昨日は冷たく強い風が吹いていました。
強風が吹くと畳や廊下はザラザラに。
今日の午前中は、大人4人(住職・坊守・副住職・准坊守)がかりで掃除機をかけて水拭きをしていました。
バケツの水がすぐに真っ黒になり、何杯も水を入れ替えました。
子どもたちがいれば手伝ってもらったのですが、今日は3学期の始業式。
学校への休校要請が出ず、3学期が始まりホッとしています。
学年最後の学期、特に卒業年度の子どもたちにとっては最終学期になります。
楽しく思い出に残る学校生活を送れるといいなと願うばかりです。
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昨日、首相の会見がありました。
自分で理解したうえで、自分の言葉で語ってほしい旨、昨日の投稿で書きました。
政治家の軽はずみな行動や発言で、国民の政治不信(政治家不信)が大きくなっています。
で、政治家不信の根っこにあるものについて考えました。
その、軽はずみな行動や発言を、メディアでは面白おかしく取り上げます。それを楽しんで見ている私たちがいるのも事実です。
でも、不信感の根っこにあることは、その程度の話ではないはずです。
不信感の根っこにあるものは、「すべきことをしていない」ことに対してではないかと思います。
2021年、東日本大震災から10年経つことになります。
東日本大震災の直接的な死者数は15899人、行方不明者数2527人(2020年12月10日のデータ)。
10年経つと「一区切り」「節目を迎えた」という感覚に陥りがちですが、決して復興したと言い切れる状態ではありません。
福島県飯舘村では、自然エネルギーを利用した発電とその送電に取り組まれている方々がいます。
その特集をテレビで見ました。飯舘村の人びとが事業を起こしていましたが、国が率先してすべきことと感じました。
東日本大震災による津波から福島第一原発の事故が起こり、今もなお生まれ育った地域に戻れない人びと、戻る環境にない人びとがいます。
地震と津波は自然災害ですが、原発事故は人災です(決して、国や電力会社だけを指して“人災”と言っているのではありません)。
自然災害は、コロナも含めて、予測不可能(あるいは予測が難しい)です。
発生を抑える、発生させないという準備はできません。
どうしても自然災害が発生してからの対応になってしまいます。
(発生する前提での準備はできますが)
けれど、人災は、手抜きをすれば、気を抜けば大惨事が起こるということは分かっているという意味においては予測可能です。
事前の注意ができます。
発生後の反省を生かして、今後同様の災害が起こらないように努めることはできます。
(それでも、人災・事件・事故は起きてしまいますが)
果たして、東日本大震災が発生してからの、人災による人的被害のケアをしてきたのか、同様の人災を起こさないための努力をしてきたのか。
東日本大震災から10年。政府は、原発新設も含めて原発の再稼働を考えています。
軽はずみな行動や発言、しかも、最近は謝罪どころか開き直る態度をとるのですから、それだけでも不信感をもたらすに充分ですが、
あの大震災から10年を経て、何をしてきたか、何をしてくれたのか、これからどこへ向かおうとしているのか・・・そういうものが見えない政治家に不信感が募ることに不思議はありません。
笑い話のような行動・発言に対しては、瞬間的に怒ったり 一笑に付したりしてしまえば終わりです。
これだけの不信感が蓄積しているのは、笑い話にもならない行動(何もしていないという行動も含めて)・発言(無言・無視という発言も含めて)ゆえではないでしょうか。
逆に考えれば、どれだけ国民の心を打つ会見をしたとしても(できたとしても)、それが本心なのかポーズなのかは、それまでの行動が表しています。
それまでの行動が・・・