2021年1月27日 (水)

28日、29日、ともに配信でお送りいたします。

〇2021年1月28日(木) 真宗大谷派 東京教区「報恩講」


本年は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、YouTubeでのオンライン配信となります。配信という形であっても、お飾りを整え、身を正し、丁寧に当日をお迎えしたいと思います。

今回は皆様に真宗会館へ足を運んでいただくことがかないませんが、オンラインを通して皆様とともにご聴聞させていただきます。

【報恩講(主催:真宗大谷派東京教区)】

 12:50 配信開始
 13:00 開会
 13:10 勤行
 14:10 感話 (髙橋 昭彦 氏/東京5組存明寺)
 14:20 法話 (海 法龍 氏/三浦組長願寺)
 15:30 閉会 (恩徳讃)
〇2021年1月29日(金) 「真宗会館 設立30周年記念式典」
全国の寺院・ご門徒のご尽力により1989年11月に設立された東本願寺「真宗会館」の30周年を機縁として、あらためて真宗会館存立の意義を確かめ、向後の首都圏における教化の展開を期し、東京教区並びに首都圏教化推進本部が共同して「設立30周年記念式典」を開催します。
       勤行(嘆仏偈・短念仏・回向)
 14:10 挨拶【但馬 弘 宗務総長 / 渡辺 智香 東京教区教区会議長】
      祝辞【大谷 暢裕 門首 / 大谷 裕 新門】(ビデオメッセージ)
 15:00 課題提起 2名
      ①二階堂 行壽氏(東京 4 組專福寺・首都圏教化推進本部本部員)
      ②本田 彰一氏(東京 1 組本明寺・東京教区教化委員)
 15:30 記念講演(木越 康 氏/大谷大学学長)ー「首都圏の教化」を考える
 16:30 閉会
      挨拶(藤井 宣行/首都圏教化推進本部長)

2021年1月26日 (火)

何が不足しているのだろう

「本音のコラム」(「東京新聞」2021年1月25日(月)朝刊)

マイナンバー抜きで 宮子あずさ(看護師)

 20日の日経新聞一面に「医師・看護師を一元把握、緊急時に備えマイナンバーで」の見出しが出た。目的は緊急時における医療従事者の確保。今国会にマイナンバーと資格情報を紐付ける法案が提出されるようだ。
 コロナ禍での医療者不足が前面に出されているが、システム整備は2024年まで。即効性はない。危機に乗じてマイナンバーを使わせようという魂胆を感じる。
 医師、看護師には、現在でも、就労状況を把握する制度がある。これは本人の届け出に頼る部分が多く、不完全な面は否定できない。だからといって、国が一元把握すれば、働く人は増えるのだろうか。まさか、強制的に招集でもかけるのか。率直に言って、とても感じが悪い。まるで召集令状のようだ。
 また、マイナンバー自体にも問題がある。個人情報の点で多くの人がリスクを指摘している。マイナンバーを組み合わせることで、かえって協力が得られにくくなる可能性がある。
 これ以外にも、国はワクチン接種にまでマイナンバーでの管理を言いだしているが、これも悪手と言うほかない。賛否が分かれるワクチンとマイナンバーを組み合わせたら、打たない人が増えるのは間違いない。
 コロナ対策はまさに待ったなし。普及の進まぬマイナンバーは抜きにして、集中してやってもらいたい。

 ☆

朝、というコラムを読んだ。

夜、こんなニュースを見た。

 ☆

厚労相 「看護師復帰へマイナンバー活用」 衆院予算委

田村憲久厚生労働相は25日の衆院予算委員会で、看護師などの国家資格保有者についてマイナンバーを活用して管理する方針を表明した。「看護師が必要な時には情報提供して復帰していただく。本人の同意を得ていろんな時に本人に情報がいく仕組みを検討している」と述べた。

公明党の遠山清彦氏への答弁。遠山氏は資格を持つが働いていない「潜在看護師」を巡り「所在が分からずリーチできないのが問題だ。情報を把握し、個人情報の扱いに配慮しながら職場復帰につなげるのが今非常に重要だ」と指摘した。

新型コロナウイルス禍で、看護師などの医療従事者の人手不足が深刻になっている。政府は今国会にマイナンバーと国家資格の情報を連携する法案を提出し、2024年度までに資格保有者を一元的に管理するシステムを整備する予定だ。
(「日本経済新聞」2021年1月25日22:30配信)

 ☆

政府は、マイナンバーを活用しての看護師把握を目論んでいる。

コロナ禍のこのご時世だから仕方ないだろう・・・と考える人もいるかもしれないが、コラムで宮子さんが書かれているように、就労状況を把握する制度があるとのこと。

「本人からの届け出が必要という不完全な面がある」旨書かれているけれど、そもそも必要な人・従事したい人は届け出るべきことを届け出ているだろう。

・看護師を休職していたけれど、このコロナ禍で、自分のスキルが役立つならばと現場復帰されている方々がいる。

・後ろ髪引かれながらも、家族や自身の体調と相談して現場から離れた方もいる。

・この大変なときに、医療の現場に携わろうと決意・決心した若者がいる。

すでに、自分自身や家族や周囲の人と相談して、自分のいるべきところ、するべきことに身を置いている。

医師・看護師が足りていないというけれど、それは現場に携わらない人がいるということとは違う。

そもそも、医療従事者が飽和状態になっては儲けが減るからと、医師の人数制限を要望した組織があり、それを受け入れ 医療にお金をかけずに来た組織(国)がある。

そのつけが、このコロナ禍において露出したのであって、資格を持ちながらも現場にいない人がいるから戻ってきてもらおう!という話ではないはず。

資格を有し、現場に身を置く決意をした人は、今現に医療の現場で最善を尽くしている。

「日本経済新聞」に「政府は今国会にマイナンバーと国家資格の情報を連携する法案を提出し、2024年度までに資格保有者を一元的に管理するシステムを整備する予定だ」と書いてあるけれど、

そもそもマイナンバーの使用理由を大きく逸脱しているし、“国家資格の情報を連携”とサラッと書いてあるけれど、今回法案が通れば、今後いろいろな(すべての)国家資格が、その資格所持者の情報が、国に一元管理されていくこととなる。

それが当然となった先には、“召集令状”が届く日も来るだろうし、“召集”に従わない者の国家資格のはく奪ということも起こるだろう。

田村厚労大臣に質問をしているのは、公明党の議員。ということは、政府与党どうしでのやりとりということ。

質問者の文言を読むと、マイナンバーとの紐付けの問題性を指摘しているのではなく、マイナンバーをもっと活用するように述べている。

そこもまた、とても感じが悪い。

2021年1月25日 (月)

暖かい😌

結局雪は降らなかったけれど、寒い週末でした。

月曜日を迎え、朝起きるときは寒かったけれど、子どもたちが登校する頃には陽が射してきて だんだん暖かくなってきました。

まだ降雪や積雪に悩まされている地域の方々のことを想うと、「雪が降るかもしれません」という予報だけでビクビクしていることが申し訳なく思います。

ご無事でお過ごしください。

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2021年1月24日 (日)

支配欲の表われ

新型コロナ対策として、感染症法を改正して入院拒否者に懲役や罰金を科すことを検討している政府。

法的根拠の整ったロックダウン下における罰則規定は、法を整える段階で同時に検討され盛り込まれても仕方がない。

けれど、要請や要望でステイホーム・時短営業に多くの国民が協力している現状において、保健所や医療の現場、介護施設の状況改善に乗り出しもせずに、罰則規定に目が行くのはおかしい。

政治権力を持つ者が、国民を縛ろうとしている意識が如実に表れていて気持ち悪い。

罰則ありきならば、先ずは会食をなさった議員への処罰から手を付けてほしい。

 ☆

さて、このコロナ禍における罰則規定には反対なのだが、ふと思ったことがある。

『鬼滅の刃』人気が、今も尚続いています。

個人的には、好んで読んでいます。子どもたちにも読ませています。

けれど、『鬼滅の刃』には、人や鬼が斬られ、血が噴き出すシーンがよく出てきます。

それゆえ、「子どもに見せるべきではない」という大人の声も聞こえます。

「鬼滅の刃、子どもに見せるべきかどうか」(正確な文言ではありません)を、読者からの意見を求める新聞を見ました。

そこで、ふと思いました。

「見せるべきかどうか」、二者択一なんだなと。

残酷なシーンが多いから見せるべきでない見たくないという大人は、子どもにも見せたくない!見るな!と思うでしょうし、

『鬼滅の刃』が好きな保護者からすれば、見ていいよ!と思うことでしょう。

「見ちゃダメ」も「見ていいよ」も、それだけならば何の苦労もありません。

けれど、どうして見せるべきか否かの議論が起こるのか、ということを語り合えたならば、恐らく作者の吾峠呼世晴さんがマンガの奥底に込めた世界観や願いに近づくことにもなるのではないか。

元々人間であった鬼が、鬼にならざるを得なかった背景。

柱や鬼殺隊のひとり一人が抱える苦悩。

作者が描きたかったのは、残酷な描写ではなく、ひとり一人が生きる背景にある喜びや悲しみなのだから(と、思っている)。

答えなどない、「何を感じたか」「何を受けとめたか」、あるいは「どこが見るに堪えなかったか(それは、その人自身が抱える悲しみでもある)」などを、新聞も募集すればいいのに(でも、他者の声はべつに聞きたくないのか)。

 ☆

現代に生きる私たちは、「イエスかノーか」「良いか悪いか」「好きか嫌いか」など、二者択一、二項対立で物事を見がちです。

しかも、私が上司であったり、親であったり、報道する主体であったり、政治家であったり、相手よりも立場が上の肩書を持っている場合、それを強権的に出してしまいます。

ゆえに、「子どもたちに見せるべきか、見せないべきか」などという、「どっちか」という考えに陥ってしまいます。

その方が楽なのです。

反論されても、もし上位の立場に位置していれば、その立場を利用して自分の考えを押し付けて終わりです。

下の立場にいる者も、言わなければ言わない方が楽です。

以前は、立場の上下に関係なく物申す(物申せる)関係があったように思いますが、最近はどうなのでしょう・・・

一概に立場の上下だけで考えられる事柄ではありませんが、「コロナ終息のために罰金を科す」「見せるか否か」など、高圧的な発想が蔓延している気がします。

2021年1月23日 (土)

「恩」は、「因」と「心」から成る。

「因」には、「いたむ(悼む)」という意味がある。

つまり、「因」とは「他者への思い遣り」のこと。

「因」に「心」がついて「他者への思い遣りのこころ」、それが「恩」。

「恩」には「受けた恵みや慈しみ」という意味がある。

 ☆

今朝テレビで、某大学の様子を放送していました。

このコロナ禍、帰省もためらわれ、バイトも減って収入の減っている学生のために、企業から寄付していただいた食料・食材を学生に配っている映像でした。

(自分も、学生時代は京都で過ごしていたので、もし在学中に現在のコロナ禍のような状況になったら、どのように過ごしていただろう?ということを想います)

抱きかかえるように大切に食料を持っている学生たちが感謝の気持ちを語っていました。

そして、「恩返しがしたいです」ということを多くの学生が語っていました。

 ☆

「恩返しをしたい」と思うのは、「恩」をいただいたからというのは当然の理由だけれど、食糧という物質的な支援をいただいたこととともに心(気持ち)をいただいた、そしてその気持ちをきちんと受け止めたからなのだと思う。

「恩」は「心(こころ)因(よ)り」とも読めるなぁと、テレビを、学生の顔を見ながら思った。

「こころ より」心の奥底からの気持ち、精神的な支援。

その心の奥底からの気持ちを受けとめたから、響いたから、感謝の気持ちが湧くし、その「お返し」をしたいと思う。

その思いもまた「こころ より」起こるもの。

 ☆

「恩」は、決して押し付けるものではない、見返りを求めるものでもない。

また、「恩」を受けた側も、それに絶対に感謝せねばならないものでもない。

「恩」を相手に与える側も受ける側も、双方とも「こころ より」自然に起こるものが「恩」であり「恩返し」。

そう思うと、「報恩講」の「報恩」ということも、「恩に報いるため」のものではなく、「自然に念仏申す気持ちが起こること」だと思う。

2021年1月22日 (金)

負荷

たとえば誰も住んでいない家屋は、きれいなまま保たれ長持ちしそうそうだけれど、そうもいかない。

部屋も汚れていくし、建物にガタが出てくる。

建造物は、ある程度の負荷がかかってこそ安定が保たれる。

だから日本の家屋には、屋根に重たい屋根瓦や鬼瓦が乗っかっている。

無い方が、軽い方が、建物にとっていいんじゃない?と思うけれど、ある程度の負荷が大切。

誰も住んでいない部屋も、建物にとっては負担なのだと思う。

最近、本堂への渡り廊下を歩いていて、そのきしむ音が変わった気がする。

ご法事にお参りされる人数を絞ってもらっているので、お寺の建物のなかを歩く人の数が減っている。

たぶん、その影響が出ているのだと思う。

そういえば、本堂やお座敷の畳の踏み心地も違うような。

たくさんの人が出入りして、歩いて、座って、お参りして・・・お寺の建物は、そうやって人の温もりを感じながら磨かれてきたものなのだと感じる。

ある程度の負荷がかかってこそ、

ある程度の負荷が大切、

建造物から教えられる 南無阿弥陀仏

2021年1月21日 (木)

深謝 南無阿弥陀仏

ある出版社さんから、「令和3年2月末日をもちまして出版販売事業から撤退し業務を終了させていただくこととなりました」と、丁寧なお手紙が届きました。

諸々の事情が重なっての廃業とのことですが、新型コロナも一因です。

お仕事をやめられる方、住まいを変えられる方、体調を崩された方、諸行無常の世とはいえ、この新型コロナが私たちの生活にもたらした影響の大きさを想います。

その出版社さんからは、このブログをお読みいただいたことをきっかけに「執筆いただけませんか?」とお声がけいただき、今までに7回 法話執筆のご縁をいただきました。

廃業の報を読み、ひとり涙していたのですが、部屋に入ってきた妻に目撃されてしまいました (^∀^;)

その手紙を読んで、妻も同様に悲しんでいました。

出版社さんから初めて原稿依頼のお手紙をいただいたとき、「よかったね」と、一番喜んでくれたのが妻でした。

私の文章を長いこと読んでくれた妻なので、その文章を心に留めてくださった出版社さんに、妻自身も思い入れがあったようです。

出版社の社長がおあずかりしているお寺でも、3年に亘って報恩講の法話のご縁をいただきました。

文章を書く、お話をする・・・大切な場をいただき、鍛えられ、お育てをいただきました。

ありがとうございます。

今は、おからだお大事になさってください。

またお目にかかりましょう👋

南無阿弥陀仏

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2021年1月20日 (水)

自助・共助と公助

首相に就任した際、「自助・共助・公助。この国づくりをしたい」と発していた首相が、2021年1月18日に開かれた国会における施政方針演説で、「自助・共助・公助」には触れなかった。

先にだいぶ批判を浴びたから、この文言を除いたのだと察するけれど、本当に目指すところならば言葉を尽くせばいい。

言葉が足りなかったのなら説明をすればいい。

言わないということは、その程度の想いだったのか⤵と思われても仕方がない。

 ☆

以前も書いたけれど、「自助・共助・公助」は、「先ずは自助、そして共助、それでもダメな時に公助」などと、順を追ってなされることではない。

ひとり一人は当然自助して生きている。また、近隣の人・周囲の人たちと共に結びつき合いながら生きている。生きている背景には、公助が行き届いている(べき)。と、「自助・共助・公助」は同時進行しているはずのものである。

そもそも、大規模災害時における公助が行き届かない状況に際して、「自助・共助」で助け合いながら「公助」の支援を待とう!という意味合いで生まれてきた知恵なので、それを政治家(首相)の理念として掲げると、国民を選別する思想ともなりかねない。

背景になにがあったか(何を言われてひっこめたのか)わからないけれど、首相が「自助・共助・公助」を掲げなかったのはよかったと思う(心の中にはあるのだろうけど)。

 ☆

さて、「自助・共助・公助」という言葉を見ているうちに、不思議な言葉の並びだなぁと感じました。

「自助」は、「自らを助ける」「自身を助ける」「自らの力によって助ける(助かる)」と言えると思う。

「共助」は、「共に助け合う」と言えると思う。ちょっと無理があるかもしれないけれど「共を助ける」とも言える。

いずれにしても、「自助・共助」は、助詞「を」「に」で説明できる。

言葉に、助け合う、支え合う、補い合うといった意味合いが含まれてくる。

「公助」は、「公が助ける」という言い方が、すんなり出てくる言い方ではないだろうか。

「公」が主役(主語)となる。

「公によって助けられる」という言い方もあるけれど、その場合でも「公」が主役となる。

「公助」は、上下関係が内包された言葉なんだと気づいた。

「自助・共助」と「公助」には、立ち位置の違いがある。

「自助・共助・公助」・・・「大規模災害時や現在のコロナ禍など、多くの国民が被害に遭っているとき、公助がすぐに行き届かない人も出てきてしまいます。でも、必ず公助が行き届きますから、それまで、なんとか自助・共助でがんばり、助け合っていてください。かならず公が助けますから‼」という熱意で発するのなら、その想いは届くと思うけれど、

「先ずは自助でがんばってください。それでダメな時は、共助で乗り越えてください。それでもダメな時に、(ハードルの高い条件をクリアした人を)公助は助けますから」というような、段階を踏んで、選別をしているかのような言われ方をされたのでは、信用(支持)する気にもならないと思うのです。

そういうことを“助”言してくださるブレーンや仲間はいないのでしょうか?

2021年1月19日 (火)

何かを得るための念仏ではなく、いただきものの念仏

◇仏たすけたまえとは思うべからず
 思えば、私は子どもが死ぬまでは、念仏と自分とは無縁だと思っていたのでした。子どもに死なれて初めて、気がついたら念仏を称えていた。いまに思えば、「助けてください」と叫んでいたのであります。しかし、「助けてください」とは何か。「助」という漢字、「助けてください」と叫ぶときの漢字です。これは、「力を積む」という意味です。どこに積んでもらうのか。私に力をくださいであります。「力が無くなりましたから、助けてください」と。いのちの瀬戸際に「力をください」と助けを求めるのは、私たち人間のいわば最後の叫びでありましょう。しかし、蓮如上人は、「仏タスケタマエトハオモウベカラズ」と言われていたのでした。言葉を換えて言いますなら、「タスケタマエ」と声の続く限り、念仏を称え続けなさいということであります。涙の涸(か)れるまで泣きなさいということであります。その極限まで念仏を称え続けますと、自分のものであったはずの涙が、実は亡くなったお母さんが残していった仏の涙だったと気づかされる。繰り返しでありますが、「母が私に対して最後の説法をしてくれた」であります。
 蓮如上人はまさに、その仏の慈悲を説いておられるのでした。最初に「助けてください」と叫び声をあげた以上は、あるいは、最初に「愛別離苦」の涙が出てきた以上は、その涙が涸れるまで念仏を称え続けてこそ、その涙が仏さまの慈悲の涙と感得されてくるのでありましょう。そのとき人間の無明の世界を、私たちは仏さまと一緒に生き続けることができるのであります。

 ☆

昨日紹介した高史明先生の本『念仏往生の大地に生きる』(東本願寺 伝道ブックス53)にある文章です。

お念仏は、阿弥陀如来からのいただきものです。

念仏を称(とな)えるの「称」は、“天秤(てんびん)はかり”を表わしています。

天秤の双方のお皿に乗っているものが、釣り合っていることを意味します。

片方のお皿には阿弥陀の慈悲、もう片方のお皿には「助けてください」と叫ぶ私が乗っています。

それらが、釣り合っているのです。

阿弥陀の大慈悲の方が重くて、私の方が軽いのではありません。

阿弥陀の慈悲が重たいという受け止めは、今の私のままではダメだという感覚に陥ってしまいます。

私の方が軽いという解釈は、念仏を回数称えて徳を積むことや、一生懸命研鑚を積んで阿弥陀の慈悲を理解することが目的になってしまいます。

そうではありません。

「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるそのとき、すでに阿弥陀の慈悲と私とは釣り合っている、共にあるのです。

涙涸れるまで泣き続けたとき、「誰か助けてください、この悲しみから救ってください」と涙していたのだけれど、大いなるはたらきの手(慈悲)の中にいる私である感得(気づき)へと変わっているのです。

「涙涸れるまで」といっても、人間、涙は涸れません。

母の死、父の死、子どもの死、友の死、涙溢れる出来事に直面し泣き続け、どんなにどんなに泣いても、人間、涙が涸れるものではありません。

そのことはつまり、阿弥陀の慈悲の中にいることを感じ続けるということでもあります。

「助けてください」という叫びは、「南無阿弥陀仏」という声は、叫んだ結果 念仏称えた結果、何かを得たいという声ではなく、阿弥陀の慈悲のなかにある私を気づかせる喚(よ)び声(私を喚ぶ声)でした。

涙涸れるまで(つまりは一生)称え続ける念仏は、

先往く人を、悲しみの対象としての「人」に留めてしまうのではなく、

先行く人は私に向けて慈悲を放つ「仏」であったと気づかせる。

人間世界が、単につらいことばかり、悲しいこことばかりで埋め尽くされている暗黒ならば、私は、人は生きられません。

この暗黒にありながら、「念仏を称えてください」「教えに聞き続けてください」という声に気づいたとき、“私”は、仏と一緒に生き続けます。

2021年1月18日 (月)

無言の問いというものは、言葉で表される問いよりも、時には深く大きなものなのですよ

昨日の投稿で「人生の意義や生きる意味は、見つけるものではなく、たずねていくこと。」と書きました。

私は、(たとえ一過性のものであっても)人生の意義や生きる意味を見つけてしまったら、つまり背負うべきものに出会ってしまったら、生きることがつらくなるものだと思っています。

“つらさ”と言っても、「投げ出したくなるような悲しみ」という意味ではなく、「生かしめるはたらき(力・エネルギー)」というような意味で言っています。

つらい現実に遭い、同様の想いを他者(ひと)にさせたくないからと、我が身に起きたことを周知したり、同様の悲しみの中にいる方に寄り添ったりされている人びとがいます。

そういう人びとは、人生の意義や 生きる意味に出遇ってしまったのだと思います。

「人生の意義や 生きる意味」とは、必ずしも「見つけよう!」と呼びかけるものではありません。

けれど、だからといって「人生の意義や生きる意味」を見つけることをやめようと言っているのでもありません。

「人生の意義や生きる意味」とは、「自分を活き活きと生かすために見つめるもの」ではありません。

それほど重たいものを背負いながら生きている事実、そのことに真向かいになることです。

昨日の投稿後、高史明先生の『念仏往生の大地に生きる』(東本願寺 伝道ブックス53)を読んでいて、次の文章に出会いました。

 ☆

◇はじめて開かれてくる阿弥陀の世界
 平野恵子さんという方が子どもたちに書き遺した手紙がここにあります(平野恵子著『子どもたちよ、ありがとう』法蔵館)。この方は、40歳になったときに、子どもが3人もいるのにガンになりました。そして死んでいかなくてはならないということになりました。しかも、平野恵子さんのお嬢さんは、重度の脳性まひで、ものが言えません。起きることもできません。ごはんも自分で食べられません。平野さんは、まさにそののっぴきならないところに立たされたとき、仏さまのお声を聞いたのでした。その寝たきりで、言葉もわからないお嬢さん、そしてお子たちに遺書を書かれるのであります。まずお嬢さんに宛てた手紙です。

 笑っていてね、由紀乃ちゃん
 由紀乃ちゃんのことを考える時、お母さんの心はいつも、静かで満ち足りた嬉しい思いで一杯になります。そして、あなたに恥ずかしくないように一生懸命生きなければ、という強い思いが身体の底から湧いてくるのです。
 お人形さんのように可愛らしい由紀乃ちゃんが、重度の心身障害児であることを告げられてから15年、ずっしりと重い15年間でした。眠れないままに、小さな身体を抱きしめて泣き明かした夜。お兄ちゃんと3人で、死ぬ機会をうかがい続けたつらい日々もありました。

 人間はのっぴきならないところに立たされたとき、助けてくださいという叫び声に圧倒されたとき、その叫び声をあげるか、自分の死を考えるのでした。これが自分中心の私たちのありのままの姿でありましょう。自分の力でどうにもならないお嬢さんを目の前にしたとき、この子と一緒に心中しようと思うようになった。その裏返しが「助けてください」という叫び声です。平野さんは、その叫び声に押されて念仏を称え続けたのでした。すると、どういうことが起きるか。大学時代の恩師、廣瀬杲(ひろせ・たかし)先生の講演会の席で「問いを持たない人生ほど、空しいものはない」という仏さまの教えを教えられたときに、思わずこのお母さんは叫んでしまったといいます。

 「この子の人生は、いったい何なのですか。人間としての喜びや悲しみを何一つ知ることもなく、ただ空しく過ぎてゆく人生など、生きる価値もないではありませんか」

と。すると、先生は答えられたのでした。「お嬢さんの人生が、単に空しいだけの人生だと、どうして言えるのですか」。「娘は、何も考えることができません。何一つ、問いを持つこともないのです」。すると、先生はさらに言われたのでした。「お嬢さんは、問いを持っていますよ。大きな問いです。言葉ではなく、身体全体で、お母さんに問いかけているではありませんか。無言の問いというものは、言葉で表される問いよりも、時には深く大きなものなのですよ」と。
無言の問いと言われた。「念仏」とは、真実の智慧であるとともに、私たちにとってはまさに「無言の問い」そのものでありましょう。言葉の知恵を根源的に超えているのであります。夜空を見上げて心が澄んでくるとき、まさに無量の星が私たちを見つめているのが実感されてくることがありましょう。仏さまが見つめておられるのであります。

 大きな問い、無言の問い、由紀乃の問い・・・・・・。それに気付かされた日からお母さんは変わりました。自分自身の生き方に対して、深く問いを持つこともなく、物心ついた頃より確かに自分の手で選び取ってきた人生の責任を、一切他に転嫁して恨(うら)み、愚痴と怒りの思いばかりで空しく日々を過ごしてきたのが、実はお母さんの方だったと、思い知らされたからです。(後略)

「言葉」のない由紀乃ちゃんが、お母さんの「いのち」の支えになっているのであります。

 ☆

大きな問い、無言の問い、いのちからの問いをいただきながら、“私”は生きています。

「生まれた意義や生きる意味」あるいは、「人と生まれたことの意味」とは、その気付きであると思います。

人として生まれ、生き、そこには他者やあらゆる事柄との結びつきがあります。

上手く対応しながら生きていること、自分の想いを言葉で上手に伝えることが、人として生まれた意味なのでしょか?

他者のお世話になりながらでないと生きられない人々も、言葉で想いを発せられない人々も、「問い」を持ちながら生きています。

そのことを、周りの人びとに気づかしめるために生きています。

いわゆる健常者と言われる人々は、人として生まれたことの含む「問い」に無関心・無感覚・無感動で生きがちです。

意義や意味を問うということは、それに先立って「問い」があるということです。

意義や意味が持つものは“答え”ではなく“問い”です。

南無阿弥陀仏もまた、私に呼び掛けている“問い”です。

声なき声としての呼びかけ、あるいはお念仏という呼びかけ・・・呼びかけられてある“私”

そのことを、手を合わせて(念仏申して)たずねていきましょう

南無阿弥陀仏

2021年1月17日 (日)

南無阿弥陀仏 生涯をかけた歩みに、人生の意義がある

 信仰と生活ということが常に問題となっている。そうして生活に交渉のない宗教は無用のものと常識されている。しかし、信仰を強調するものは時には生活を度外視する。佛法のためには世間を捨てよということも教えられた。説教場は人事相談所でないにちがいないといっても、その信仰がなんら生活に交渉がないということは果たしてあり得ることであろうか。
 宗教を求むる人は、信心を得たいという。この求道の心理にはいろいろと批判もされ、反省もしなければならないものがあるであろう。だが、その真剣さに対しては、十分に尊重されねばならない。それは、確かなる世界観を得んとする悩みである。そのためには名師をも訪ね、聖教にも親しまねばならない。しかし、名師も聖教も信心獲得の縁とはなっても、直接に信心を授与するものとはならないであろう。青年は熾烈なる感情をもって「人生の意義」を問う。しかし、生涯かけてもその答えを見出さそうとすることこそ人生の意義ではないであろうか。「これでこそ生まれ甲斐があった」という喜びは、そう性急に感得されるものではない。

(金子大榮 金子大榮随想集 第6巻「私の人生観」)

 ☆

近年「生活の中の仏教」というような表現を耳にする。

恐らく、

仏教離れ 宗教離れなどと言われて久しく、

お寺で開催される法話会に人は来ないけれど カルチャーセンターなどで開かれる“仏教講座”は満席になり、

今は仕事が忙しいので、リタイアしたら仏教をちょっと学んでみようかな

などという言い方がされるようになった時代に、

「仏教は日々の生活から離れて聞くものではありません。私たちが生きているそのなかに仏教はあるんですよ」というメッセージなのだと思う。

お釈迦さまは、出家されて修行をしたから、生活と離れてからの修行(歩み・学び)に違いはないけれど、

結局は、人と人とが生活する場に戻ってきて、教えを説き広められた。

やはり、仏教は生活の中で聞いていくもの(生活の中でしか聞けないもの)だと思う。

そもそも“信仰と生活”は切り離せるものではないのだけれど、

仏教を真摯に真剣に必死に学んでいる者からすると、どっぷり日常生活を生きている ちょっと仏教を聞きかじった者が「信仰」を口にすること(「生活の中の仏教」というフレーズ)は気に入らないことだろう。
(そういう態度はつまり、仏教を真剣に学んでいるといっても机上の学びに過ぎないのだけれど)

かといって、「仏教(宗教)の学びが、生活の役に立つ」「人生相談のために仏教を聞く」と、生活と信仰を一緒くたにして、日々の悩み事相談とその解決を仏教に求められても、それは違う。

信仰と生活を、交渉(接点)があって当然という前提で考えるのも間違うし、かといって切り離して考えられるものでもない。

宗教を求むる人は、信心を得たいという。この求道の心理にはいろいろと批判もされ、反省もしなければならないものがあるであろう

信心を得たいという求道の心理に対して、批判・反省がなされてしかるべきであると言う。

そう言わしめる時代背景には、何があったのだろう?と想う。

「信心」とは、短絡的に得られるものではない。

否、信心とは、そもそも娑婆世界を生きるわれらに得られるものではない!ということではないだろうか。

青年は熾烈なる感情をもって「人生の意義」を問う。しかし、生涯をかけてもその答えを見出さそうとすることこそ人生の意義ではないであろうか

人生の意義や意味を問う、求める人は多い。

けれど、人生の意義や意味は、その答えを得て終わるものではない。

「これが人生の意義だ、生きる意味だ!」と思えたとしても、それは生きている中での出来事次第で、コロコロ変わる。

自分の思いは、外からの要因(縁)次第で、いとも簡単に崩れてしまう。

「これが人生の意義だ、生きる意味だ!」と思えるものに、もし本当に出会ってしまったならば、そのことによって安心を得られるものではなく、重たい決意・信念を抱いて生きていくことになる。

そこに仏教(教え)がないならば、「これが人生の意義だ、生きる意味だ!」と思えるものに本当に出会ってしまったとき、生きる寄る辺(支えとなるもの、共にあるもの)がないのだから、“私”はフラフラになり、つぶれてしまうだろう。

もし、仏教に聞く(教えにふれる。親鸞聖人の教えにふれる縁に出会ったのであれば「南無阿弥陀仏」と念仏申す)ことがあれば、

フラフラになることなどない。

なんてことはあり得ない!

信仰があってもなくても、人は悩み、苦しみ、時には微笑むこともあり、またつらい思いをする。

そういうなかを生きている。

そういうなかを、教えに出会えたからこそ 念仏があるからこそ、人生の意義や意味(なぜ生まれてきたのか、どうして生きるのか)をたずねる歩みをしてみようと、思いが翻る。

人生の意義や生きる意味は、見つけるものではなく、たずねていくこと。

南無阿弥陀仏

2021年1月16日 (土)

言動の自主的な変化によって時代が変わっていくのか、時代の変化によって人間の言動が変わるのか。その分岐点にいるのではないだろうか。

昨日は、今年初めて外出しての集まりがありました。

昨年の暮れからZOOMやLINEやメールで研修や仕事をしていました。

人と繋がってはいても、直接会ってはいないので、会話をしても何か物足りない感じ、もどかしい感じがしていました。

で、いざ事務仕事にとりかかろうと思っても、まったく気の入らないこと・・・

物足りなさやもどかしさもあって、エンジンがかかりません。

が、ちょっとの時間集まって話をしただけなのに、頭の中で思考が揉まれ、いろいろな刺激が加わり、アイディアが膨らんできました。

インプットはしていても、長い時間うまくアウトプットできずにいたものが、すんなり溢れ出てきました。

あ、人間って、刺激し合って思考していくんだ、と感じました(良くも悪くも)。

リモートは、遠くの人とやり取りができる利便性があります。もちろん、移動の労力や時間や経費を抑えられる利点も。

リモート自体には慣れてきた人も多いので、話しづらい感覚も、この一年の間にだいぶ薄まってきたのではないでしょうか。

でも、リモートでのやりとりで、脳が刺激される(思考が深まる)ということに関してはどうでしょう?
(人それぞれなので、リモートだと脳が刺激されない!とは書けませんが、私の場合は、リモート後の一歩の踏み出しが鈍いです)

顔を見て、振舞いを見て、言葉の表面的な部分だけではなくて裏にある思いを感じる(当たっているか否かは関係なく)。

思いきり消費しながら脳が刺激されていたんですね。

さて、とはいえ上記のような感想は、人と会って話をすることが当たり前の中で生きてきた人間の想い。

今後、程度はわからないけれど、学校の授業でも仕事でも習い事でも、リモートでのやりとりの方が中心になる時代がくるかも、くるかもしれません。

それが当たり前となった人びとは、実地調査や試験のためにたまに集まらねばならないとき、それこそ大きな疲労感を抱くのかもしれません。

会って、話して、言外の想いを感じ取り、刺激されて思考が湧く・・・なんて、「有り得ない?」「疲れるだけじゃん」「やっぱりリモートはいいですね」なんて感想が当たり前になる時代が来るのかもしれない、来るのかなぁ・・・。

そのような時代に、ネット上に溢れる文言も、文学も哲学も、宗教も(かな?)、言葉や表現が変わるんだろうなぁと、今現に感じています。

2021年1月15日 (金)

反抗という名の自己主張

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“反抗期”という言い方は、
親から子を見た言い方です。
親を中心にして子どもを見ているから
反抗、反抗と言うのです。
だけど、
子どもを中心に考えたら、
反抗ではなくて
初めて自分を主張できるようになった
“自己主張期”という喜ばしいときなのです。
      宮城顗(みやぎ・しずか)

 ☆ ☆ ☆

宮城先生の本を読んでいて、「あ、いいな」と思いました。

親からすれば、子からの反抗はしんどいものだけれど、子どもが親に反抗的になるのは、ある意味ちゃんと成長している証。

反抗するのが良くて、反抗しないのが良くない、と言っているわけではありません。

ただ、今までなんでも「うん、うん」と首を縦に振っていたのに、急に首を横に振りだしたからといって、慌てることも嘆くこともないということです。

そもそも、この“私”自身、そういう転換期があったのではないですか?

反抗的な態度を表わしたか否かは、人それぞれですが。

たまに、「この子は反抗したことがないんです」みたいに言う親御さんがいらっしゃいますが、お子さん自身がかなり溜め込んでいる気持ちがあるかもしれません。

自分の意見を押し付ける言い方ではなく、何を想っているか? どうしたいか? 私(親)の考えをどう思うか? など聞くことは大切だと思います。

さて、1月は成人式があるから、この言葉はいいなと思いましたが、考えてみれば “反抗期”って 幼児期と思春期くらいに表出される“自己主張”ですよね。

成人(20歳)になって出てくる“反抗期”は、ちょっと💦

さてさて、親と子の関係における反抗期だけではなく、私たち自身の反抗期について想いました。

年齢に関係なく、私たちが発する反抗。それは、疑いではないでしょうか。

 阿弥陀さんっていたの?

 阿弥陀さんって、実在の人じゃないんでしょ?

 阿弥陀さん信じてどうなるの?

 阿弥陀さんが救ってくれるなんて、そんなわけないじゃん! 

 念仏だけで救われるわけないじゃん!

疑問が湧くこと、疑いを持つこと、それはある意味ちゃんと関心を持っている(阿弥陀さんを気にしている、人生に向き合っている)証。

いきなり「阿弥陀さまは最高だ!」「親鸞聖人の教えは素晴らしい!」なんて言えてしまう方が 危ういです。

「最高だ」「素晴らしい」を否定しているわけではありませんが、そう思ったにもかかわらず 悲しい出来事があると「最高だと思ったのに」「素晴らしくなかった」と、悲しい出来事の責任を自分が良いと思ったものに転化してしまいます。

阿弥陀さんに、念仏に疑いのこころを持つ者に対し、「べつにいいよ、私だってあなたを助ける気はないから」などと阿弥陀さんは言ったり考えたりしません。

疑いの気持ちを持つ者をも、疑いのこころを持つ根っこがある者(つまりすべての生きとし生けるもの)をも、阿弥陀は救うと誓願されました。

幼少期、思春期における反抗と表現される自己主張は、親や身近な先生に対してなされます。

まったくの赤の他人に(反抗期における)反抗をする人は、いないでしょう。

阿弥陀なんて信じないよという疑いという名の自己主張は、阿弥陀に対してなされます。

その時点で、阿弥陀と接点が持たれています。

そのことが阿弥陀を南無している(こころのどこかで気にかけている)、つまりお念仏申していることです。

疑いが、いつのころからか信順へと移ろうのです。

南無阿弥陀仏は、自己主張の叫び

2021年1月14日 (木)

偶然とは必然に違いない

昨日紹介した金子大榮師に、

生は偶然 死は必然」という言葉がある。

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浄土真宗のお寺の掲示板に掲げられていて、出会った人もいるかもしれない。

生・・・いのちをいただき、この世に生まれ出でたのは偶然。

「偶」には“たまたま”のという意味がある。

「然」は、「しからしむ」と読み「そのようにさせる」という意味がある。

「偶然」は「たまたま、そのようにさせる(そのようになった)」というような意味。

「生は偶然」とは、生まれてきたのは たまたま そのようになったということ。

仏教の言葉で言えば「縁」に通じるだろうか。

母と父の縁、受精の縁・・・人間のはからいで成し得ることではない。

たまたま たまたまの積み重ね、偶然によって 私は今ここにいる 。

けれど、限りあるいのちを生きているのだから、いつか死ぬのは「必然」のこと、必ずしからしむること。

「生は偶然 死は必然」

私も、何度か法話で紹介した記憶がある。

その際は、熱心にメモをされる人もいれば、頷く人もいて、あらためて言われるとそうだなぁと、我がこととして受け入れてもらえた空気を感じた。

「なるほどなぁ」と感じる人もいれば、「そんなの当たり前のことじゃない?」と思う人もいることでしょう。

でも、サラッと流れゆく言葉でもあるように思う。

さて、昨日の投稿で紹介した金子大榮師の本『私の人生観』を読んでいたら、この言葉の出どころと思われる表現に出会った!

われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」(136頁)

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言っていることは同じ。

話し言葉を法語として掲示するに当たり、「生は偶然 死は必然」と整えたのかもしれない。

けれど、

われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」の方がこころに残る(ように感じる)。

「生は偶然 死は必然」は、生まれ出でた不思議に思いを馳せることなく生きている私に、生の偶然性(有り得なさ)を説き、死を忌み嫌う生き方に、死の必然性(死もあってこその生である)ことを説く。

そのことも大事だけれど、親が子に、先生が生徒に教え諭すような言い方にも聞こえる。

その言葉が心に響く子も、生徒もいるけれど、お小言程度で受け流す人もいるだろう。

われらにあっては、死こそ必然であって、生はかえって偶然ではないだろうか。」という言い方は、問われている余韻を残す。

生を必然(当たり前のこと)として生きている私に、必然なのは生ではなく死だよとクギを刺し、生とは必然ではなく偶然という目線で考え直してみないか? と。

もっとも、こう書いている私も、また違う日に読めば、違う心持のときに読めば、違う受け止めをするだろうけれど、

ずっと聞いてきた言葉の出どころに、偶然出会った喜びと驚きを書いた。

偶然は、必然なのだと想う。

生まれ出でたことにも、“私”である必然性があるに違いない。

南無阿弥陀仏

2021年1月13日 (水)

無常を観ずる

「今日では、生死問題というが如きは、老人のものであるように思われている。

しかし、実際はとくに童心において現れるものである。

そのことは昔の高僧の出家発心が、殆どすべて少年の時になされていることでも知ることができよう。

発心とは世の無常を観じてなされしことである。

これ即ち生死を問題とするものである。

純真なる童心には無常であるということに堪えられないものがある。

それは生の不安を感ずる心である。

いかにしてその不安を除くべきか、そこに永遠に対する悩ましい思慕がある。

それゆえに、無常を観じて出家せられたということは、決して高僧の伝記を飾るためではない。

宗教心は、8、9歳の頃に芽生えるといわれている。

それは無常に堪えぬ心であり、無意識的に永遠への思慕を始めたのである。

とすれば、その心の生ずる時こそ、正(まさ)に人間の誕生ではないであろうか。

『お母さん、死ぬってどうなるの』、と問うようになった時に、われらは動物の仲間から別れることになったのである。

その永遠への思慕が意識的になり、とくに悩ましきものになるのは15、6歳の頃である。

それが、青年における厭世感といわれるものであろう。」

(金子大栄随想集 第6巻 『私の人生』より  改行は私)

 ☆

「成人の日」を縁に、“成人”という言葉が頭の中にあったものだから、本を読んでいて 上記の部分が目に留まった。

人間の心に留まるものは、今現に進行している関心事が大きい。

どんなに心を打つ言葉、感動的なシーンを目にしても、自分の中に関心事としてなければ ほとんど引っかからないし、

他の人がまったく気にかけないことがれであっても、私にだけ届く事柄がある。

本を読み、心動かされたところに線を引っ張っても、抜き書きしておいても、後日見返すと、「なんでこの言葉にひっかかったんだっけ?」と思うことの方が多い。

それだけ、人間は・・・良く言えば、思考・思索を深めている、悪くいえば生活に流されているのだろう。

でも、それだけに、同じ本を何度も読んだり、同じ映画を何度も見たり、同じ場所を何度も訪ねたりすることができる。

「無常に堪えぬ」・・・

生老病死する身に、不安や恐怖を覚える。

そのことは、確かに不安や恐怖ではある。

けれど、“常”ということもまた不安であり恐怖ではなかろうか。

老いることなく、死ぬことなく、思考・思索が変化することなく、それこそ 生きている意味が見えなくなってしまう。

「無意識的に永遠なるものへの思慕を始める」・・・

限りあるいのちを生きている現実と真向かいになり、永遠なるものへの思慕を始める。

はじめは、不老長寿や健康で長生きなど、自身の肉体への不安からの解放を願うところから始まるかもしれない。

その思慕(想い)が、やがて自分の肉体を超えた永遠、つまり自分の思いを超えたおおいなるもの(阿弥陀)への思慕(帰依)、「南無阿弥陀仏」へとつながるのではないだろうか。

人は、無常への不安を感じることによって、阿弥陀なるものへの帰依(南無・帰命)がはじまる。

否、無常への不安を感じることによって、阿弥陀なるものへの帰依(南無・帰命)が始まってこそ、“人となる”と言えるのかもしれない。

宗教心は8、9歳の頃に芽生え、15、6歳で永遠なるものへの思慕が意識的になる・・・

「そんな若い時から宗教心が芽生えるわけがない!」と思われるかもしれないが、

そのように思うのではなく、「私も、そんな年の頃に宗教心が芽生えていたかもしれない(今はどうだろうか?)」と振り返ってみてはどうだろうか。

その振り返りもまた終活のひとつだと思う。

金子大榮師の随想は続く。

(いかにして、その生死の問題は解かれるのであろうか)
「それは求道により、聞法によることである。いずれにしても生死問題の解かれることは、心に永遠の意義を知ると共に、身に真実を感ずることである。これ即ち人生に永遠を受容してゆくことである。その永遠を受容する心は、常に童魂を失わぬものでなくてはならないであろう。その真実を感ずる身は、老境に入りて、体験を豊かにする。それゆえに、永遠を知るものは老境に至るも童心を失わないものである。したがってまた、老境に至って童心を失わないものは、永遠を身証するものである。その純真なることにおいて宗教は青年のものであり、その身証たるべきことにおいて宗教は成人のものである。ここに、心身を具有する人生の意味があるのである。」

2021年1月12日 (火)

見えている部分への賞賛は誰でもできるけれど、見えていないところへ想いを馳せるということはなかなか難しい

 2021年1月11日が「成人の日」で、10日(日)あるいは11日(月・祝)に成人式を行った自治体が多かったようです。テレビやネットで、女性のきれいな振袖姿や男性のビシッとしたスーツ姿、あるいは やんちゃな風貌を拝見しました。外見はどうあれ、個々にいろいろと考えている様子も伝わってきました。
 成人をお迎えの皆さま、おめでとうございます。

 2021年の成人式は、新型コロナの影響で開催した自治体もあれば、開催を見送った自治体もあります。この日を楽しみに、励みにしていた方々にとって、開催されなかった事実は悲しみも大きいこととお察しします。
 けれど、(成人式に限らず)開催しなかったからといって、何もしなかった、何もなされなかったというわけではありません。毎年開催している行事には、そこに関わる人がいて、どのように進めようか どのような状況になったら中止にせざるを得ないか等々、検討がなされています。ギリギリまで開催の準備をされているものです。中止にはなっても、目に見えぬ努力の蓄積があるものです。そこに参加しようと思っていた方も同様です。
「開催されない」「中止」の背後には、開催することを前提として準備をしている方々、関わっている方々がいます。中止となれば、参加を楽しみにしていた方々のショックもありますが、準備に関わっていた方々のショックはより大きいものです。特に、このコロナ禍、中止になる可能性を抱えながらも準備をされていたことに、敬意を表します。
 開催されていたら、そのことへの感謝の気持ちを湧くことでしょう。しかし、開催されなかった際、感謝の気持ちを抱いたり伝えたりする人はグンと減ります。でも、準備はなされています。
 目に見えないところで、“私”のために汗水たらしている人がいます。

 先に、振り袖姿やスーツ姿、やんちゃな姿について触れました。その“晴れ着”も、作ってくれた人がいるものです。晴れ着に限りませんが、今、“私”が身につけているものを作ってくれた人がいます。
 残念なことに、成人式後の宴もなくなりました。成人式を開催した自治体においても、「式が終わったら、まっすぐ家に帰るように」アナウンスしたところが多くありました。今年は宴はなくなりましたが、その宴となる会場においても、食事を作る人・会場で働く人・食事の会場に関わる業種の人・食材を作っている人などなどいらっしゃいます。このことも成人式に限った話ではなく、日々の食事も、多くの人の手がかかっています。

 今までは「〇〇に感謝しましょう」と言われて、一応自分なりに頷いて感謝してきたことと思います。自主的に感謝してきたこともあるでしょう。でも、思い返してみて、それらは目に見えるもの(人)、形となって表れているものへの感謝ではなかったでしょうか。けれど、目に見えぬ人々、形となって表れてはいないものもあってこそ、“私”はここまで生きてきました。
 既に社会の現場に出て、自分でお金を稼いで生計を立てている成人もいらっしゃいますが、たとえば、職場への移動で公共の交通機関を利用する際、事故や点検で遅延すれば腹立ちを表現する大人は多々いますが、ダイヤ通り時刻通りに運航されることへの有り難さを感じている大人はどれくらいいることでしょう。
 20歳で線引きして、成人だ大人だということの違和感があります。選挙権は18歳に引き下げられました。飲酒・喫煙は20歳からですよね。成人しきれていない大人のルールで、成人だ未成年だと線引きされるのですから大変です。でも、ルールはルールとして、目に見えないもの(人)、形となって表れていないものへの感謝・“私”自身は直接の恩恵は受けないけれど困っている人が助かることへの気遣いなどを出来るひとが、年齢は20歳に達していなくても“成人”と呼ぶにふさわしいのだと思います。
 若い人に“成人”が多くいることも知っています。
 どんなに年を重ねても成人たり得てない人がいることも・・・(あれ、だから“人でなし”という言葉が生まれたのかな?)

2021年1月11日 (月)

自然は曲線を創り 人間は直線を創る

人工物の総量、自然を超える~イスラエルのチーム試算~
 人間がこれまでに作り出したコンクリートやプラスチックなどの総量は1兆トンを上回り、森林や植物など他の生物由来のものよりも多くなる見込みだー。イスラエルのワイツマン科学研究所のチームがこんな試算をまとめた。こうした人工物の量は人間の消費活動や開発に起因して、過去100年間で急激に伸びている。人間が地球に与える影響がいかに大きいかを示す結果。
(中略)
 分析によると、1900年の人工物は350億トンだったが、太平洋戦争後から建築材料がれんがからコンクリートに代わったり、道路がアスファルトで舗装されたりするなどして急増した。
 2020年までの累計で、建物のほか道路などインフラ分野で1兆1000億トン、プラスチック製品はごみになった分も含めて80億トンに到達した。一方で森林や植物の総量は9000億トン、陸と海に生息する生き物は40億トンにとどまっている。分析結果は英科学誌ネイチャーに発表した。

(解説)人間の活動と影響
人間は地球の資源を利用して高度な文明を構築する一方、自然環境に多大な負荷を与えてきた。化石燃料の利用で多くの二酸化炭素を排出して地球温暖化を加速させ、海にはプラスチックごみを流出。森林伐採や水質汚染も深刻化している。こうした活動により地球が激変している時代を、新たな地質年代として「人新世」と呼ぼうとする考え方も出てきている。
(「東京新聞」2021年1月10日朝刊より)

 ☆ ☆ ☆

 人間の生活・生存を中心とした活動が、自然に与える影響の大きさが語られて久しい(トランプ大統領をはじめとして、因果関係を否定する人びとも多くいるが)。
 この地球上に、生命体そのものの総数は決まっていると聞く。ということは、この地球上に70億を超える個体が生存している人間が、他の生命体や自然に、なんらかの(良くない)影響を与えていることは十分に考えられる。
 地球の誕生から45億年前後の経過が予測されているが、自然物を人工物が上回ったのは、ここ100年ほどの話。そのスピードは、進化・発展のスピードであるとともに、破壊のスピードでもある。また、急激な進化・発展・破壊のエネルギーによって、ウイルスが拡散・蔓延・変化が引き起こされるのも必然のこと。「この3週間が勝負」「一か月の非常事態宣言」など言うけれど、現在(いま)起きていることの背景には、この100年の活動がある。もっと長い地球生命の歴史がある。人間の尺度で考えた希望的観測とは切り離して考えなければいけないのではないだろうか、とも想う。
 新聞の解説に「人新世(ひとしんせい)」という言葉が出てきた。地質学上の新世代の名称だそうだが、まだ確立された名称でも概念でもない。だが、人類の活動・行動が、新しい地質学上の世代を今現に構築しているということを受けて、新しい地質年代として「人新世」という言葉が生まれたようである。これから、より目にする言葉かもしれない。

 「人新世」は、地質学の言葉ではあるが、人間の経済活動と無関係ではない。
 この100年ほどの間の急激な変化は、資本主義経済によるものが大きい。気候変動のスピードを速めたのは資本主義であり、資本主義の更なる継続は、気候変動の促進のみならず、格差拡大、水不足や食糧危機も同時に引き起こす。今、世界の富裕層のトップ10%が二酸化炭素の半分以上を排出し、他方、下から50%の人びとは全体の7%しか輩出していないというデータもある。気候変動により水不足・食糧危機が進み、海面上昇によって住んでいる土地を奪われていくのは、先ずはその下から50%の人びとからである。
 それほどの人が生命の危機に直面しているのだら、それだけの人の総意や、選挙における票を集約すれば、現状に物申す大勢ができてしかるべきなのだが、そうはならない。民主主義の矛盾でもあり、私たち自身のことなかれ意識や資本主義こそ必要・大切という意識が、「人新世」という新しい年代を作り出している。(参考『人新世の「資本論」』 斎藤幸平著 集英社新書)
 これから何千年かを経たとき、現在の地層が遺すものはなんであろうか・・・ 

 湯川秀樹博士の言葉「自然は曲線を創り 人間は直線を創る」が表しているものの一端を見た気がする「人工物の総量、自然を超える」の記事だった。

2021年1月10日 (日)

「集中しろ、大丈夫だ」

「東京新聞」2021年1月10日(日)朝刊 「筆洗」欄

 入団したばかりの若い投手がベテランの打者と相対する。1球目はボール。打者の頭に危うく当たるところだった。2球目も頭の近く。そして3球目も。乱闘になった▼試合後、打者は若い投手に尋ねた。「俺が何か悪いことをしたか」。投手は答えた。「あの時、サインをくれなかった」。子どもの時、サインを断られたのがよほど悲しかったのだろう▼逸話にこの人の燃えたぎる闘争心と度胸を思い出す。米大リーグ、ロサンゼルス・ドジャースのかつての名将トミー・ラソーダさんが亡くなった。93歳。1995年、野茂英雄投手がドジャースに入団した時の白髪で小柄な監督といえば、お分かりか。野茂さんを「息子」、親交のあった長嶋茂雄さん、星野仙一さんを「兄弟」と呼ぶなど日本球界とも深いゆかりがあった▼2度のワールドシリーズ制覇など監督としての成績は輝かしいが、投手としては0勝4敗。選手の面倒見の良さと野球、とりわけドジャースというチームへの情熱が監督という仕事に生きた。「俺の血管には(チームカラーの)ドジャーブルーの血が流れている」▼ファンを大切にしサインにも快く応じた。子どもの時のあの悲しい経験からである▼本気かどうか、ドジャースタジアムのマウンドの下に埋葬してほしいと語っていた。そこから投手に「集中しろ、大丈夫だ」と声をかけるのだそうだ。

 ☆

アメリカ大リーグに詳しくない私でも、野茂英雄投手の活躍と、彼のそばに寄り添っていたラソーダ監督の姿は記憶に残っている。

野茂投手の活躍は、当然自身の信念や努力によるところが大きいが、当時のドジャース監督がトミー・ラソーダ氏だったのは大きいと思う。

日本の球団・監督と決別し、ルールの確立していなかった当時、日本を飛び出してアメリカへ渡った。

野茂投手が所属していた球団関係者のみならず、マスコミも日本の野球ファンも、野茂投手の行動に不信感やアメリカでは通用しないだろうという思いが強かったように思う。

それを払しょくしたのが、野茂自身であり、彼を信頼し擁護し起用し続けたトミー・ラソーダ監督だった。

選手と監督・・・不思議な巡り合わせだと感じる。

野茂英雄とトミー・ラソーダ、松井秀喜と長嶋茂雄、イチローと仰木彬、大谷翔平と栗山英樹・・・

たまたま大リーグで活躍した(している)選手が並んだけれど、特に意識して書き出したわけではない。

監督としては結果を残せなかったけれど、高橋由伸監督の元でなければ、今の巨人の4番 岡本和真選手も育ってはいなかったのではないかと思う。

巡り合わせやタイミングで、大きく花開く選手がいる。

ということは、巡り合わせやタイミングゆえに、花開き損ねる選手もいるということ。

私たちが見ている花(才能が開花した選手)は、ほんの一握りなのだろう。

でも、だからといって花がないわけではない。

目に見えて開いている花を愛でるのは簡単だ。

まだ蕾の、あるいは大きくは開いていないけれど咲いている花はある、葉もまた潤いに満ちている。

そういうところへ想いを馳せることが、選手の才能を、能力を引き出すのだろう。

トミー・ラソーダさんは、そういう眼を持っていた方なのだと思う。

 ☆

明日(2021年1月11日)は「成人の日」。

「国民の祝日に関する法律」第2条には「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」とある。

ひどい条文だ💦

年を重ねた者は、その経験だけでは生きていけない。

若いエネルギーや発想が必要とされる。

若人は、情熱だけでは、やがて壁にぶちあたる。

そのときに、先行く人の歩みが方向を示してくれる。

“成人”とは “みずから生き抜”ける人になることではなく、“一人では生きていないことを自覚している人”ではないだろうか。

そのような意味で、一人では生きていないことを自覚している人は、どれくらいいることだろう。

(付記)
国民の祝日とされる日を、固定ではなく特定の月曜日に移動させる法律「ハッピーマンデー制度」は、どうにかならない(なくならない)ものだろうか・・・

2021年1月 9日 (土)

名と共に生きています

このコロナ禍における政治の現状に危機感があり(常々ありますが)、ここ2日ばかり政治家の名前を挙げて投稿をしました。

初めはフルネームで書いていました。

でも、ひとり一人の名前の、ひとつひとつの漢字を打ちながら、この人たちの名前にも、この漢字にも、親の想いが込められているんだなぁ…と感じ始めました。

看過できない状況ゆえに書いておくべきと思ったことを綴りましたが、名前は、フルネームではなく名字と肩書に書き換えました。

自分の名前とあらためて対面したとき、自分の生き方が問い直されるものだと思います。

この名前と共に生きてきた 私の生き方はどうであろうか。

名前負けしていないか否かなどということではなくて、私に対する親や周囲の人びとの想いが形となっているものが“名前”です。

私の名前には、私には、個人の枠を超えたいのちや想いが伴っています。

国民の方を向くのがそんなに嫌なら、せめて自分の名前と向き合ってほしい。

それで何も感じないなら、それだけの人だったという、残念なお話。

 ☆

さて、想いが込められているから一概に大切だ・尊い と言うつもりはありません。

親から付けられた名前に重さや違和や不快を感じている方がいることも事実です。

親の想いに応えるために生きているわけではありません。

親の想い、名前の意味の応えるために生きるのではなくて、「想いがかけられている身である私」であることを忘れないでいてほしいと思います。

その想いの掛け主を、阿弥陀と言います。

私は、私の名前の他に、南無阿弥陀仏という名と共に生きています。

2021年1月 8日 (金)

自分の姿を顧みて、自分の言っていることを信じてもらえる私であると思っているのか(すべての人に突き刺さる問いではあるのだけれど)

昨日は冷たく強い風が吹いていました。

強風が吹くと畳や廊下はザラザラに。

今日の午前中は、大人4人(住職・坊守・副住職・准坊守)がかりで掃除機をかけて水拭きをしていました。

バケツの水がすぐに真っ黒になり、何杯も水を入れ替えました。

子どもたちがいれば手伝ってもらったのですが、今日は3学期の始業式。

学校への休校要請が出ず、3学期が始まりホッとしています。

学年最後の学期、特に卒業年度の子どもたちにとっては最終学期になります。

楽しく思い出に残る学校生活を送れるといいなと願うばかりです。

 ☆

昨日、首相の会見がありました。

自分で理解したうえで、自分の言葉で語ってほしい旨、昨日の投稿で書きました。

政治家の軽はずみな行動や発言で、国民の政治不信(政治家不信)が大きくなっています。

で、政治家不信の根っこにあるものについて考えました。

その、軽はずみな行動や発言を、メディアでは面白おかしく取り上げます。それを楽しんで見ている私たちがいるのも事実です。

でも、不信感の根っこにあることは、その程度の話ではないはずです。

不信感の根っこにあるものは、「すべきことをしていない」ことに対してではないかと思います。

2021年、東日本大震災から10年経つことになります。

東日本大震災の直接的な死者数は15899人、行方不明者数2527人(2020年12月10日のデータ)。

10年経つと「一区切り」「節目を迎えた」という感覚に陥りがちですが、決して復興したと言い切れる状態ではありません。

福島県飯舘村では、自然エネルギーを利用した発電とその送電に取り組まれている方々がいます。

その特集をテレビで見ました。飯舘村の人びとが事業を起こしていましたが、国が率先してすべきことと感じました。

東日本大震災による津波から福島第一原発の事故が起こり、今もなお生まれ育った地域に戻れない人びと、戻る環境にない人びとがいます。

地震と津波は自然災害ですが、原発事故は人災です(決して、国や電力会社だけを指して“人災”と言っているのではありません)。

自然災害は、コロナも含めて、予測不可能(あるいは予測が難しい)です。

発生を抑える、発生させないという準備はできません。

どうしても自然災害が発生してからの対応になってしまいます。
(発生する前提での準備はできますが)

けれど、人災は、手抜きをすれば、気を抜けば大惨事が起こるということは分かっているという意味においては予測可能です。

事前の注意ができます。

発生後の反省を生かして、今後同様の災害が起こらないように努めることはできます。
(それでも、人災・事件・事故は起きてしまいますが)

果たして、東日本大震災が発生してからの、人災による人的被害のケアをしてきたのか、同様の人災を起こさないための努力をしてきたのか。

東日本大震災から10年。政府は、原発新設も含めて原発の再稼働を考えています。

軽はずみな行動や発言、しかも、最近は謝罪どころか開き直る態度をとるのですから、それだけでも不信感をもたらすに充分ですが、

あの大震災から10年を経て、何をしてきたか、何をしてくれたのか、これからどこへ向かおうとしているのか・・・そういうものが見えない政治家に不信感が募ることに不思議はありません。

笑い話のような行動・発言に対しては、瞬間的に怒ったり 一笑に付したりしてしまえば終わりです。

これだけの不信感が蓄積しているのは、笑い話にもならない行動(何もしていないという行動も含めて)・発言(無言・無視という発言も含めて)ゆえではないでしょうか。

逆に考えれば、どれだけ国民の心を打つ会見をしたとしても(できたとしても)、それが本心なのかポーズなのかは、それまでの行動が表しています。

それまでの行動が・・・

«ことばは、こころのなかにあるものが芽吹いたもの

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