2018年5月 8日 (火)

お育てをいただきました。ありがとうございます

2018年5月2日 絵本作家の かこさとし さんが亡くなられました(92歳)。
私が小さい頃は「だるまちゃん」シリーズをよく読んでいました。
娘たちは『からすのパンやさん』がお気に入りで、どれだけ読み聞かせしたことでしょう。
かわいい絵とストーリーの絵本だけでなく、風景を描いた緻密な絵も引き込まれました(絵巻仕立ての「かわ」は、見ていてワクワクします)。

2018年4月5日には高畑勲監督が亡くなられています(82歳)。
私の中での高畑勲監督作品といえば『火垂るの墓』です。
4月13日に追悼として放送されました。翌日までに仕上げなければならない仕事があったのですが、放送を見てしまいました。涙をポロポロこぼしながら。何度見ても、ストーリーに、節子の声に、ドロップの缶に涙腺が緩んでしまいます。
娘たちは、『平成狸合戦ぽんぽこ』が好きで、録画したものを何度も何度も見ています。つい、「また見てるの!」と言ってしまいますが、今度見ていたら、「どこが好き?」と聞いてみたいと思います。
長女が小さいときのヘビーローテーションは『パンダコパンダ』。ルパンの声の山田康雄さんがパンダコパンダ2作品ともに出ていて、懐かしいのと、ルパン以外の声もやってたんだ!(当然ですが)という驚きと、記憶に残る作品です。

自分自身の幼い時の思い出の一端と、そして子どもたちと一緒に楽しんだ作品を生み出してくださった方が亡くなられ、淋しいです。
けれど、子どもたちの元気な声が聞こえたときに周りの者をも元気にさせるエネルギー。そのエネルギーの根っこに、かこさとしさん 高畑勲さん の、子どもたちへの愛情が流れ続けることでしょう。
小さな人たちを敬う方々の姿に、私もお育ていただきました。

2018年5月 1日 (火)

2018年5月のことば

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人類は、生類の一部であるとき、はじめて人類たり得る。

生と死
かつて、ある場所で法話をした後の座談会での話。
「衛生状態の悪い国の人って、子どもをたくさん産むじゃないですか。どうしてあんなに産むんでしょう。産むべきでないと思うんだけど」と、語る人がいました。
私の法話に対しての感想・意見ではなかったので、私がその尋ねに応えることはしませんでした。けれど、私はこころの中で思いました。「それは、生きているからです」と。
帰宅して、座談会での声を妻に話すと、妻は「それは、死ぬからだよ」と話してくれました。同じことを考えているなぁと思いました。「生きているから」と「死ぬから」。表現は反対ですが、言わんとしていることは同じです。
衛生状態の悪い国は、政治状況や治安も良くはないことでしょう。そのような環境は、子どもを産み、育てるには適していないと、座談会で語られた方は考えたのでしょう。そんな気持ちも、分からなくはありません。しかし、いのちあるものは、子孫を残すことを第一に考えます。「考えます」という表現もおかしいですね。考えるまでもなく、計算するまでもなく、いのちとして、我がいのちを懸けて子孫を残します。そういう意味において、私は「生きているから」と思いました。
環境が落ち着いた場においては、死は非日常としてしか映りません。しかし、環境の良くない場では、死は日常です。いのちが、次から次へと絶えてゆく。死が日常にあるからこそ、子孫を残すことに必死になります。生類として当然必然の営みです。おそらく、そういう意味において妻は「死ぬから」と言ったのだと受け止めています。
しかし、「人間は、最も優れた生物である」とか「人間は、万物の長である」などという考え方に立ってしまうと、「子孫を残すために生まれてきたわけではないだろう」とか「より大切な使命があって生まれてきたはずだ」などと思い、「生類の一部である」ことを忘れてしまうことでしょう。そのことは結局、いのちの否定、人類の否定につながるのですが。

石牟礼道子さん
今月のことばは、今年2月10日に亡くなられた石牟礼道子さんと交流のあった若松英輔さんが、彼女の綴ったことばを受けて表現されたものです。若松さんの文章は続きます。
「しかし、人類は、いつしか生類とのつながりを自らの手で断ち切ったのではないか。」と。
 (参考「週刊金曜日」1178号 2018年3月30日発行)
石牟礼道子さんは、人間の極限的惨苦を描破した『苦海浄土』で水俣病を告発し、豊穣な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説の主題にすえておられました。
阿弥陀さまの浄土へ還られた彼女の眼を通すと、近代社会の人類は、生類とは切り離されてある。いや、生類から自ら切り離してあろうとした人類が、行く場を見失って放浪しているように見えていたのかもしれません。人類は、すでに人類たり得なくなっている、と。

反対言語=同義語
さて、「生きているから」と「死ぬから」は、表現は反対だけれど、言いたいことは同じであると書きました。その妻との会話のおかげで、「反対の意味の言葉は、同義である」という感得がありました。

たとえば「生」と「死」。
法話で、「生と死は、切り離して考えられる事柄ではありません。死を忌み嫌いながら生活していますが、生があっての死であり、死があってこその生です」などと話すのですが、そう言っていることが、「生」と「死」を違う事柄と認識して語っているように思いました。
懸命に生きることができる背景には死があり、死んで終わりではなく、死して後も、私として生きた瞬間(いのち)は、次のいのちとして生き続ける。
「生」と「死」は、見え方はまったく違うけれど、それは見る角度の違いなだけで、いのちの姿として違いなどありません。

たとえば「ありがとう」と「あたりまえ」。
法話における問いかけで、「“ありがとう”の反対は何だと思いますか?」という問いがあります。答えは「あたりまえ」です。
「ありがとう」は、「有り難う」と書きます。有ることが難い良い出来事が我が身に起きた。だから「ありがとう」と感謝の気持ちが湧いてきます。一方、「あたりまえ」は日常です。あって当然です。「あたりまえ」という気持ちに「ありがとう」という感謝は芽生えません。それゆえに、「ありがとう」の反対は「あたりまえ」なのです。
誰かのためを思ってしたことに「ありがとう」の一言がないとムッとしますよね(お礼を言ってもらうために為したわけではないのだけれど)。相手にしてみれば、「あたりまえ」なだけです。逆に、「ありがとう」を言われたとき、「え、あたりまえのことをしただけなんだけど」と、ビックリしたことはありませんか? それらを思い返してみると、「ありがとう」と「あたりまえ」は、決して反対の事柄というわけではなく、人によって表現が変わっているだけなのです。
食事を共にする家族。食事できることを「あたりまえ」のことと思っているけれど、食事の1回1回が「ありがたい」出来事です。悲しいかな、そのことに気づくのは、失ってから。「あたりまえ」が崩れたとき、「ありがとう」も一緒に崩れます。「ありがとう」も「あたりまえ」も同義です。
「あたりまえ」のそのときに、「ありがとう」を忘れずに!

「人類」と「生類」も、そもそも同義です。それなのに、いつの頃からか反対言語としてしまった。それゆえに、生類と切り離してあろうとした人類は、人類たり得なくなってしまいました。

セクハラやパワハラのニュースが、現代社会の様相をあぶり出しています。ハラスメントは、自分の優位性を保ちたいがために、他者を見下し、貶める行為です。性別や生まれや信仰する宗教等々、他者の尊厳を、自分には相容れないものとして考えています。つまり、他者を自分とは「反対言語」として捉えているのです。そのことは、自分自身の尊厳を自ら傷つけることになります。
他者と自分(私)を、「反対言語」ではなく「同義」として頷く。

私は、
他者と共にある中での一人であるとき、
はじめて私たり得る。

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右は、昨夏 長崎のガラス細工屋さんで買ったステンドグラス製の「カブト」です。やっと飾るときがきましたhappy01
左は、「鯉に乗る少年」の陶磁器です。

2018年4月20日 (金)

いつも ここにある いのち

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早いもので、4月も折り返してしまいました。暑くなったり、寒くなったり、着る物に困ってしまう気候ですね。体調も崩しやすいです。お元気でいらっしゃいますか?

4月19日(木) 西蓮寺永代経法要に向けた「おみがきの会」を開催しました。ご参加いただきました皆様、ありがとうございます。おかげさまで、綺麗になった本堂で永代経法要をお勤めすることが出来ます。
〔西蓮寺永代経法要 4月29日(日) 正午より 法話:白山勝久(西蓮寺副住職) ご参拝いただけます方は、コメント欄にメッセージをください〕

気候不順の折、今年は、桜の開花も早く、散るのも早かったですね。
桜だけではありません。山門入って右手の黄色い牡丹が咲いています。昨年は、まさに永代経法要に合わせて咲いたかのように、4月29日に満開だったのですが、10日以上も早くから咲いています。
境内のボタンも、シャクヤクも、ツツジも、ハナミズキも、みんな咲いてしまいました。かなり早い開花です。

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花は、確かに咲いたときに、「ボタンが咲いた」「シャクヤクが咲いた」「ツツジが咲いた」「ハナミズキが咲いた」「サクラが咲いた」と、そこに花が、木があることを認識します。
けれど、考えてもみれば、そこに一年中いてくれるのですよね。
お寺に来てくれるダスキンさんが、「サクラが咲くと、あ、ここにもあそこにもサクラがあったんだ!って気付きますね。いっつも見てるのにhappy01」と仰っていました。
花が咲いたときだけでなく、いつもそこにいてくれる。それなのに、気付かない私。花が咲いていなくても、サクラはサクラ、ボタンはボタンです。そこにあることの感謝を忘れずに生きたいものです。

花だけでなく、新緑の候、青葉も目にまぶしいです。
葉は、花を引き立てて下さっています。ツツジの花の、さまざまな色、とても美しいです。でも、その美しさは、葉があってこそ引き立っています。
「おみがきの会」も終り、みんなでお座敷でお昼ご飯を食べているとき、中庭に咲くツツジを見ながら感じました。
あ、新緑って美しいな。そんな気付きをいただけるのも、永代経のご利益でしょうか。

開花が早いの遅いの、(お花見に合わせて)いつ咲いてくれだの、散るのが早くて残念だの、勝手なことばかりですね。
花びらは散っても、花は死なない。形は滅びても、人(いのち)は死なない。ですねheart01

2018年4月 1日 (日)

2018年4月のことば

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咲いた花見て喜ぶならば
咲かせた根元の恩を知れ

花びらは散っても 花は散らない
春のお彼岸お中日に雪が降り、子どもたちが喜んで雪だるまを作っていました。そうかと思えば、お彼岸が明ける頃には気温も上がり、桜が開花し、瞬く間に散っていきました。
誰から教わるでもなく木々は芽吹き、花は咲きます。もっと愛でていたいという願いをよそに、花は散ってゆきます。だからといって木々や花々は死んでしまうわけではありません。一年後の同じ頃、誰に起こされるでもなく、また芽吹き、また咲きます。

私は、目に見えるものだけ、目に見えるところだけで物事を判断・評価してしまいます。けれど、目に見えている部分なんてほんの一部に過ぎません。春、私たちの目に映える桜。花があり、枝があり、幹があり、根があります。そして、大地があり、雨の恵みがあり、厳しい冬の寒さと春の陽光があって花が咲きます。桜の開花を喜ぶならば、花を咲かせるための縁や恩があることを忘れたくありません。
根元の恩だけでなく、さまざまな事柄が縁となり、恩となって支えています。散った花びらも、枯れ朽ち、大地に還り栄養となり、木々を育てます。そして一年後、花を咲かせます。いのちの循環です。

春彼岸中、玄関から庭を眺めていると、今年はやたらと鳥の鳴き声が聞こえてきました。庭を見回すと、松や白梅や百日紅(さるすべり)の幹の空洞から鳥が出入りしている姿が目に入りました。空洞が出来るほどの木々です。かなり年を重ねています。特に白梅は、これだけ幹ががらんどうになりながら、よく毎年こんなにも美しい花が咲くものだなぁと感動します。幹の空洞が、鳥たちの休息の場となっています。
根元の恩だけでなく、年を重ねた木々の空洞にも恩がありました。

形は滅びても 人は死なない
私が私となるために、どれだけの人びととの出会いがあったことでしょう。どれだけの書物やことばとの出会いがあったことでしょう。楽しいことも辛いことも含めてどれだけの出来事と遭遇してきたことでしょう。そのすべてが根となり、幹となり、私が私となりました。
私という花びらが散った後も、後を生きる人に何かを残し、新たな花が咲くものです。形は滅びても、人は死なない。

恩は普遍的
先に「目に見えるものだけ、目に見えるところだけで物事を判断・評価してしまいます」と書きました。けれど、果たしてどれだけ見えていることでしょう、どのように見えていることでしょう。
境内の掃除をしていると、「こんなところに木が植わってたっけ? こんな花が咲いてたっけ?」と思うことがあります。西蓮寺で何十年と生活させていただき、掃除をしてきたのに、未だにそんなことがあることが驚きであり、笑えることでもあります。
同じものを見ていても、人によって見え方・感じ方は違います。ある人にとって「かわいい」「きれい」に見えるものも、他の人には不快に見えることもあります。太陽や虹の絵を描いても、国や人によって、その色や色の数は違います。
自分の見え方・感じ方が正しいとは言い切れません。また、どこかに正解があるわけでもありません。見え方・感じ方は人それぞれ、千差万別です。でも、根元にある恩は普遍的なものです。
「咲かせた根元の恩を知れ」という、その「恩」とは、花を咲かせてくれた恩という意味ではなく、喜びの感情を与えてくれた「恩」ではないでしょうか。咲いた花を見て私は足を止め、喜び、感動し、いろいろと考えます。こころを揺さぶり、動かしてくれた恩。忙しさを理由に、花を見て感動するという余裕も失いがちです。感動や共感というこころの揺れを押し殺し、無表情な感情で日々を過ごしていませんか。喜怒哀楽という感情を持ち合わせているのです。こころの揺れや変化があってこそ、生きていると言えるのではないでしょうか。
こころを揺さぶり、動かしてくれるものから、私は「恩」をいただいています。

人生に必要な知恵は
3月、次女が幼稚園卒園式を迎えました。幼稚園卒園は人生で初めての別れの儀式ではないでしょうか。次女は、どのようなこころの揺れを感じたことでしょう。卒園に際し、幼稚園からいただいたロバート・フルガム氏のことばをご紹介致します。今の私の根元には、幼少期にいただいた恩がありました。

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』

人間、どう生きるか、
どのように振る舞い、
どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなければならないことを、私は全部残らず幼稚園で教わった。
人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。
私はそこで何を学んだろうか。

何でもみんなで分け合うこと
ずるをしないこと
人をぶたないこと
使ったものは必ず元のところに戻すこと
散らかしたら自分で後片づけをすること
人のものに手を出さないこと
誰かを傷つけたら、
ごめんなさい、と言うこと
食事の前には手を洗うこと
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと
焼きたてのクッキーと
冷たいミルクは体にいい
釣り合いのとれた生活をすること
―毎日少し勉強し、少し考え、
 少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、
 そして、少し働くこと。
毎日必ず昼寝をすること
表に出るときは車に気をつけ、手をつないで、離ればなれにならないようにすること。
不思議だなと思う気持ちを大切にすること。

ロバート・フルガム(池 央耿訳)

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2018年3月31日 (土)

掲示板のことばアーカイブズ(31)

2007年(平成19年)

1月〔359/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」101〕
如来の本願は
風のように身に添い
風の如くに流れ続ける
  平野修

2月〔360/寺報102〕
経(きょう)は経(けい)なり
経(きょう)は鏡(かがみ)なり

3月〔361/寺報103〕
3月の風と 4月のにわか雨とが 5月の花をもたらす
  イギリスの諺

4月〔362/寺報104〕
死に支度 いたせいたせと 桜かな
  小林一茶

5月〔363/寺報105〕
絵心がなくても絵は描けるけれど
物語(ファンタジー)がなければ人生は描けない

6月〔364/寺報106〕
天命に安んじて人事を尽くす
  清沢満之

7月〔365/寺報107〕
私を傷つけるのが人なら 私を支えるのも人
私が傷つけるのが人なら 私が支えるのも人

8月〔366/寺報108〕
人間は苦悩する才能を持った生き物です

9月〔367/寺報109〕
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける
   親鸞聖人

10月〔368/寺報110〕
私を助ける阿弥陀さまがいるのではない
私が助かる法を阿弥陀さまというのです
  安田理深

11月〔369/寺報111〕
如来に信ぜられ
如来に敬せられ
如来に愛せらる
かくて我等は如来を信ずるを得る
  曽我量深

12月〔370/寺報112〕
愚かなる 身こそなかなか うれしけれ 弥陀の誓いに あると思えば
  良寛

2018年3月30日 (金)

掲示板のことばアーカイブズ(30)

2006年(平成18年)

1月〔347/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」089〕
生のみが我等にあらず 死も亦我等なり
我等は生死を並有するものなり
  清沢満之

2月〔348/寺報090〕
幸福を求める者は 必ず不幸になる
  和田稠

3月〔349/寺報091〕
南無阿弥陀仏 合わせる私の手の中に どれだけの罪業があることだろう

4月〔350/寺報092〕
四季があるように 人生の節目で人はまた こころをあらたにする

5月〔351/寺報093〕
高いつもりで低いのが教養
低いつもりで高いのが気位

6月〔352/寺報094〕
自分の悲しみを だれか好きな人に打ち明けることができれば その時、悲しみはほとんど消える
  アベル=ボナール

7月〔353/寺報095〕
気配(けはい)を発すること 気配(けはい)を感じること 気配りのはじめです

8月〔354/寺報096〕
たとえ明日 この世の終わりが来ようとも 今日わたしは リンゴの木を植える
  ルター

9月〔355/寺報097〕
苦悩の旧里はすてがたく 安養の浄土はこいしからず
  親鸞聖人

10月〔356/寺報098〕
どんなに孤独なときも ひとりではないのです

11月〔357/寺報099〕
他力というは 如来の本願力なり
  親鸞聖人

12月〔358/寺報100〕
ありがとうの想いを忘れて生きることのかなしさ

2018年3月29日 (木)

掲示板のことばアーカイブズ(29)

2005年(平成17年)

1月〔335/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」077〕
喜怒哀楽は連鎖する感情です

2月〔336/寺報078〕
優しさって 人の憂いが 分かること

3月〔337/寺報079〕
古木は老木ではありません 毎年新しい芽が出てきます

4月〔338/寺報080〕
教育 教えることによって私が育てられること

5月〔339/寺報081〕
許されるつもりで謝るのか
 許されない覚悟で謝るのか

6月〔340/寺報082〕
他力の道こそ 最後まで努力を尽くす道

7月〔341/寺報083〕
真の贅沢というものは ただひとつしかない
 それは人間関係という贅沢だ
   サン=テグジュペリ 『人間の土地』

8月〔342/寺報084〕
なみだは にんげんのつくることのできる 一ばん小さな海です
  寺山修司

9月〔343/寺報085〕
地獄への道は 善意で敷き詰められている

10月〔344/寺報086〕
経験というのは、単なる時間の積みかさねではなく 人を感じる眼であり、耳であり、皮膚感覚なわけだ
  松田優作

11月〔345/寺報087〕
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
  『歎異抄』第1章

12月〔346/寺報088〕
自分のこころを 自分のこころだけで見るのは怖い

2018年3月28日 (水)

掲示板のことばアーカイブズ(28)

2004年(平成16年)

1月〔323/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」065〕
あと何年生きられるか 引き算の人生
今・今・今の積みかさね 足し算の人生

2月〔324/寺報066〕
はすとにわとり (金子みすゞ)
 どろのなかから はすがさく 
 それをするのは はすじゃない
 たまごのなかから とりが出る
 それをするのは とりじゃない
 それにわたしは 気がついた
 それもわたしの せいじゃない

3月〔325/寺報067〕
すべてに対して誠実であるということは
 すべてに対して不誠実であるということ

4月〔326/寺報068〕
事件とか悲しいニュースとかありますけど
その責任追及をするのではなくて、
自分の内面に責任とか原因の一端があるんじゃないかと
常に感じていたい
  Mr.Children 桜井和寿

5月〔327/寺報069〕
「ゆとり」って 時間の余裕じゃなくて こころの余裕なんだよね

6月〔328/寺報070〕
娑婆のいのち枯れて 後生の一大事を胸にかけて 浄土に往生する 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

7月〔329/寺報071〕
優しさが足りないのは 悲しみが足りないから
光を感じないのは 闇を感じないから

8月〔330/寺報072〕
人生には何ひとつ無駄なものはない
 私が味わった苦しみも 私が他人に与えた苦しみも

9月〔331/寺報073〕
生かされるとは 本当に大事な人に手を合わせられない自分に気付くこと

10月〔332/寺報074〕
出会いとは 再会である

11月〔333/寺報075〕
楽を求めて苦しみを除くと 今まで味わったことのない苦しみが芽生えてくる

12月〔334/寺報076〕
ともかくも あなたまかせの 年の暮れ
  小林一茶

2018年3月27日 (火)

掲示板のことばアーカイブズ(27)

2003年(平成15年)

1月〔311/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」053〕
人との出会い 言葉との出会い 書物との出会い
その出会いを生かすも殺すもわたし次第

2月〔312/寺報054〕
人間は優しさの中にいると それさえ優しさだと感じなくなる

3月〔313/寺報055〕
ひとつの恨みで とおの恩を消し去りますか
ひとつの恨みで とおの恩を強く感じますか

4月〔314/寺報056〕
№1にならなくてもいい もともと特別なonly one
  SMAP「世界に一つだけの花」

5月〔315/寺報057〕
人に親切にすることも難しいが 人の親切を受け入れることは もっと難しい

6月〔316/寺報058〕
待つことが出来る勇気
待つことが出来る智慧
待つことが出来る慈悲

7月〔317/寺報059〕
ただほれぼれと 弥陀のご恩の深重なること
つねはおもいいだしまいらすべし
しかれば念仏ももうされそうろう
  『歎異抄』

8月〔318/寺報060〕
私が笑顔でいられるのは あなたの笑顔のおかげです

9月〔319/寺報061〕
ゆるすということはむずかしいが
もしゆるすとなったら限度はない
ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、
それは初めからゆるしてはいないのだ
  山本周五郎 『ちくしょう谷』

10月〔320/寺報062〕
おいしいご飯を望むより
 ご飯をおいしく食べられる私でありたい

11月〔321/寺報063〕
自立とは「たすけてください」と言えること
決してひとりで生きることではない
ひとりで生きるのは 自立ではなく孤立

12月〔322/寺報064〕
今哀しいことより この哀しみがうすれることのほうが ずっとかなしい
  ナカムラミツル

2018年3月26日 (月)

掲示板のことばアーカイブズ(26)

2002年(平成14年)

1月〔299/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」041〕
二度とない人生だから 一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも 無心の耳をかたむけてゆこう
  坂村真民

2月〔300/寺報042〕
やさしさは「ありがたい」と思うところから生まれます

3月〔301/寺報043〕
人は笑顔の中にどんなにたいへんなことがあっただろうか

4月〔302/寺報044〕
人間って哀しいね だってみんなやさしい それが傷つけあって かばいあって
  さだまさし「償い」

5月〔303/寺報045〕
われわれは他人によって苦しめられるのではない
  清沢満之

6月〔304/寺報046〕
どうにもならんことは どうする必要もないこと
  安田理深

7月〔305/寺報047〕
自分ができるフィールドで全力を尽くせばいい
  尾上松緑

8月〔306/寺報048〕
百人いれば 百通りの人生 考え方がある

9月〔307/寺報049〕
大人と子供の違いは いつ生まれたかということだけだ
  祖父江文宏

10月〔308/寺報050〕
愚痴っていうのは 自分が正義に立って こぼしているなぁ

11月〔309/寺報051〕
親鸞聖人は亡くなったんじゃないんだ 今も自分と一緒にいるっていうことなんだ

12月〔310/寺報052〕
悲しみがあると生きていけないのか
 悲しみがなくても生きていけるのか

2018年3月25日 (日)

掲示板のことばアーカイブズ(25)

2001年(平成13年)

1月〔287/寺報「ことば こころのはな~西蓮寺掲示板のことば~」029〕
鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ

2月〔288/寺報030〕
欲深き 人の心と 降る雪は 積もるにつけて 道も忘るる

3月〔289/寺報031〕
どうにもならぬままが 私のこんにちあるく道でございました

4月〔290/寺報032〕
この道より 我を生かす道なし この道を生き抜く

5月〔291/寺報033〕
私の目は損得を見る 如来の眼はこの私を見る

6月〔292/寺報034〕
いのちを見つめる 木のいのちを 土のいのちを あなたのいのちを 私のいのちを

7月〔293/寺報035〕
その人を憶いてわれは生き その人を忘れてわれは迷う ああその人よ

8月〔294/寺報036〕
別れ-その悲しみからの出発

9月〔295/寺報037〕
安らい
 時おり 念仏もうしながら ここまできたが
 死ねばそこが浄土や なむあみだぶつ
   榎本栄一

10月〔296/寺報038〕
人生尊し 1日尊し 只今尊し

11月〔297/寺報039〕
弥陀の五劫思惟の願を よくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなりけり

12月〔298/寺報040〕
正しい人ばかりになって ますます争いが烈(はげ)しくなってきた

2018年3月21日 (水)

2018春彼岸

春のお彼岸4日目(2018年3月21日)
寒い寒い春彼岸お中日でした。しかも、雪snow

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数日前から天気予報で「雪が降るかも」と言っていたとはいえ、ちらつく程度だろうと高をくくっていました。
とんでもないsign03 見事に積もりました。
お彼岸中は玄関でスタンバイしていますので、暖房器具さんに頑張ってもらいましたsun 思いがけない出番に、暖房器具もひとつ壊れてしまいましたcoldsweats01

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荒天の中でも、大勢の方がお彼岸のお寺参りにみえました。大切なお姿を見させていただきました。ありがとうございます。
ご結婚の報告をしてくださった方もいました。嬉しいニュースに心も温まりました。おめでとうございますheart04

玄関で、参拝される方々の姿を見ていて、こんなことを思いました。
例年の春彼岸お中日と比べると参拝者は約半分。それを少ないと感じるのか。
こんな荒天のなか、これだけの方がお参りにみえたsign01 たくさんみえたなぁと感じるのか。
同じ状況を見ていても、感じ方は変わるのだなぁ、と。

午後3時過ぎ、降雪の勢いも弱まり、外に出る娘たち。雪合戦をして、雪だるまを作り始めました。もうないだろうと思っていた雪遊びに感激だったようです。私は、寒さに震えながら、ただ見守っていました。子どもって、元気だなぁhappy01

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午後4時頃には雪から雨に変わり、積もった雪もとけてゆきました。
皆様、お風邪召しませんように。

2018年3月20日 (火)

2018春彼岸

春のお彼岸 2日目と3日目(2018年3月19日 20日)
西蓮寺ご門徒の通夜葬儀を、西蓮寺本堂にて執り行いました。
私が小さい頃からお世話になっている門徒さん。
住職が若かりし頃に「同朋の会」(西蓮寺法話会)で話していた頃から聴聞を続けてこられた門徒さん。西蓮寺「同朋の会」を知る最後の方でした。
ここ数年も、年に何度か「西蓮寺聞法会」(今は私が話しています)に足を運ばれました。「家族に内緒で出て来たの」と微笑みながらhappy01
いつも綺麗に身支度され、凛とした方でした。聞法会でも感想をお聞かせくださり、有り難いことです。

普段 通夜葬儀の際は、フラットな気持ちでお勤めするように気持ちを落ち着かせるのですが、お通夜の前に棺の中で眠るお顔を拝見し、流石に淋しさと感謝の気持ちで心が揺れ動きました。

お育ていただき、ありがとうございます。阿弥陀さまのお浄土から、これからもお照らしください。
南無阿弥陀仏

2018年3月19日 (月)

2018春彼岸

春のお彼岸2日目(2018年3月19日)
と、次女の幼稚園卒園式

子どもたち一人ひとりに卒園証書を手渡ししてくださり、ありがとうございます。
「ハイッ」という子どもたちの元気な声に、子どもたちの歌声に、思わず目も潤む卒園式でした。
先生方、幼稚園の皆様、お友達、みんなありがとう
長女と次女は3学年離れているので、長女から数えて6年間続けて幼稚園児のいる生活をしてきました。
それも終わってしまうかと思うと、ホッとしたような、淋しいような。
これからが大変なんでしょうけどね。

幼稚園アイテム 担任の先生と保護者との連絡帳「生い立ちの記」
家庭での子どもの様子や先生への質問などを書いて提出すると、先生が子どもの幼稚園での様子や感想や答えなどを書いて戻ってくる連絡帳。
長女年少の際に記入したところ、「お父さんが書いてくれるのは珍しいです」と、幼稚園内で話題に。
先生からのお返事が有り難く、子どもたちの成長も書き記したく、マメに記入。文章だけでなく、子どもの写真や時にはイラストも。
後で聞こえてきたところ、私の書いた「生い立ちの記」は、担任の先生ひとりで完結するのではなく、先生方の間でも回し読みされていたとのことhappy01
そんな嬉しい情報を聞いた頃、寺報(お寺の新聞)の内容に困っていて・・・「文字が多くて読む気がしません」という意見をいただきました・・・あ、イラスト添えればいいのかな? と、思い立ち、それから寺報にイラストを入れるようになりました。エスカレートして、今ではマンガを描いています。
絵は、小学生の時にマンガクラブに所属していて、その当時のレベルのままで恥ずかしいのだけど、寺報に絵を描くようになってから、感想をいただくことが増えた気がします。ほとんどマンガの感想ですがcoldsweats01
それでも、寺報をお読みいただき、ありがとうございます。

寺報を手にとっていただけるようになったのは、「生い立ちの記」と、それを楽しみにしてくださった先生方のおかげです。ありがとうございます。(私の「生い立ちの記」ロスの先生がいるとかいないとかhappy02
6年分の「生い立ちの記」を読み返し、子どもたちも大きくなったなぁと、あらためて感じました。
卒園おめでとうheart04

2018年3月11日 (日)

想像力で、壁は越えていける

長女、次女と続けて発熱し、看病。子どもの病気はつらい。代わってあげたいけれど、出来るはずもなく。良くなることを念じるのみ。
相手が子どもに限らず、他者(ひと)の身に起きた出来事というのは、代わることができない。私の身に起きたこともまた、代わってもらうことはできない。

東日本大震災から7年。
10年日記の3月11日のページを見返し、この7年の3.11を思い返す。
午後2時46分東日本大震災追悼法要をお勤め。
警察庁によると2018年3月9日現在、震災の死者は1万5895人、行方不明者は2539人とのこと。
報道・記録としては、15,895人 2,539人という数字で表現すべきこともあるけれど、
亡くなったのは1人の人、今もなお行方不明なのは1人の人。
大きい数字が災害の甚大さを表わしているけれど、よく見ると1人の人の人生が奪われたという現実がある。
 
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安田奈津紀さんインタビュー(東本願寺発行『月刊 同朋』 2018年3月号より)

 今は「難民は」「被災者は」など、主語を大きくして集団をのっぺらぼうにしてしまうんですね。でも難民の方にしても、誰も最初から難民だったわけではありません。シリア難民の人たちに「私の名前は難民ではありません。私の名前は○○です」と言われたことがありますが、集団の中には一人ひとり名前をもつ個人がいるんです。
 シリアやイラクの紛争は、離れたところにいると、どうしても遠い地域の話になりがちですし、集団をのっぺらぼうにしてしまうことで「難民? 何か怖そう」といった漠然として恐怖感も生まれやすくなります。けれども私たちの想像力で、そうした壁は越えていけるんですよね。そのことを伝えるのも私たちの役割ではないかと思っています。

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「難民は」「被災者は」という表現で、他者(ひと)をひとくくりにして見てしまう。しかも、自分とは切り離した他者として。
大きい主語は、顔を見えなくしてしまう。
死者数 行方不明者数も、顔を見えなくしてしまっているのかもしれない。
みんな、顔を、名前を、人生を、縁ある人びとをもっている。
大きい主語に隠れた1人がいる。1人の人生を想像すると、そこに何十人 何百人 何千人もの人とのつながりがある。その中に私も含まれている。想像を働かせると感じられる、より大きなつながりがある。

大きさに隠されて見えなくなる1人のいのち
1人を見つめていると見えてくるたくさんのいのち。

他者の人生と、代わることはできないけれど、つながっている。
決して他人事(ひとごと)ではない。

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