生から「度」についての説明をいただきました。

そして、その先生が、説明の最後に言われました。

「分かりやすさを追求して、人間は想像力や連想力を失ってしまいましたね」と。

「度」の説明以上に、その言葉が耳の底に留まっています。

「度」という漢字を見ただけで、「渡す」ということも、そこから派生して「救い」ということもイメージしたわけです。

それがいつしか「渡」となり、そうすると、川や海を「渡る」イメージは易くなりましたが、「救い」はイメージしにくくなったのではないでしょうか。

今日「度」について書いているのは、昨日の投稿で「祝」と「呪」について書いていて思い出したからです。

「祝」も「呪」も、元々は「兄」だけでした。

「兄」に、「豊作祈願の願いごと、敵将を倒す願いごと」が含まれていたのです。

それがいつからか、

「豊作祈願や、雨ごいの願いごと」は、神事を表わす「示」がついて「祝」に、

「敵将を倒す願いごと」は、呪文を口で唱えますから「口」がついて「呪」に、

言葉の厳密性を含めて分かれてゆきました。

いまでは、「兄」という漢字を見て、そこまで想像できませんね。

漢字や言葉の変化も、時代と共に、人と共に変遷してゆきます。

でも、起源をたどると、今では思いつきもしない(想像すらしない)意味が知らされます。

厳密性を追求して結果意味が分かりづらくなるということは、よくあることです。

私たちが手にする取扱説明書であったり、誓約書・契約書であったり、規約・条例・法律であったり…。

読んでも分からない、というか、読む気すら起こらない。

みんなのために作ったルールが、かえって除外者を生み出している。

自粛の間の給付金や自粛協力金の申請するための書類や条件が細かすぎて、なかなか給付に至らない。そもそも申請する気すら失わせる。

そういうことになっている、ということに気づかない。

想像する力、連想する力、そこに人がいるということを想う力…そういう力が失われている世の中

さて、私たちは「どーする」(されど、弥陀は衆生を「度する」)。

南無阿弥陀仏

2020年5月20日 (水)

示兄と口兄と

本を読んでいて、

「この祝福感をぶち壊すならば、呪ってやる」

という文章が目に留まり、面白いなと思いました。

この一文に「祝」と「呪」が入っている。

似た字だけれど、意味はまったく違う(気がする)。

お祝い事も、呪うことも、元をたどるとどちらも祭事。

豊作を願ったり(お祝い事というのは、そもそも豊作を祝うこと)、

敵方の大将に病や死をもたらそうとしたり、

そのような儀式がありました。

「兄」という字はの成り立ちは、ひざまずいてお願い事をしている姿を象っています。

また、そのお願い事をする主を「兄」という字は表わしています。

その「兄」という字に、「祝(いわう)」という意味も「呪う(のろう)」という意味も元々含まれていました。

それが、時を経て言葉の意味が細分化していくなかで、神事を表わす「示」という字が付いて「祝」、

言葉によって敵をのろうということで「口」が付いて「呪」となったそうです(諸説あり)。

ちなみに、無形不可思議なるものの力を借りて、敵と見なす者の病や死を願うことを「おまじない」と言いますが、漢字を使うと「お呪い」と書きます。

小学生の時、「兄」と「弟」という字に共通性を感じられないことを疑問に思ったことを思い出しました。

「姉」と「妹」は、女偏がついている共通項があります。

それと同様に考えれば、「男市(あに)」「男末(おとうと)」というような漢字があっても不思議ではないのに…。

なんてことを考えたことがありました。

「兄」が、「きょうだい」の年上の男性を意味する以前に、「神事や祭事を司る人」を意味しているから、儀式を執行する人・大事なことを成す人・敬われる立場にある人などの意味合いが込められている。それゆえ、「兄」を「きょうだい」の年上の男性「あに」を表わす漢字として充てた(私の憶測です)。だから日本に長兄尊重思想が根付いているのだなぁと(天皇が大事と言う人は多いのに、女性の天皇を認めようとしないことに)合点がゆきました。
「弟」は、現代(いま)では「きょうだい」の年下の“男性”を指しますが、元々は男女の別はなかったそうです。でも、女性は「妹」という漢字があり(漢字が出来、かも)、「あに」は「兄」の漢字を充てたから、「弟」は「きょうだい」の年下の男性のみを指すようになった(のかな)。

「祝う」と「呪う」って、字は似てるのに意味がまったく違うなぁ…という疑問から、いろいろなことが見えてきました。

2020年5月19日 (火)

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

2020年5月、外出自粛が要請され、県をまたいでの移動は極力控えるようにアナウンスされるなか、ゴールデンウイークを迎えました。

そんな5月も、早くも下旬を迎えるころとなりました。

4月は、慣れない生活に一日一日の経過を遅く感じたような気がしましたが、この慣れない生活が習慣となってくると、一日一日の経過が早くなってきた気がするから不思議です。

真宗教団連合が発行している、月めくりの「法語カレンダー」があります。

その「法語カレンダー」の毎月の法語を受けて、真宗大谷派では独自に『随想集』を発行しています。

5月のことばは、九條武子さんの

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

です。5月の随想を書かせていただいていました。

真宗教団連合のHPに文章が載っていました。お読みいただければ幸甚です。

 

 

関東大震災の折、九條武子(くじょうたけこ)は、自身も被災者でありながら、負傷者や孤児の救援活動に当たられました。

 九條武子は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えに基づいた教育活動や救援活動に尽力された方です。その活動の最中(さなか)には、阿弥陀如来(あみだにょらい)や親鸞聖人への信順以上に、「どうして人間はこれほどまでに苦しまねばならないのでしょうか」という迷いや不審(ふ しん)が彼女の心を覆(おお)うこともあったことでしょう。

 そのことを思う時、親鸞聖人の姿が思い起こされます。親鸞聖人も念仏をよりどころとしながら、時には心揺らぐことがありました。越後から関東(茨城県)の地へ向かう道中、天災や飢饉(ききん)に苦しむ民衆の姿を目の当たりにしました。苦しむ人びとの救済のため、佐貫(さぬき)の地で「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」の千部読誦(どくじゅ)を思い立ちます。しかし、読誦を始めて四、五日経った時、自分のしていることに疑問をもちます。「阿弥陀如来にすべてをおまかせし、ただ念仏の教えを法然上人(ほうねんしょうにん)よりいただいたというのに、自分の思いはからいで念仏を称(とな)えていた……」。親鸞聖人は「浄土三部経」の読誦を中止し、その後関東へと向かわれました。

 「阿弥陀如来より大いなる慈悲(じひ)をいただいているのに、これ以上何を求めようというのか」。親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じると誓いながらも疑義が生じた自身の心に迷いを感じました。九條武子も救援活動を続ける中で、親鸞聖人と同様の疑問や迷いを感じられたことでしょう。

 成長過程において「反抗期」と呼ばれる時期があります。けれど、「反抗」とは、親の目から見ての言葉です。子どもにしてみれば「反抗」ではなく「自己主張」であり、成長過程において欠かせない時期です。九條武子が「われ反抗す」と表現した自身の姿は、阿弥陀如来の眼(まなこ)には衆生(しゅじょう)の自己主張に見えたことでしょう。悩み苦しみの中にありながら「わたしはここにいます」と自己主張している衆生の声を聞き、阿弥陀如来は憐愍(れんみん)してくださっています。

 宗教の信仰・信心といえば、「私は、あなた(本尊や信仰対象)のことをこれほどまでに信じています」と、一般的にはその本気度や深化が求められます。けれど一方で、「私はあなたのことを信じています」と、自分を疑うことなく言えてしまうことの恐さもあります。

 真宗の信仰・信心は、大いなるみ手に反抗する自覚をとおして、阿弥陀如来と出遇(であ)えるということがあります。「反抗」の自覚は、「おろか」な私の自覚です。そして実は、大いなるみ手にいだかれてあることの自覚でもあるのです。

 東京の築地本願寺境内(けいだい)の「九條武子夫人歌碑」には、彼女の歌が彫(ほ)られています。

 おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや

 「自身で振り返る人生の足跡はおぼつかないものだけれど、他力(たりき)に導かれた生涯でした」。反抗をとおしてこそ紡(つむ)がれた言葉です。親鸞聖人の「恩徳讃(おんどくさん)」に感じられる懺悔(さんげ)と讃嘆(さんだん)の響(ひび)きがあります。

「九條武子さんのことばを受けての随想をお願いします」と執筆依頼を受け、築地本願寺にお参りに行ってきました。

本文にもありますが、築地本願寺の境内に九条武子さんの歌碑がありました。

南無阿弥陀仏  

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2020年5月18日 (月)

ご本尊よりはご本尊、ご本尊よりはご本尊 みなご本尊

昨日は、お通夜のお勤めがありました。

久しぶりに長い時間車を運転して、斎場へ🚙

斎場に着いて、祭壇の確認をしたら、ご本尊(阿弥陀さま)がありません。

「ご本尊は?」と、葬儀屋さんに確認したら「すみません、当方では阿弥陀さまのご本尊のご用意がありませんで…」

「ご本尊なしでお勤めいただけませんか?」と言うので、

「それはいけません! 私はいなくてもいいけど(そうか?)、阿弥陀さまは外せません! 書いてない白木のお位牌と筆ペンはありますか?」

と言って、白木のお位牌と筆ペンをもらって、

「南無阿弥陀仏」と書いて、祭壇に飾っていただきました。

ご本尊に向かいながら、お通夜のお勤めをすることができました。南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

「蓮如上人御一代記聞書」(70)に、

他流には、「名号よりは絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。当流には、「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」と、いうなり。

と記されています。

浄土真宗においては、「阿弥陀さまの木像よりは絵像、絵像よりは名号(南無阿弥陀仏)」と書かれています。

蓮如上人の言葉から、「蓮如上人は、木像よりは絵像、絵像よりは名号が優れていると仰っている」と受け止める方がいます。

さらに、「蓮如上人がそう仰っているのに、なぜ真宗寺院は木像の阿弥陀如来像を安置しているんだ! いけないことじゃないか!」とまで言う方もいます(そのように言うことによって、「ここの真宗寺院は堕落している。うちの宗派へいらっしゃい」と勧誘するのです)。

阿弥陀如来の木像も、阿弥陀如来の絵像も、「南無阿弥陀仏」あるいは「南無不可思議光如来」「帰命尽十方無碍光如来」と書かれた名号も、ずべて真宗のご本尊「南無阿弥陀仏」を、私たち衆生(人間)に分かるかたちで示されたものです。

「どれよりもこれ、あれよりもこれが優れている」なんて、人間の方が優劣をつけるものでも、つけられるものでもありません。

本堂は本堂で、そのお寺を住持される住職のお考えで阿弥陀さまの木像を安置されていることでしょう。私は存じ上げませんが、名号をかけてある本堂もあるかもしれません。

各ご家庭は各ご家庭で、そのお家のお内仏のご本尊は、木像の阿弥陀さまもいらっしゃるし、絵像阿弥陀さまもいらっしゃるし、名号もあります。どれでも間違いではありません。優劣もありません。

ご本尊に向かい、手を合わせ、南無阿弥陀仏と念仏申すのみです。

とはいえ、昨晩のお通夜のように、ご本尊がない場合があったとします。

ご本尊のない葬送の儀はありえません。

昨晩私が、「木片と彫刻刀はありますか?」と言っても、先ずは無いでしょう。あったとしても、短時間で阿弥陀さまを彫る時間も技術もありません。

「白い紙と筆はありますか?」…これならば、可能性はありそうですが、やはり時間と技術を要します。

「南無阿弥陀仏」と書くだけならば、昨日は白木のお位牌に書きましたが、紙と筆、紙と鉛筆で書くことができます。しかも、1分もかからずに。

ご本尊のないところにおいても、すぐに用意できる、誰でも用意できるという意味で、蓮如上人は「木像よりはえぞう、絵像よりは名号」と言われたのです。そもそも、「木像よりはえぞう、絵像よりは名号“がいい”」などとは仰っていません。

葬送の場に限らず、引っ越してまだお内仏(お仏壇)が届かないときや、旅先の宿で、「南無阿弥陀仏」と書いて、そこで手を合わせるということをしてもいいのです。

私が京都の大谷大学に入学のため京都へと旅立つ際、坊守(母)から、三つ折りのご本尊を渡されました。

「阿弥陀さまのいる生活をしてください」って。

京都の下宿では、坊守からもらった阿弥陀さまの元で生活をしていました。

今も、デスクにいらっしゃいます。

大学で出会った先輩は、書道の半切用紙に、筆で「南無阿弥陀仏」と自筆したものをかけてありました。

先輩の部屋に遊びに行くと、先ずはその名号の前で手を合わせました。

 ☆ ☆ ☆

昨晩のお通夜でお送りした門徒さんから、ご本尊のある生活の大切さを、あらためて教えていただきました。

ありがとうございます。

南無阿弥陀仏

2020年5月17日 (日)

たとえ平等であっても、自分の方が秀でているんだ!というタネを探す生き物

「平等」を求められる世の中

でも、「平等」って、「誰もが皆」というのとは違うらしい。

芸能活動をされている方が、政治にかかわる発言をすると、「芸能人は黙っていろ」「芸能人が口を出すところではない」「芸能人は勉強が足りないから」云々言われてしまう。

誰もが皆、政治に関して思ったことを口にして問題ない。

芸能活動をされている方々だけのではなく、

まだ選挙権も被選挙権も持たない年齢の方々だって、この国で生活していて、消費税という税を納入しているのだから、発言する権利を有する。

「芸能人が…」「子どもが…」って、どうしてカットしようとするのだろう?

新型コロナウィルスに罹患した人を、あるいは医療従事者やそのご家族に対する差別が止まらない。

誰もが皆、罹患するかもしれないし、もしかしたら罹患しているかもしれない。

でも、罹っていない(罹っていないと思い込んでいる)人は、「自分は周りとは違う」と思っているかのようだ。

誰もが皆、同じ権利を有するのに、

誰もが皆、老病死するいのちを生きているのに、

あれ、なんか変だなぁと感じたので書きました。

ヒトは、平等を求めながら、平等では気に食わない生き物

2020年5月16日 (土)

中村薫先生を偲んで

中村薫さん(なかむら・かおる=同朋大名誉教授、元学長。真宗大谷派養蓮寺前住職)8日、脳出血のため死去。71歳。
大谷大文学部卒、同大学院(仏教学)修了。同朋大文学部仏教文化学科や同大学院の教授、10年には学長を務めた。09年から、本紙朝刊(こころのぺーじ)の「今週のことば」の執筆を続けていた。8日夕、自宅で倒れた。
〔「東京新聞」2020年5月13日(水)朝刊より〕

 

中村薫先生還浄の報は、知り合いルートで9日に入っていたのですが、公の媒体での発表が見受けられなかったので、ブログに中村先生のことを書くことを控えていました。
13日の東京新聞に、先生の訃報が掲載されていたので、先生との思い出について書かせていただきます。

思い出といっても、先生と直接お会いしたのは、片手で足りる程度かもしれません。でも、とても印象に残っていることがあります。

私が大谷大学を卒業し、西蓮寺に戻ってきて、東京教区の研修会等に顔を出すようになって間もないころの話(25年ほど前のお話)。

5月の半ば、ちょうど今くらいの気候でした。

教区の先輩から「かっちゃん、明日から3日間ヒマ?」と電話がかかってきました。

幸か不幸か・・・予定が空いていました。

「空いてますが・・・」と言うや否や「じゃぁ、箱根行こう‼ 明日〇時に車で迎えに行くから」と先輩。

翌朝迎えに来てくれた先輩の車に乗り、箱根へ向かってレッツゴー🚙

(先輩)「今日から3日間、箱根で青年研修会があるんだけど、参加申し込みゼロだったんだよ。かっちゃんが申し込んでくれて(!?)よかった。唯一の参加者だから、先生とも仲良くなれるよ。あ、先生は同朋大学の中村薫先生ね」

なんてことを、当日朝に言われました。言う方も言う方ですが、参加する方もする方ですね。

会場に着いて、参加者はやはり私1人。担当スタッフは5人。教務所員が1人だったかな。それと先生の、計8人の研修会でした。
当時、「白山誘拐研修会」と、仲間内で話のネタになりました(^▽^)

その研修会で、中村先生からいただいたご法話のなかで、今でもしっかり覚えていることがります。というか、自分の聞法生活の礎のひとつになっていることがあります。

善導大師の著わされた『観経四帖疏(かんぎょうしじょうしょ)』のなかに出てくる「両重の因縁」の話。

私たちは、いのちを賜り、この身をいただいて生まれてきました。
この身を受けるということは、「父と母の精血を以て外の縁と為し」・・・父と母との出会いという縁が必要ですが、その縁は“外縁”です。外縁だけでは、この身を受けるということはありません。
自らの、「生まれたい!」と願うこころ、そのこころを“内因”として、内因と外縁の因縁が和合した(ひとつになった)からこそ、私はこの身を受けて生まれ、生きているのです。
父と母との出あいと共に、私自身の「生まれたい!」という願いもあったんですよ!

このような話を聞きました(私の記憶で書いていますので、先生がこのままを言ったわけではありません)。

大学在学時に『観経四帖疏』を読んで(目を通して)はいますが、「両重の因縁」の話は心に残っていませんでした。
先生は、ご自身の話をされ、そのうえで「両重の因縁」の話をされた。お釈迦さまの教えを、身と心を通して語られたから、研修会でのお話が心に残ったのだと思います。

「両重の因縁」とともに、芥川龍之介の『河童』も紹介されました。
それまで『河童』は読んだことがなく、研修会の後、本屋で買って読みました。

母河童のお腹の中にいる子に、父河童は尋ねます。「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と。
お腹の中の河童は「僕は生まれたくはありません」と返事をします。すると、そこにいあわせた産婆が・・・
(本文は「青空文庫 河童」で検索してお読みください)

という部分を、先生は話してくださいました。

「自分で生まれたいと思ったから、生まれてきた」

そんなことあるわけないだろうと、多くの人が思うことでしょう。けれど私は、「自分で生まれたいと思ったから、生まれてきた」という話がストンと落ちてきました。生まれたくなかったら、河童のように拒否することもできたのに、それをしなかった。

「私は、生まれたくて生まれてきた!」

私はそのことに納得したし、嬉しかったです。

あの研修会が今でも記憶に残っているのは、参加者が私ひとりだったからということではなく(その側面もあるけれど)、先生のお話の「両重の因縁」と『河童』が、私の思索面に大きな楔(くさび)を打ち込んだからでした。

中村先生のお話をいただき、「私は、生まれたくて生まれてきた!」という想いがきちんとした言葉として私の中に芽生えました。そのおかげで、かつて☆☆☆以下の文章を書いたことがあります。

あの研修会に引っ張られなかったら、今の私は、今の私の思考は生まれませんでした。
あの研修会への参加は、偶然であり、必然でした。

研修会へ引っ張ってくれた先輩、迎え入れてくれた先輩、ありがとうございます。晩の呑み会が楽しかったことも覚えています。

そして中村薫先生、ありがとうございます。またお目にかかりましょう👋 南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆ 

寺報に「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と書いたら、「そんなことあるわけない」という反論を多数いただきました。確かに、生物学的に見れば、「そんなことあるわけない」のかもしれませんが、生まれることに意思があるか否かの話をしているのではありません。「そんなことあるわけない」と言われる方は、こう続けます。「自分で生まれたいと思ったのに、どうして障害を抱えて生まれるのですか」「どうして能力や才能を持つ者と持たない者が存在するのですか」と。平等のいのちのはずなのに、そうはなっていない現実を歎いてのことだと思います。その人にしてみれば、純粋な想いでの反論なのは伝わってきます。
しかし、その純粋な反論に怖さを感じます。「なぜ障害を持って生まれるのか」「なぜ能力や才能に違いがあるのか」という想いの根っこには、「健常者(と言われる者)が良くて、障害者(と言われる者)は可愛そう」「才能があり、功績を残している者は勝ち組。才能もなく、なにもできない者は負け組」というように、無意識な差別意識が内在しています。健常者と障害者、才能の有る者と無い者という差異(ちがい)は、確かにあります。けれど、それらに誰が優劣をつけられるというのですか。どこに優劣があるというのですか。
 
以前、「実際に殺人を犯した者も、頭の中で誰かを殺したい(あいつさえいなければ)と思った者も、罪は同じである」と書いたら、やはり反論をいただきました。「そんなことあるわけない」と。立法国家に生きる者としては、罪が同じであるわけはありませんが、他者の存在を認めないという意味において、実際に手をかけることも頭の中で思うことも、その罪に変わりはありません。つまりは、誰もが罪を抱えて生きているのです。
「あれはいけません。ああいうことをしましょう」と、道徳的なことを言うのであれば、この寺報は作っていません。閉じこもった思考に対し、少しでも違う視点を与えられれば、ちょっとでもくさびを打ち込むことが出来れば。そんなことを想いながら、毎月筆を執っています。
私の文章は「分からない」と言われます。はじめは、「文章が稚拙だから伝わらないんだ」と、己の文章力のなさを歎いていました。しかし、まったく予期せぬ価値観が現われたから、「分からない」ということもあるのだと思うようになりました。価値観の転換、新たな視点は、人生を面白くすると思います。
誰もが、自分の思い通りになればいいと思いながら生きています。その思いは勝手ですが、「自分の思い通りにしたい」「自分の好きに生きたい」と言うからには、生まれそのものに責任があるということを背負って欲しい。そういう想いも含めて、「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と主張しています。

「自分で生まれたいと思って生まれてくる」とは いっても、「生まれたい」という思いだけでは成就しません。「生まれてほしい」という願いがあるからこそ、生まれてくることができます。
善導大師がお示しくださったおことばです。
「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と為し、父母の精血を以て外縁と為す、因縁和合するが故にこの身あり」(善導大師『観経疏』「序分義」)
「生まれたい」という思いと父母の縁が和合して、今、この身があるのです、と。
育児放棄をした母親が逮捕されました。2人の幼いいのちが亡くなりました。子供たちは、食べ物以上に、親の愛を求めていたことでしょう。育児放棄をした母親は、子供の誕生に喜びを感じていたと伝えられています。この手のニュースがあると、「ひどい親だ」という声が必ず聞こえてきますが、どんなに可愛い子どもであっても、いや、我が子だからこそ、腹が立つということもあります。関係が近いだけに、綺麗ごとだけでは済まされない現実があるのです。そのようなときに、面倒を見てくれる親や友人、隣人がいなかったのか。本当に育児をする気がなくなったのなら、引き取ってくれる施設もあります。心が苦しいです。
「生まれてほしい」という願いと「生まれたい」という願い。親子の関係で考えると、前者は父と母、後者は子供ということになります。しかし、哀しいことに、人間感情の世界では、「生まれてきてくれてありがとう」「生んでくれてありがとう」という情だけでは上手くやっていけない現実があります。「どうして生まれてきたんだ」「なんで生んだんだ」という想いと紙一重です。
「生まれてほしい」という願いと「生まれたい」という願い。私は、前者は阿弥陀如来、後者は私と引き受けています。「生まれてほしい」という阿弥陀如来の願いと因縁和合して、今、この身を生きています。
ということは、私(白山勝久個人ということではなく、誰であっても)がいるということは、阿弥陀の願いが成就しているということ。「南無阿弥陀仏とお念仏申したら、どんなご利益がありますか?」と問われますが、念仏を称えたことによるご利益なんてありません。念仏称える身があるということがご利益です。「真宗の救いとは?」と尋ねられ、「今、この身があることです」と必ず応える私。すると、「そんなことあるわけない」と言われてしまいますが。
生きとし生けるもの、いのちあるもの、そのいとなみは、波に似ていると感じます。海に生じる波。形も大きさもみんな違う。癒しを与えるさざなみもあれば、いのちを奪う津波もある。けれど、どちらも波。波は、すぐに海と一味となり、またいつか波として生じる。海とは、阿弥陀如来の願い。「どうか生きてほしい」。その願いの中から生じる波(いのち)。色も形も能力も、みんな違うけれど、みんな同じいのちを生きている。背景には阿弥陀如来がいる。
親と子は、肉体だけ考えれば、父と母それぞれの個体があって、子供という個体がある。独立したもの。しかし、受精によって生じ、受精によっていのちを伝えていくのだから、独立しているとも言い切れない。親であっても子であっても、同じいのちを生きている。連綿と続くいのちを、それぞれの形でもって表わしている。海から波が生じるように。波として生じるのに、ほんのちょっと時間差があっただけのこと。
波は、他の波を波として認識しないけれど、人は、他の人を人として認識できる(関心を持てる)。親として、子として、この大海原で、出遇うはずのなかったものどうしが出遇い、共に歩む。親であっても、子であっても、生まれてほしい、生きてほしいという願に包まれながら。(了)

2020年5月15日 (金)

四苦 生苦・老苦・病苦・死苦

新型コロナウィルスに罹患されたことによって亡くなられた方々がいる。

亡くなられないようた方に対して、多くの人が、その別れを悲しみ、悔やみ、感謝を述べる。

けれど、罹患し快復された方に対する世間のメッセージは、祝福や応援や激励よりも、罹患したことを責めるものが多いように感じる。

罹患者を責める人は、罹患して亡くなられた方が仮に快復していたならば、やはりバッシングを浴びせていたのだろうか。

罹患したくてなる人はいない。

罹患しないように対処していても、100%罹患しないという保障はない。

また、新型コロナウィルス以外の病気、たとえば白血病などに罹られた方に対してバッシングをする人はいない。

その違いはなんなのか?

新型コロナウィルスは感染症だからなのか?

とはいえ、今までと同じ暮らしを続けても罹りうる病気だ。

罹患したからといって、責められる理由はない。

「新型コロナウィルスがこれだけ騒ぎになっていて、熱が出たら病院へ保健所へ、と言っているのだから、熱が出たり倦怠感があったり味覚障害があっりしたら、人にうつさないように行動しろ!」と言うけれど、

それを許さない職場環境、人びとの意識がある。

新型コロナウィルスが出てくる前、インフルエンザで発熱しているにも関わらず出社する人がいた、出社させる会社があった。ノロウィルスに罹り吐き気をもよおしているのに、出社しなければならない旨吐露している人もいた。

病気にかかるかからないは気持ちの持ち方だ!

熱が出たって、やる気があれば休もうなんて思わない!

日本には、いまだにそいうことを言ってはばからない人・会社がたくさんいる。

そういう人は恐らく、新型コロナウィルスの罹患は、気のゆるみ、やる気のなさから生じると思っているのかもしれない。

それゆえに、罹患者を見下す。

それゆえに、(コロナに限らず)罹患された方は頑張ってしまう(動けない方もいるけれど)。

生まれ、生きていれば、誰もが老いてゆくし(生まれたばかりの赤ちゃんだって、老いに向かって生きている)、病気にも罹るし、やがて死にゆく。

四苦、生苦・老苦・病苦・死苦とは、

生老病死そのものの苦ではなくて、

そこから抗おう、それを否定しよう、目の前の老病死に苦しむ人を嫌悪する、そういうところから生まれる「苦」をいうのではないだろうか。

2020年5月14日 (木)

からだを鍛えた後の静養も大事です

大相撲力士 三段目力士の勝武士さんが、新型コロナウィルス感染により逝去されました。28歳でした。

お悔やみを申し上げます。

新型コロナウィルスの解析がまだ進んでいない頃、「若い人は罹患しない。しても発症しないか、軽症で済む」という旨の、専門家の説明がコロナの実体として受け止められ、今でも多くの人が信じているのではないでしょうか(真偽は別にして、少しでも安心できる情報にすがりたくなるものです)。

けれど、ウィルスからすれば、年齢も性別も国も地域も関係ありません。私たちは、誰もが罹りうる前提でいなければいけません。

ステイホームが要請され、多くの人が自宅中心の生活をされていることと思います。

とはいえ、体を動かしたいと思うのは自然のこと。

ホームステイが言われてから、朝、門前の掃除をしていて、今まで見かけたことのないランナーを多数見かけるようになりました。

運動したいのですね。

けれど、注意しなければならないのは、運動をして体力を消耗するということは、免疫を下げるということです。

からだを鍛えれば免疫力も上がって強くなる!と思っている方もいるかもしれませんが、運動後は免疫力が落ちます。どんなに身体を鍛えているアスリートであっても。

免疫力を維持する、高めるのは、規則正しい生活、適度な量の食事や飲酒、睡眠です。

体を動かしつつ(鍛えるまでのつもりはなくても)、休めるときはきちんと休む。

それが大事なこと。

そういうことを想うと、アスリートの皆さんは、大変なリスクと共にパフォーマンスを高めています。

今まで当たり前のように見ていた大相撲やプロ野球やJリーグや競泳や体操や卓球や諸々の競技、そしてオリンピック・パラリンピック出場を目指す選手たちなど、試合や大会もままならない現状において、今も尚身体を鍛え、いつでも最高のパフォーマンスを出せるように気持ちの糸が切れないように努めておられます。
コロナ禍にある現在(いま)だけの話ではなく、アスリートたちが競技でみせてくれるパフォーマンスの背景には、からだを鍛え、技術を向上させるだけではなく、気を付けなければ、一般の人以上に病気や怪我の高いリスクがあります。

見ている方は、勝負の結果だけで一喜一憂したり、応援する選手やチームに結果が伴わないと罵声を浴びせたりしますが、競技に臨むその姿を見せていただく その時点で、素晴らしいものを見させていただいてるんだなぁということを、感じました。

亡くなられた勝武士さんは、三段目の力士です。まだお客さんもいないような時間帯に取り組みがあるわけですが、大相撲好きの友人は、その勝武士さんの取り組みも何回か見ていて、記憶に残っていると言っていました。それだけに、とても悲しいと。身近に感じていたのかもしれません。

競技者の背景には、たゆまぬ努力だけでなく、家族や身内や仲間や友人、応援している人びと、つまり人もいます。

勝武士さんの逝去に伴い、多くの方が悲しみの中に身を置いています。

そのことにも思いを馳せ・・・

南無阿弥陀仏

2020年5月13日 (水)

声を挙げるのに、その人の職業は関係ない

一昨日の投稿で「♯検察庁法改正に抗議します」について触れた。

多くの芸能人、俳優 歌手 タレントが抗議の意思表示をされていることでも話題になっている。

けれど、ある歌手が抗議の意思表示をしたことに対して、政治評論家を名乗る方から「歌手やってて知らないかもしれないけど、」と、抗議の意思表示をたしなめられることがありました。
評論家であるならば、世間に、知らない人に分かりやすく伝えるのが生業だと思うのですが、「あなたは知らないで言っているのでしょう。ご自身の職業をがんばってください」という言い方は、ご自身のお仕事の放棄をしているように聞こえます。

さて、「多くの芸能人(というくくりもいかがなものかと思いますが)が抗議の声を挙げている」というような見出しで、報道各社も「♯検察庁法改正」について取り上げています。

けれど、違和感や気持ち悪さがあります。

声を挙げるのに、その人の職業は関係ないからです。

日本国内の事柄の法律やその改正に関して、おかしいと思うにしろ、それは大事なことだと思うにしろ、誰が声を挙げてもいいことです。

わざわざ “芸能人が” とクローズアップする姿勢は、ある問題が起こっているという事実や その問題点を周知するために、関心を持ってもらいやすい利点はあるかもしれません。けれど、「芸能人も興味・関心を示している、声を挙げている」という報道の仕方は、「あなたは何も知らないから」と言う評論家と、同様の差別意識や上から目線があるように感じます。

一国民の声として、批判の声が挙がっている。ツイッター上だけでも400万件を超える声が挙がっている。

決して、看過できる数字では、声ではない。

でもそれは、芸能人が多く声を挙げていることが報道されるべきことではない。

法改正に関して、他の法案と抱き合わせで国会に提出したり、その改正によって生じる事柄が自明であるにも関わらず強行しようとしたり、コロナ対策への対応は後回しにしてその法改正を強行しようとしたり、国会で追及されても担当大臣の回答がしどろもどろだったり(政治評論家が突っ込むべきはこっちだと思う)、不備の多い法案改正であることを報道するべきです。

「日本の国民は政治について無関心だから何も知らないでしょうけど、政治のことは政治家に任せて、あなたたちは自分の仕事を頑張って(税金を納めて)ください」なんて言われたくない。

2020年5月12日 (火)

できることを、やっていく

昨日は暑かったですね💦

ここ数年、初夏の前段階くらいでからだがへばってしまうようになり、今年もそんな時期を迎えていました。

「暑い日、ステイホーム中はクーラーをつけて、水分を摂ってください!」という警告が早くも出ていました。

皆様、お気を付けください👋

昨日は、小学校の登校日。

とはいっても、一週間前に渡された課題を持って学校に行き、新しい課題をもらって帰ってくる、学校の滞在時間10分弱という登校日状態です。

そんな状態でも、担任の先生とお話できたり、友だちと会えたり、貴重な時間でした(付き添いで行ってきました)。

で、新しい時間割(過ごし方)と課題をいただき、

今日から先生の授業がネットで見られるようになっていました。

今までもそれなりに時間を決めて勉強したり、遊んだりして過ごしていましたが、学校からもらった時間割にしたがって勉強タイム。

長女と次女、それぞれにパソコン(私と妻のん)を眺めています。

こういう時代なんだなぁと再認識。

そのうち、ZOOMやTeamsなどを使って、学級会とかも開かれるのかな?

まぁ、お坊さんの会議も同様に行われています(^▽^)

親鸞聖人の時代にそんな媒体があったら・・・

京に戻った親鸞聖人に、関東の門徒さんたちが、「ご聖人、ご法話をお願いいたします」とか「尋ねたきことがございます」とか、やりとりしていたのかな。そんなことできたら、息子善鸞の義絶も起こらなかったのかな? なんて、考えても仕方ないことを想像してみました。

ドラえもんの道具を望むみたいに、あのときあれがあったら、こういうものがあれば このように使うのに、なんて思うときもある。
けれど、のび太君のように使いこなせない、使い方を誤る、調子に乗ってしまう、ということを、人間はしてしまうものなんだ。

ものが無ければないなかで、考え、工夫し、行動する

ものが有るならばあるなかで、考え、工夫し、行動する

できることしか、できないのだから

できることがあるならば、できることをやればいいのだから

2020年5月11日 (月)

崩壊の足音

検察庁法改正案が出され、「♯検察庁法改正案に抗議します」と、ツイッター上で投稿が相次いでいます。

多くの芸能人の方が抗議のツイートをしていることでも注目を集めています。

特定の機関に権力が集中することを防ぐために、日本では三権分立があり、立法と行政と司法とに分かれています。

三角形は、その形の上で、とてもバランスがとれています。

どの点を、どの辺を押しても崩れません。

四角形やそれ以上の多角形は、形が崩れてしまいます。

権力においては三権分立があります。

最近よく耳にする「三密(密室空間・密集場所・密接場面)を避けましょう」も、“3”で表現することで印象に残ります。

このコロナ禍で子どもたちは、外で遊ぶ時“間”が限られ、公園という空“間”で遊んでいると苦情を言われ、仲“間”と密になって遊ぶこともできません。コロナ禍以前からの話ですが、子どもたちは「三間(さんま)」を失っています。時間・空間・仲間は、私を生かす大事な“間”です。

非核三原則の「核兵器を、持たず、作らず、持ち込ませず」は、脳裏に焼き付いているのではないでしょうか。

小学生の避難訓練のときは「お・か・し」の約束がありました。「おさない・かけない・しゃべらない」。それも記憶に残っていますが、今は防犯標語で「いかのおすし」というのがあるのですね。「しらない人について“いか”ない」「しらない人の車に“の”らない」「“お”おきな声でさけぶ」「“す”ぐにげる」「何かあったらすぐ“し”らせる」のだそうです。初めて「いかのおすしを守りましょう!」と耳にしたときは、何!?と思いました(^▽^)

真宗大谷派専修学院の竹中智秀先生は、弥陀の本願「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」のおこころを、「えらばず きらわず みすてず」と表現してくださいました。この言葉は、学院で学ぶ方のみならず、親鸞聖人の教えに触れる人の多くが耳にします。

権力に対しても、標語やメッセージを発するにしても、“3”はバランスが保たれていて、強くて、記憶に残ります。

それぞれは それぞれなりに完結しているのだけれど、ほかのふたつによって補完されている。ひとつだけでは成り立たず、みっつあるからこそのひとつです。

みっつ のうちの ひとつ でも崩そうとするならば、結局はみっつとも崩れてしまいます。

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2020年5月10日 (日)

母なる大悲

曜日の感覚を、ゴミ出しの日で保っています (+_+)

2020年5月10日(日)

あ、今日は「母の日」なのですね。失念していました。

例年なら、アレンジ花を買ったり、母が欲しがっている本を買ったりしているのですが、現在(いま)は極力外出を控えています。

「う~ん、お花も買いに行けないなぁ・・・」

なんて思っていたら、娘が折り紙で作ったお花をママ(妻)に渡していました。

おぉ‼ 買ってすまそうとする根性がこびりついていました💧

気持ちのこもった手作りの品もいいですね♪

私も折り紙で花を作ろう(〃▽〃)ポッ (←多分、それは違うと思う)

母の日にちなみ、「母」という字について

以前書いた文章ですが…

 

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親鸞聖人は「母」という字を、上記のように書かれます(上記の字は、住職の筆です)。
「母」の字の中に「子」がいます。生命の源、母に対する敬いの気持ちでもあり、母が子にかける愛情を表わしてもいるのかもしれません。
しかし、聖人の書かれる「母」からいろいろ考えていると、敬意や愛情のみを表現されたのではないように感じてきました。
母の、子に対する愛情は計り知れません。しかし、愛情ばかりを注げられないのも、人間です。愛しているけれど、愛に徹底できない。愛したいのに、愛せない。愛しているゆえに、憎い。子もまた、母に敬いの気持ちだけを持つことはできない。敬ってはいるけれど、腹が立つ。大切なんだけど、鬱陶しい。人間の持つ愛情には、複雑な感情が入り混じっています。
このような気持ちになるということは、関係が近いということ、大切な人であるということの表われでもあるのですが。

聖人が、「母」の字をこのように書かれるのは、人間の想いを超えた、大いなるはたらきとの出遇いがあったからだと思います。
聖人が書く「母」は、「母」なるものを表わしているのと同時に、「子」なるものをも表現しています。母に包まれ守られながら生きている存在。それが「子」。
生きとし生けるもの すべてを「仏(ほとけ)の子」と表現することがあります。老少男女、たとえ国が違っても、たとえ信じる教えが違っても、生きとし生けるもの、みんな「仏の子」です。仏が子を想う慈しみのこころに、差別や区別はありません。
「母」の中の「子」…それは私。仏の子です。人間の哀しみを抱えながら生きる私を、慈悲のこころで包んでいます。私は、すでに仏の慈悲に包まれながら生きているのです。
聖人も、人間の持つ哀しさをなんとかできないかと思い悩んだことでしょう。しかし、それは無理なこと。関係が近ければ近いほど、人と人との出会いがあればこそ、愛情も憎しみも深くなるのですから。そのことに目覚めたとき、哀しみは哀しみとしての必然性があり、だからこそ自身を包み込む大いなるはたらき、「大悲」を感じられたのだと思います。

親鸞聖人は、
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
(私親鸞は、父母の供養のために念仏を申したことは、いまだかつて一度もありません)
『歎異抄』

と、言われました。
このセリフを受けて、「なぜ両親のために供養したことがないのですか?」とか「親鸞聖人は冷たい人ですね」などと言われることがあります。

私たちは、「亡き人のため」と言いながら、自分のための供養をしてはいないでしょうか。
親鸞聖人は、父母の縁によってある いのちを感じ、そのいのちは大いなるはたらきに包まれていることを感じ取られました。我が身を生かすはたらきを感じ、今、私にまでつながるいのちの流れを受け止められたのです。ですから、「父母の孝養のため」の念仏はしたことがないのです。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、「大悲」より私に与えられた いのち感覚の告白のことばです。
今も、昔も、これからも、「大悲」を受けながらこの身がある。その喜びを、聖人の「母」の字から感じました。
南無阿弥陀仏
 

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2020年5月 9日 (土)

悩むというのは自覚である

おはようございます

昨日、本堂前の掲示板のお話をしました。

今回は、ふたつの言葉を掲示してあります。

昨日の「一本の草さえ 生きねばならぬ 使命をもっている」と、

もうひとつは

「悩むというのは自覚である 悩まされるというのは無自覚である」

という曽我量深先生の言葉です。

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5月6日の投稿「時期純熟」で、
言葉そのものに問題はないけれど、受け取る側のキャパがいっぱいいっぱいだと受け入れ難い言葉というものがありますね。
という旨書きました。

そういう意味では、この言葉も、痛みを感じる言葉かもしれません。

たしかに、現状においては、

「三密を避けてください」と要請している ソーリ自身が、大人数で長時間会議をしていたり、
本当に給付金を至急配布する気持ちがあるのであれば、「こういうときのためにマイナンバーがあるのです」と訴えて、マイナンバー活用の意義を明らかにすればいいのに、マイナンバーに触れもしない。消費税10パーセントに上げるときは、そのポイント還元にマイナンバーを活用するとまで言っていたのに。つまり、それほど給付金を出したくないということの表われ‼

「37,5度以上の熱が4日続いたときに、新型コロナウィルスのPCR検査相談の目安としてください」という指針を「ひとつの基準のようにとられたのは、我々からみれば誤解です」と今更発言するコーロー大臣

世界中の人々が影響を受けているほどのウィルスだから、なにが100点満点の対応かなんて誰にも分からない。PCR検査にしろ、今ある薬の活用にしろ、どの程度人の動きを抑制すべきなのかにしろ、専門家だって分からない。何がいいのか悪いのかなんて分からない。今この瞬間には有効でも、時間が経つとべつの問題が起こることもある(薬の副作用とか)。
けれど、手を尽くそうとしているのか、やる気がないのかは、伝わってくる。
残念ながらこの国の政治に携わる人の多くは、やる気がないのが見えてくる。この国に住む人を守る気持ちがないことが伝わってくる。

あ、愚痴だらけになった💧

そんな政治屋さんに「悩まされる」現実ではあるわけだけど、
現在の状況に「悩まされる」感覚は、被害者意識だけになって苦しいし、こころの身動きが取れないし、得るものが残らない。
現在の状況に「悩む」ならば、立ち止まるにしても、行動を起こすにしても、そこに何らかの光明が見えてくる。今に対しても、これからに対しても、何かしら得るものがある(決して、得ることが目的ではないけれど)。そういうことを想い、曽我先生の言葉を掲示しました。

「悩まされている」という感覚は、「自分も、誰かを悩ませているかもしれない」という想いを思い起こさせない。

「悩む」とき、誰かのことも含めて考えている。

«先に歩むという使命

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