2025年6月のことば
6月を迎えました。
週末に雨が降ることが続いています。10週連続と報道されています(6月1日記)。
昨日(5月31日の話)は、娘が通う学校の運動会が延期になりました。学校としては「多少の雨なら決行!」の勢いだったのですが、結局延期の判断になりました。実は予備日も雨予報。生徒も先生も保護者も大変です。一生懸命練習していたから、運動会が無事開催されますように。
足立区の花火大会も中止になりました。雨も原因ではありますが、強風ゆえの判断だったそうです。運営に関わる方も、見物を楽しみにしていた方も気の毒なことです。
今日(6月1日)は、近所のお寺で御施餓鬼(お盆の法要)があったそう。今日は快晴だったので、御施餓鬼にお参りされる方もよかったですね。
で、思いました。「え、花火大会?」「え、御施餓鬼?」5月末・6月頭なのに⁉
足立区の花火大会は、昨年は7月20日。でも、荒天のため中止でした。今年は5月31日。夏の花火大会は熱中症や雷の心配もあり、5月開催に踏み切られたとのこと。
近所のお寺の御施餓鬼も、7月・8月は暑すぎて参拝者もお坊さんも大変なので(何時間も読経が続くとのこと)6月にされたとのこと。
花火大会に御施餓鬼(お盆)といえば夏の風物詩。とはいえ、近年の暑さは身体的にも危険で、天気の急変もいのちにかかわることも。行事やイベントの前倒し・後ろ倒しがこれからも増えることでしょう。
風情も大切ですが、おからだにもご無理ありませんように。ご無事でお過ごしください👋
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2025年6月のことば
雨垂れ石を穿(うが)つ
穴が開くのは、
強いからではなく
続けているから
雨垂れ石を穿つ
【雨垂れ石を穿つ】
小さな力でも根気よく続ければ成功するたとえ。
軒下から落ちる雨のしずくでも、長い時間をかけて同じ所に落ち続ければ、ついには硬い石にさえも穴をあける意味から。
硬い石に穴が開く、穴を開ける。無理だろう、不可能だろうと決めつけてしまう事柄に対し、私はどのように向き合ってきただろうか。はじめから諦めたり、言い訳にしたりしてはいなかっただろうか。
また、ひとりでやることを想定しがちだけれど、多くの人が関わることによって物事が動き出す、成し得る、穴が開くということもある。
無理だろう、不可能だろうと思われる事柄に、はじめは強い意志、強いエネルギーで臨んでも、すぐに結果が出るものではない。すると、自身が滅入ってしまう。強さは継続しないから。ただ続けることが、状況の変化を生み出すことがある。
雨垂れに手を出してみる。痛みを伴うような強さではない。やさしい一滴(ひとしずく)。そんな一滴一滴が、石を穿つ。
『恩讐の彼方に』
「穿つ」ことの意味の大きさが、菊池寛氏の小説『恩讐の彼方に』に描かれている。
(あらすじ)
主人公「市九郎」は、主君殺しの大罪を犯す。市九郎は逃げて姿をくらますも、人斬り強盗を生業として生き延びていた。
自身の犯してきた罪を悔い恐れた市九郎は、真言宗の浄願寺で出家し、法名 了海を名告り、滅罪のために全国を行脚する。豊前国に辿り着いた了海は、事故によって毎年何人もの人が命を落とす難所があることを知る。その難所の岩場を掘削し貫通させれば、事故で亡くなる人を無くすことができる。これこそ自分のなすべきことと誓願を立て、掘削を始めた。
近在の人びとはおかしな僧が来たと、了海を嘲笑する。しかし、年月を重ね、たとえわずかであっても掘削が進むと、了海に力を貸す者も現れた。
冒しがたき大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ち塞がっていた岩壁は、いつの間にか衰残の乞食僧一人の腕に貫かれて、その中腹を穿つ洞窟は、命ある者のごとく、一路その核心を貫かんとしているのであった。
(『恩讐の彼方に』より)
19年の歳月を経て、9割がた掘り進めたあるとき、市九郎が殺めた主君の子「実之助」が、親の敵討ちのため諸国を遍歴し、仇である市九郎と相まみえることとなる。
実之介に「お斬りなさい」と身をさしだす了海。しかし、共に掘削してきた石工たちは了海をかばう。「掘削を成し得るそのときまで、了海の命を私たちに預けてくれないか」という石工の棟梁の願いに応じ、実之介は岩場が貫通するそのときまで待つこととした。実之介は、一刻も早く親の仇を討つため、掘削に加わった。
了海が、周囲から嘲笑されながらも掘削を始めてから21年目、実之介が来てから1年6ヵ月ほど経ったある晩、ようやく岩場が貫通した。
「約束のときがきた。さぁ、お斬りなさい」と言う老僧の手を、実之介は握りしめた。ふたりは感涙にむせび合った。
(あらすじ、以上)
※『恩讐の彼方に』はネットの「青空文庫」でお読みいただけます。「青空文庫 恩讐の彼方に」で検索してみてください。
『ハチドリのしずく』
また、成果や見返りを求める私に、物事をなすこと自体の意味や有り難さを語り掛ける『ハチドリのしずく』という本のことを思い出しました。
(あらすじ)
森が大火事になり、動物たちは逃げ出します。しかし、「クリキンディ」という名のハチドリだけは、自分の小さなくちばしに水を貯め、水源と森とを往ったり来たりします。一滴一滴、森の火事に水を落とします。森の動物たちは「そんなことして いったい何になるんだ」と言って笑います。クリキンディは答えます。
「私は、私にできることをしているだけ」と。
(あらすじ、以上)
ハチドリは、鳥類の中で最も体が小さい鳥です。体長は10センチぐらい、体重は2~20g程度の大きさです。
このお話は、辻信一さん(文化人類学者、環境運動家。明治学院大学名誉教授)が、南米のアンデス地方に住む先住民族の友人から聞いた話に胸を打たれ、本にしたものです。
辻さんは友人の話を聞いて、「いま、私にできることはなんだろう?」と考えました。そして、ハチドリの話をひとりでも多くの人に知ってもらうことだと思い、一冊の本にまとめられました。辻さんは語りかけます。「この物語の続きを描くのはあなたです」と。
『ハチドリのしずく』という題名ですが、「いま、私にできること」という副題がついています。(「光文社」発行)
「回向せしめたまえり」
先月の寺報で、親鸞聖人にとって「回向の主体」は、私(人間)ではなく阿弥陀如来である旨書きました。
自分の思いで物事をなしているように思っている私に、「すべては阿弥陀さまからのたまわりもの(あたわり)です」と、聖人は教えられました。
「雨垂れ石を穿つ」という諺から、コツコツと積み重ねていくことの意味、継続することの大切さをいただくことができます。その場合、穿つ主体は私です。でも、私自身が穿たれているという見方も出来ます。
自我という固い固い執着で自己防衛し迷い彷徨っている私にむけて、「念仏申せ」「念仏申せ」と、阿弥陀からの催促が一滴一滴滴り落ちています。であるからこそ、決して念仏申す心など持ちえない私、両手を合わすことなどありえない私の手が合わさり「南無阿弥陀仏」の声が出てきます。五劫の昔から、やわらかな慈悲の心で穿たれ続けている私でした。
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掲示板の人形
「傘をさすネコとカタツムリの人形」をネットで見つけました。
それから、寺にあったカエルの人形も飾りました。